橿原日記 平成18年8月1日

武蔵も訪れた柳生の里から巨岩・奇岩に会える笠置寺へ

楼門を望む
笠置山山頂から木津川を望む (h18/08/01 撮影)


年の頃、吉川英治の「宮本武蔵」や「鳴門秘帖」を読んで、時代小説というものを満喫した。「宮本武蔵」は、佐々木小次郎との決闘を終えて巌流島を小舟で離れていくシーンで終わっている。その小舟の中の武蔵の心境を思いやって、作者は感動的なセリフで物語を結んでいたのを今でも覚えている。

百合の花
柳生屋敷近くの民家の庭に咲いていた鬼百合
た、武蔵が柳生新陰流の創始者・柳生石舟斎に戦いを挑むために柳生を訪れ、石舟斎が切った芍薬(しゃくやく)を見て、その切り口の鋭さに驚き己の腕の未熟さを痛感する場面も印象的だった。

川英治の「宮本武蔵」がどれだけ史実を反映しているのか知らない。だが、この小説は武蔵の人間像と共に柳生の里のイメージを筆者の頭にしっかりと刷り込んだ。

0年の歳月を経て、柳生の里のイメージを己の目で確かめる機会が突然やってきた。生駒市内に住む大学同期のM氏夫妻が車での探訪を申し入れてくれた。その申し入れを受けて、本日は橿原市内に住むY君も誘って、柳生の里から笠置寺を巡ってきた。ただし、ハイキングによる探訪なら当然訪れたであろう夜支布(やぎう)山口神社天乃石立(あまのいわだて)神社ほうそう地蔵などは、時間的制約と車による移動のため立ち寄らなかった。別の機会に訪れてみたいと思っている。

【関連地図】奈良市観光課作成 柳生の里イラストマップ



●鎌倉時代の寄棟造りの典型的な建築様式を今に伝える南明寺本堂
●柳生家代々の菩提寺・神護山芳徳寺
●芳徳寺に引き続いて柳生宗矩が建築した旧柳生藩陣屋跡
●武家屋敷の様子をそのまま伝えている旧柳生藩家老屋敷
●高さ15mの岩に彫られた弥勒磨崖仏を本尊に祀る笠置寺

鎌倉時代の寄棟造りの典型的な建築様式を今に伝える南明寺(なんみょうじ)本堂

円成寺の浄土式庭園
円成寺の寝殿造り系庭園
日、柳生街道のうち滝坂の道を歩いた。その時は、国道369号線沿いにある円成寺近くの奈良交通バスの「忍辱山」バス停を起点とした(7月26日付け橿原日記参照)。今回も円成寺に立ち寄って寝殿造り系庭園を散策した後、柳生の里を目指した。

所によっては細い山道を走ることになるかもしれないと、M氏は愛用の車種ではなく奥さんが日常使っている軽自動車を用意してくれた。そのことが大英断だったことは後に知ることになる。軽自動車といっても、最近の車種はスピードも出るし、シートの座りごごちも良い。M氏が運転する車は快調なエンジン音を響かせて剣豪の里を目指した。


初の見学予定地は、阪原(さかはら)町にある南明寺(なんみょうじ、所在:奈良市阪原町1005)だった。阪原町は大柳生から柳生への中間にあり、国道369線沿いに展開する集落だが、M氏が快調に車を飛ばしすぎたせいか、阪原町のはるか先まで行ってしまった。途中で気付いて引き返し、ガソリンスタンドで道を聞いてやっと南明寺の門前にたどりついた。

本堂 同左
どっしりと力強い印象を与える本堂 同左
室町時代の十三重塔
飄々と天にのびる十三重塔

落の中を通る生活道路の脇に位置する南明寺は、山門があるわけではない。境内を取り囲む築地塀があるわけでもない。むき出しの境内に、一目見て寺と分かる寄棟造りの建物が建っているだけである。この南明寺の本堂は、どっしりと構えた単層の寄棟造りで、どこか唐招提寺の金堂を思わす雰囲気を漂わせている。

明寺の創建は宝亀2年(771)と伝えられているが、本堂は鎌倉時代中期の典型的な建築様式だそうだ。堂内には、本尊薬師如来(平安後期)・釈迦如来(平安初期)・阿弥陀如来(平安後期)の藤原三仏が安置されている。いずれも重要文化財に指定された座像である。

の寺は無住である。そのため、仏像を拝観したいのであれば、あらかじめ予約が必要だ。予約なしで来た我々は、残念ながらピタリと閉ざされた扉の向こうに鎮座する諸仏をイメージするしかない。境内には、鎌倉時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)、室町時代の十三重石塔などがあり、由緒の深さをしのばせる古刹である。



柳生家代々の菩提寺・神護山芳徳禅寺(じんござんほうとくぜんじ)

朱塗りの色も鮮やかなもみじ橋
朱塗りの色も鮮やかなもみじ橋
石舟斎塁城址
石舟斎塁城址
生町を貫流する川を打滝川という。町の中心近くで打滝川にかかる今川橋のたもとに、警察派出所がある。その隣の民家の庭の駐車場に車を止めると、我々は先ず芳徳寺を訪れることにした。芳徳寺は正式には神護山芳徳禅寺(じんごさんほうとくぜんじ)という。臨済宗大徳寺派に属する寺である。

徳寺は、寛永15年(1638)に柳生但馬守宗矩(むねのり)が亡父・宗厳(むねよし、1527-1606、石舟斎と号す)の供養のために創建した寺で、開基は宗矩と親交があった沢庵禅師である。寺は宗厳の塁城があった場所に建てられ、それ以後、柳生家代々の菩提寺となった。寺の名は宗厳の法名「芳徳院殿荘雲宗厳居士」に由来している。寺の北50mの裏山には、松林の中に柳生一族の墓所がある。

を南に向かって歩いていくと、路傍の標識が目に入った。芳徳寺・もみじ橋0.4kmとある。もみじ橋を経由して芳徳寺にアクセスする旧参道である。文字通り、朱塗りのもみじ橋を渡ると、山王台へ登る石畳の急坂が続いている。正式な参道は、さらに南の打滝川に架かる白梅橋を渡って、市営駐車場の横から登る坂道である。 

中で何回も立ち止まって呼吸を整えながら、なんとか旧参道を登りきると広場があり、その中央に「石舟斎塁城址」と書かれた碑が建っている。この柳生の里を見おろす山王台は、柳生家の居城跡で掘割、石段、見張り場など、かきあげ城の名残りを今に留めているという。芳徳寺の山門は、「石舟斎塁城址」の背後の一段高い位置に築かれていた。

芳徳寺の山門
芳徳寺の山門

観料を払って境内に入ると、正面に資料室が建ち、向かって右に社務所、左に本堂がある。資料室と社務所は、最近建て替えられたのか、まだ木の香りがするほど新しいが、平成4年(1992)に奈良市の文化財に指定された本堂はさすがに古色蒼然としている。

芳徳寺の本堂 資料館
芳徳寺の本堂 資料館

料室には柳生家ゆかりの品々が展示されている。柳生十兵衛の使った杖(つえ)、新陰流の兵法目録、よ ろい、藩印などをここで見ることができる。

資料室の内部(左側) 資料室の内部(右側)
資料室の内部(左側) 資料室の内部(右側)

堂の中央には、本尊の釈迦如来像が安置されている。その左右に3人の像が置かれている。向かって本尊の左にあるのが、但馬守宗矩の像である。慶安4年(1651)、飛騨守宗冬(むねふゆ)が亡父の7周忌に、京都の仏師・康看に命じて作らせたと伝えられている。

方、本尊の右には沢庵和尚列堂和尚の座像である。沢庵和尚は、宗矩と親交があった人物で、たくあん漬けの考案者とも重用者としても知られている。吉川英治『宮本武蔵』の中では武蔵の師匠として描かれているが、残念ながらそういう事実はないそうだ。出世して大徳寺に入るが、野僧たるべくたったの三日で出てしまった。寛永4年(1627)の紫衣(しえ)事件では幕府に抗弁書を提出し、寛永6年(1629)に出羽国に流されるが、3年後許され将軍家光の信任を得て、品川の東海寺の開山に迎えられた。東海寺を終の住処とし、「葬式をするな、墓をつくるな、香典はもらうな、死骸は焼かずに山に埋めて二度と詣るな、法事をするな」など、壮絶ともいえる遺言を残していることでも知られる。

資料室の内部(左側) 資料室の内部(右側)
柳生但馬守宗矩の像 沢庵和尚(左)と列堂和尚(右)の像

の右となりの像は、芳徳寺の第一世となった列堂和尚義仙(ぎせん)(1636-1702)である。正保4年(1647)、宗矩の末子・六ツ丸は当時11歳で仏門に入り、大徳寺の天佑和尚のもとに預けられた。のちには大徳寺の住持に就任した。彼の時代の宝永8年(1711)、芳徳寺は大火で失われたが、上述の宗矩像と、列堂が仏師・康看に彫らせた沢庵和尚の像は難を逃れ、現在も本堂に安置されている。

芳徳寺裏の柳生家墓所
芳徳寺裏の柳生家墓所
の裏側の細い道を少し下ると、松林の中に柳生家墓所がある。その中心になっているのが、宗矩とその子・三厳(みつよし)と宗冬(むねふゆ)の墓である。宗矩の墓の正面には拝座が設けられている。三厳は宗矩の長男で、柳生十兵衛の名で知られている人物で、後世、片目に眼帯をした姿で描かれることが多い。尾張の新陰流の伝承によれば、幼い頃、形の燕飛の月影を修行中に父・宗矩の木剣が目に当たり失明したという。それとは別に、鳥を虐げた十兵衛が宗矩の怒りに触れた時、宗矩に挑戦して宗矩の投げた石を交わし損ねて右目に当たったという話も残っている。

生三厳は、宗矩の長男で、弟に柳生友矩、柳生宗冬、列堂義仙がいる。慶長12年(1607)に生まれた三厳は、家光の小姓として側近く仕えていた。元和2年(1616)家光の父である第2代将軍秀忠に仕えるようになったが、後に勘気をこうむって退き、柳生へ戻り、寛永3年(1626)隠密として諸国漫遊の旅に出たという。寛永15年(1638)に許されて柳生へ帰り、正木坂道場を開いて門弟1万3千6百人に柳生新陰流を教えて、奥義「月之抄」を書いた。

在、柳生三厳の弟・友矩の邸宅跡に正木坂剣禅道場が建っている。これは、先代住職の橋本定芳氏が昭和6年(1931)に道場建設を願い約30年の年月を かけて、同40年(1965)春にようやく完成した。屋根部分と柱はもと興福寺の別当だった一乗院、玄関は京都所司代の玄関を解体ししたとき譲り受け、床や壁は新調して完成したという。
柳生家系図 資料室の内部(右側)
柳生家系図(芳徳寺の沿革より) 正木坂剣禅道場


芳徳寺に引き続いて柳生宗矩が建築した旧柳生藩陣屋跡

旧柳生藩陣屋跡
旧柳生藩陣屋跡に建つ碑

旧柳生藩陣屋跡へ続く石段
旧柳生藩陣屋跡へ続く石段
陣屋の部屋跡を囲った切石
陣屋の部屋跡を囲った切石
「鏡石」に刻まれた地蔵菩薩
「鏡石」に刻まれた地蔵菩薩
徳寺の表参道を下ってきて、打滝川に架かる白梅橋を渡ると、名阪針インター方面への車道に出る。車道の反対側に「正木坂」バス停があり、そこから旧柳生藩陣屋跡へ続く正木坂がある。本来は正木坂を登ったところに、陣屋跡の入口があるのだろうが、坂道と平行して石段が築かれている。陣屋跡への近道だ。

95段の石段を登り切ると、忠魂碑が立っている。その奥に夏草が生い茂る平らな土地が広がっている。柳生但馬守宗矩は、寛永15年(1638)に亡父・宗厳(むねよし、石舟斎)の菩提を弔うために芳徳寺を建てた後、さらに3年の月日を費やして寛永19年(1642)に柳生氏の居館として築いた陣屋の跡である。

柳生藩旧記」によれば、その坪数は1374坪(4534u)、表は 竹の枝門であったと記されている。また、享保12年(1727)に柳生藩家老・松田四郎兵衛が残した「柳生家雑記」に、当時の陣屋の配置を伝えている。

生宗冬の時代に、柳生陣屋は増改築された。しかし、延享4年(1747)の火災で全焼し、仮建築のまま柳生氏代々の居館として明治維新を迎えたという。最近までは柳生小学校が建っていたが、奈良市ではこの柳生陣屋跡を公園として整備するため、近年発掘調査を行った。その結果に基づいて、かつての間取りが分かるように部屋跡を切石で囲み、長屋土蔵や築地のあった場所は、花壇として整備されている。 一帯は桜の名所として知られ、史跡公園になっている。

園外側の石垣に「鏡石」と呼ばれる巨石が積まれている。今ではすっかり風化しておぼろげな輪郭しか分からないが、その石に地蔵尊が刻まれている。


武家屋敷の様子をそのまま伝えている旧柳生藩家老屋敷

柳生の家老屋敷遠望
柳生の家老屋敷遠望

生中学校の校舎を左手に見ながら、北に向かって歩いて行くと、石垣を積みその上を白い築地塀で囲った屋敷が山麓に建っている。江戸時代末期、柳生藩の財政立て直しを行った家老・小山田主鈴(おやまだしゅれい)が隠居後に暮らした屋敷である。大きな石を組み上げた豪奢な石垣は、天保12年(1841)に尾張の石工が築いたものである。

家老屋敷の坂道 家老屋敷の門
家老屋敷の門前の坂道 家老屋敷の表門

段高くなった家老屋敷に続く坂道を登り詰めると、左側に表門がある。その前に古めかしい案内板が立っている。それによると、小山田主鈴は、岩代国(福島県)の出身で、文化3年(1806)25歳のとき江戸の柳生藩邸に仕え、才能を認められて重職に栄転した。文政9年(1826)国家老として奈良に移り、柳生藩南都屋敷(現在のならまちセンター)を預かって藩の財政立て直しに功績をあげた。弘化3年(1846)家督を譲って隠居、さきに藩主の柳生但馬守俊章から賜っていたこの地に新邸を営み余生を送ったという。この屋敷は弘化4年(1847)8月に着工し翌嘉永元年(1848)に上棟したものである。

鈴は安政3年(1856)に75歳で逝去したが、その子孫が跡を継いでこの地にとどまった。しかし、昭和31年(1956)、後裔が奈良の大森町に移ったため、屋敷は土地の人の手に渡った。その後、昭和39年(1964)には作家の山岡荘八氏の手に渡り、山岡氏は宗矩の生涯を描いたNHK大河ドラマ「春の坂道」の構想をこの屋敷で練った。昭和55年(1980)、山岡氏の遺志により、この邸宅は遺族から奈良市に寄贈された。奈良市は庭園と塀を修復し、主屋も少し補修して、座席の一部を展示室にあてて関係資料を公開している。
展示室に当てられた座敷 主屋の裏にある奥庭
展示室に当てられた座敷 主屋の裏にある奥庭

内は鴨居、屏風、間取りなど当時の武家屋敷の様式をそのまま伝えていて、いかにも昔の旧家を思い起こさせる。天井は低いが、開け放たれた障子窓から涼しげな風が吹き込んできて、なぜか気持ちの和む邸内である。主屋の裏には北面から東面に矩折(かねおり)に展開する奥庭がある。大阪の茶人・木津宗詮の指導を受けて作ったという。修復にあたってはできるだけ原形を留めるよう配慮したとのことだ。


高さ15mの岩に彫られた弥勒磨崖仏を本尊に祀る鹿鷺山 笠置寺(ろくろうざん かさぎでら)

笠置寺の本尊・弥勒磨崖仏と在りし日の面影
笠置寺の本尊・弥勒磨崖仏と仁和寺に残された最古のスケッチ

高300〜400mほどの高原の山間にある柳生の里から北へ半島のように突き出た山がある。それが笠置山である。地形的には南側は柳生から続く台地だが、木津川を臨む北側は、長年にわたる木津川の浸食によって巨岩が露出する断崖絶壁が続く。その山頂付近の巨大な花崗岩に、天女が舞い降りて彫ったとされる弥勒磨崖仏がある。

笠置曼荼羅
笠置曼荼羅
置寺が本尊として祀ってきたこの弥勒磨崖仏は、高さ約15m、幅約13mの巨岩に刻まれた我が国最古の石像である。残念ながら、今ではその尊像を拝観することができない。鎌倉末期の元弘元年(1331)8月、後醍醐天皇が笠置寺に行在所を置いたため、元弘の役の戦乱に巻き込まれ全山がことごとく焼亡してしまった。そのとき堂宇の燃えさかる炎の熱で、弥勒磨崖仏の表面も焼け落ちて弥勒像の姿を消してしまい、現在は光背の跡が残っているにすぎない。

が、往時の面影をしのぶ資料がわずかに残っている。たとえば、康和年間(1099-1103)にこの磨崖仏をスケッチした最古の資料が仁和寺に残されている。大和文華館蔵の「笠置曼荼羅」にも元弘の役以前の磨崖仏が如実に描写されている。中央の弥勒物は優雅な線で描かれた衲衣(のうえ)をまとい、袈裟を捧げる迦葉(かよう)と柄香炉を執る羅漢(らかん)を左右に従えている。宇陀川の支流の大野川と室生川の合流点近くの岸壁に線刻された弥勒如来立像は、興福寺の僧・雅縁が鎌倉初期に、当時は日本一と言われた笠置寺の弥勒大磨崖仏を模して彫ったとされている。


笠置寺の毘沙門堂
笠置寺の毘沙門堂
い最近、「万葉の大和路を歩く会」の例会で大野寺の大磨崖仏を見学した7月23日付け橿原日記参照)。そのお手本となった磨崖仏が松尾寺にあると知って、近くまで来たついでにM氏にお願いして笠置寺まで足を延ばして貰うことにした。

生の里から笠置寺へ行くには、打滝川に沿って府道4号線をJR笠置駅方面に向かえば良い。途中に「名勝笠置山」の石碑が建っている登山口があるから、そこから登山道に入る。登山道は大正期に完成した車道と東海自然歩道があるが、車道には点在する料理旅館が並んで華やぎを添えているとのことだ。

ころが、意外なハプニングが起きた。この付近の道路事情に詳しいはずのM氏だったが、途中の「かさぎゴルフ倶楽部」方面の標識に「笠置寺」と併記してあったために、ハンドルを右に切ってしまった。しばらくは2車線の広い道路がゴルフ倶楽部への入口まで続いたが、その先で急に舗装されていない細い山道に変わった。東海自然歩道だった。途中にUターンできる場所などない。幸い軽自動車が通れないほどの道幅ではなかったので、尾根づたいの道をどんどん先へ進んだ。気がついたら、笠置寺の境内の毘沙門堂の前に出た。


急な石の階段が続く参道 参道の終点に建つ山門
急な石の階段が続く参道 参道の終点に建つ山門

置寺は京都府相楽郡笠置町笠置山に所在する。正規のルートでこの寺に参詣するには、笠置からの急な参道を登ってこなければならない。参道の終点に山門が建てられている。この参道は、奈良時代に笠置寺が創建された当時は、現在は史跡公園になっている六角堂へ続く柳生街道の表参道だった。山門の奥に橋の欄干に似た灯籠が立っている。「笠置型灯籠」という。

門の左に本坊と鐘楼がある。鐘楼にかかる梵鐘は「解脱鐘(げだつかね)」と通称されている。建久5年(1196)に東大寺の重源(ちょうげん)から贈られたもので、六角堂に建てられていた般若台にあったが、いつの間にか現在の位置に遷された。この梵鐘は底部に6つの切り込みがあり、蓮の花をイメージした六葉蓮弁の形をしている。


全山風景
全山風景
置寺の境内には、昔は一大修験道場として栄え、今日では一周約800mの修行場めぐりとして名を留めている周回コースがある。本尊の弥勒磨崖仏にアクセスするには、この周回コースを巡らなければならない。30〜40分程度の巨岩巡りだが、なかなか迫力があって面白い。以下の順序で見学できるように通路が整備されている。

【注】本日は日中の気温が30度を超す暑さだった。この暑さの中で巨岩が累々と続く岩場の登り下りはきつい。できたら全山が紅葉する秋にもう一度訪れてみたいと痛感した。


正月堂(=磨崖仏の礼拝堂)
笠置寺の本堂だが、本尊が大きすぎるため礼拝するためのお堂になっている。創建当時の正月堂は、現在の場所より手前にあったようで、柱の跡が残っているとのことだ。東大寺で行われる「お水取り」は当山が起源で、正月堂という名前も、東大寺の二月堂・三月堂と関連があるという。

本尊弥勒磨崖仏
高さ15mの磨崖に弥勒仏が彫られていた。残念なことに、元弘の役で全山が焼亡したとき建物が燃える炎の熱でで巨岩の表面も焼け落ち、現在は光輪のあとを残すのみである。この磨崖仏が彫顕した時期は、諸説があって確定していない。専門家は奈良時代末期とする説が多いが「笠置寺縁起」や「今昔物語」に記載された説話から、670年頃とする説もある。

十三重塔
弥勒磨崖仏から目を左に移すと薬師石と文殊石という巨石がそびえいている。文殊石の前面に十三重石塔(重文)が建っている。寺伝では解脱上人・貞慶(じょうけい、1155-1213)が母の供養のために造ったと言われているが、建立時期は不明である。その形式などから鎌倉末期から室町初期のものと推察されている。

千手窟
直角に向き合う2つの岩の間が千手窟である。古来、弥勒の浄土につながる龍穴とされたところで、弥勒石像と並んで笠置寺で最も神聖な場所とされてきた。ここで多くの人々が修行してきたことが記録されている。残念ながら現在は1000年にわたる土砂が堆積して洞窟にはなっていない。

虚空蔵磨崖仏
高さ12m、幅7mの花崗岩に、像の大きさ9m、座高4.1mの虚空蔵菩薩(こくぞうぼさつ)が刻まれている。この像は、頭上に宝冠をいただき、胸に瓔珞(ようらく)を飾り、天衣を翻し、施無畏・与願の印を結び、蓮華座の上に趺坐(ふざ)している。本堂の建物から離れているため、元弘の役で戦火を免れ、当時と変わらぬ姿を今に伝えている。

胎内くぐり
修行場のスタート地点。日常の俗世の垢にまみれた修行者が、この岩のトンネルをくぐることによって、一度母の胎内に戻り再生・浄化する場所とされている。千手窟は死を、そして胎内くぐりは再生をイメージしているとのことだ。

太鼓石
上から落下した岩に少し隙間があり、特定の場所をたたくと太鼓鼓のような音がすることから、太鼓石と名付けられている。

ゆるぎ石
元弘の戦乱のとき、後醍醐天皇の軍勢は、下から攻めてくる幕府方に対し山中にあった岩を落として防戦したと言われている。ゆるぎ石はその時の名残で、今でもこの巨岩の端を手で押すと揺れ動くため、揺るぎ石と呼ばれている。

平等石
お堂の中を回って修行する行堂(ぎょうどう)がなまって平等に変化したものと推察されている。この岩からの眺めは最高で、江戸時代は月見の名所だった。

蟻の戸渡り
平等石の横をとおる部分を蟻の戸わたりと呼んでいる。平等石のまわりを回る行堂の一部だったとされている。岩と岩の間隙を蟻のように一列になって通り抜けなければならないため、この名が付いたのかもしれない。

貝吹き石
元弘の戦乱のとき、連絡のためこの岩に登ってほら貝を吹いたので、この名がある。岩の上から西の方を眺めると、眼下に木津川が川下へ悠然と流れている景観を見ることだできる。

後醍醐天皇行在所
大覚寺党の後醍醐天皇は文保2年(1318)即位すると、天皇親政の方針を打ち出したが、幕府側の反発が強く、それに対抗するため天皇は倒幕を試みた。だが、倒幕は失敗し、天皇は元弘元年8月京を逃れ、東大寺東南院に入った。しかし、期待した協力を東大寺から得られなかった天皇は、8月27日、南都の衆徒を伴って笠置山に臨幸し、この地を行在所とした。

大師堂
笠置寺は現在、真言宗智山派に属し、正式には鹿鷺山(ろくろうざん 笠置寺という。大師堂は真言宗の創始者・弘法大師空海を祀っているお堂である。




2006/08/04作成by pancho_de_ohsei return