橿原日記 平成18年6月20日

筑紫君磐井の後継者の墓を守った石人と相まみえる

「発掘された日本列島2006」の案内 
国技館の塀に沿って掲げられた「発掘された日本列島2006」の案内 (2006/06/20 撮す)


両国国技館
両国国技館
江戸東京博物館
江戸東京博物館
治維新を境にして、徳川時代の首都・江戸は東京に改名した。その江戸と東京の歴史と文化を、豊富な資料と復元模型で学ぶことができる博物館が、隅田川の河口近くにある。名付けて江戸東京博物館。40年以上も隣町の川口市に住み、サラリーマン時代は都心に通勤していたのに、1993年3月28日に創立されたこの博物館を、筆者はまだ訪れたことがない。

ころが、本日思い立って江戸東京博物館を訪れることにした。本日から来月23日までの期間限定で、文化庁主催の「発掘された日本列島2006(新発見考古速報展)」が博物館5階の第2企画展示室で開かれると知ったからだ。この速報展は、昨年発掘された遺跡の中から48遺跡を選び、旧石器時代から近世に至るまでの約730点の出土品を、遺物とパネルで紹介することを目的としたもので、毎年開催されている。

は、展示品の中に是非見ておきたい発掘品があった。昨年8月に福岡県八女市の鶴見山古墳(つるみやまこふん)の周濠から出土した武装した姿の「石人像」である。この石人像に興味を抱いたのは、鶴見山古墳の被葬者が北部九州の豪族・筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこ・いわい)の息子・葛子(くずこ)である可能性をマスコミが大きく取り上げていたためだ。筑紫国造磐井とは、西暦527年に起きた我が国の古代最大の内乱と言われる「磐井(いわい)の乱」の首謀者とされている人物である。

R秋葉原駅で乗り継いだ総武線の電車が隅田川を渡ると、すぐに「両国」駅に着く。西口改札を出て、ちゃんこ鍋などのレストランの前を過ぎると、正面に巨大な屋根の国技館がある。「江戸東京博物館」は両国国技館に隣接して建設された。国技館の塀に沿うように、本日から開催される「発掘された日本列島2006(新発見考古速報展)」の大きな案内が立っていた。



江戸と東京の歴史と文化を再現した江戸東京博物館

江戸東京ひろば
江戸東京ひろばの隅にあるメインエスカレータ
6階常設展示室の日本橋
6階常設展示室に架けられた復元日本橋
戸東京博物館は実に奇妙な印象を与える建造物である。国技館脇のアクセスロードを進むと、巨大なカバかワニが口を大きく開いて待ち受けているようにも見える。その口の中にあたる部分が3階の江戸東京広場だ。動く歩道で3階に到達すると、広場の中程にチケット売り場があり、その奥に一気に6階まで見学者を運ぶメイン・エスカレータがある。

設展示室は5階と6階にある。メイン・エスカレータで6階まで運ばれた見学者は入口専用の自動改札を通ると、目の前に復元された巨大な「日本橋」を目にすることになる。その橋を渡った先に、江戸城と町割りを復元した「江戸ゾーン」がある。一周してエスカレータで5階に降りても、そこはまだ「江戸ゾーン」で、武士の暮らしや盛り場の様子を再現してある。中央には中村座が復元されていて、ここでは定期的に落語などの催しが開かれるらしい。中村座の背後から「東京ゾーン」になっていて、ここでは文明開化を象徴する鹿鳴館や、関東大震災と東京空襲の遺物、それに昭和30年代の生活が体験できるコーナーなどが配されている。

体を通して見ると、ユニークな構成の常設展示室と言える。通しで見学すれば、江戸から明治、昭和へと移り変わってきた東京の様子がよく分かるように展示されている。だが、本日の目的は江戸の歴史を勉強に来たのではなく、「新発見考古速報展」にある。この速報展が開かれている第二企画展示室は5階の中央左手にあり、6階から江戸ゾーンを通り抜けてこなければならない。速報展の展示室へ直接アクセスすることはできない。

江戸の町割りを再現したミニチュア模型 歌舞伎の舞台を再現
江戸の町割りを再現したミニチュア模型 歌舞伎の舞台を再現



第二企画展示室前の通路に置かれた石人像

八女古墳群の位置
八女古墳群の位置(*)
鶴見山(つるみやま)古墳
鶴見山(つるみやま)古墳
岡県の八女市には、我が国の古代最大の内乱と評される「磐井の乱」の首謀者・筑紫国造磐井が寿陵として築いたとされる前方後円墳「岩戸山古墳」がある。岩戸山古墳は一帯からは人や馬の形をした石製品が多数出土した古墳として知られる国指定史跡である。その岩戸山古墳から西へ約2kmほど離れた所に、鶴見山古墳がある。磐井の乱から20〜30年後の6世紀の中頃築かれたと推定される前方後円墳で、磐井一族直系の墓と見なされている。

女市教育委員会は昨年6月から鶴見山古墳の周辺を調査していた。そして、8月になって前方部前面の周溝の中から、ほぼ完全な形の武装石人一体を発掘した。熊本県阿蘇で採れる軟質の溶結凝灰岩で彫刻された石人は、全長が158cm、両手を広げた格好の最大幅は78cmである。頭には当時流行した衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、胴部には短甲(たんこう)、そして下半身部には草摺(くさずり)が、写実的に彫刻されていている。

州では石人の出土が多い、これまでに150体以上が出土しているそうだ。そのうち武装石人は八女市を含む福岡県筑後地方では4体目である。八女市教育委員会によると、両腕の先端と鼻の部分が欠けているだけで、今回のようにほぼ完全な形で発見された石人は、全国で初めてだろいう。


石人 (正面から) 石人 (左横から撮影)
鶴見山古墳から出土し武装石人 (正面から撮影) 武装石人 (左横から撮影)

発掘当時の写真(*)
発掘当時の写真(*)
武装石人の部位
武装石人の部位(**)
の武装石人は、第二企画展示室の入り口付近で前の通路をふさぐように置かれていた。真っ直ぐに背筋を伸ばし、両の手を広げていかにも通行人の通行を制止するように立ちはだかる姿は、一見して異様である。顔面は鼻の部分が意識的に破壊されているため、その目鼻立ちは分からない。だが、ほぼ等身大の像の正面に立つと、破壊された顔が何かを語りかけて来そうだ。異常に太い両腕はいかにも腕っ節の強さを思わせる。

の石人像は、深さ約1.5mの周溝の底面から約20cmの所から見つかった。その周囲には多数の石材が重なっていたため、当初は別の場所に立てられていたと推測されている。おそらく前方部前面の段丘の上に立てられていたのではなかろうか。そうであれば、被葬者に近づく悪霊の侵入を防ぐ「僻邪」の目的で築かれた武人像だったかもしれない。

見山古墳の発掘調査が完全に終了し、出土した石人はこれ一体だけだったのか、それともまだ調査が終わって居らず今後出土の可能性があるのか、筆者には不明である。近畿を中心に流行した形象埴輪を古墳に立てる風習が、九州では石人に変えられたという説がある。そうであれば、一つの古墳から複数の石人が見つかって然るべきだが、一体だけしか出土しなかったとなると、その意味が問われなければならない。



武装石人は、後世に伝えられた磐井の乱の生き証人(?)

岩戸山古墳
復元された石人・石馬が並ぶ岩戸山古墳(**)
世紀前半、北部九州で一大勢力を誇っていた筑紫君・磐井(つくしのきみ・いわい)が大和朝廷に対して反乱を起こした。

日本書紀』によると、継体天皇21年(527)6月、新羅に奪われた南加羅(ありしひのから)と、喙己呑(とくことん)を回復しようと、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)が兵6万を率いて任那にむかった。大和朝廷の朝鮮半島政策に不満のあった磐井は西暦527年、九州の北・中部一帯の勢力とともに決起、大和朝廷の朝鮮遠征軍の派遣を妨害した。そこで、その年の8月、天皇は物部麁鹿火(もののべのあらかい)に磐井追討を命じた。

岩戸山古墳から出土した石人−1
岩戸山古墳から出土した石人−1(**)
年の11月、大将軍・物部麁鹿火は磐井と筑紫の三井郡(福岡県小郡市・三井郡付近)で交戦して、これを破り反乱を完全に鎮圧した。12月、磐井の息子の葛子(くずこ)は父に連座されて誅されるのをおそれて糟屋(かすや)の屯倉(福岡県糟屋郡付近)を献上して、死罪を免れることを請うたという。

日本書紀』の記述では、磐井は麁鹿火に斬られたことになっているが、別の伝承もある。『筑紫風土記』では、磐井は麁鹿火の軍を見てその勢力に勝てそうもないことを知り、単身、豊前の国の上膳の県に逃げた。朝廷軍は彼を追い求めたがその跡をうしなった。そこで、兵士たちは憤慨やるかたなく、磐井が築いた寿陵の石人の手をうち折り、石馬の頭を打ちおとしたという。福岡県八女市の岩戸山古墳の周囲から人や馬の形をした石製品が多数出土している。そのため、磐井の墓とされている。

岩戸山古墳から出土した石人−2
岩戸山古墳から出土した石人−2(**)
ずれにしても、1年半にも及んだこの争いは我が国の古代史上最大の戦いである。これほど長期に渡って戦った戦闘の記録はない。したがって、「磐井の反乱」と呼ぶにはその規模が大きすぎ、古代最大の内乱と位置づける歴史学者が多い。ちなみに、継体天皇は物部麁鹿火に将軍の印綬を授けるとき、
「長門より東の方は自分が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行え」
と言ったと伝えられている。


故、筑紫の有力者であった磐井が、ヤマト政権の派兵を阻止する挙に出たのか。その理由を、『日本書紀』は新羅が磐井に賄賂を送り、派兵の妨害を要請したためとしている。その他にもさまざまな説がある。例えば、ヤマト政権が中央政権を強めるために、筑紫を軍事力で屈服させたとする説、ヤマト政権の朝鮮半島進出に筑紫の人民が搾取され、それに耐えかねて人民が反乱したとする説、あるいは、朝鮮半島の利権争いを背景に筑紫がヤマト政権から政治的独立を図ろうとしたとした説、などである。

となっては真相は闇の中だが、挙兵した磐井が肥前・肥後・豊前・豊後の四カ国を制圧するとともに、大和朝廷と半島諸国間の交通路となる海路を封鎖し、これにより近江毛野の軍は半島への渡海を阻まれたのは事実のようだ。継体天皇が物部麁鹿火に将軍の印綬を授けながら語ったとされる言葉は、磐井の挙兵が単なる反乱ではなく内乱であった事実を如実に表している。

井は捕まって物部麁鹿火によって斬られた。あるいは、『筑紫風土記』が伝えるように、戦いに利あらずと知って豊前の国に逃亡した。父と共に戦った葛子は、ヤマト政権に糟屋の屯倉(福岡県糟屋郡付近)を献上して、かろうじて生き延びた。彼が死んで八女古墳群の中に葬られたのであれば、年代的にも鶴見山古墳が彼の奥津城である可能性は高い。武装石人はその可能性を高める史料とされている。

かし、何故一体の武人石造しか出土しないのか、という疑問は残る。『筑紫風土記』が伝えるように、磐井に逃亡された兵士たちが、憤慨やるかたなく、磐井の墓に並べられた石人の手をうち折り、石馬の頭を打ちおとす狼藉を行なった可能性はあり得る。しかし、乱の鎮圧によって筑紫地方を完全に版図に組み入れたヤマト政権は、近畿の墓制を押しつけたに違いなく、葛子の墓に石人を並べることは許されなかったのではないか。

百足塚古墳出土の人形埴輪
武装石人の隣に飾られた百足塚古墳出土の人形埴輪
手な空想が許されるならば、磐井の直系を葬るにあたって、その関係者がヤマト政権に願い出て、岩戸山古墳で破壊された石人の一つを許可を得て鶴見山古墳に配置したのではないだろうか。その場合、関係者が選んだのはもっとも破壊の少ない石人だったはずである。そのように推測すると、この武装石人は、後世に伝えられた磐井の乱の生き証人ということになる。

戸東京博物館の5階に置かれた武装石人は、今を去ること1480年の昔、磐井が己の奥津城と決めた岩戸山の墓の上に立って、全軍に檄と飛ばす姿を間近で見ていたかもしれない。だが、宮崎県新富町の百足塚古墳(むかでづかこふん)から昨年出土した人形埴輪と同じように、石人は見学者に何も語ろうとはしない。



(*)文化庁編「発掘された日本列島2006 新発見考古速報」より
(**) 展示パネルより
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