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| 同志社大学の京田辺キャンバス内にある継体天皇の二番目の筒城宮(つつきのみや)跡 |
継体天皇と私
第181回を迎える今月の定例学習会は、滋賀県立大学教授の田中俊明氏を講師に招き、「継体朝の日韓関係」について講演いただくことになった、との葉書が先月舞い込んだ。筆者は継体天皇に個人的な関心を抱いている。日韓古代史の第一人者が継体天皇時代の日朝関係を話されるのであれば、是非とも拝聴しなければならない。そんなわけで、予定を変更して、先月末また橿原のアパートに戻ってきた。 奈良時代に淡海三船(おうみのみふね)の撰によって継体の漢風諡号(かんぷうしごう)を贈られた男大迹王(おほどのきみ)は、筆者と同じ北陸越前の出身である。史書によれば、第25代武烈(ぶれつ)天皇亡き後、大和朝廷の重臣たちに請われて越前三国を出ると、河内国交野郡葛葉宮(くずはのみや、現在の大阪府枚方市樟葉)で第26代天皇として即位した人物とされている。
福井市は、昭和20年7月19日、B29爆撃機120機による焼夷弾攻撃を受け、市内が一面の焼け野原となり壊滅した。市街の95%を消失し、その被災率は全国最大だったとされている。それから3年後の昭和23年(1948)6月28日の午後、マグニチュード7.1の典型的な直下型大地震が福井県の嶺北地方を襲った。死者3769 人、家屋倒壊3万6184戸、半壊1万1816戸、焼失3851戸を出した福井地震は、兵庫県南部地震(阪神大震災)に次いで、戦後日本で2番目に大きい被害をもたらしたとされている。福井空襲から復興の途中にあった福井市は、この地震で再び壊滅的な打撃を受け灰燼と化した。 だが、それから4年、福井市は不死鳥のよう蘇った。福井復興博はその再生復興した姿を全国に示す披露宴のような博覧会だった。両親に連れられて福井復興博を見学し、足羽山の頂に建つ継体天皇像を初めて見た。誰の像か母にたずねると、母は「継体天皇という偉い天皇さんのお姿だよ」と教えてくれた。「けいたい? どんな字を書くの?」と、なおも聞くと、「”継体”、つまり漢字で”体を継ぐ”と書くんだよ」と教わった。変な名前の天皇というのが、ともかく最初の印象だった。 長じて古代史に興味を抱くようになると、継体天皇の治世には様々な謎があるのを知った。第一の謎は、”継体”の諡号が送られた理由である。奈良時代の天平宝字6年(762)から同8年(764)にかけて、淡海三船(おうみのみふね)が神武から持統天皇までの四十一代、および元明・元正天皇の漢風諡号を一括撰進した事が『続日本紀』に記されている。各天皇の生時の行いを評して佳字を用いて付けられた神武、綏靖、安寧、懿徳、・・・といった諡号の中で、継体という諡号は異彩を放っている。水野裕氏の「王朝三交替論」によれば、淡海三船ら奈良時代の知識人たちは、男大迹王(おほどのきみ)を、前王朝の”体制”ではなく”皇統”を継いだ人物として理解していたようだ。
●継体元年(507年)春2月4日、河内国交野郡の樟葉(くすは、現大阪府枚方市楠葉)で即位す ●継体5年(511年)冬10月、都を山背の筒城(つつき、山城国綴喜郡)に遷す ●継体12年(518年)春3月9日、都を山背の弟国(おとくに、山城国乙訓郡)に遷す ●継体20年(526年)秋9月13日、都を遷して大和の磐余の玉穂(いわれのたまほ、奈良県桜井市池之内の辺り)に置く
なぜ継体天皇は即位後20年もしてからヤマトの中枢である磐余に宮居を構えたのであろう。さまざまな説がある。継体の大和入りに反対する勢力がヤマト朝廷内部に存在したとするのもその一つである。一方で、継体が宮居を構えた場所に着目する説もある。樟葉は淀川、筒城は木津川、弟国は桂川を押さえる位置にあり、いずれも水上交通の要衝だった。こうした継体の河川交通の重視は、越前での九頭竜川の水運利用が原点であったとされている。治水と水運の要を押さえた天皇は、新しい王朝の使命をあるいははっきりと自覚していたのかもしれないという。
しかも『百済本記』は、このとき日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまったと記されていたという。天皇が皇太子やその他の皇子と一緒に死亡したとなれば、皇統断絶に近い大事件である。だが『日本書紀』を読む限り、そのような事実はない。編者もお手上げだったようで、どちらが正しいのか後世の歴史家にその判断を委ねている。 一方、『古事記』は527年、43歳で亡くなったとしている。 死亡時期といい、死亡年齢といい、完成時期がわずか8年しか違わない『古事記』と『日本書紀』の記述がこのように大きく異なっている理由を解明した説を、管見にして筆者は知らない。 崩御した後も、継体天皇はまだ謎を残している。宮内庁は、茨木市の太田にある全長286mの太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定して管理しているが、考古学の専門家は、高槻市の郡家新町にある全長350mの今城塚古墳(いましろづかこふん)が、真の継体天皇陵であるとみている。この二つの古墳は、直線距離にして1.5kmも離れていない。いずれが継体天皇の奥津城であれ、歴代天皇の王陵が築かれた大和や南河内から遠く離れたこの地に、なぜ継体天皇陵だけが、しかもたった1基だけ独立して築かれたのか。今城塚古墳が寿陵として築かれたのであれば、継体天皇がよほど執着した何かがこの地にあったに違いない。
こうした様々な謎は、多くの考古学ファンをこの天皇の治績に惹きつけている。かく言う筆者も、継体天皇の魅力に取り憑かれた一人である。以下の橿原日記に示すように、すでに何回も継体天皇の故地を訪れている。 『日本書紀』に記された継体天皇一代記を一読すれば誰でも気づくことだが、西暦507年から531年まで在位したこの天皇の時代のトピックスは、なんといっても「任那4県割譲」と「磐井の乱」である。この二つの事件の真相を知るには、当時の日朝関係を理解することが不可欠である。田中俊明氏は当時の日朝関係をどのように解明されるのかを楽しみに、本日会場に当てられた大阪市立総合学習センター第二研修室で出かけてきた。場所は大阪市の北区梅田にある大阪駅前第二ビル6階である。大阪駅前第二ビルはJR東西線の「北新地」改札を出たら、すぐのところにあった。 |
任那4県の割譲と己文・帯沙の百済領有承認の裏に隠された史実とは上記の「任那4県の百済への割譲」と「己文と帯沙の百済領有承認」は、『日本書紀』に記された倭国と百済および加耶諸国との関連記述である。この点をまず留意しておくべきである。我が国の史書の記述だけを根拠にして、この外交問題が史実であったと解することはできない。 古今東西、青史と称される歴史書では、時の為政者たちにとって不利な事実や事件は、まず隠蔽されていると疑ってよい。歴史的事実を隠蔽しなくても、事実そのものをねじ曲げて自国に有利な記述を残すことも、ままあることである。殊に外交問題に関しては、当事国双方の立場を客観的に見据えて記述されることは、まずあり得ない。 文献史学者である田中教授は、当然のことながら、『日本書紀』は言うに及ばず、『三国史記』などの朝鮮側史書や『南史』、『梁書』などの中国側史書の記述を史料として、上記の記述の信憑性に細かい考察をなされた。その詳細は割愛するが、そうした考察の結果、教授は2つの歴史的事件について次のように結論づけられた。
■ 任那4県の百済への割譲 文田中教授のこうした結論を理解するには、すこし補足説明が必要だ。一つは百済史の全体的な流れと、今ひとつは『日本書紀』の編纂目的の背景である。
その後の倭と百済の関係は、百済が660年に滅亡するまでほぼ友好であったと言ってよい。4世紀の終わりには南下する高句麗に対抗して、百済を支援するために軍を派遣し高句麗軍と戦っている。663年には滅亡した百済の遺臣たちの救援要請を受けて、軍を派遣した。その年の8月、我が国の水軍は白村江で唐の水軍と戦い大敗を喫している。このように、約300年にわたり、倭と百済とは軍事的にも政治的にも友好な関係を維持してきた。 その百済が、西暦475年いったん滅亡した。南侵を図っていた高句麗の長寿王(在位413-491)は、この年3万の大軍を率いて南下し、百済を侵略した。百済の王都・漢城は落城し、蓋鹵王(がいろおう)をはじめ大后、王子らは皆敵の手にかかって殺害された。ただ落城寸前に新羅に救援を求めるために、蓋鹵王は王子の文周を救援を要請するために南に行かせている。文周は新羅の援兵1万を得て戻ってきたが、そのときは高句麗軍がすでに退散した後だった。漢城は破れ、王は死亡していたため、文周は即位し、都を熊津(いまの公州)に遷した。
『三国史記』によれば、武寧王の治世の前半は高句麗や靺鞨(まっかつ)との戦闘が毎年のように繰り返された。治世の後半になると、北で失った領土を回復するために、盛んに南方へ進出している。その頃、現在の現在の全羅南道西部の栄山江流域には、百済とは文化的に一線を画する馬韓の残存勢力が残っていた。『三国史記』にはみえないが、武寧王は512年にこの馬韓の残存勢力を鎮圧し、翌513年以降は加耶の己文や帯沙地方へ進出している。また、中国南朝の文物の導入にも積極的だった。512年、521年、522年と3回も梁に使節を派遣して朝貢している。そのため梁の高祖は、武寧王を使持節・都督百済諸軍事・寧東大将軍・百済王に叙している。 すなわち、武寧王の時代には半島の西南端に位置する馬韓地域(全羅南道)は加耶地方と同様にまだ国家形成が進んでおらず、小国家が群在する政治的空白地帯だった。そのため、百済はこの地域に触手を伸ばし領土の拡大を図った。510年代に馬韓地域を押さえた百済は、次に東への拡大をはかり、まず516年頃までに蟾津江(せんしんこう)中流域の己文を、さらに522年頃までに下流の多沙を奪った。己文も多沙も当時の大加耶連盟を構成する国々である。こうした西からの百済の進出に大加耶は大きな脅威を与えた。急いで防衛ラインを構築するとともに、東の新羅と婚姻同盟を結んで百済との対決姿勢を取るようになる。だが、この婚姻同盟は529年には破綻し、大加耶は新羅の進出を招き、以後大加耶の国々は百済と新羅の草刈り場になっていく。
では、『日本書紀』の編纂者たちが何故史実を改ざんしてまで、馬韓地域や加耶地域に実在した小国を天皇の直轄地として史書を編纂したのか。その背景に、田中氏は『日本書紀』編纂時点で我が国に台頭してきた小中華思想があると指摘される。 8世紀の初め、大宝律令を制定し、平城遷都を実現し、着々と律令国家の体制を整えつつあった新生日本国にとって、当面の仮想敵国は668年に高句麗を滅ぼして朝鮮半島の全土を統一した新羅である。実際、新羅との関係は7世紀末あたりから急激に冷え込んだらしい。そうした国際情勢の中で国威発揚の手段として中国を真似た小中華思想が用いられたという。つまり、実体はともかく、建前として我が国は朝鮮半島に存在した国々の宗主国であり、百済を始め、新羅、高句麗、あるいは任那と呼ばれた加耶諸国は属国として毎年朝貢の礼を取ってきたという立場で、『日本書紀』は編纂されているという。 よく言われるように、『日本書紀』の中で古代の日朝関係が日本側の公的な記録に基づいて記されているのは欽明紀の後半以降とされている。それ以前は百済三書、すなわち『百済記』、『百済新撰』、『百済本記』に依拠して記述されているケースが少なくない。継体紀を一読すれば分かることだが、日朝関係の記述はほとんど『百済本記』に依拠して書かれている。 しかも、『百済本記』の記述自体にも問題がある。百済三書は百済で撰述された原記録をもとに、七世記末に亡命百済人が大幅に手を加え、日本書紀の編纂に資する目的で、上進した史書と見られている。すなわち、百済王の一族(百済王氏)が亡命百済人を動員して、百済の日本に対する奉仕と忠誠の由来を史書の形にまとめた物であり、最終的な完成は八世紀初頭の頃とされている。そうした史書に基づいて記述されている内容は、どこまで史実を反映しているか分からない。 |
最近話題の韓国の前方後円墳が意味するものは?田中教授の講演は、論理の展開が明確であり、十分に説得力を感じられた。また、『日本書紀』の記述を鵜呑みにした古代史の再現には細心の注意を要することも十分理解できた。そうした上で、いくつかの疑問も感じたので、それを最後に示すことにする。 まず、倭国が朝鮮半島へ出兵したとする話は、神功皇后の三韓征伐を皓歯とする。すなわち、神功紀には仲哀天皇2年に天皇が築紫の香椎宮で亡くなった後、男装して神の託言に従い新羅を撃った。降伏した新羅王は人質を出し、また毎年朝貢することを約束した。新羅の降伏を知った百済と高句麗は、とても倭に太刀打ちできないとしり、新羅同様に朝貢を絶やさないことを約束した。こうして半島に内官屯倉(うちつみやけ)、つまり天皇の直轄地が置かれるようになったという。
5世紀に入ると、5人の倭王(讃・珍・済・興・武)が、それぞ南宋(420-479)に使節を派遣して朝貢し、官位の授与を要求している。特に、順帝の昇明二年(478) 、倭王武が上表文を提出して、高句麗の無道ぶりを訴え、使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王の称号を要求したことは有名だ。この称号の7カ国に秦韓と慕韓が含まれている。 1世紀頃には朝鮮半島南部は馬韓・辰韓・弁韓に分かれていた。だが、4世紀中ごろ馬韓の内の一国、伯斉国が馬韓を統一し百済を建国し、また同じ頃、辰韓の中の斯廬国が辰韓を統一し新羅を建国したと、筆者の年代は世界史の授業で教わった。倭王が要求した称号の中の慕韓は馬韓、秦韓は辰韓のことである。すでに百済や新羅に組み込まれ存在しない地域がなぜ併記されているのか不思議でならなかった。授業中に質問すると、軍事支配権の及ぶ地域を多く見せるためのハッタリだろうと、その時の教諭は答えたが、納得できなかった。 馬韓や辰韓という小国家群がまだ百済や新羅に併合されずに、5世紀になっても実在したことを実証されたことは田中教授らの功績である。だが、倭国の軍事支配権の及ぶ範囲がこれらの朝鮮半島を含むとしたのは名目であり実体ではない、とする一部の歴史学者たちの説にはいささか抵抗を感じる。 好太王碑は4世紀末から5世紀の初めにかけて、倭の軍隊が朝鮮半島で高句麗の軍隊と対峙したことを認めている。倭の5王は6世紀を通じて一貫して”六国(or 七国)諸軍事、安東(大)将軍、倭王の称号の授与を宗主国の南宋に要求し続けている。これらは、記紀に記述されていることではなく、外国の金石文や史書に示されている事柄である。 では、これらの事柄は何を物語っているのだろうか。常識的に見れば、倭国の軍隊が朝鮮半島の南部に常駐して何らかの軍事権を行使できる立場にあったことを裏付けているのではないだろうか。では、何のためにに軍隊を常駐させたか。言うまでもなく、大和朝廷、すなわち倭国の利権の維持である。それは屯倉としての領土の保全だったかもしれないし、鉄資源の確保のためだったかもしれない。 もう一つの興味深い事実がある。新羅の人質として我が国に送られていた未斯欣(みしきん)がに使節として派遣されてきた朴堤上の働きで、新羅に逃げ帰ることができたという話が、『日本書紀』の神功摂政五年(372年)の条に伝えられている。人名や時期に関しては違いがあるが、この話は韓国の史書『三国史記』と『三国遺事』にも、同じように記載されている。そのため、この伝承は史実に基づくものと、一般には理解されている。 この話は新羅からの人質奪還の話だが、百済からの人質として百済王族が我が国に人質として派遣され常駐している話は、上記の豊璋の時まで『日本書紀』の中で随所に顔を出す。こうした記述が事実であるならば、何を意味するのであろうか。通常、国王の身内を人質として差し出すのは、宗主国に対して臣従するという証であると解される。そうであるならば、倭国と百済との関係は対等な同盟ではなかったことになる。 歴史学者の中には、百済王族の倭国在住は、今でいう特命全権大使のようなもので、外交官として倭国との親善を図り、倭国の情報を収集するのが目的としたものだったと説明する者がいる。おそらく、現代の韓国国民の民族感情に配慮した発言であろう。だが、当時の東アジア世界の国際関係がそんな楽観的な見方で対処できるものでなかったことは、誰しも認めるところだ。
これらの前方後円墳はいずれも5世紀後半から6世紀中葉という極めて限られた時期に成立したものであり、栄山江流域を中心に存在し、円筒埴輪や南島産貝製品、内部をベンガラで塗った石室といった倭系遺物を伴うことが知られている。 そのことから、これらの前方後円墳は、当時南下せんとして盛んにこの地域に圧力をかけていた百済に対抗すべく、倭人の勢力と結託してその文化・風習を積極的に取り入れた馬韓の在地領主の墳墓ではないかという説が出されている。この地方の国守として倭より派遣されていたとされる穂積臣押山のような倭人領主の墳墓と見る説もある。この説が支持されるようであれば、百済に割譲したとされる任那4県は倭国の支配が及ぶ地域となり、『日本書紀』編者が虚構として構築したとする史観は退けられる。 韓国の前方後円墳に関して、田中教授は面白い説を立てておられる。これらの墓は、百済が馬韓地域に進出する準備段階で、百済から派遣された倭系官人の墓ではなかったかとの推測である。倭系官人とは、倭人と百済の女性の間に生まれた混血児であり、百済で登用された役人である。欽明天皇の時代には、倭系官人が日朝間の外交使節として盛んに活躍するようになる。だが倭系官人の出現の前提として、かなりの倭人が半島の地に常駐していたと想定しなければならない。 いずれにせよ、これらの前方後円墳が築造された5世紀後半から6世紀中葉は、栄山江流域が何らかの形で倭の強い影響を受けていたことの証左である。筆者は、その地域への百済の進出に、大和王権も何らかの関わりを持ったと考える一人である。 |