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| 不動磨崖仏付近から見た生駒山方向の眺望(H18/07/13 撮す) |
「西小
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| 浄瑠璃山門前の多門院旧跡に咲くアジサイ |
【関連地図】てくてくまっぷ14 − 浄瑠璃・岩船寺石仏コース(近鉄作成)
西小バス停を通る奈良交通バスは、13番乗り場から出る111番系統(浄瑠璃経由加茂駅行き)しかない。13番乗り場は奈良近鉄ビル周辺のバス乗り場から少し離れた「やすらぎの道」沿いにあって少しわかりにくい。その上、111番系統のバスは2時間おきにしか運行していない。始発は9時43分である。これを逃すと、11時39分まで待たなければならない。この一事をもって、石仏の里は、随分人里離れた草深い山奥にあるものと覚悟した。
加茂町の南に位置する当尾地区には、鎌倉時代から室町時代にかけて彫られた石仏が点在している。確認されているものだけでも約100体あり、その多くは鎌倉時代の初め、東大寺再興のため来日した中国南宋の石工とその子孫たちが残したものと言われている。写真で見る磨崖仏や路傍にたたずむ石仏の多くは、長い歳月を経てかなり風化している。それだけでも得も言われぬ風情を漂わせているが、彫られた岩の感触や周りの風景は、写真では分からない。やはり自分の目で見、自分の手で触れてみないことには、石仏に込められた石工や依頼主の願いは伝わってこない。
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| 奈良交通バス「西小」バス停付近 |
「西小」バス停の先を、舗装された府道752号線が蛇行しながら山麓を駆け上っていく。その上り坂は浄瑠璃寺まで続く。「てくてくまっぷ」を見ると、たかのぼう地蔵を始めとしていくつかの石塔や石仏が沿道に配されている。これから坂道を歩いて上りながら、その一つ一つを訪ね歩くことになる。
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| たかの坊地蔵尊を中心に並べられた小石仏 |
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| たかの坊地蔵尊 |
付近にはかって浄瑠璃寺のたかの坊と呼ばれる塔頭があったため、この地蔵石仏はたかの坊地蔵と呼ばれている。南北朝時代の作とされている勇品である。舟形の光背を背負っているが、光背と像の間を深く彫り沈めてあるので、光背が小舟のような感じがする。残念なことに、尊顔などは風化していてよく分からない。
地蔵菩薩は地獄の衆生を救う慈悲の仏とされている。だが、たかの坊地蔵は、地蔵菩薩にお定まりの錫杖(しゃくじょう)をもっていない。大和矢田寺の地蔵菩薩は、錫杖をもつ代わりに右手を阿弥陀の印相の施無畏(せむい)印に結んでいる。そのため、たかの坊地蔵は矢田形の地蔵菩薩と言われている。錫杖を持たない姿をした地蔵菩薩は、一般には古いタイプだそうだ。
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| 西小墓地の石仏群 |
さらに坂道を上っていくと、右手に西小墓地の石仏群が見えてくる。石仏が埋没や盗難などで散逸するのを防ぐため、周辺に散在していた無縁墓や石仏をここに集めたとのことだ。こうした石仏群はこの後で何カ所も遭遇することになる。
この石仏群の先に西小地区の共同墓地があり、その入口に、山村の共同墓地には場違いと思われるほど立派な五輪塔が2基立っている。よく見ると、いずれも基礎が復弁の蓮の花びらが垂れた形の反花座になっている。しかし、向かって左の五輪塔は側面に格狭間(こうざま)と呼ばれる装飾が施されているが、右の五輪塔は側面が無地のままである。
この二基の五輪塔は鎌倉時代の作とされている。反花座を備えた大和系五輪塔の代表作の一つであり、いずれも重要文化財の指定を受けている。
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| 墓地の入口に立つ重文五輪塔(左) | 墓地の入口に立つ重文五輪塔(右) |
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| さりげなくたたずむ路傍の地蔵 |
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| 奥の院へ向かう脇道 |
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| 奥の院にある不動明王立像 |
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| 実際は線彫りの磨崖仏(*) |
起点にしたバス停からおよそ800mも歩いたと思われる地点に案内板が立っている。浄瑠璃寺奥の院の不動磨崖仏方面への脇道の表示である。「てくてくまっぷ」で確かめると、オプションコースになっていて、磨崖仏のところまで片道630mの距離らしい。行ってみるべきかどうかしばらく躊躇したが、思い切って枯れ葉が降り積もった山道へ足を踏み入れた。この時点では気づかなかったが、どうやらとんでもない思い違いをしたようだ。
緩やかなの上り道がしばらく続いた。柏や椎などの常緑樹の落ち葉が山道に散乱していて湿っぽい。上空を覆う梢に邪魔されて日の光が地表に届かないためだ。やがて、道は真竹が林立する竹林の中に入り、丘陵の尾根づたいに続いていく。しかし、途中から山腹を降る落ち葉道に変わる。急な山道を降って、ようやく赤田川の源流に近い谷間の岸まで降りてきた。夏草が生い茂る岸辺を下流に向かって歩きながら、やっと自分がとんでもない思い違いをしていたことに築いた。
一般に、寺院や神社の奥の院といえば、本堂などのある境内からさらに奥に入った山の高みにあると考えるのが常識だ。たとえば、昨年の冬四国遍路で訪れた第十二番札所摩廬山(まろざん) 焼山寺では、海抜938mの山頂に建つ奥の院まで山道を登った。先々月訪れた貴船神社でも奥の院はさらに奥の山中にあった。そうした先入観が時には災いする。浄瑠璃寺の奥の院は、はるか眼下の谷底にあったのだ。
脇道の入口からおよそ600m歩いた地点で谷川にかかる丸木橋を渡ると、その先に巨岩が聳えている。岩が濡れているところを見ると、今は水が枯れた滝なのだろう。ここが不動磨崖仏を祀る浄瑠璃寺の奥の院である。その巨岩を見上げて、オヤッと思った。岩の上に3体の石像が置かれている。一番高いところに位置するのが不動明王の像である。下の岩の上に左右対称に置かれているのが、脇侍の矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制多迦童子(せいたかどうじ)であろう。だが、いずれも石像であって磨崖仏ではない。
その疑問は、近くに置かれた案内板を読んで氷解した。この奥の院は、鎌倉時代の永仁4年(1296)に彫られた磨崖陰刻の不動明王像を祀ってきた。陰刻された瑠璃不動は滝の上の方にあるが、岩が中央で割れてずり落ちてしまっている。そこで、近世になって丸彫りの不動明王と矜羯羅・制多迦の二童子の不動三尊を祀ることにした。この岩場は前を流れる赤田川へ注ぐ支流が滝を作っていて、古くから清浄な行場とされてきたとのことだ。
案内板には続けて、この川を下流へたどると、辻堂(つじんど)やけ仏や、たかの坊地蔵などの石仏がある西小部落へ出る、とある。何のことはない、「西小」バス停付近からえいえいと上ってきた車道を、この奥の院を見るために一気に降ってしまったようなものだ。往路は下りだったが、復路は同じ山道を引き返さなければならない。
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| 矜羯羅童子と制多迦童子を両脇に従えた不動三尊像 (近世の作) |
戻りの山道は厳しかった。橿原のアパートにいる間、筆者は毎朝近くの畝傍山山頂まで登ってラジオ体操をするのを日課にしている。したがって、少しくらいの山道なら慣れているが、ほとんど一直線に上る傾斜地では途中で呼吸を整えるために小休止が必要だ。実は筆者は心臓の病をかかえている。こんなところで発作でも起こして谷底に転落でもしたら、おそらく万事窮すである。遺体は当分見つからないかもしれない。しかも、本日当尾へ出かけるとは誰にも知らせてこなかった。いささか後悔の念が沸いてきたが、でも、まぁいいか、とあきらめた。ここは9体もの阿弥陀如来が祀られている浄瑠璃寺の聖域である。如来様が何とかあの世とやらへお連れくださるであろう。
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| 笠石を載せた阿弥陀磨崖仏 |
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| 阿弥陀磨崖仏の拡大 |
銘文もしっかり残っている。銘文には「徳治二年丁未四月廿九日造立之。願主僧行乗」とある。つまり、鎌倉時代の徳治2年(1307)4月29日に、僧の行乗を願主としてこの磨崖仏を造立した、という。
真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺
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| 本堂に安置された九体阿弥陀如来像(**) |
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| 浄瑠璃寺の山門 |
浄瑠璃寺の創建に関しては、はっきりとしたことは分かっていない。天平11年(738)行基によって開かれたという言い伝えがあるようだ。だが、寺では「浄瑠璃寺流記事」(じょうるりじるきのこと)によって、永承2年(1047)、当麻(たいま、現・奈良県葛城市)の僧・義明上人を開基、阿知山大夫重頼を檀那(後援者)とし、薬師如来を本尊として創建されたとしている。しかし、一日で葺きあげたとあるから、草庵程度の建物だったようで、古くは西小田原寺と呼ばれた。しかし、寺では創建時に本尊とした薬師如来の浄土である浄瑠璃世界に因んで、寺号を浄瑠璃寺としている。
永承2年から5年後の1052年、世界は仏教で言うところの末法の時代に入った。浄土信仰が高まりを見せるなかで、嘉承2年(1107)本堂(九体阿弥陀堂)が完成する。久安6年(1150)には浄土式庭園が造られて寺観が整備され、治承2年(1178)になると、三重塔が京都の一条大宮から移建され、現在の寺観がほぼ完成したという。
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| 浄土式庭園を挟んで東方に位置する三重塔 | 浄土式庭園を挟んで西方に位置する本堂 |
池の東側に立つ三重塔の本尊である薬師如来は、東方浄瑠璃世界の教主である。遠い昔から積み重ねてきたさまざまな力を人々に持たせてこの世に送り出し、さらに現実にある四苦八苦を乗り越える力を薬として与えてくれる仏である。そのため、遣送(けんそう)仏とも呼ばれている。一方、阿弥陀如来は西方極楽浄土の教主である。来世である西方の極楽浄土へ衆生を迎えてくれる来迎(らいごう)仏である。
浄瑠璃寺の境内はこうした浄土信仰の世界観を表したものだ。苑池を生と死を隔てる大海に見立て、東西に薬師と阿弥陀が相対する伽藍配置は、平安時代の後期には平安京などで多く見られたという。この寺では、まず三重塔の前で薬師如来に祈り、その場で振り返って本堂に向き、宝池ごしに阿弥陀如来に祈るのが正しい参拝の仕方だそうだ。
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| 三重塔 |
1つの堂に9体もの阿弥陀如来像を安置するという発想は、「観無量寿経」に説かれる「九品往生」(くほんおうじょう)思想に由来するという。人が現世から阿弥陀如来のいる西方極楽浄土へと生まれ変わる仕方には、仏の教えを正しく守る者から、極悪人まで9つの段階ないし種類があるという考えである。
薄暗い堂内は、他の参拝客の姿も見えず、あくまで静かである。その静寂の中で、漆箔の仏像が全身を鈍く金色に光らせている。丈六の中尊は来迎印(下生印、施無畏・与願印)を結んでいるが、他の8体は定印(上生印)を結んでいる。自分を西方浄土へ導いてくれるのはどの阿弥陀如来か聞いてみたい衝動に駆られた。
実は、本堂を見学したかったのはもう一つ理由があった。建歴2年(1212)に本堂に安置された吉祥天女像を拝観したかったが、この秘仏は期間限定でしか開帳されない。残念ながら厨子がしっかり閉じられていて、その豊満なかんばせを拝むことはできなかった。
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| 秘仏・薬師如来像(**) | 秘仏・吉祥天女像(**) |
浄瑠璃寺から岩船寺への道すがら出会った石仏たち浄瑠璃寺から岩船寺(がんせんじ)までは、約3kmほどの道のりだが、およそ40体の石仏を見ることができるという。浄瑠璃寺を後にして岩船寺に向かう車道は、今までのような上り坂の連続ではない。山の尾根に沿って平行に築かれた比較的平坦な道だ。この道を進むと、行政区画上、西小地域から東小(ひがしお)地区に入る。最初に出会うのが藪の中にある三尊磨崖仏である。 藪中三尊磨崖仏
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| 藪の中にある三尊磨崖仏 |
浄瑠璃寺から歩いて5分ぐらいのところで、右手を見ると山麓の藪の中に露出した巨大な花崗岩がある。その岩に舟形の光背を彫り窪め、左に阿弥陀如来、中央に地蔵菩薩立像、右に長谷寺型十一面観音を配した珍しい三尊形式の石仏が彫られている。御倉地蔵とも呼ばれている三尊磨崖仏である。
中尊の地蔵の額に、石仏としては珍しく白亳(びゃくごう)が嵌められた跡が残っている。十一面観音は他の二体に比較して小さいが丹念に彫られた秀品である。この三尊磨崖仏には次のような銘文が残されていた。
東小田原西谷浄土院 弘長二年 大工橘安縄 小工平貞末
これにより、鎌倉時代中期の弘長2年(1262)に、浄土院という塔頭の本尊として、石工の橘安縄と平貞末の二人によって彫られたことが分かる。
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| 左側の阿弥陀如来像 | 中央の地蔵菩薩と右側の長谷寺型十一面観音 |
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| あたご灯籠 |
愛宕の神は防火の神である。当尾地域では、正月のこの灯籠からおけら火を採って雑煮を炊く習慣が以前にはあったとのことだ。
あたご灯籠の前を車道から分岐して集落の奥に進む生活道路がある。簡易舗装された道はすぐに集落を抜けてのどかな谷間を行く山道に変わる。左手を見ると、畑の向こうに山の傾斜に築かれた石段が見える。浄瑠璃寺に匹敵する大寺院だったとされる随願寺(ずいがんじ、東小田原寺)跡へ上る階段である。随願寺に関しては、平安中期の長和2年(1013)に創建されたということ以外に、ほとんど記録が残っていない。随願寺という寺号は、建保2年(1214)の行偏譲状(ぎょうへんゆずりじょう)に、「東小田随願寺」と見えているのが初出とされている。
浄瑠璃寺に匹敵する規模を誇った堂宇は、鎌倉後期に焼失してしまった。火災にあってから100年あまり後には、山伏たちが随願寺から岩船(いわふね)へ移ってしまったと伝えられている。随願寺は東小からミロクの辻へ抜ける道筋にあって、カラスの壺にさしかかる手前の谷間に位置している。谷の北斜面に築かれた石段を登っていくと、中腹にややテラス状に張り出した平坦部があり、そこにいくつかの礎石が点在している。現在はその一部に白山・春日両社が鎮座していて、もとは随願寺の鎮守だったことをうかがわせる。
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| 随願寺跡への階段 | 随願寺跡に建つ白山・春日神社 |
随願寺跡へ上る石段に腰かけてしばらく休息を取った。関西地方の今日の最高温度は摂氏35度近くまで上昇するだろうとの予報が出ていた。今年最高の暑さである。その中を坂道を歩いてきたため、大汗をかいた。Tシャツを取り替えてくつろいでいると、谷間を抜けて吹く風がなにがしかの涼を運んでくる。石段の上を白と黒の二匹の蝶が互いにじゃれ合うように飛び交っていた。
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| 阿弥陀・地蔵磨崖仏 |
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| カラスの壺 |
あたご灯籠から400mほど谷間の山道を登ったところで、やさしく迎えてくれる磨崖仏がある。巨大な花崗岩の二面に阿弥陀如来と地蔵菩薩が彫られていて、カラスの壺の阿弥陀・地蔵磨崖仏と呼ばれている石仏である。
カラスの壺とは変わった名前だ。調べてみたら、このあたりでは、道が交差する窪地を昔から「カラスの壺」と呼んでいたという。別の説もある。磨崖仏近くに横たわる石の中央に彫られた直径30cm足らずの穴を、唐臼(カラウス)から転じて「カラスの壺」と呼んだことに由来するという。その石が寺院の礎石なのか、唐臼だったのかは不明である。今は水がたまり鳥の水のみ場になっている。
磨崖仏には銘文が刻まれており、康永2年(1343)に造立されたことが分かる。銘文によると、東面の阿弥陀如来は恒性という人物が、極楽往生を願って造立した。同様に、西面は地蔵菩薩は勝珍という人物が同じ趣旨で造立した。ただし、銘文に書かれた造立の日付はそれぞれ異なっている。阿弥陀と地蔵の縁日がそれぞれ15日と24日であるためだそうだ。
阿弥陀像は定印を結んだ像高90cmの半肉彫りで、舟形の光背が描かれている。珍しいのは、阿弥陀の脇に線彫りされた灯篭である。灯籠には献灯できるように火袋も彫り込まれている。地蔵菩薩は像高さ78cmで、やはり半肉彫りの磨崖仏である。
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| 左の地蔵菩薩 | 右の阿弥陀如来 |
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| 岩船不動明王磨崖仏(一願不動) |
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| 不動磨崖仏方面への標識 |
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| 道に覆い被さる「八帖岩」 |
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| 岩船不動明王磨崖仏(拡大) |
とりあえず先に不動明王磨崖仏を見学することにして、石段を登り始めた。途中に「八帖岩」と表示された巨岩が、今にも崩れ落ちそうに坂道の上にせり出している。磨崖仏を彫るのに格好の巨岩だと思えたが、足場が悪いのか、鎌倉時代の石工たちもどうやら敬遠したようだ。
石段を登り切って左手に進むと、こんどは下へ降りる階段が左手に築かれている。階段は、磨崖仏へのアクセス道だ。階段を下りて、巨大な花崗岩の前に立つと、薄肉彫りで像高121cmの不動明王が描かれている。銘文によって、弘安10年(1287)3月28日、岩船寺の僧某によって造立されたことが分かる。弘安10年といえば、元が10万の兵を従えて高麗軍とともに筑前・長門に大挙襲来した弘安の役から6年後である。この蒙古の来襲を台風の味方でなんとか食い止めたが、これを契機に鎌倉幕府が衰微していく。そうした世情が当尾の里では無縁だったのだろうか。
この不動磨崖仏は、ギョロリとした目、大きい鼻、いかり肩、ぐっとはった右肘、一直線に踏み開いた両足と、いささか異相である。だが、ふっくらと柔らかい頬をした非常に個性的な魅力をもっている。一心に祈願すれば、一つだけ願いが叶えてくれる不動明王だそうだ。
そもそも、不動明王は密教特有の尊格である明王の一つで、密教の根本尊である大日如来の化身、或いはその内証(内心の決意)を表現したものとされている。本来は大日如来が怒っている姿で表されるが、この磨崖仏はなぜか怒りの表情が穏やかだ。
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| 阿弥陀三尊磨崖仏 |
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| 阿弥陀三尊磨崖仏(拡大) |
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| 埋もれ地蔵(眠り地蔵) |
この磨崖仏には「永仁7年二月十五日/願主岩船寺住僧□□/大工末行」という銘文が刻まれている。それによって、岩船寺の僧某を願主として、石工の伊末行(いすえゆき)がこの磨崖仏を刻んだことが分かる。伊末行は、この後訪れるミロクの辻の弥勒仏の作者でもある。ミロクの辻の弥勒仏を造って25年後の永仁7年(1299)に、伊末行はこの磨崖仏を彫ったとされている。伊末行は、東大寺復興のために建長5(1253)年頃に中国南宋から招かれた伊行末(いぎょうまつ)の子孫である。
磨崖仏の上には大きな屋根石がのっかている。そのため磨崖仏の保存が良好な状態に保っているとされている。
阿弥陀三尊磨崖仏の向かって左側に、全身のほとんどが土に埋もれている石仏がある。埋もれ地蔵とも眠り地蔵とも呼ばれている石仏である。優れた腕をもった石工が彫り上げた作品のようだ。笑い仏と同じ伊派の石工・伊行軽(?)の手によるものかもしれないとされている。掘り出してもよいと思うのだが、あえて埋もれた状態にしてあるという。
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| ミロクの辻磨崖仏 |
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| ミロクの辻磨崖仏(拡大) |
笑い仏から緩やかな山道をさらに500mほど進むと、道は舗装された車道に合流する。合流点の脇に花崗岩に線刻された弥勒磨崖仏が立ち、近くに「岩船寺南口」のバス停がある。弥勒菩薩を彫った岩があったため、この合流点はミロクの辻と呼ばれているのであろう。右手与願い印、左手施無畏印の弥勒菩薩は、像高が2.07mとかなり大きく、背後に二重光背も描かれている。
弥勒菩薩は釈迦の後継者として遠い 将来この地に下生してくれる仏である。笠置寺本尊の弥勒磨崖仏をかなり忠実に写しとったものとされていて、当地での弥勒信仰を物語っている。ただ、残念なのは風化の度合いが激しく、太陽光線の具合によっては、線刻がほとんど見えない。特に顔が摩滅しているのは、おそらく病気の治癒祈願のため多くの人たちが触れたためとされている。
この磨崖仏にも、次のような銘文が刻まれている。
「願以此功徳/普及於一切/我等興衆生/皆共成仏道 文永十一年甲戌二月五日 慈父上生永清造之大工末行」
これにより、永清という人物がが父の弥勒浄土への往生を願って、文永11年(1274)2月5日に、宋から渡来した石大工伊派の一人、伊末行(いすえゆき)にこの磨崖仏を彫らせたことが分かる。伊末行は25年後にも阿弥陀三尊磨崖仏、通称笑い仏を仕上げている。
【注】ミロクの辻からは、車道を歩いて岩船寺に向かった。途中から旧道に入り、三体の地蔵菩薩を厚肉彫りした磨崖仏を見学する予定でいたが、旧道への分岐を示す標識に気づかずに通りすぎてしまった。残念!!
真言律宗 高雄山 岩船寺
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| 岩船寺の山門 |
岩船寺は、当尾では浄瑠璃寺と並んで古いもう一つの寺である。岩船寺のもう一つの呼び名は”あじさい寺”。25種5000株以上のアジサイが境内にところ狭しと植えられ、梅雨時には雨滴に濡れた花々で埋まった境内が、山寺とは思えない優雅で上品な趣を漂わせて参拝客を迎えるという。この小さな山寺のアジサイの季節がようやく終わろうとしていたが、それでも青や赤、白に咲き乱れる花は筆者を優しく迎えてくれた。
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| 山門を一歩入った境内はアジサイの園 |
岩船寺の最盛期には、46町の広大な境内に39の堂塔が甍を並べる堂々たる大寺院だった。だが、承久の変(1221年)のあおりを受けて、大半が焼失してしまった。その後、再興された堂塔も度重なる兵火を受けて、寺運は次第に衰微していった。江戸時代初期の寛永の頃には、本堂、棟、坊舎、鎮守社など十棟程度にすぎなくなった。当時の住僧・文了律師が世上に出て再興を訴え、信者の勧進と徳川家の寄進で本堂や本尊の修復がなされたものの、その後も衰えていき、昭和18年に三重塔の修理が行われるまでは、放置されているも同然の状況だったようだ。
戦後はきちんとした寺の管理が行われるようになった。江戸時代に修復された本堂は老朽化が進んだため、昭和63年(1988)に再建された。嘉吉2年(1442)に建立された総高18mの三重塔は、建立以来の寂れた姿で人々を迎えていたが、平成15年3月に化粧直しを終え、昔日の姿を蘇られた。
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| 三重塔 | 本堂 |
境内を散策しながら、最初に目についたのは総高6.3mの十三重石塔だ。花崗岩を積み上げたこの石塔は、正和3年(1314)に妙空僧正が創建したと伝えられている。十三重石塔は初七日から三十三回忌までの13回の追善供養のために造られるものらしいが、その造形の端正さにははっと息を呑むほど驚かされる。般若寺の石塔は、規模の大きさ(高さ14.2m)、荘重な美しさ、そして四方に描かれた見事な仏像(東・薬師、西・阿弥陀、南・釈迦、北・弥勒)から、日本を代表する石塔とされているが、岩船寺の石塔も小作りながらそれに劣らないほど美しい。
境内の隅には、寄せ棟造りの屋根石を持つ石室の奥に火焔を背負った不動明王の石仏が立っている。その横には、二重光背を持つ厄除け地蔵が祀られている。さらに、その横には、当尾では最大とされる反花座を持つ五輪塔が立っている。もとは近くの山林にあったものを、村人がこの地に移したという。四角の地輪の上に、仏教でいう五つの要素を表す水輪、火輪、風輪、空輪が順に積み上げてある。五輪塔は平安後期、密教系の塔として建造されて大流行したとのことだ。
本堂の中央に、本尊の阿弥陀如来座像を囲むように四天王立像が置かれている。重要文化財の指定を受けている阿弥陀如来座像は、ケヤキの一木造りで高さは284.5cm。平安の昔に作られ、現代に至るまで無数の信者たちの祈りを聞いてきたその表情はどっしりと落ち着いて穏やかだ。
筆者以外に参拝客のいない本堂内を支配しているのは、凍るようにリンとした静寂さである。その静寂を破るようにたまたま住職が入ってきたのでしばらく雑談した。境内のアジサイはすべて住職の手植えだそうだ。アジサイ以外にも山茱萸(さんしゅゆ)、三椏(みつまた)、つつじ、睡蓮なども植えてあるという。花は仏の慈悲の心の表れである。境内に咲き揃う花を愛でて心を和ませた後で、心静かに本尊と対峙すれば、仏とさまざまな対話ができるという。
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| 本尊の阿弥陀如来座像(***) | 十三重石塔 | 五輪塔 |
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| 岩船寺伽藍守護の白山神社 |
毎年10月16日の秋祭りには、江戸時代から伝わる「おかげ祭」が村人たちによって奉納される。
岩船寺から振り出しの「西小」バス停へ
東小の阿弥陀石龕仏(首切地蔵)
岩船寺からは戻りのコースである。バス通りを歩いて藪の中三仏磨崖仏の前まで行き、そこからは大門石窟群を経由するオプション・コースを選ぶことにした。このルートでは、「西畑口」バス停の手前で六体地蔵を見学することができる。しかし、標識が道路からかなり奥まった人家の脇にあったため、見過ごしてしまった。 車道を歩くこと約2.3km。再び藪の中の地蔵三尊磨崖仏の前たどり着いた。そこから大門集落の中を抜けていく生活道路が北へ続いている。集落の中を歩いていくと、左手に消防センターの建物がある小さな広場がある。このあたりに、もと釈迦寺という寺院があったとのことだ。その広場の片隅に阿弥陀石龕仏が鎮座している。 この石仏は、弘長2年(1262)の銘が刻まれていて、当尾の在銘石仏では、最古の物とされている。。定印を結んでいて明らかに阿弥陀如来の造形であるが、なぜか首切地蔵の名で呼ばれている。首切りの名前の由来は、首が深く切れ込んでいるからとも、当地が処刑場にあったからとも言われている。 作風が藪の中の地蔵三尊に似ていることから、同じ石工の手によるものと推察されている。 大門石仏群
仏教では、釈迦の入滅後、56億7000万年後に弥勒菩薩が出現するまでの間、現世は仏が不在である。その間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)を輪廻する衆生を救う役目を引き受けたのが地蔵菩薩である。「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と決意して、地蔵菩薩は六道を自らの足で行脚し、救われない衆生、幼くして散った子供や水子の魂を救う旅を続けているとされている。 我が国では、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるという信仰が強まった。そのため、地蔵に対して地獄における責め苦からの救済を欣求するようになり、多くの地蔵菩薩像が石に彫られた。数多くの地蔵石仏を見るたびに、人々が地蔵菩薩に託す願いの切実さに圧倒され、またその願いをかなえて貰ったのか気になる年回りに筆者もなってきた。
大門仏谷如来磨崖仏
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| 大門仏谷越しで対岸の「如来磨崖仏」を望む |
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| 如来磨崖仏をアップ |
この如来像の手の部分が欠けているため、像名に関して、阿弥陀、胎蔵大日、釈迦、弥勒などさまざまな説がだされているが、不明のままである。また製造時期に関しても奈良前期から鎌倉中期まで諸説がある。かって、この地に浄瑠璃寺の大門があったことから、現在は大門仏谷如来磨崖仏と呼ばれている。
以前は、真下まで行ける道があったが、現在は草に埋もれてしまった。崖の縁に立って仏谷を見下ろしてみたが、雑草や雑木が生い茂っている。ナタなどで道を切り開かないかぎり、アクセスは無理なようだ。
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| 笠塔婆 |
降三世明王は胎蔵大日の脇侍であるから、当初は金剛界と胎蔵界の大日三尊を表す少なくとも6本の笠塔婆が丁石(ちょうせき)として立てられていたと推察されている。一丁進むごとに浄域に近づいた安らぎを参詣者に与えたであろう。
「塔婆」は、古代インドのサンスクリット語の「ストゥーパ」が「卒塔婆」、「トゥーパ」が「塔婆」という音声が言葉にされたものとされている。彼岸などに追善供養のため立てられる木製の「板塔婆」が一般的で、石製の「笠塔婆」は珍しい。この地の真言密教の遺品として注目されている。
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| 焼け仏 |
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| 焼け仏(拡大) |
三尊の中央に位置する本尊は、頭部が焼け落ち、大きい割れ目が入っている。残っている手の印相(いんぞう)から阿弥陀如来だったと判別されている。また左脇侍は長谷寺形の十一面観音、右脇侍は地蔵菩薩であると推察されいる。長谷寺形とは、右手は施無畏の契を作して、普通は地蔵が持つ錫杖(しゃくじょう)を立てて其の手に念珠を懸け、左には蓮花をさしたる瓶を持つ造形をいう。
本来、阿弥陀如来の脇侍は観音菩薩と勢至菩薩である。だが、この石仏は勢至菩薩の代わりに地蔵菩薩を脇侍としている。浄土信仰と地蔵信仰が結びついた結果、このような三尊形式が生まれたらしい。こうした例は全国でもかなりあるようだ。