橿原日記 平成18年7月16日

何とも不思議な、雰囲気を味わうだけの遺跡見学

あああ
市の文化財に指定されている永楽荘窯址(桜井谷窯址群23号窯址)(H2006/07/16 撮影)


モノレール千里中央駅改札出口
集合場所に指定されたモノレール千里中央駅改札出口
橿原考古学研究所(=橿考研)の友史会が主催する7月例会は、北摂地域の古墳時代須恵器窯址を訪ねる企画だった。集合場所はモノレール千里中央駅改札出口、集合時間は午前10時。初めての集合場所なので、所要時間が分からず少し早めにアパートを出たら、指定時間より45分も早く到着してしまった。

摂地域に当たる豊中市北部の千里丘陵には、多くの須恵器を制作する窯が古墳時代に築かれた。その窯址群のうち、吹田市域に所在するものを吹田窯跡群、豊中市側に分布するものを桜井谷窯跡群といい、この二つを総称して千里古窯跡群と呼んでいる。千里古窯址群は総数100基を越すとも言われる我が国でも有数の須恵器窯跡群である。これらの須恵器窯の操業開始は5世紀後葉までさかのぼり、終焉は8世紀後半と考えられている。

案内役の木下 亘学芸員
橿考研付属博物館の木下亘氏
970年の万国博覧会以降、千里丘陵は千里ニュータウンの建設などで本来の地形を思い描くことが難しいほど開発が進んだ。案内役の木下亘氏の話では、20年ほど前まではのどかな田園風景の中に窯址が残されていたが、開発によってほとんどが失われてしまい、見学できる窯址は極めて少なくなってしまったとのことだ。今回は、桜井谷窯跡群のうち開発の嵐の中でも幸い残され保存されている窯址を巡ることになる。

回の遺跡見学を終えた感想を言えば、いつもの遺跡見学とはひと味もふた味も違った。まず、窯址として保存された遺跡はすべて市街地の中にある。したがって、いつものように地山を分け入って史跡探訪することはなかった。ただただコンクリートジャングルのような町中や交通の激しい道路の歩道を歩き回る探索だった。

跡といっても、現場はうっそうと樹木が茂る丘陵の斜面があるだけで、窯址が復元されているわけではない(唯一、最後に訪れた永楽荘窯址だけが復元されていたが、折からの雷雨でまともに見学できなかった)。木下氏の言葉を借りれば、”窯址の雰囲気を味わう”ことを目的とした見学会だった。



最初に訪れたのは豊中市文化財資料室


豊中市文化財展示室
豊中市文化財展示室の大甕
豊中市文化財資料室
豊中市文化財資料室
木下氏
資料室で須恵器の破片を説明する木下氏
初に訪れたのは、千里中央駅の北東にある豊中市立東丘小学校である。駅のコンコースを出ると、千里ニュータウンの高層マンションが建ち並ぶ敷地内の迷路のような道を、木下氏は先頭に立ってどんどん先へ進む。彼は地元出身らしく、このあたりの地理はやけに詳しい。

中には市立の博物館や資料館がない。そのため豊中市教育委員会は東丘小学校の空いている部屋を利用して豊中市文化財資料室を開設している。日曜日なので小学校は休みだったが、教育委員会の清水氏が校門を開いて一行を迎え入れてくれた。

回の例会の参加者は約100名。文化財資料室は1階に、小学生向けに作成された手作りの展示室は2階にある。いずれも100名を一度に入れるほどのスペースはない。そのため、3班に分かれて見学することになった。

示室の中央に大きな甕が置かれていた。木下氏が自ら発掘されたものだそうだ。資料室には、今は消滅してしまった桜井谷窯跡群2−16窯址から出土した須恵器の破片が、未整理のまま箱に入れて山積みされていた。素人が破片を見ても、須恵器のどの部分に当たるのか皆目検討がつかない。氏の下氏はさすがにプロである。整理がされていない破片を取り上げて、どの部分かを即座に見分けて解説される。

恵器は古墳時代後半(5世紀)に朝鮮半島から伝えられた製陶技術によって制作された陶質土器である。従来の土師器(はじき)とは異なって、ロクロを用いて整形し、窖窯(あながま)を用いて約1150度の還元炎で焼成するため、肉厚が薄く表面は灰色がかっており、強度もあった。古墳時代には主に祭祀や副葬品に用いられたが、奈良時代になると日常の器としても盛んに用いられるようになった。

下氏の説明によれば、桜井谷窯跡で焼かれた須恵器は和泉の陶邑(すえむら)出土の須恵器編年で分類できるそうだ。桜井谷窯跡では、陶邑より30年ほど遅れて土器が作られるようになり、5世紀後半から8世紀まで須恵器の生産が行われた。



桜井谷窯跡群の中の窯址を巡る


 島熊山(しまくまやま)窯址

島熊山窯址がある丘陵 島熊山窯址を示す碑
島熊山窯址がある丘陵 島熊山窯址を示す碑

に向かったのは、千里中央駅の南東方向にある千里緑地内にある島熊山窯址である。標高85m余りの丘陵の頂きに位置しているが、周囲を住宅地に囲まれ窯址部分だけが島のように取り残されていた。桜井谷窯跡群の中では、比較的内陸にあり、非常に特異な窯址とされている。生産された土器を他の地域へ移送するには河川を利用したと思われ、通常は須恵器窯は河川に近い場所に築かれていることが多い。

の窯址からは、蓋坏、無蓋高坏、有蓋高坏、器台、横瓶、提瓶、甕など、様々な須恵器が出土している。そのため、この地域では最盛期を少し過ぎた後の頃の窯址と考えられている。時期的には6世紀後半ころ、わかりやすく言えば藤ノ木古墳が作られた頃の窯址であるが、正式な調査が行われていないため、不明な点が多い。

かし、東側斜面に灰原と考えられる土層の堆積がみられ、また以前には多量の須恵器や窯壁の破片が散らばっていたという。一列になって藪をかき分けながら丘陵の斜面を登ると、頂上の窯址部分は柵が囲われ、案内板がたっていた。


 上野青池南畔(うえのあおいけなんはん)窯址

上野青池 上野青池南畔窯址
窯址前に広がる上野青池 上野小学校前の斜面にある上野青池南畔窯址

熊山窯址から南へ向かい、二ノ切池公園で遅い昼食を取った。午後1時過ぎに公園を出発して西へ向かった。約20分歩いて上野小学校に到着した。小学校の前に、ヤツデの葉の形をした青池があり、池の南側は小学校前の斜面にあたる。この斜面に、上野青池南畔窯址がある。なお、青池北側の民家の庭にでも窯跡が見つかっていて、こちらは北畔窯址と呼ばれている。

野青池南畔窯址は桜井谷窯跡群の南端に位置し、窯跡群の中では一番古い窯址とされている。この窯址からは、5世紀代まで遡ると思われる須恵器と6世紀後半代の制作と思われる須恵器が出土している。

井谷窯跡群で作られた須恵器は、近くを流れる千里川から底の平らな船で両岸から綱で引っ張り下流または上流へ運ばれた。当然運搬に便利な下流域の当地で最初の頃の窯が作られ、その後、木と土を求めて北へ、上流へ移動していったとされている。

野青池南畔窯址は、昭和5年ころに小林行夫・藤沢一夫両氏によって発掘調査が行われた。調査事例としては最も早い窯跡の一つとして考古学では有名だそうだ。『考古学』第5巻第10号に載せられた調査報告によれば、この窯址は長さが4〜5m余り、幅が2m余りで、円筒埴輪と須恵器が出土した。つまり、埴輪窯として使われていた窯が後に須恵器窯として使われるようになったと思われ、こうした転用事例は桜井谷窯跡群のなかではこの窯だけとのことだ。


 下村町池窯址

下村町池窯址のある森
「少路南」交差点の南西角にある下村町池窯址

村町池窯跡は、中国自動車道の南沿いにある「少路南」交差点の南西角にあたる。この付近にはかって下村町池と呼ばれる池があった。大阪環状線と中国自動車道の交差点建設に伴って実施された事前調査で、その池の北西岸から2−18窯址が見つかった。それが下村町池窯址の名で呼ばれている窯址である。

の窯跡は非常にユニークで、5世紀の後半に最初の窯が築かれたが、その後いったん操業を中止し、6世紀の中頃から後半にかけて再び操業が開始された。その後また中断し、7世紀になって規模を縮小してまた須恵器が焼かれた。つまり、この窯は何回も修理や改築をしながら使用されていたようで、三次窯までの使用が確認されているという。

跡が見つかったとされる付近は、現在樹木が茂る丘になっている。「少路南」交差点からその丘のあたりを眺めながら、木下氏の説明を聞いた。まさに心の目で往時の須恵器生産の現場を思い描き、周囲の景観から当時の”雰囲気”を感じ取ろうとした。だが、高速自動車道が築かれた現在では、様相は一変している。

は池の斜面を利用して築かれた地下式の登り窯で、窯の遺構は極めて良好な状態で残っていた。一部は天井部分も陥没しない状態で見つかったという。


 下地蔵岡(しもじぞうおか)窯址

島熊山窯址がある丘陵 千里川
千里川 下地蔵岡窯址がある畑

少路南」交差点を北に抜けた後、西に向かい、千里丘陵を南北に縦断している千里川に架かる橋を渡った。現在はどぶ川に成り下がっているが、この千里川は須恵器を搬出するのに重要な役割を担っていた。桜井谷窯跡群という往時の須恵器工場コンビナートで作られた土器は、この川を利用して各地に運ばれていった。木下氏の想定では、平底の船に須恵器を満載し、船に綱を架けて両岸から船を引っ張りながら、川下や川上に搬出していったという。

里川からさらに北へ歩いて、次の見学地である千里川西岸の下地蔵岡窯址に向かった。窯址は人家の背後にある丘陵斜面の竹藪の中に位置していた。この丘陵は北側の永楽荘から延びてきた支丘を利用して構築されていたようだ。

の真上に墓地が築かれていた。窯の一部は墓地造成で破壊されたが、墓地だったために窯址は幸い残った。1977年に範囲確認調査が行われ、窯の方位や操業時期が確定されている。東側を焚き口とする登り窯で、この付近では一番古い5世紀の窯址とされている。現状は畑地になっていて、畑地が柵で囲まれているため、畑の端から窯のあった付近を遠望するだけだった。


 2−19号窯址

2−19号窯址 2−19号窯址
2−19号窯址−1 2−19号窯址−2

地蔵岡窯を見学した後、東へ向かった。途中で、野畑図書館建設で見つかった縄文時代の野畑春日町遺跡の前を通って、2−19窯址がある日本道路公団の北緑地団地の前に出た。

地の建設に伴って昭和51年(1976)に発掘調査を実施し、三カ所で須恵器の窯址が見つかったそうだ。その中の一つがこの2−19窯址である。調査の結果、この窯址は千里川東岸の標高60〜64m丘陵斜面に立地し、出土した須恵器から6世紀の終わりから7世紀にかけて操業していたことがわかった。窯の残存長は全長9.5m。

井谷窯跡群の中では、千里川の最上流に位置する一番新しい窯跡である。つまり、桜井谷窯跡群は当初は千里川の下流で作られ始めたが、時代と共に付近の開発が進み、7世紀頃にはこの地点でしか窯が作れなくなったようだ。

下氏は大学1年のときこの発掘に参加されたそうだ。木下氏からこの窯址の説明を聞いている最中に、大粒の雨が降り始めた。


 2−24号窯址

2−24号窯址
2−24号窯址

−19窯址の北側に、2−24窯址の名で呼ばれている別の窯址がある。

本住宅公団の北緑丘団地の建設にともなって、昭和51年(1976)に窯址調査が実施された際に2−19窯址と同時に見つかった。調査の結果、この2−24窯址は千里川東岸の標高64〜67m丘陵斜面に立地し、残存長は全長10.5mの登り窯であることが判明した。窯の本体の保存状況は良好だった。



 永楽荘(えいらくそう)窯址

永楽荘窯址遠望 永楽荘窯址
永楽荘窯址遠望 永楽荘窯址

回の見学で最後に訪れたのは、永楽荘4丁目3番にある6世紀前半ごろに操業していた永楽荘窯址である。今まで見てきた窯址は、その場所に案内板が立っているだけで、実際の窯址は土の下だった。だが、千里川西岸に形成された河岸段丘の上に築かれた永楽荘窯址だけは、実際の窯址が見れると聞いていたので期待していた。

の窯は千里側に向かって南東方向に下る斜面で見つかった。1977年に範囲確認調査を実施したといころ、窯の本体は全長約13m、最大幅2.5m、天井部の高さ2m以上の半地下構造の登り窯で、大阪府内で最大級の窯址であることが判明した。6世紀前半ごろに操業していたが、焼成途中で天井が崩れてしまい、土器とともに捨て去られたようだ。おかげで重要な遺跡となった。

の内部には、土器が窯詰めされたままで残っており、当時の窯詰め方法や一窯あたりの生産量など、古代の窯業生産の実態を解明するうえで貴重な資料である。そのため、市は2002年4月1日、「桜井谷窯址群23号窯址」の名で市の指定文化財に指定した。

を開けてもらい遺跡内に入ったが、鋭い雷鳴とともに土砂降りの雨となった。人家の軒を借りて木下氏の説明を聞きながら雨がやむのを待ったが、雨はいっこうに止みそうもなかった。やむなく、急坂を下って西国街道から阪急桜井駅へ向かい、流れ解散となった。



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