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| 笠置山山頂から木津川を望む (h18/08/01 撮影) |
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吉川英治の「宮本武蔵」がどれだけ史実を反映しているのか知らない。だが、この小説は武蔵の人間像と共に柳生の里のイメージを筆者の頭にしっかりと刷り込んだ。 50年の歳月を経て、柳生の里のイメージを己の目で確かめる機会が突然やってきた。生駒市内に住む大学同期のM氏夫妻が車での探訪を申し入れてくれた。その申し入れを受けて、本日は橿原市内に住むY君も誘って、柳生の里から笠置寺を巡ってきた。ただし、ハイキングによる探訪なら当然訪れたであろう夜支布(やぎう)山口神社や天乃石立(あまのいわだて)神社、ほうそう地蔵などは、時間的制約と車による移動のため立ち寄らなかった。別の機会に訪れてみたいと思っている。 【関連地図】奈良市観光課作成 柳生の里イラストマップ |
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●鎌倉時代の寄棟造りの典型的な建築様式を今に伝える南明寺本堂 ●柳生家代々の菩提寺・神護山芳徳寺 ●芳徳寺に引き続いて柳生宗矩が建築した旧柳生藩陣屋跡 ●武家屋敷の様子をそのまま伝えている旧柳生藩家老屋敷 ●高さ15mの岩に彫られた弥勒磨崖仏を本尊に祀る笠置寺 |
鎌倉時代の寄棟造りの典型的な建築様式を今に伝える南明寺本堂
場所によっては細い山道を走ることになるかもしれないと、M氏は愛用の車種ではなく奥さんが日常使っている軽自動車を用意してくれた。そのことが大英断だったことは後に知ることになる。軽自動車といっても、最近の車種はスピードも出るし、シートの座りごごちも良い。M氏が運転する車は快調なエンジン音を響かせて剣豪の里を目指した。 最初の見学予定地は、阪原(さかはら)町にある南明寺(なんみょうじ、所在:奈良市阪原町1005)だった。阪原町は大柳生から柳生への中間にあり、国道369線沿いに展開する集落だが、M氏が快調に車を飛ばしすぎたせいか、阪原町のはるか先まで行ってしまった。途中で気付いて引き返し、ガソリンスタンドで道を聞いてやっと南明寺の門前にたどりついた。
集落の中を通る生活道路の脇に位置する南明寺は、山門があるわけではない。境内を取り囲む築地塀があるわけでもない。むき出しの境内に、一目見て寺と分かる寄棟造りの建物が建っているだけである。この南明寺の本堂は、どっしりと構えた単層の寄棟造りで、どこか唐招提寺の金堂を思わす雰囲気を漂わせている。 南明寺の創建は宝亀2年(771)と伝えられているが、本堂は鎌倉時代中期の典型的な建築様式だそうだ。堂内には、本尊薬師如来(平安後期)・釈迦如来(平安初期)・阿弥陀如来(平安後期)の藤原三仏が安置されている。いずれも重要文化財に指定された座像である。 この寺は無住である。そのため、仏像を拝観したいのであれば、あらかじめ予約が必要だ。予約なしで来た我々は、残念ながらピタリと閉ざされた扉の向こうに鎮座する諸仏をイメージするしかない。境内には、鎌倉時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、室町時代の十三重石塔などがあり、由緒の深さをしのばせる古刹である。 |
柳生家代々の菩提寺・神護山芳徳禅寺
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| 朱塗りの色も鮮やかなもみじ橋 |
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| 石舟斎塁城址 |
芳徳寺は、寛永15年(1638)に柳生但馬守宗矩(むねのり)が亡父・宗厳(むねよし、1527-1606、石舟斎と号す)の供養のために創建した寺で、開基は宗矩と親交があった沢庵禅師である。寺は宗厳の塁城があった場所に建てられ、それ以後、柳生家代々の菩提寺となった。寺の名は宗厳の法名「芳徳院殿荘雲宗厳居士」に由来している。寺の北50mの裏山には、松林の中に柳生一族の墓所がある。
道を南に向かって歩いていくと、路傍の標識が目に入った。芳徳寺・もみじ橋0.4kmとある。もみじ橋を経由して芳徳寺にアクセスする旧参道である。文字通り、朱塗りのもみじ橋を渡ると、山王台へ登る石畳の急坂が続いている。正式な参道は、さらに南の打滝川に架かる白梅橋を渡って、市営駐車場の横から登る坂道である。
途中で何回も立ち止まって呼吸を整えながら、なんとか旧参道を登りきると広場があり、その中央に「石舟斎塁城址」と書かれた碑が建っている。この柳生の里を見おろす山王台は、柳生家の居城跡で掘割、石段、見張り場など、かきあげ城の名残りを今に留めているという。芳徳寺の山門は、「石舟斎塁城址」の背後の一段高い位置に築かれていた。
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| 芳徳寺の山門 |
拝観料を払って境内に入ると、正面に資料室が建ち、向かって右に社務所、左に本堂がある。資料室と社務所は、最近建て替えられたのか、まだ木の香りがするほど新しいが、平成4年(1992)に奈良市の文化財に指定された本堂はさすがに古色蒼然としている。
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| 芳徳寺の本堂 | 資料館 |
資料室には柳生家ゆかりの品々が展示されている。柳生十兵衛の使った杖(つえ)、新陰流の兵法目録、よ ろい、藩印などをここで見ることができる。
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| 資料室の内部(左側) | 資料室の内部(右側) |
本堂の中央には、本尊の釈迦如来像が安置されている。その左右に3人の像が置かれている。向かって本尊の左にあるのが、但馬守宗矩の像である。慶安4年(1651)、飛騨守宗冬(むねふゆ)が亡父の7周忌に、京都の仏師・康看に命じて作らせたと伝えられている。
一方、本尊の右には沢庵和尚と列堂和尚の座像である。沢庵和尚は、宗矩と親交があった人物で、たくあん漬けの考案者とも重用者としても知られている。吉川英治『宮本武蔵』の中では武蔵の師匠として描かれているが、残念ながらそういう事実はないそうだ。出世して大徳寺に入るが、野僧たるべくたったの三日で出てしまった。寛永4年(1627)の紫衣(しえ)事件では幕府に抗弁書を提出し、寛永6年(1629)に出羽国に流されるが、3年後許され将軍家光の信任を得て、品川の東海寺の開山に迎えられた。東海寺を終の住処とし、「葬式をするな、墓をつくるな、香典はもらうな、死骸は焼かずに山に埋めて二度と詣るな、法事をするな」など、壮絶ともいえる遺言を残していることでも知られる。
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| 柳生但馬守宗矩の像 | 沢庵和尚(左)と列堂和尚(右)の像 |
その右となりの像は、芳徳寺の第一世となった列堂和尚義仙(ぎせん)(1636-1702)である。正保4年(1647)、宗矩の末子・六ツ丸は当時11歳で仏門に入り、大徳寺の天佑和尚のもとに預けられた。のちには大徳寺の住持に就任した。彼の時代の宝永8年(1711)、芳徳寺は大火で失われたが、上述の宗矩像と、列堂が仏師・康看に彫らせた沢庵和尚の像は難を逃れ、現在も本堂に安置されている。
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| 芳徳寺裏の柳生家墓所 |
柳生三厳は、宗矩の長男で、弟に柳生友矩、柳生宗冬、列堂義仙がいる。慶長12年(1607)に生まれた三厳は、家光の小姓として側近く仕えていた。元和2年(1616)家光の父である第2代将軍秀忠に仕えるようになったが、後に勘気をこうむって退き、柳生へ戻り、寛永3年(1626)隠密として諸国漫遊の旅に出たという。寛永15年(1638)に許されて柳生へ帰り、正木坂道場を開いて門弟1万3千6百人に柳生新陰流を教えて、奥義「月之抄」を書いた。
現在、柳生三厳の弟・友矩の邸宅跡に正木坂剣禅道場が建っている。これは、先代住職の橋本定芳氏が昭和6年(1931)に道場建設を願い約30年の年月を かけて、同40年(1965)春にようやく完成した。屋根部分と柱はもと興福寺の別当だった一乗院、玄関は京都所司代の玄関を解体ししたとき譲り受け、床や壁は新調して完成したという。
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| 柳生家系図(芳徳寺の沿革より) | 正木坂剣禅道場 |
芳徳寺に引き続いて柳生宗矩が建築した旧柳生藩陣屋跡
約95段の石段を登り切ると、忠魂碑が立っている。その奥に夏草が生い茂る平らな土地が広がっている。柳生但馬守宗矩は、寛永15年(1638)に亡父・宗厳(むねよし、石舟斎)の菩提を弔うために芳徳寺を建てた後、さらに3年の月日を費やして寛永19年(1642)に柳生氏の居館として築いた陣屋の跡である。 「柳生藩旧記」によれば、その坪数は1374坪(4534u)、表は 竹の枝門であったと記されている。また、享保12年(1727)に柳生藩家老・松田四郎兵衛が残した「柳生家雑記」に、当時の陣屋の配置を伝えている。 柳生宗冬の時代に、柳生陣屋は増改築された。しかし、延享4年(1747)の火災で全焼し、仮建築のまま柳生氏代々の居館として明治維新を迎えたという。最近までは柳生小学校が建っていたが、奈良市ではこの柳生陣屋跡を公園として整備するため、近年発掘調査を行った。その結果に基づいて、かつての間取りが分かるように部屋跡を切石で囲み、長屋土蔵や築地のあった場所は、花壇として整備されている。 一帯は桜の名所として知られ、史跡公園になっている。 公園外側の石垣に「鏡石」と呼ばれる巨石が積まれている。今ではすっかり風化しておぼろげな輪郭しか分からないが、その石に地蔵尊が刻まれている。
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武家屋敷の様子をそのまま伝えている旧柳生藩家老屋敷
柳生中学校の校舎を左手に見ながら、北に向かって歩いて行くと、石垣を積みその上を白い築地塀で囲った屋敷が山麓に建っている。江戸時代末期、柳生藩の財政立て直しを行った家老・小山田主鈴(おやまだしゅれい)が隠居後に暮らした屋敷である。大きな石を組み上げた豪奢な石垣は、天保12年(1841)に尾張の石工が築いたものである。
一段高くなった家老屋敷に続く坂道を登り詰めると、左側に表門がある。その前に古めかしい案内板が立っている。それによると、小山田主鈴は、岩代国(福島県)の出身で、文化3年(1806)25歳のとき江戸の柳生藩邸に仕え、才能を認められて重職に栄転した。文政9年(1826)国家老として奈良に移り、柳生藩南都屋敷(現在のならまちセンター)を預かって藩の財政立て直しに功績をあげた。弘化3年(1846)家督を譲って隠居、さきに藩主の柳生但馬守俊章から賜っていたこの地に新邸を営み余生を送ったという。この屋敷は弘化4年(1847)8月に着工し翌嘉永元年(1848)に上棟したものである。 主鈴は安政3年(1856)に75歳で逝去したが、その子孫が跡を継いでこの地にとどまった。しかし、昭和31年(1956)、後裔が奈良の大森町に移ったため、屋敷は土地の人の手に渡った。その後、昭和39年(1964)には作家の山岡荘八氏の手に渡り、山岡氏は宗矩の生涯を描いたNHK大河ドラマ「春の坂道」の構想をこの屋敷で練った。昭和55年(1980)、山岡氏の遺志により、この邸宅は遺族から奈良市に寄贈された。奈良市は庭園と塀を修復し、主屋も少し補修して、座席の一部を展示室にあてて関係資料を公開している。
邸内は鴨居、屏風、間取りなど当時の武家屋敷の様式をそのまま伝えていて、いかにも昔の旧家を思い起こさせる。天井は低いが、開け放たれた障子窓から涼しげな風が吹き込んできて、なぜか気持ちの和む邸内である。主屋の裏には北面から東面に矩折(かねおり)に展開する奥庭がある。大阪の茶人・木津宗詮の指導を受けて作ったという。修復にあたってはできるだけ原形を留めるよう配慮したとのことだ。
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高さ15mの岩に彫られた弥勒磨崖仏を本尊に祀る鹿鷺山 笠置寺
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| 笠置寺の本尊・弥勒磨崖仏と仁和寺に残された最古のスケッチ |
標高300〜400mほどの高原の山間にある柳生の里から北へ半島のように突き出た山がある。それが笠置山である。地形的には南側は柳生から続く台地だが、木津川を臨む北側は、長年にわたる木津川の浸食によって巨岩が露出する断崖絶壁が続く。その山頂付近の巨大な花崗岩に、天女が舞い降りて彫ったとされる弥勒磨崖仏がある。
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| 笠置曼荼羅 |
だが、往時の面影をしのぶ資料がわずかに残っている。たとえば、康和年間(1099-1103)にこの磨崖仏をスケッチした最古の資料が仁和寺に残されている。大和文華館蔵の「笠置曼荼羅」にも元弘の役以前の磨崖仏が如実に描写されている。中央の弥勒物は優雅な線で描かれた衲衣(のうえ)をまとい、袈裟を捧げる迦葉(かよう)と柄香炉を執る羅漢(らかん)を左右に従えている。宇陀川の支流の大野川と室生川の合流点近くの岸壁に線刻された弥勒如来立像は、興福寺の僧・雅縁が鎌倉初期に、当時は日本一と言われた笠置寺の弥勒大磨崖仏を模して彫ったとされている。
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| 笠置寺の毘沙門堂 |
柳生の里から笠置寺へ行くには、打滝川に沿って府道4号線をJR笠置駅方面に向かえば良い。途中に「名勝笠置山」の石碑が建っている登山口があるから、そこから登山道に入る。登山道は大正期に完成した車道と東海自然歩道があるが、車道には点在する料理旅館が並んで華やぎを添えているとのことだ。
ところが、意外なハプニングが起きた。この付近の道路事情に詳しいはずのM氏だったが、途中の「かさぎゴルフ倶楽部」方面の標識に「笠置寺」と併記してあったために、ハンドルを右に切ってしまった。しばらくは2車線の広い道路がゴルフ倶楽部への入口まで続いたが、その先で急に舗装されていない細い山道に変わった。東海自然歩道だった。途中にUターンできる場所などない。幸い軽自動車が通れないほどの道幅ではなかったので、尾根づたいの道をどんどん先へ進んだ。気がついたら、笠置寺の境内の毘沙門堂の前に出た。
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| 急な石の階段が続く参道 | 参道の終点に建つ山門 |
笠置寺は京都府相楽郡笠置町笠置山に所在する。正規のルートでこの寺に参詣するには、笠置からの急な参道を登ってこなければならない。参道の終点に山門が建てられている。この参道は、奈良時代に笠置寺が創建された当時は、現在は史跡公園になっている六角堂へ続く柳生街道の表参道だった。山門の奥に橋の欄干に似た灯籠が立っている。「笠置型灯籠」という。
山門の左に本坊と鐘楼がある。鐘楼にかかる梵鐘は「解脱鐘(げだつかね)」と通称されている。建久5年(1196)に東大寺の重源(ちょうげん)から贈られたもので、六角堂に建てられていた般若台にあったが、いつの間にか現在の位置に遷された。この梵鐘は底部に6つの切り込みがあり、蓮の花をイメージした六葉蓮弁の形をしている。
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| 全山風景 |
【注】本日は日中の気温が30度を超す暑さだった。この暑さの中で巨岩が累々と続く岩場の登り下りはきつい。できたら全山が紅葉する秋にもう一度訪れてみたいと痛感した。
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正月堂(=磨崖仏の礼拝堂) |
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本尊弥勒磨崖仏 |
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十三重塔 |
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千手窟 |
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虚空蔵磨崖仏 |
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胎内くぐり | ![]() |
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太鼓石 |
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ゆるぎ石 |
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平等石 |
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蟻の戸渡り |
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貝吹き石 |
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後醍醐天皇行在所 |
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大師堂 |
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