橿原日記 平成18年8月7日

奈良・平安時代の暑さ対策を支えた氷室(ひむろ)

氷室神社
氷室神社 (H18/08/07 撮影)


年は例年になく梅雨の期間が長く、しかも各地で集中豪雨の被害をもたらした。梅雨明けはひょっとしたら8月にずれ込むのでは・・・と大方の予想だったが、関西地方では7月25日を境に炎天下の日々が続くようになった。気象庁は慎重き期して梅雨明け宣言を先送りしたが、全国紙の中には梅雨明けを”突然の夏”の到来と見出しをつけたところがあった。

氷柱
奈良氷室神社の献氷祭で神前に供えられる氷柱
右が海の幸を代表する鯛、左が川の幸を
代表する鯉を凍結したもの(*)
然の夏とは、言いえて妙である。実感として夏は本当に突然やってきた。7月25日を境に関西地方は連日摂氏30度を超す日々が続き、ここ数日間は判で押したように毎日1度づつ最高温度を更新している。地形的に盆地の中に位置する橿原市では、夏の暑さは近隣諸県より高い。おかげで、筆者のアパートの部屋はエアコンが24時間フル稼働である。冷蔵庫の冷凍室はアイスクリームやアイスキャンディが切らしたことがない。

代の我々の生活で、夏と氷は切っても切れない関係にある。現在はスーパーやコンビニで様々な氷製品を売っていて、それだけで一つのコーナーができている。筆者の子供の頃は、かき氷が定番だった。アイスクリームを嗜みながら、ふと古代の飛鳥や平城京に住んだ人々は、どのように猛暑の夏に対処したのか気になった。現代ほどでなくても、当時も暑い日々はあったはずである。すると、一つのキーワードが思い浮かんだ。「氷室(ひむろ)」である。

回か都祁(つげ)地方のハイキングに参加したとき、都祁氷室神社に参拝した。奈良市内にも国立奈良博物館の前に氷室神社がある。氷室とは、天然の氷を保存しておく貯蔵庫である。中国では、春秋戦国の時代に秦の都があった陝西省の雍城(ようじょう)で氷を貯蔵したと推測される遺跡が見つかっている。それほど古くなくても、我が国でも氷は古くから使用されていた。この暑さを忘れるために、少し我が国の氷の歴史を探ってみた。以下はその概要である。



『日本書紀』に記された我が国の氷室起源伝承

が国の氷の使用について、よく語られるのは『日本書紀』の仁徳天皇62年に記された次のような氷室起源説話だ。手始めにその話を紹介しておこう。

”この年、額田大中彦皇子(ぬかたのおおなかつひこのみこ)が闘鶏(つげ)に猟に行かれた。山の上に登って野の中を見られると、何か物があり、盧(いお)の形をしていた。使者に調べさせると、帰ってきて「窟(むろ)」ですという。そこで、窟の所有者の闘鶏稲置大山主(つげのいなぎおおやまぬし)を呼んで問われた。
「あの野中にあるのは何の窟だ?」
「氷室(ひむろ)でございます」と大山主は答えた。皇子は重ねて問われた。
「その蔵(おさ)めた様子はどんなのか? また何に使うのか?」
「土を掘ること一丈(約3m)あまり、萱(かや)をもってその上を葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取り、その上に置きます。夏を越しても消えません。暑いときに水や酒に氷をひたして飲みます」
皇子はその氷を持ち帰り、天皇に奉ったところ、天皇はお喜びになった。これ以後、師走になる毎に必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷をくばった。”

の説話に出てくる額田大中彦皇子とは、仁徳天皇の異母兄弟とされる人物だ。また、闘鶏(つげ)とは、ヤマト朝廷の国中(くんなか)に隣接する奈良高原にあった国で、平成17年(2005)4月1日に奈良市編入合併した旧山辺郡都祁(つげ)村付近をいう。奈良市内の年間の最低気温が−4.9℃であるのに対して、標高500m前後の都祁付近では−10.2℃であり、天然氷を特産とし、早くから朝廷に氷を貢納していた地域である。

かし、この説話は、朝廷に氷を納める氷室の制度が仁徳天皇の時代に始まったということを意味するものではない。おそらく『日本書紀』が編纂された8世紀の初め頃の実体が下敷きになっているのだろう。”師走になる毎に必ず氷を中に納め、春分になって始めて氷をくばった”と記されているが、当時は陰暦12月に氷を氷室に収めて、2月15日の春分の日に氷室開きをして祭祀と朝廷への献氷の儀が行われていた。そして奈良時代70余年の間、毎年4月1日から9月30日まで朝廷に氷を献上されたという。



長屋王も暑気払いに酒をオンザロックで嗜んだ!

宝律令以降の令制では、宮内省の管轄下にある主水司(もんどのつかさ)が氷室の事を司ったとされている。氷室から定期的に献上されてくる氷は、主水司によって宮中の祭祀・儀礼で使用する分を除いて、文武百官に配分されたであろう。『日本書紀』は暑い時は水や酒を冷やすのに氷を使用したと記している。正倉院文書にも、「六月、七月、宮中では醴酒(こさけ)を造り、山城(やましろのくに)や大和国(やまとのくに)の氷室の氷を用いて天皇に供する」と記録されているという。夏は酒を冷やして飲みたくなるもの。奈良時代の天皇や貴族たちも酒のオンザロックという飲み方を知っていたことになる。

氷室神社の鏡池
氷室神社の鏡池
氷室神社のしだれ桜
氷室神社のしだれ桜
良時代以前にも、氷を必要とする需要があったことは容易に想像できる。例えば、古代には(もがり)の風習があった。天皇家や宮廷貴族では、人が死ぬと本格的に埋葬されるまでの一定期間、喪屋(もや)をつくり、柩を安置して、食事をたてまつり、故人にゆかりある人々が歌舞泣哭して死霊をなぐさめた。これが殯の習俗で、その変形が今では通夜の習俗として現代になお残されている。遺体の腐敗を防ぐため、現在ならばドライアイスが使用されるが、そんな便利なものがなかった古代では、おそらく氷が防腐剤として用いられたにちがいない。

の間に氷室に埋めておき、夏になって一塊ずつ大勢の人によって都へ運び出すというのは大仕事であり、古代には氷は大変高価なものだったにちがいない。そのため、庶民にとっては氷酒を飲むことはまさに高嶺の花のようなだったと思われがちである。しかし、最近では、氷室が全国にあり、貴族だけでなく庶民も氷を利用する習慣があったことがわかってきた。例えば『正倉院文書』から、平城京の東西の市で氷を売る店があり、主水司に納められる氷が配給されなかた役所は、民間の製氷業者から氷を買い入れていたことがわかっている。

述するように、奈良時代には朝廷御用達の氷は、御蓋山(みかさやま)の山麓に作られた氷室から献上された。それとは別に、有力皇族や貴族も専属の氷室をもっていたようだ。そのことを証明する資料が1988年で発見された。平城京の左京三条二坊にあったとされる長屋王の屋敷跡の北側の二条大路の溝から出土した木簡(もっかん)である。木簡には「都祁(つげ)の氷室」と記載されていた。同時に出土した複数の木簡の調査によって、長屋王が都祁の二カ所に氷室を有していたことが判明した。また、氷室の規模や設営の仕方、氷室の大きさ、取り置き氷の規格、氷進の日、進上者の名なども明らかになった。


は、平安時代はどうであろうか。平安時代にも氷は4月から9月まで各月ごとに天皇をはじめ皇后、皇太子、その他侍従などに至るまで配られた。その配分率が用途別(食料用、冷蔵用)に決められていたという。6月1日には群臣ならびに一般庶民にも氷を与えられた。これにあずからぬ人々には寒中ついた餅を与え、氷の代わりとした。この餅を歯固(はがため)と称した。

少納言は『枕草子』の中で、「あてなるもの」(上品なもの)には「金椀にいれてあまづら(甘葛)をかけて食べる」というかき氷のシロップかけを思わせるものを挙げている。紫式部の『源氏物語』にも氷に関する記述があり、氷を上品で美しいもののひとつに挙げ、当時の人々が夏に涼を楽しむ風流なものとして描かれている。

安遷都によって、御蓋山の山麓にあった氷室は廃絶され、氷室開きなどの献氷の祭祀は行われなくなった()。それに代わって、宮廷での元日節会の際に行われるようになったのは、「氷様奏(ひのためしのそう)」という行事である。この行事は、氷室の納めた氷の数量や氷室の数、氷の厚さの状態、前年との比較などの項目を奏上するものだった。これは、皇帝が氷をあまねく人に分かち与えることで気候不順や災害、疫病がなくなるという中国の徳治思想によったものとされている。氷室に納められた氷の多寡は、気候の順・不順や天皇の徳を占うバロメータだったのである。平安時代には、頒氷制度を充実させるだけでなく、製氷技術の普及もはかられた。

) 明治45年、氷業界の大御所・龍紋氷室と大阪氷行間の奉賛によって、平安遷都で断絶していた献氷の祭祀が5月1日に行われる献氷祭として復興した。


安時代まで盛んだった蔵氷と賜氷の制度はその後衰退した。しかし、江戸時代には毎年6月、富士山の氷を将軍に献上するという形で復活した。ふもとの氷室に貯蔵されていた約1m角の氷が、江戸城に着くと溶けて数cm角になっていたとのことだ。

末の横浜には大量仕入れの氷屋が登場した。明治3年(1870)には、日本で最初の人工氷が生まれ、明治16年(1883)には製氷会社も設立された。



氷室の立地条件

都祁氷室神社
都祁氷室神社
氷室の盧
復元された氷室の盧(いお)

日本書紀』が記すように、氷室は野原で地平線に対して垂直に穴を掘り下げて造った、深さ一丈余(約3m)の竪穴である。穴の底に茅やススキのたぐいを敷き、氷をこの上に置き、竪穴の口の上部を草で覆い、外形は盧(いお)の形をしていた。名阪国道の福住(ふくすみ)IC近くに、闘鶏稲置大山主額田大中彦皇子および大鷦鷯命(おおささぎのみこと、=仁徳天皇)を祭神として祀る氷室神社(鎮座地:奈良県天理市福住町浄土184)がある。 おそらく『日本書紀』の氷室起源説話に基づいて創起された神社であろう。正確には都祁氷室神社という。

の神社から東約400mの所に2個の氷室跡が見つかっている。ちょうど魚住小学校の北70mの処に位置し、山の急斜面を約15mほど登った平坦な区域(標高490m)に築かれていた。一つは長さ約10.6m、幅約8.4m、深さ約2.6m。もう一つは長さ約9.4m、幅7.5m、深さ2.2m。

祁藺生(いう)町上ノ宮に鎮座する葛(くず)神社の裏手の給料にも2つの氷室跡が残っている。実際に見学してみると、台地の一部が陥没した窪地にすぎなかった。おそらく『日本書紀』に示すように、こうした窪地の底に厚く茅すすきを敷いて氷を並べ、その上に萱(かや)を覆っていたのだろう。しかし、これだけでは、氷は溶けてしまう。福住周辺の氷室状大型穴の研究をされ。『古代氷室考』を発表しておられる郷土史家の川村和正氏によれば、周囲に大樹があってその枝が直射日光を防いでいることが必要だったとのことだ。

葛(くず)神社 氷室跡
都祁藺生(いう)町上ノ宮に鎮座する葛(くず)神社 神社裏手にある氷室跡

室はどこでも作られた訳ではない。氷室を設置する立地条件があった。まず、深い穴が掘れる程度に柔らかい地層が必要であり、さらに周辺の地層が、水を通しやすい風化した粗雑な花崗岩類でなければならない。そのために水はけがよい尾根の頂上や丘の上の平坦な場所が選ばれる。かならずしも日当たりの悪い、北側の山麓部または谷底である必要はない。山麓や谷底に作ると上部から浸水した地下水が氷の融解を促進しやすい。

らにもう一つ条件を付け加えるならば、近くに氷を切り出す氷池がなければならない。田圃が氷池として利用された可能性もある。京都では、氷を作るのに稲刈りの終わった田を利用し、山から流れる水を田に張り、それが凍ったらさらに上から水をかけてまた凍らせていたという。



「氷の神」という珍しい神様が祀られた、奈良市にある氷室神社

氷室神社の境内図
氷室神社の境内図(**)

氷室神社の正面
氷室神社の正面
氷室神社の参道
氷室神社の参道

良市内にも、氷の神を祀る氷室神社(所在:奈良市春日野町1の4)が鎮座している。道路を挟んで奈良国立博物館と対峙する位置にある。通りに面した鳥居をくぐると右手に鏡池があり、左手に参拝者用の駐車場が灯籠の間から見える。

道の先に視線を向けると、石段の上に狛犬が構えている。その狛犬を覆うように枝を垂れているのが、毎年、周辺の桜よりもひと足早く花を咲かせることで知られているエドヒガシというしだれ桜の木だ。約20mほどの高さの樹齢約400年の老木で、満開の頃はこの桜を目当て訪れる参拝者が多い。

門は切妻造り・本瓦葺きの四つ脚門で、東西に翼廊が接続している。応永9年(1402)の禁裏造営の際に殿内の日華門と與宿が寄付され、寛永18年(1641)に修理を加えている。

門を入ると、神域中央に聳えているのが拝殿である。寛文5年(1665)に徳川幕府によって造営され、天命2年(1782)に京都下賀茂神社の高欄を模して高欄を取り付けた。舞殿を兼ねており、現在も南都流の舞楽を継承する南都晃耀会が例祭などに舞楽を舞っている。

殿の正面にコインスイッチが置かれていて、百円玉を入れると当社祭礼の舞楽曲「賀殿(かてん)」の音色が境内一杯に響く。ちなみに、賀殿とは承和5年(838)に遣唐使准判官として渡唐した藤原貞敏(ふじわらのさだとし)が琵琶の譜によって我が国に伝えたとされる曲で、楽人の林真倉(はやしのまくら)が舞を振りつけたと言われている。藤原貞敏は長安で劉二郎という琵琶師にめぐリ会い琵琶を習ったが、劉二郎には琴箏が大変上手な愛娘が1人いた。貞敏の才芸を見込んだ劉二郎は、自分の娘を娶ってくれるように頼み、貞敏はこの申し出を喜んで受けたという。 唐の都で音楽で結ばれた恋のロマンスとして知られた実話である。

舞殿を兼ねた拝殿 舞楽の奉納
舞殿を兼ねた拝殿 舞楽の奉納(*)

の重要文化財に指定されている本殿は三間社流造・檜皮葺の建物である。この本殿に祀られている主神は、氷の貯蔵法を発明し、冷蔵の道 を案出したとされる闘鶏稲置大山主命(つげのいなぎおおやまぬしのみこと)である。それに献氷の典礼を開いたとされる大鷦鷯命(おおささぎのみこと)すなわち仁徳天皇と、その異母弟で貯氷の術を奏上したとされる額田大中彦命(ぬかたのおおかなつひこのみこと)が配祀されている。何のことはない、『日本書紀』仁徳天皇62年の氷室起源説話の登場人物がそれぞれ神として祀られているわけである。

本殿前の鳥居 3柱を祀る本殿
本殿前の鳥居 3柱を祀る本殿

れには、以下のような歴史的背景がある。建保5年(1217)に氷室社の神主になった大神遠弘(おおがとおひろ)が残した『遠弘神主記』によると、都介氏の衰退とともに製氷技術が廃絶の危機に瀕するようになった。そこで、製氷技術を普及させるために、和銅2年(709)に元明天皇の勅によって御蓋山(みかさやま)の山麓に氷室を作り、祠(ほこら)を建てて闘鶏大神を祀ったという。

の所伝もある。『大和国造本記』には大宝元年(701)に藤原不比等が文武天皇の勅に奉じて福住の氷室神社を遷座し、平壌遷都の和銅3年(710)夏に風神を移し奉った。その後、神亀4年(727)1月に、官命によって内裏の大鷦鷯命と額田大中彦命の二座を合祀したとと伝える。いずれの所伝でも、福住にあった氷室神社が遷座された場所は現在の地ではない。現在の地に遷されたのは貞観年中(859-877)である。

旧氷室社推定地
旧氷室社推定地(*)

は、それ以前は何処に鎮座していたのか。その最初の鎮座地に関しては、大宮守友氏の詳しい考証がある(奈良氷室神社社務所発行の「なら氷室」No.1〜No.4)。

宮氏の考証によれば、旧氷室社の拝所は現在の春日大社二の鳥居から130mほど西の地点と推定される。西から直進してきた春日大社の参道が、万葉植物園付近の鹿道から南に迂回し、ふたたび緩やかなのカーブを描きながら御蓋山に向かうあたりである。また、大宮氏は、氷を切り出した氷池は吉城(よしき)川に架かる水谷橋の西、県公会堂の東の浮雲社付近、氷を貯蔵した氷室は春日大社参道右手にある奈良公園の浅茅が原から片岡の稜線あたり、と推定しておられる。

安遷都の後、奈良の氷室は廃絶したようだ。それでも保安3年(1121)に、朝廷から氷室の神に正三位勲二等の神階が与えられている。このことは、氷室が亡くなっても奈良のの氷室社は氷室の神々を祭祀する場所であったことを示している。



南都の楽人たちによる雅楽や舞楽の拠点となった氷室神社

末社舞光社
本殿横に鎮座する末社舞光社
室神社の本殿東側には、末社舞光社(むこうしゃ)が鎮座している。 一間社春日造のこぢんまりとした祠であるが、ここに祀られているのは南都楽所(なんとがくそ)の祖とされる狛光高(995-1048)である。

宝元年(701)、当時の音楽である雅楽を宮中で継承・発展させるための公的な音楽機関として、雅楽寮(うたまいのつかさ)が治部省の配下に設置された。天正2年(948)には、は雅楽寮の楽人達が臨時に滞在するための楽所(がくそ)が、宮中の桂芳房に設置され、この楽所が次第に楽人達のメインの活動拠点となっていった。11世紀の初め頃には、京都の宮中・大内楽所とは別に、独自に雅楽を伝承する楽所が存在したとされている。奈良の南都楽所と大阪の四天王寺楽所である。この三つを総称して、三方楽所(さんぽうがくそ)といい、舞楽はこれらの楽所によって伝承されてきた。

都楽所は一条天皇の長保3年(1001)に左方の舞と楽の奉行を命ぜられた狛光高を祖として始まった。その後、南都雅楽は郷土の社寺や関係の人々に支えられ、また、幾度かの戦乱をくぐり抜け、連綿と受け継がれてきた。

治3年(1870)に明治新政府は太政官の中に雅楽局を設け、京都・南都・天王寺の楽人は雅楽局の職員とした。このため奈良の楽人も次々と上京し、南都楽所は廃止された。しかし、このとき上京しなかった楽人から伝承した舞楽が、現在でも氷室神社の祭礼で奉納されていて、10月1日の例祭では、午後6時から東遊(ひがしあそび)の他8曲の舞楽が拝殿を兼ねた舞殿で奉納される。


(*)『奈良氷室神社由緒』より転載
(**)『なら氷室 No.1』より転載
【参考・引用文献】『奈良氷室神社由緒』、『なら氷室No.1-No.4 』(奈良氷室人社社務所発行)
2006/08/08作成by pancho_de_ohsei return