橿原日記 平成18年7月8日

馬見古墳群の一本松古墳で新しく発見された陪塚

討論会
一本松古墳の後円部前で行われた現地説明会 (H18/07/08 撮す)

馬見古墳群の中の一本松古墳とは

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馬見丘陵公園周辺図
近の新聞紙上を賑わした考古学の話題と言えば、馬見古墳群の中の一本松古墳の隣接地で、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が試掘調査中に新たな方墳が見つかり、その周溝の底から埋葬当時の原形をほぼとどめた円筒棺墓(えんとうかんぼ)が出土したことだろう。円筒棺墓とは円筒形の土製の棺(ひつぎ)を埋葬した古墳時代の墓のことだ。これまでに全国の約30遺跡で出土しているが、完形に近い状態で発見されたのは珍しいらしい。

見古墳群の中の一本松古墳? あまり聞かない名前の古墳である。気になって少し調べてみることにした。しかし、この古墳に関する資料はほとんどない。奈良盆地西部の北葛城郡河合町、広陵町から大和高田市にかけて広がる馬見丘陵には、4世紀末から6世紀にかけて築かれた250基を超える古墳が集中していて、馬見古墳群と総称されている。大和国家成立の頃に葛城山麓に盤踞し、天皇家と覇を競った葛城氏の奥津城だったとされている。しかし、古墳群の規模の大きさや出土した副葬品の豪華さなどから、一氏族の奥津城の範囲を超えているとする説もあり、かならずしも断定はできない。

発掘調査位置図
発掘調査位置図(*)
常、この古墳群は3つのグループに大別される。河合町の川合大塚山(かわいおおつかやま)古墳など3基の前方後円墳と数基の円墳・方墳からなる北群、広陵町の中部の巣山古墳新木山(にきやま)古墳、河合町の佐味田宝塚古墳などの前方後円墳などを中心に構成される中央群、そして大和高田市の築山(つきやま)古墳新山(しんやま)古墳を中心とする南群である。築造時期に関して言えば、南群と中央群の古墳は4世紀に築造が開始され5世紀前半に築造のピークを迎えるが、その後は極端に衰頽していく。一方、北群の古墳は中央群や南群の衰退期に積極的に築造されたとされている。

在はその中央群の一部が馬見丘陵公園として整備されている。実は、一本松古墳は、その古墳公園の中に位置している前方後円墳である。昭和49年(1974)に発見された当時は、全長100mを越える前方後円墳であると考えられていた。その後、測量調査が行われ全長130m、後円部径80m、前方部幅80mであることが確実となり、この測量を機に一本松古墳と名付けられた。しかし、かって開墾などが行われたらしく、また乱掘などで墳丘はひどく荒れていた。さらに埴輪や葺石の存在がはっきりせず、築造時期も確定していない。それ以外の具体的な情報はなにもない実に奇妙な古墳である。

本松古墳は馬見丘陵公園の中の河合町飛び地に築かれている。このあたりは現在公園として整備中の地域で、一本松古墳の南西の小さな丘に東屋の建設が計画された。そこで、地下遺構を確認するために、橿考研は5月10日から4カ所に調査区を設けて試掘調査を行ってきた。そして、周りに周溝を巡らした1辺12〜14m、主軸が東へ約30度傾く方墳を発見した。そればかりではない。この方墳の周溝の底で円筒棺墓を、また周溝の外側斜面で古墳に立てるための円筒埴輪を埋葬用に転用した埴輪棺墓も出土した。同様な埴輪棺墓は一本松古墳の外堤の上からも見つかった。

回の調査は本格的な古墳の発掘調査ではない。あくまで公園施設の建設予定地に地下遺構があるかどうかを調べる試掘を行ったにすぎない。たまたま新しく古墳が発見されたが、この程度の古墳が見つかっても通常は現地説明会は開かない。橿考研が現地説明会に踏み切ったのは、一本松2号墳と命名されたこの方墳の周りに築かれた溝の中から円筒棺墓が埋葬当時の原形をほぼとどめた形で出土したためである。その現地説明会は本日の午後1時半から実施されることになった。



一本松2号墳と命名された陪塚方墳から出土した円筒棺

下池
馬見丘陵公園の中の下池
下池の岸辺に咲いていたムクゲ
下池の岸辺に咲いていたムクゲ
発掘現場へのアクセス
発掘現場へのアクセス
代の葛城氏に関心を抱いている筆者としては、その奥津城とされる馬見古墳群で新たに見つかった古墳の現地説明会を無視する訳にはいかない。だが、台風3号が沖縄付近を北上中であり、昨晩の天気予報では梅雨前線が刺激されて近畿地方に大雨注意報が出ていた。それに加えて、橿原から馬見丘陵公園へのアクセスはいささか不便である。説明会の案内では、近鉄大阪線「五位堂」駅から奈良交通バスで「馬見北3丁目」まで行くことを勧めている。しかし、バスの便は1時間に1本しかない。しかも、バス停から現地まではさらに徒歩で15分かかる。雨でなければ、愛用のチャリンコで出かけようかとも思っていたら、友達とは有り難いものだ。近くに住むT.Y氏の友人T.O氏が車で行くから、一緒に行かないかと誘ってくれた。

鉄大阪線の「大和高田」駅でピックアップして貰い、そのまま馬見丘陵公園へ直行した。中央入口から公園に入り、公園館の前をまっすぐに東へ延びる遊歩道を進むと、下池のほとりに出る。下池の岸辺にはムクゲの木が数本植えられていて鮮やかな花を付けていた。下池と上池の間を抜けて河合町の飛び地に入ると、このあたりはまだ公園として整備中で、いたるところに立ち入り禁止の立て札が目立つ。右手の芝生を植えた倉塚古墳の墳丘に沿ってさらに進むと、やがて左手にある一本松古墳の後円部の前に出る。その先に、現地説明会の受付のテントが張ってあった。

掘調査が行われている一本松2号墳の現地説明会の会場に到着したのは、午後1時。説明会まではまだ30分時間があったので、受付で資料を受け取ると、先に現場を見ることにした。雨模様の天気を予想して、発掘現場へのアクセス通路や現場の見学通路にゴザが敷かれていた。付近は赤土の丘陵地帯である。見学者がぬかるみに足をとられて横転しないようにとの配慮なのだろうが、幸いなことに天気予報は外れた。

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円筒棺墓や埴輪棺墓の出土位置(*)

筒棺墓は調査1区で見つかった。その場所は一本松2号墳の南西に巡らされた周溝の西隅角よりの底で、長さ160cm、直径50cmの円筒棺が横向きに安置されていた。円筒棺はこれまでに全国の約30遺跡で出土しているが、今回のものは上部が土の圧力で一部破損しただけで、ほぼ完全な形で出土した。表面には、死者の魂を封じ込めるために縦横と斜め方向に帯状の粘土が巻かれていたことがはっきり分かる。

発掘調査の現場
発掘調査の現場
じ調査1区から、古墳に立てるための円筒埴輪を埋葬用に転用した埴輪棺墓も出土した。棺に円筒埴輪を2個使用し、小口部分を埴輪の破片で塞いであった。ただし、こちらは一本松古墳の外堤の上に埋葬されていて、一本松古墳の被葬者配下の家臣の墓の可能性が高いという。

調査2区でも、一本松2号墳の周濠の外側斜面で埴輪棺墓が1基出土している。高さ50cm、直径25cmの3条突帯円筒埴輪を2個つないで使用したものである。しかし、大人の遺体を埋葬するには、棺の規模がいささか小さいのが気になった。本当に家臣を埋葬したのだろうか。墓壙の上から周濠に向けて突き出た約2m四方の低い盛り土がしてあった。

調査2区では、地面に穴を掘り遺体を埋葬する素堀りの墓である土壙墓も見つかっている。場所は、一本松古墳の外堤の上である。

2号墳周溝底の円筒棺墓 一本松2号墳の発掘現場
2号墳周溝底の円筒棺墓2号墳周溝外側斜面の埴輪棺墓
1号墳外堤上の土壙墓 号墳外堤上の埴輪棺墓
一本松古墳外堤上の土壙墓一本松古墳外堤上の埴輪棺墓



今回の発掘調査で見えてきたこと

後1時半からの現場説明会は、一本松古墳の後円部の麓で行われた。発掘担当者は、一本松2号墳の発掘の経緯を説明した後、今回の発掘の成果を以下のように要約した。

見学に訪れた考古学ファン
見学に訪れた考古学ファン
ず、一本松古墳と一本松2号墳は、同じ時期に地山を削りだして造られていて、同時に築造されたと推定されている。古墳の外堤や周濠から草摺形埴輪、家形埴輪、船形埴輪、円筒埴輪などの破片が多量に出土していて、これらの古墳の築造時期が推定可能になった。橿考研では、一本松古墳は古墳時代前期末から中期初頭の頃、実年代で言えば4世紀中葉の築造と推定している。この古墳の南に位置する巨大前方後円墳の巣山古墳より半世紀近く前に築かれたと考えてよいとのことだ。

に、今回見つかり一本松2号墳の命名された方墳は、一本松古墳の陪塚と見なすことができるということだ。一本松古墳は、古墳時代の奈良盆地の西部を支配した首長クラスを埋葬した墓とされている。そうであれば、今回見つかった方墳は一本松古墳被葬者の親族などの近親者の墓、円筒棺墓はその近親者の家臣に相当する人物が葬られた可能性が強い。一方、埴輪棺墓は一本松古墳被葬者に属した末端の家臣の墓だったと思われる。つまり、墓の規模や形態でランク付けされる身分階層が、巣山古墳の出現以前にすでに形作られていたことが分かる。

らに、発掘責任者は調査2区の埴輪棺墓が周溝に向けて突き出す形で約2m四方の低い盛り土がしてあったことに注目して、周溝は単に古墳に巡らした溝ではなく、場合によっては盛り土をして近親者や従者を埋葬する場として利用される場合があることが分かったという。



(*)現地説明会史料より転載
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