|
|
|
●この世界遺産登録後に、共同通信社は取材団を初めて北朝鮮に派遣し、平壌周辺の主要な壁画古墳6基について詳細な撮影を行なった。6基の古墳とは、安岳3号墳(あんがくさんごうふん)、徳興里古墳(とくこうりこふん)、双楹塚(そうえいづか)、湖南里四神塚(こなんりししんづか)、江西大墓(こうせいたいぼ)、江西中墓(こうせいちゅうぼ)である。 ●そして、創立60周年記念事業の一環として、共同通信社は昨年8月13日から9月4日まで東京都港区の国際交流基金フォーラムで「世界遺産 高句麗壁画古墳展」を開催し、撮影した壁画の写真を展示した。この高句麗古墳群の魅力的な壁画の写真展は、今年も6月17日から7月2日まで青森県立郷土館で行われた。そして現在は、奈良県立橿原考古学研究所付属博物館でも、昨日から9月24日までの会期で特別陳列されている。 ●奈良県明日香村の高松塚古墳とキトラ古墳に描かれた極彩色壁画は、最近なにかと話題になることが多い。これらの壁画のルーツをたどれば、高句麗の壁画古墳に行き着くと言われるほど関係が深い。そのため高句麗の彩色壁画には以前から関心があった。 ●昨年の春、平壌および周辺の壁画古墳見学のツアー企画があったが、残念ながら日程の都合で参加できなかった。そうしたこともあって今回の特別展示は、開催される日を人一倍待ち望んでいた。本日訪れてみて、展示された写真の最初の一枚を見た瞬間から、そのすばらしさにすっかり虜になってしまった。壁画のいくつかは今まで写真集などで紹介されていたが、やはりデジカメで高画質撮影され拡大印刷された写真は、迫力の点でも鮮やかさの点でもはるかにしのいでいる。 ●今回の特別展示を機会に、高句麗の歴史と高句麗壁画の変遷を自分なりに整理してみた。さらに、撮影された6基の壁画古墳に関して、その概要を備忘録代わりにまとめてみた。しかし、壁画のすばらしさは、言葉では語り尽くせない。多くの人に、今回の特別展示に是非足を運ぶことを勧めたい。
【参考】高句麗の発展と滅亡 |
(次の古墳の写真をクリックすれば、その古墳の説明箇所にジャンプできます)
安岳3号墳 |
徳興里古墳 |
双楹塚 |
湖南里四神塚 |
江西大墓 |
江西中墓 |
安岳3号墳: 高句麗で最初に出現した壁画古墳
●発掘調査は1949年中に行われたが、翌年6月から始まった朝鮮戦争のため調査報告の作成が遅れ、刊行されたのは1958になってからである。その報告書によれば、墳丘は南北33m、東西30m、高さ6mの方台形をしていて、南側に入口を持つ横穴式石室が古墳の中央に位置している。
●このように多くの部屋をもつ安岳3号墳の石室は、高句麗古墳の中でも最も複雑な構造の石室とされている。石室の壁と天井は、灰白色の石灰岩を平らに磨いた板石を用いて築かれていて、石と石の間の隙間は、漆喰(しっくい)で埋めてある。また、羨室、前室、玄室の各天井は、隅三角持ち送り構造で作られている。 墓主の生前の豪華な生活を彷彿とさせる壁画●この古墳の石室には、漆喰を塗った壁のほぼ全体に、様々な画が描かれている。どのような壁画が描かれているのか少し見てみよう。 ●まず前室の西側にある側室である。この西側側室には、特によく知られている肖像画が描かれている。奥壁、すなわち西壁の中央に描かれているのは墓主の肖像で、小さな男子像を左右に従えている。同じ側室の左壁(南壁)には、豊満な墓主夫人が左右に侍女を従えて描かれている。
●西側側室とは対照的に、前室の東側にある側室に描かれている壁画の画材は、厨房、井戸、牛舎、厩(うまや)、車庫など日常生活にゆかりのある生活風俗である。 ●前室には、西・南・北の三画面に人物像、手搏(しゅはく、相撲)図、または奏楽や舞踊の図がにぎやかに描かれている。
●玄室の東回廊には、人物250名と騎馬57騎からなる大部隊の行進図が展開する。この行進図は数ある高句麗古墳の壁画の中でも屈指の傑作とされ、墓主の乗った牛車を中心に、 多くの騎馬隊が取り囲み、 さらに鼓笛隊、 甲冑で重装した歩兵達など、 当時の様子が極めて克明に、 写実的に描かれている。 ●前室と玄室の境には八角の石柱が3本立っていて、柱の上の皿斗(さらと)には怪獣が描かれている。しかし、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神図はまったく見あたらない。高句麗の壁画古墳で四神図が描かれるようになるのは5世紀になってからとされている。四神図が壁画の中心的画題にまで発展するには6世紀まで待たなければならない。 ●この安岳3号墳の壁画は、人物や風俗を主題として描かれていて、生前の墓主夫妻の栄耀栄華の日々を彷彿とさせる。おそらく墓主は、生前と同じ生活が死後も継続することを願って、思い出に残るシーンを慕室の壁に描かせたのであろう。
特定されている被葬者と築造時期
●被葬者の人物像もある程度わかっている。中国の歴史書『資治通鑑』には、冬寿はもと鮮卑族が建国した前燕の慕容皝(こう)に仕えていた人物とされている。慕容皝に慕容仁の攻撃を命じられたが、仁に破れ、皝を裏切って仁に寝返った。そのため、皝の攻撃を受けて336年に高句麗に亡命したとされている。 ●墓誌や『資治通鑑』の記述などから総合的に判断して、この古墳の墓主は高句麗に亡命した漢人貴族の冬寿であることは確定的と思われるのだが、1960年代に北朝鮮の考古学者から高句麗の美川王(在位300-331)あるいは故国原王(在位331-371)であるとする説が出されている。 ●これらの高句麗王説は、その根拠の一つに、大行進図の前方の騎手が持つ黒旗に「聖上幡」と朱書きされていることを挙げている。「聖上」は王を意味し、主人公が王であることを示しているという。また、墓主がかぶっている冠や華麗な衣装は、まぎれもなく高句麗の王のものであるという。『旧唐書』高麗伝には、高句麗の王だけが五色の衣装を用い白羅冠(はくらかん)を用いると記されている。
●だが、高句麗が王都を国内城から平壌に遷したのは、長寿王の時代の427年である。4世紀後半の時点では、平壌付近はまだ高句麗の辺境地域であり、遷都以前に在位した国王の陵墓は、国内城の周辺に築かれたと見るべきであろう。さらに、専門家の意見を総合すれば、石室の数が多いこと、玄室に回廊が巡らされていること、壁画人物の服装が中国の遼寧省遼陽近郊の石室墓に類似していること、などから、遼寧省出身の冬寿がこの墓の主人公であることは動かないようだ。 |
徳興里古墳
|
メ モ
【所在地】 平安南道南浦市江西区城徳興洞 |
![]() |
| 徳興里古墳 |
この古墳は丘の上に貯水槽をつくることが契機となって、1976年の12月に発見された。年末から翌年1月にかけて発掘調査が実施されたが、すでに盗掘に遭っていて副葬品は発見されなかった。だが、横穴式石室に描かれた壮大な壁画が見つかった。
| 場所 | 長さ(m) | 幅(m) | 高さ(m) |
|---|---|---|---|
| 羨道 | 1.54 | 1.02 | 1.43 |
| 前室 | 2.02 | 2.97 | 2.85 |
| 通路 | 1.18 | 0.90 | 1.37 |
| 玄室 | 3.28 | 3.28 | 2.90 |
●安岳3号墳と同様に、この徳興里古墳も高句麗の文化遺産として比類のない重要な意味を持つ。というのは、前室北壁の墓主の肖像の右上に被葬者の来歴とともに墓の築造年を記したに14行154文字の墓誌銘が刻まれているためだ。墓誌銘によれば、被葬者は幽州刺史(ゆうしゅうしし)の位にあった某「鎮」という人物で、いくつかの官職を歴任し77歳で死去したため、永楽18年(408)12月25日に墓を築造して埋葬したという。つまり、この古墳は高句麗古墳の中で、被葬者と築造年代を正確に知ることができる唯一の古墳である。
![]() |
| 前室に描かれた墓主と13郡太守像(**) |
●前室の北壁西側中央には、青羅冠(せいらかん)をかぶって華麗な帳房内の黒い座床にどっしりと座っている墓主が描かれている。青羅冠とは高句麗の大臣クラスだけがかぶる二重の冠をいう。したがって、この人物が幽州刺史・鎮であることがわかる。西壁には墓主の方を向いた13郡の太守立像の上下二段にわけて描かれている。幽州に属する太守たちが長官である刺史・鎮に伺候している様子を表しているのだろう。西壁に続く南壁西側には墓主の家臣団が描かれている。
●墓誌銘で気になる言葉が2つある。「幽州」という地名と「永楽」という年号だ。幽州統治は今日の北京付近にあったとされている。永楽は有名な広開土王の時代に使われた年号である。我々は広開土王碑によって、399年に王が平壌まで南下し、また404年には帯方郡の故地に侵入してきた倭の水軍を蹴散らした史実を知っている。それと同じ頃、広開土王は前秦と結んで長年の宿敵だった前燕を倒し、前燕の支配地に幽州を設置し、その長官に鎮を任命していたことを、はしなくもこの壁画は語ってくれているのだ。
●徳興里古墳が貴重なのは、墓誌銘によって築造年代が特定できるからだけではない。羨道、前室、通路、玄室、そしてる穹窿(きゅうりゅう)式の持ち送り天井全体に白い漆喰をぬりその上に描かれている壁画は、一部分は剥離したり痛んでいるが、大部分は鮮明に残され、豊かな内容と圧倒的な素晴らしさを今に伝えている。
![]() |
| 天の川の図(*) |
![]() |
| 玄室の北壁に描かれた墓主像(*) |
●特に興味深いのは、前室の南側天井に描かれている牽牛と織女図である。天井の左側上部から右側の天井右側下部に向かって大きくうねった銀河が描かれ、それを挟んで、犬を連れた織姫が牛をひいて去りゆく牽牛彦星を見送っている。七夕の日に、天帝の許しを得て年に一度の逢瀬を楽しみ、そして別れ行く織女と牽牛の悲しい伝説は、紀元前3世紀から紀元前後の前漢の時代に広がったとされている。
●その後この七夕伝説は東アジア各地に広がり、高句麗でも農耕の豊作を関わる天文観測と結びついて、遅くとも4世紀後半には知られていた。我が国では遣唐使が帰国の折に唐から伝えたとされているが、朝鮮半島経由でもっと早い時期に七夕伝説は伝わっていたはずである。
●玄室の北壁にも、帳幕の中に墓主の座像が向かって左側に描かれているが、その右側は空白になっている。夫人を描くための空間だったが、何かの理由で夫人像が描かれなかったものと推測されている。この北壁以外は上下二段にわけて、馬に乗って的を射る流鏑馬(やぶさめ)のような競技や、樹木に馬をつないでいる男子などが描かれている。天井には火炎文や怪雲文、蓮華文が一定の順序で描かれている。しかし、四神図はまだ出現していない。
双楹塚
|
メ モ
【所在地】 平安南道南浦市龍岡郡龍岡邑 |
![]() |
| 双楹塚 |
●これらの八角の石柱は、前室から玄室に入る甬道の左右に建てられている。しかし、実際の天井を支えている石柱ではなくて、慕室の装飾のために考案されたものだそうだ。淡い赤色を下地にして淡黄色で柱に巻き付く龍が描かれていて実に美しい。この壁画古墳は、これらの石柱のためにを双楹塚(そうえいづか)と呼ばれている。楹とは柱の意味である。
| 場所 | 長さ | 幅 |
|---|---|---|
| 羨道 | 9尺余(270cm) | |
| 前室 | 7尺5寸(227cm) | 7尺6寸7分(232cm) |
| 玄室 | 9尺9寸4分(301cm) | 9尺1寸4分(277cm) |
![]() |
| 前室から見た八角石柱と玄室(*) |
![]() |
| 玄室の北壁中央に描かれた墓主夫妻像(*) |
![]() |
| 玄室南壁上部に描かれた朱雀(*) |
●高句麗壁画古墳の特徴ともいうべき四神図(朱雀・青龍・白虎・玄武)に着目した場合、初期の壁画古墳ではまだ描かれない。四神図が最初に登場するのは4世紀後半の遼東城塚麻線1号墳からと言われている。四神図が普及するのは5世紀から、 壁画の中心的画題にまで発展するのは6世紀からである。
●さらに興味深いのは、たとえば朱雀は最初、天井高くに描かれ、次第に降下して天井と壁面の間、さらに時代が下がり6世紀の古墳になると、朱雀はさらに下に降りて、駈けながら飛ぼうとする姿が壁面に描かれるようになるという。双楹塚の場合、玄室からみた八角石柱の真上に、桁や斗拱などとともに二羽の朱雀が向き合って描かれている。
●上に述べたように、この古墳では玄室の北壁に墓主夫妻と玄武が並んで描かれている。さらに前室の東壁に青龍、西壁に白虎が描かれていて、四神が揃っている。このため、四神が天井から壁に描かれるようになった過渡的な壁画古墳として位置付けられている。
●前室と玄室の天井はすべて平行三角持ち送り式である。その天井部分には太陽を示す三本足の烏、月を象徴するヒキガエルがはっきりと描かれ、また鳳凰、雲文、蓮華文、提灯文などが鮮やかに描かれている。
●羨道にも注目すべき壁画が描かれていたようだ。だが過去の盗掘者たちの破壊を受けて、ことごとく失われてしまい、わずかに前室近くの東壁に環頭大刀を持った力士が描かれ、西壁にも入口に顔を向けた力士が描かれているという。
湖南里四神塚
|
メ モ
【所在地】 平壌市三石区域聖文里 |
![]() |
| 湖南里四神塚 |
●湖南里四神塚は、大同江右岸に築かれた高句麗時代の大城山城の東側に位置し、湖南里の集落を見下ろすひときわ高い丘陵の上に築かれている。周囲にはいくつかの古墳が湖南里古墳群を形成しているが、湖南里四神塚はその盟主的存在である。
●この古墳は日本の植民地時代に発見された。1916年から始まった朝鮮総督府の古墳調査五カ年計画の初年度に鎧馬塚(かいばづか)と一緒に見つかったという。1辺20m、高さ約4mの方台形をした封土墳の基底部に直方体の列石が巡らされ、その周囲に幅3mの敷石帯が巡らされている。
●湖南里四神塚は5世紀末から6世紀の初め頃に築造されたと推定されている単室墓で、横長の玄室(東西約3.6m、南北約3.1m、高さ約3m)の南壁中央に、長さ約2.3m、幅約1.3mの羨道が付いている。玄室の壁は横長の石を6段に積み、天井は二段の平行持ち送りと二段の隅三角持ち送りを載せ、最上部に頂石をかぶせてある。
●高句麗の壁画古墳は、多くの場合、石灰の漆喰を塗った壁面に描かれていることが多い。だが、湖南里四神塚では花崗岩の壁面に直接描かれている。
●しかも、描かれているのは四神図だけである。玄室の北壁に玄武、東壁に青龍、西壁に白虎、そして南壁には一対の朱雀が左右に向かい合うように描かれているに過ぎない。しかも、この古墳の四神図の特徴として、青龍と白虎が後ろを振り向いている姿で描かれている。北の楽土で眠る墓主を案じて振り返っている守護神として描かれている。
![]() |
![]() |
| 北壁に描かれた玄武(*) | 南壁に描かれた一対の朱雀(*) |
![]() |
![]() |
| 東壁に描かれた”見返り”青龍(*) | 西壁に描かれた”見返り”白虎(*) |
●これまでの壁画古墳では、壁画の主題は墓主の肖像画や生活風俗を描いたものが中心だった。その背景には、死後もなお霊魂は生き続けると信じる当時の高句麗支配層の死生観があった。被葬者たちの生前の日常生活や、狩猟、大行列などを克明に描いた例は、安岳3号墳で見た通りである。
●ところが、5、6世紀になると、人物風俗画とともに四神図が描かれるようになり、6世紀後半から7世紀中葉にかけて、高句麗の古墳壁画は四神図中心に変化していく。四神図は最初は天井に小さく描かれたが、時代が下るにつれて、壁面に人物と一緒に描かれるようになり、ついには人物が消えて四神図だけが壁面に大きく描かれるようになる。湖南里四神塚は、人物風俗画が消えて、四神図だけで玄室を飾り始めた頃に出現した古墳と言えよう。
●こうした壁画の主題の変化の背後には、当時の高句麗支配層の死生観の変化があったものと思われる。古代中国では、四神を天地四方に配して陰陽を順調にさせるとともに、不詳を退けるという思想が早くから発達した。考古学的資料としては漢代の画像石や鏡の文様にも表されている。
●6世紀に入ると、高句麗の支配層内部での争いや対立が次第に激しさを増して、王権が弱体化し、それに加えて周辺諸国からの侵攻が加わって、高句麗の勢いが次第にかげりを見せ始める。こうした状況が、支配層と不安感や危機感をいっそう高め、一切の災害から逃れ、現世だけでなく死後も生前の満ち足りた生活を守りたいという願いが、おそらく四神を慕室の壁面に描かせる動機となったのであろう。
江西大墓
|
メ モ
【所在地】 平安南道南浦市江西区域三墓里 |
![]() |
| 江西大墓 |
●これらの古墳は、1912年に当時東京帝国大学助教授だった関野貞氏によって発掘された。「江西三墓」と総称されているが、壁画が描かれているのは大墓と中墓だけで、小墓は壁画古墳ではない。
●江西大墓も江西中墓も規模や造形的な表現の上では、多少相違するが、墓の構造や壁画の主題はほとんど変わらない。いずれも方台形の封土墳であり、石室が羨道と玄室から構成される南向きの両袖式単室墓である。
●江西大墓は一辺が51m、高さが29mもあり、高句麗の封土墳の中では一番規模が大きい。そして、注目すべきは、江西大墓も江西中墓も、過去400年にわたって高句麗の地に連綿と築かれてきた壁画古墳の頂点に立つ古墳であり、同時に高句麗壁画古墳の終焉を告げる古墳である点だ。これまで約100基の高句麗壁画古墳が発掘調査されているが、この2つの古墳がその終末を飾り、また、その玄室の4壁に描かれた四神図は高句麗古墳の中の最高傑作と評されている。
●石室の構造が立派なことから、第25代・平原王(在位559-590)の墓ではないかと推定されている。
![]() |
| 江西大墓の玄室(**) |
●天井は、二段の平行持ち送りの上に二段の隅三角持ち送りを上げ、頂上に頂石を載せている。一段目の平行持ち送りには忍冬唐草文が、二段目の持ち送りには天人、飛雲、神仙、山岳などが描かれている。また、一段目の三角持ち送りには麒麟および蓮華と忍冬の文様が、二段目の三角持ち送りには鳳凰および蓮華と忍冬の文様が描かれている。頂石に描かれているのは、躍動して天を飛翔する黄龍である。
![]() |
![]() |
| 生動感と繊細さを巧みに表現した玄武図(*) | 壁面一杯に描かれた青龍(**) |
●北壁に描かれた玄武は、亀にからみつく蛇の曲線が楕円形の輪を描き、相対した2匹の間に緊張感が溢れている。江西大墓の壁画の中には最も有名な青竜図である。大きく開いた口から朱の長い舌を伸ばし、目を見開いて体をくねらせながら舞い上がる竜の姿が、活き活きと描かれている。
江西中墓
|
|
【所在地】 平安南道南浦市江西区域三墓里 |
![]() |
| 江西中墓 |
●江西大墓と同様に、横穴式石室は羨道と玄室から構成される南向きの両袖式である。羨道は全長が6.94mで、入口から4mほど入ると天井と幅が一段狭くなり、さらに3mほど進むと玄室の入口になる。玄室の大きさは長さ3.24m、幅3.09m、天井の高さは2.58mを測る。
![]() |
| 西壁に描かれた白虎(*) |
![]() |
| 南壁に描かれた一対の朱雀(*) |
● 白虎は首をもたげ、大きく開いた口から牙を出し、前方を見据え、胸を突き出し、前足を一直線に伸ばし、後ろ足は大地を力強く蹴っている。まさに大地を飛翔しようとする姿が生き生きと描かれている。
●南壁に描かれた一対の朱雀は、赤い玉をくわえ大きく広げた両翼を羽ばたいていて、空中に飛び立とうとする動と静の瞬間を見事に描いている。江西大墓に描かれた一対の朱雀は、下部に江西の山々が描かれていて、空中を飛翔する朱雀が描かれている。どちらの朱雀も甲乙をつけがたいほど優れた壁画である。
●天井には、中央に十二弁の蓮華文、東側に日象、西側に月象、そして四隅には忍冬文や蓮華文が描かれていて華麗である。
●この壁画古墳の築造時期も、6世紀末から7世紀初め頃と推定されている。この時期、高句麗の社会も未曾有の混乱の時期を迎える。598年に始まる隋の高句麗侵攻は、その後も612,613,614年と毎年のように繰り返されることになる。隋の大軍によるこうした侵略は、高句麗にとってまさに国難そのものだった。高句麗遠征の失敗で隋は618年に滅亡するが、その攻撃を撃退した側の疲弊もすざましかったに違いない。江西大墓と江西中墓以降、高句麗では目立った壁画古墳が築かれなくなる。
参考・引用文献 ■『高句麗壁画古墳』共同通信社 ■『世界の大遺跡10 古代朝鮮のあけぼの』講談社 ■東 潮/田中俊明共著 『高句麗の歴史と遺跡』中央公論社 ■末永雅雄/井上光貞編 『高松塚古墳と飛鳥』中央公論社 ■全浩天著 『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅』
写真引用:(*)『高句麗壁画古墳』共同通信社、(**)『世界の大遺跡10 古代朝鮮のあけぼの』講談社