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| 霊禅山東塔院久米寺の山門 (2006/07/04 撮影) |
二つの創建伝承をもつ久米寺
境内を進むと、正面に大きな屋根の建物がそびえている。薬師瑠璃光如来を本尊として祀る本堂である。境内の向かって左側には、修行大師像・金比羅宮・多宝塔・水子観音像・地蔵菩薩像・久米仙人像が並び、仙人像の奥に鐘楼と不動堂がある。一方向かって右側には、手前から大師堂・弘法大師石・五輪石塔・(地蔵)納骨堂・観音堂が並んでいる。さほど広さを感じさせない境内に、小さなお堂や石像がところ狭しと置かれているが、樹木に囲まれているせいか境内は落ち着きと静けさを感じさせてくれる。
だが、本堂の右横を裏門へ向かえば、左手に五菩薩の石像が並び、その横に金色に磨き上げられた大日如来座像が、周囲の緑の木々を背景にして聳えている。古色蒼然とした境内の建物や石造を見てきた目には、この大日如来の輝きは異様である。異様といえば、大日如来の横に立つ虫塚も変わっている。昭和57年10月、奈良県毒物劇物取扱者協会が創立20周年を記念して、農薬類で死んだ虫の霊を供養するために建立したものだそうだ。
不思議なことに、この寺は古くから明日香村にある奥山久米寺と混同されて、創建の事情がはっきりしない。久米寺の由緒書きによれば、推古天皇の勅願によって用明天皇の皇子で聖徳太子の弟にあたる来目皇子(くめのみこ)が創建したという。一方で、空を飛んでいて下界で洗濯をしていた女性のふくらはぎを見て興奮し神通力を失い落下したと『今昔物語』に伝えられる久米仙人(くめせんにん)が創建したとする説もある。それぞれの説について、もう少し詳しく見てみよう。 寺の縁起によれば、来目皇子は7歳のとき眼病を患われた。兄の聖徳太子の勧めで、当地において衆生の病を除く薬師如来の願力を頼んで、37日丹精無二の祈願をなされた。すると、21日目の満願の暁に、不思議なことに、25菩薩を供に従えた一寸八分の薬師瑠璃光如来が天から皇子の左の手に降臨され、皇子の両眼を如来の大慈光明で照らされた。すると、皇子の両眼がたちまち平癒した。そこで皇子は自ら来目皇子と名乗り、また推古天皇の勅願によって金堂・講堂・鐘楼・経蔵・大門・五重塔などを造営した。そのため創建時の寺は、皇子の名を取り来目の精舎と称したとのことである。
聖徳太子の頃は、王族や豪族に子供が生まれると、生後まもなく乳母に預けられ、その乳母の属する氏族が養育を引き受けるという習慣があった。乳母の氏族名をその名としている皇子が多いのはそのためである。来目皇子も例外ではなかろう。皇子は軍事氏族の久米部で養育され、当初は久米皇子と呼ばれていたに違いない。薬師瑠璃光如来に祈願して両目が平癒したため、来目皇子と名乗るようになったのだろう。 皇子が久米部に養育されたという証左は、『日本書紀』にも残されている。推古天皇10年(602)2月、来目皇子は新羅攻略の将軍に任ぜられ、軍兵2万5千を率いて築紫に赴いた。当時の聖徳太子の年齢は数え年の29歳。したがって来目皇子はまだ25歳前後の青年だったはずである。皇族として将軍に任命されたのは、来目皇子が史上最初であるとされている。軍事氏族に鍛えられ武人として成長した皇子だったればこそ、2万5千の兵を率いる撃新羅将軍に任命されたのであろう。金色の甲冑に身を包み威風堂々と築紫に下っていった皇族将軍の勇姿が目に浮かぶようである。あるいは、皇子の周囲を警護したのは、幼いときから兄弟のように育った久米部出身の若者たちだったかもしれない。 4月に築紫に到着した来目将軍は、嶋郡(しまのこおり、現在の福岡県糸島郡)に駐屯すると、船舶を集め兵糧を積み込ませた。だが、6月になると皇子は病に倒れ、征討を果たせなくなった。翌年の2月、皇子は築紫で死亡し、周防の国の佐波(さば、現在の防府市)に殯宮(もがりのみや)が設けられた。大和に帰還した皇子の遺体は、河内の埴生山(現在の羽曳野市埴生野)の岡の上に葬られた。
現在は来目皇子埴生崗上墓(くめのみこはにうおかのうえのはか)として宮内庁が管理していて、発掘調査は到底望めない。しかし、古墳の南に隣接する宮内庁管轄外の民有地で建築工事が予定されていたので、羽曳野市教育委員会が昨年12月から事前発掘調査を実施した。その結果、墳丘の南側にも大規模な盛土によって外堤が存在することが明らかになった (平成18年1月21付け橿原日記参照)。
久米仙人は、欽明天皇の時代に金剛山麓の高城の里に生まれ、吉野山龍門嶽で神通飛行の術を習得した人物とされている。その後、当地に百数十年間寄住していたが、聖武天皇の時代に「奈良の大仏」で有名な東大寺大佛殿の建立に関わったとき、神通力を取り戻した。そして、天皇が国々の大木や大石を徴発したしたとき、仙術を用いて三日三夜でこれらの大木や大石を大仏殿の境内に運んだ。そのため、大仏建立を速やかに成就することができ、聖武天皇は深く喜び、免田30町歩を仙人に賜った。仙人はこの免田を財力に久米寺を創建したという。この話は今昔物語や徒然草にも伝えられているが、真偽のほどは定かではない。 本堂の前に、なんともとぼけた表情の久米仙人の像が置かれている。仙人は衆生の中風と下(しも)の病を除こうと、本尊の薬師如来に誓願し、自ら孟宗竹で箸を作った。その箸を日々利用するものは一生中風や下の病にかからず健康で長生きできるという。
現在、寺の境内に多宝塔が建っている。万治2年(1659)京都の仁和寺から移建したと伝えられる多宝塔で、国の重要文化財に指定されている。久米寺には、養老2年(718)に印度の摩伽佗国から来朝した王善無畏三蔵が、720日(約2年間)の間久米寺に寄留して建立し、三粒の仏舎利と大日経を納めたたとされる高さ八丈(10.909m)の多宝塔が、かって聳えていた。当時としては我が国で最高、最大の塔として広く内外に知られていたという。 空海は延暦年間この寺で大日経を感得した。その後、延暦23年(804)には桓武天皇の勅によって唐に渡り密教を受伝した。唐から帰朝した翌年の大同2年(807)11月8日、空海は諸々の弟子たちと当寺を訪れ多宝塔内で経王を講讃し、初めて真言密教を宣布した。これが真言宗根本道場の基礎となったとされている。すなわち、当寺は真言宗を日本中に広める密教弘演の根本秘宗伝燈の聖地とされてきたが、後に久米寺と改称したと伝えている。 |
盛りの時期の過ぎ去るのを惜しむアジサイ園の花々
このアジサイ園には30種類3000株が植えられていると聞いた。だが大半は青い色の一般的な花が占め、30種も花の種類があるようには思えなかった。ちなみに、筆者の目にとまった主な種類のアジサイは5品種ほどだった。 時折、梢の間を風が抜けて行く。そのたびに、アジサイの花が重たげにゆっくりと動く。その他には、アジサイ園の脇を近鉄電車が騒音をまき散らして通り抜ける程度で、すぐに静寂の世界が戻ってくる。久しぶりの梅雨の晴れ間だというのに、園内には筆者以外に見学者の影が見あたらない。自分一人がアジサイ園を占有しているような妙な錯覚さえ覚えて嬉しかった。花々の間を縫うように散策することで、ゆっくりと流れる豊穣な時間のひとときを満喫できた。
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