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| 国技館の塀に沿って掲げられた「発掘された日本列島2006」の案内 (2006/06/20 撮す) |
江戸と東京の歴史と文化を再現した江戸東京博物館
常設展示室は5階と6階にある。メイン・エスカレータで6階まで運ばれた見学者は入口専用の自動改札を通ると、目の前に復元された巨大な「日本橋」を目にすることになる。その橋を渡った先に、江戸城と町割りを復元した「江戸ゾーン」がある。一周してエスカレータで5階に降りても、そこはまだ「江戸ゾーン」で、武士の暮らしや盛り場の様子を再現してある。中央には中村座が復元されていて、ここでは定期的に落語などの催しが開かれるらしい。中村座の背後から「東京ゾーン」になっていて、ここでは文明開化を象徴する鹿鳴館や、関東大震災と東京空襲の遺物、それに昭和30年代の生活が体験できるコーナーなどが配されている。 全体を通して見ると、ユニークな構成の常設展示室と言える。通しで見学すれば、江戸から明治、昭和へと移り変わってきた東京の様子がよく分かるように展示されている。だが、本日の目的は江戸の歴史を勉強に来たのではなく、「新発見考古速報展」にある。この速報展が開かれている第二企画展示室は5階の中央左手にあり、6階から江戸ゾーンを通り抜けてこなければならない。速報展の展示室へ直接アクセスすることはできない。
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第二企画展示室前の通路に置かれた石人像
八女市教育委員会は昨年6月から鶴見山古墳の周辺を調査していた。そして、8月になって前方部前面の周溝の中から、ほぼ完全な形の武装石人一体を発掘した。熊本県阿蘇で採れる軟質の溶結凝灰岩で彫刻された石人は、全長が158cm、両手を広げた格好の最大幅は78cmである。頭には当時流行した衝角付冑(しょうかくつきかぶと)、胴部には短甲(たんこう)、そして下半身部には草摺(くさずり)が、写実的に彫刻されていている。 九州では石人の出土が多い、これまでに150体以上が出土しているそうだ。そのうち武装石人は八女市を含む福岡県筑後地方では4体目である。八女市教育委員会によると、両腕の先端と鼻の部分が欠けているだけで、今回のようにほぼ完全な形で発見された石人は、全国で初めてだろいう。
この石人像は、深さ約1.5mの周溝の底面から約20cmの所から見つかった。その周囲には多数の石材が重なっていたため、当初は別の場所に立てられていたと推測されている。おそらく前方部前面の段丘の上に立てられていたのではなかろうか。そうであれば、被葬者に近づく悪霊の侵入を防ぐ「僻邪」の目的で築かれた武人像だったかもしれない。 鶴見山古墳の発掘調査が完全に終了し、出土した石人はこれ一体だけだったのか、それともまだ調査が終わって居らず今後出土の可能性があるのか、筆者には不明である。近畿を中心に流行した形象埴輪を古墳に立てる風習が、九州では石人に変えられたという説がある。そうであれば、一つの古墳から複数の石人が見つかって然るべきだが、一体だけしか出土しなかったとなると、その意味が問われなければならない。
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武装石人は、後世に伝えられた磐井の乱の生き証人(?)
『日本書紀』によると、継体天皇21年(527)6月、新羅に奪われた南加羅(ありしひのから)と、喙己呑(とくことん)を回復しようと、近江毛野臣(おうみのけなのおみ)が兵6万を率いて任那にむかった。大和朝廷の朝鮮半島政策に不満のあった磐井は西暦527年、九州の北・中部一帯の勢力とともに決起、大和朝廷の朝鮮遠征軍の派遣を妨害した。そこで、その年の8月、天皇は物部麁鹿火(もののべのあらかい)に磐井追討を命じた。
『日本書紀』の記述では、磐井は麁鹿火に斬られたことになっているが、別の伝承もある。『筑紫風土記』では、磐井は麁鹿火の軍を見てその勢力に勝てそうもないことを知り、単身、豊前の国の上膳の県に逃げた。朝廷軍は彼を追い求めたがその跡をうしなった。そこで、兵士たちは憤慨やるかたなく、磐井が築いた寿陵の石人の手をうち折り、石馬の頭を打ちおとしたという。福岡県八女市の岩戸山古墳の周囲から人や馬の形をした石製品が多数出土している。そのため、磐井の墓とされている。
「長門より東の方は自分が治めよう。筑紫より西はお前が統治し、賞罰も思いのままに行え」 と言ったと伝えられている。 何故、筑紫の有力者であった磐井が、ヤマト政権の派兵を阻止する挙に出たのか。その理由を、『日本書紀』は新羅が磐井に賄賂を送り、派兵の妨害を要請したためとしている。その他にもさまざまな説がある。例えば、ヤマト政権が中央政権を強めるために、筑紫を軍事力で屈服させたとする説、ヤマト政権の朝鮮半島進出に筑紫の人民が搾取され、それに耐えかねて人民が反乱したとする説、あるいは、朝鮮半島の利権争いを背景に筑紫がヤマト政権から政治的独立を図ろうとしたとした説、などである。 今となっては真相は闇の中だが、挙兵した磐井が肥前・肥後・豊前・豊後の四カ国を制圧するとともに、大和朝廷と半島諸国間の交通路となる海路を封鎖し、これにより近江毛野の軍は半島への渡海を阻まれたのは事実のようだ。継体天皇が物部麁鹿火に将軍の印綬を授けながら語ったとされる言葉は、磐井の挙兵が単なる反乱ではなく内乱であった事実を如実に表している。 磐井は捕まって物部麁鹿火によって斬られた。あるいは、『筑紫風土記』が伝えるように、戦いに利あらずと知って豊前の国に逃亡した。父と共に戦った葛子は、ヤマト政権に糟屋の屯倉(福岡県糟屋郡付近)を献上して、かろうじて生き延びた。彼が死んで八女古墳群の中に葬られたのであれば、年代的にも鶴見山古墳が彼の奥津城である可能性は高い。武装石人はその可能性を高める史料とされている。 しかし、何故一体の武人石造しか出土しないのか、という疑問は残る。『筑紫風土記』が伝えるように、磐井に逃亡された兵士たちが、憤慨やるかたなく、磐井の墓に並べられた石人の手をうち折り、石馬の頭を打ちおとす狼藉を行なった可能性はあり得る。しかし、乱の鎮圧によって筑紫地方を完全に版図に組み入れたヤマト政権は、近畿の墓制を押しつけたに違いなく、葛子の墓に石人を並べることは許されなかったのではないか。
江戸東京博物館の5階に置かれた武装石人は、今を去ること1480年の昔、磐井が己の奥津城と決めた岩戸山の墓の上に立って、全軍に檄と飛ばす姿を間近で見ていたかもしれない。だが、宮崎県新富町の百足塚古墳(むかでづかこふん)から昨年出土した人形埴輪と同じように、石人は見学者に何も語ろうとはしない。 |