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| 大阪福井県人会「遊々会」の出前講座クラブが主催した講演会の会場 (2006/06/09 撮影) |
「紙」の歴史を遡る和紙の歴史を調べようとインターネットで検索していたら、格好のHPが見つかった。佐野晃夫氏作成の個人的な研究論文和紙の歴史である。この研究論文で和紙の歴史はほぼ語り尽くされているといって良い。氏の研究を参考にしながら、紙の歴史を自分なりに整理してみると、次のようになる。 「紙」の発明以前の書写材料
ちなみに、「紙」という字の「糸」偏は、生糸を併せて一本に撚った形を意味し、旁(つくり)の「氏」は砥のことで、砥石のように平らなことを意味しているという。つまり、「紙」は本来、絹糸で作った布製の、砥石の表面のように滑らかな書写材料を表す言葉だった。なお、蔡倫は製紙法の発明者と言われていたが、前漢代の遺跡から紙が発見されており、最近では蔡倫を紙の改良者と見る説が多い。 古代中国では、絹を作るときに派生する質の悪い繭から、絮(じょ)という絹綿をとりだし防寒用に利用していた。この絮を作るには、絹の繊維くずを竹筐(たけかご)の中で水につけながら、竹竿で叩いて晒して作った。この時に、簀(す)の上に微細な繊維が薄い膜状に残り、それを乾燥させると、薄いシートになる。漢代には、これを「紙」と呼んで書写材料として利用したわけである。しかし、クズ繭とはいえ高価な原料だったため大量に作ることは不可能であった。そのため、当時は書写材料」して竹簡や木簡が主に用いられ、筆墨で文字が記録された。 古代の西方世界では、当初、書写材として粘土板が用いられた。湿った粘土板に、葦の茎で楔形の文字を刻みつけた。乾燥すると極めて固くなり、保存性に優れていた。しかし、粘土板は重く嵩張るため、保管には苦労したと思われる。やがて、古代エジプトで、水草のパピルスの根に近い部分の髄を取り出して加工した書写材料が発明されて、広く用いられるようになった。英語で紙のことをpaperというが、その語源はパピルスにある。パピルスの製造と流通は、エジプト王朝の管理下に置かれ、書写材料のパピルスの製法は秘密にされていたという。まさに国家の戦略物資としての地位を占めていたわけである。 そこで、アナトリアのペルガモン王朝(現トルコ領)のエウメネス2世は、エジプトのパピルスに対抗してパピルスよりも優れた書写材料の開発を命じた。そして、開発されたのが羊皮紙 (parchment)である。羊などの獣皮を水洗して一昼夜浸し、次に石灰水に二週間つけ、毛と表皮をそぎ落とし、再び石灰水につけて、枠に張って干し滑らかにする。こうして作られた羊皮紙は、パピルスよりもはるかに書きやすく、強靱であったが、ただ高価だった。 インドでは古くから、ターラという樹の葉を書写材料に用いていた。ターラとは、パルミランヤシやコリハヤシの若い扇子状の葉を、幅7〜8cm、長さ60cmほどの長方形に整え、束ねて乾燥させたものである。乾燥したターラに、墨壺と糸を用いて五本の線を付け、先のとがった筆で葉の両面に文字を彫りつける。そこに油に煤(すす)を混ぜたインキを流し込み、熱した砂でふき取ると、文字の部分だけが黒く染まった。 和紙の製造技術の普及上記のように、後漢の時代に蔡倫は、安価で量産できる今日的な紙の製法を105年に発明したが、当初は紙は国家的な戦略物資として製法は秘密にされ、商品としてのみ輸出された。紙の製法が我が国に伝えられたのは、蔡倫の発明から500年後の610年である。この年、高句麗僧の曇徴(どんちょう)が来朝し、紙の製法を伝えた。彼は紙の製法だけでなく、絵の具や墨の製法もあわせて伝えている。 だが、西方世界への伝搬はさらに遅く西暦751年になってからである。この年、唐軍とサラセン軍が戦い、唐軍の捕虜がサラセン軍に連行され、その捕虜がサラセンに製紙を伝えたと推測されている。サラセン帝国はシルクロードの要衝サマルカンドに製紙工場を建設した。このダマスカスで漉かれた紙は品質が良く、地理的条件からもヨーロッパへ輸出された。製品ではなく製法がヨーロッパに伝わったのはずいぶん遅い。ヨーロッパで最初に紙が漉かれるのは、スペインのサティバで1150年頃とされている。
中国や朝鮮半島からもたらされた仏典や漢籍に慣れ親しんだ聖徳太子は、紙の利便性を十分に承知していたはずである。仏教の普及のために一日も早く国産で紙を作らせたい。しかし、青年たちが製紙技術を習得したとしても、良い紙を漉くには良い原料の生産地と良い水の確保が条件となる。ただちに、全国に向けて、良い原料と水が確保できる地域の調査を命じたであろう。こうして、ヤマト朝廷直轄の製紙集団が作られ、朝廷の管理のもとで、特定地域で紙の生産が開始されたことは想像に難くない。 紙漉きの技術の伝来から100年ほど経過した頃、本格的な紙の国産化が始まった。最も古く漉かれた紙は、麻紙(まし)で、大麻や苧麻の繊維を原料とした紙だった。麻は繊維が強靱なので多くは麻布を細かく刻んで煮沸するか織布を臼ですりつぶしてから漉いた。しかし麻紙は取り扱いが難しく、次第にコウゾ(楮)を原料とする穀紙(こくし)に取って代わられた。コウゾは繊維が長いため丈夫な紙を作ることができ、穀紙は写経用紙や官庁の記録用紙として、染色されずにそのまま用いられた。奈良時代の『正倉院文書』の神亀4年(727)の写経料紙帳には、麻紙、穀紙、染紙が使用されたとある。
奈良時代は、遣唐使が多量の漢籍や仏典を唐からもたらした。これらを写経して諸国に配布して、仏教の流布を行うため国分寺.国分尼寺が建立された。天平11年(739)頃には、写経司という役所が設けられ、大々的に写経事業の推進された。このため、紙の需要がさらに拡大していった。『図書寮解』の宝亀5年(774)の記録によると、紙の産地として、美作、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上総、武蔵、美濃、信濃、上野、下野、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江の19カ国に及んでいる。 平安時代に入ると、山城国の紙戸が廃され、大同年間(805〜809)に紙屋院(しおくいん)という官立の製紙工場が作られ、日本固有の製紙法である「流し漉き」の技術が確立された。 「流し漉き」とは、紙を漉く時に、揺すりながら紙の層を形成する方法で、中国の静置して脱水する「留め漉き」と異なり、「ネリ」と呼ばれる植物の粘性物質を使用する事に特徴がある。 ネリを加えることにより、水の粘性があがり、簀(す)の子からの脱水がゆるやかになり、繊維が簀の子の上に均一に並び、薄い紙を漉くことが出来る。また、簀の子へのくみ取りが数回に渡ってもうまく層が重なり合い、厚みも自在に調節できる。「流し漉き」はまさに製紙の画期的な技術革新であり、この時期に名実ともに和紙の誕生したといって良い。 平安時代は紙の需要が急速に拡大した時代であった。これらの需要に対応するため、「図書寮」と直属の「紙屋院」が造紙技術の中心となって、各地の紙漉きを奨励育成して四十四カ国に及び、紙を生産しない国は数カ国に過ぎなくなったという。この時代は、漢字を使用する男性はコウゾの穀紙、かな文字を使う女性は檀紙(だんし)を使用したという。また、この頃は雁皮(ガンピ)を原料とした斐紙(ひし)が重宝された。雁皮は日本独特の製紙原料で、和紙特有の流し漉きによる高度な技術により、特に薄様に特徴がある。男性がおもに懐紙として厚肥えたコウゾの檀紙を愛用したのに対し、女性は薄様の斐紙を愛用した。斐紙はのちに鳥の子と称されるようになった行く。 鎌倉幕府が成立すると、それまでのきらびやかで消費的であった王朝文化から、粗野ながらも質実剛健な武家社会が台頭した。紙の消費層も、公家・僧侶から武家・土豪に広がり、実用的な丈夫な紙が求められ、主に播磨の杉原紙や美濃紙などが流通するようになった。 越前和紙の発展越前和紙の発祥については、さまざまな伝承が残されている。たとえば、男大迹皇子(おおとのみこ、後の継体天皇)の第二妃で近江国三尾氏の娘・稚子姫がこの地にとどまり、製紙を奨励されたという説がある。紙を発明した蔡倫の技術を心得た渡来人か、あるいはもっと技術の進んだ曇微紙に近いような紙漉き技術に優れた者がこの五箇の地に来て、紙漉の技術を教えたという渡来人教授説がある。
伝説の大意は次の通りである。継体天皇が即位する前に越前にいた頃、岡太(おかもと)川上流の水清らかな宮ヶ谷に一人の女神が乙女の姿で現れて、こう言った。 男大迹皇子(おおとのみこ)が継体天皇として即位したのは西暦507年とされている。この伝承がなんらかの事実を伝えているとすれば、今から1500年も昔の話であり、曇徴が紙の製法を伝えた時期より100年も遡る。おそらくは、越前出身の継体天皇に付会して作られた伝承だろうと思われる。だが、古代、越の国は朝鮮半島の高句麗使節が来朝するのに利用した表玄関である。曇徴以前に紙の製法が伝わっていても不思議ではない。 上に述べたように、奈良時代の天平9年(737)頃には、越の国で紙が漉かれていたことは、『正倉院文書』によって確認されている。その場所が現在の越前和紙の里とされる五箇付近だったかどうかを示す資料は、残念ながら見つかっていない。
江戸時代に入ると、『雍州府志』(ようしゅうふし、1684)には、「およそ 加賀奉書 越前鳥の子、是を以て紙の最となす」とあり、『和漢三才図絵』(1712年頃出版)には、越前府中の鳥の子は、「紙肌滑らかにして書きやすく、性堅くして久しきに耐え、紙王というべきか」とある。 近世には「薄様」の名も消えて、雁皮紙をすべて鳥の子と呼ぶようになる。鳥の子の名前は、紙の色が鳥の卵のようであることに由来するという。鳥の子紙は、主に詠草料紙や写経料紙に用いられ、時には公文書にも使用された。特に表面がなめらかで艶があり、耐久性に優れた美しいであるため、上流階級の永久保存用の冊子を作るのに好んで用いられた。 江戸時代には、透かし紋様紙、漉き込み紋様紙(抜き紋様)、置き紋様紙(漉き掛け)あるいは皺紋加工などの技術が工夫されている。これらの地紙の技法と装飾加工を組み合わせたものが、いわゆる越前美術紙であり、漉き模様ふすま紙という。越前では、早くから大判の間似合紙を作っていた。間似合紙とは、襖障子の幅に間に合うという意から名付けられたもので、幅三尺二寸、であった。長さは時代により異なり、襖に対して八段貼り、六段貼りと徐々に大きくなり、明治十六年頃で四段貼りで、一尺六寸であった。 明治時代なると、長い伝統に誇りを持つ越前でも一枚貼りの大判のふすま紙の開発に関心が高まり、明治18年に新在家の高野製紙場で、手漉襖張大紙を漉くことに成功している。高野製紙場では、勧業博覧会などにも積極的に出品して、技術改良にも熱心に取り組み、明治40年、抄紙機で襖紙の製造を開始し、明治42年には、二重・三重の漉き掛けをこなす抄紙機も開発している。越前での大判の襖紙の製造が増えるにつれて、皺紋加工や漉き模様加工の技術が改良され、襖紙の有数の産地となっていく。 明治30年(1897)ころには襖判鳥の子紙に、墨流し加工して好評を得て、輸出までしている。さらに明治43年(1910)には、ロンドンで開催された日英博覧会には、水玉紙・雲華紙・漉込紙等が出品されて高い評価を受けたという。 越前美術紙には、伝統的な打雲などの雲掛け、皺紋入れ、漉き込み、漉き掛け、漉き合わせ、揉み、楮黒皮入れ、金銀線入れ、布目入れ、落水と水流しなど複雑で多様な技法が巧みに利用されている。 このような伝統と巧みな技術開発により、襖紙産地としての名声を高め、太平洋戦争後の復興需要で、生産量が飛躍的に拡大し、機械抄紙機の普及にともなって、現在に至るまで襖紙の主流を占めている。 岩野市兵衛氏が漉き上げる越前生漉(きずき)奉書越越前和紙の主な原料は、上に示したコウゾ(楮)、ミツマタ(三椏)、ガンぴ(雁皮)などだ。さらに、漉く段階でネリとしてノリウツギやトロロアオイが追加される。漉く紙の種類に応じて、これらの原料から適したものが選ばれるが、混ぜて使用することもあるという。 越前和紙の生産工程は実に多いが、大別すると、煮沸(しゃふつ)、叩解(こうかい)、抄紙(しょうし)に分けることができる。煮沸は、原料の繊維質を取り出しやすくするため原料を加熱する工程であり、@原料の水漬けと洗い → A原料を草木灰などで煮る → B煮た皮の灰汁出し → C塵取り・晒し、の4工程に細分される。叩解は、煮沸工程を経た原料の繊維質をたたいて分解する工程をいう。 抄紙は、分解された繊維質をもとに紙を漉く工程で、「流し漉き」と「溜め漉き」という2つの手法がある。漉いた紙は、さらに圧搾して水分を取り去り乾かし、選別、ドーサ、艶出し、断裁、包装といった作業を経て仕上げられる。これらの工程を忠実かつ丁寧に行うことで、和紙本来の美しく滑らかな紙を作ることができる。
大滝の岩野家は初代から300年にわたって越前生漉奉書の製造技法をかたくなに守り続けてきた家系である。現在の九代目・岩野市兵衛氏はその技術保持者として、国によって重要無形文化財(人間国宝)に指定されている。ちなみに、父親の先代岩野市兵衛氏も、昭和43年(1968)に人間国宝に認定された。父子二代にわたっての人間国宝は珍しい。先代の岩野氏が漉いた紙は、ピカソも愛用していたことで有名である。 |
なつかしい方言で、原稿なしに話す人間国宝の魅力越前和紙の里には、3人の無形文化財保持者がいる。3代目の岩野平三郎氏(県指定無形文化財保持者)は、古来の「打雲(うちぐも)・飛雲(とびくも)・水玉」といった技法を伝承するとともに、初代平三郎の開発した「雲肌麻紙」など日本画家たちの信頼あつい紙を漉いている。同時に、50人の従業員を抱える日本最大の和紙製紙所の経営者でもある。 同じく県指定無形文化財に認定されている福田忠雄氏は、平安時代以来の「墨流(すみなが)し」と呼ばれる美術工芸紙を漉く技法を一子相伝で伝えている。
本日の午後1時、その岩野市兵衛氏が大阪市中央公会堂の地下一階にある大会議室の演壇に立たれた。お目にかかったのは今回が初めてだが、その血色の良い顔と精悍な面持ちは、スポーツ選手と見間違うばかりだった。遠目からは、岩野氏の風貌がかっての名脇役俳優だった笠智衆を少し太らせたような印象を受けたが、語り口は笠智衆のようにオットリしていない。むしろ野太い早口の職人の声である。 司会者は冒頭で、”人間国宝”とか”岩野先生”と呼ぶのは止めて欲しいと岩野氏から依頼されたことを明らかにした。ご自分は「越前に生まれた単なる紙漉き職人にすぎず、紙漉き関して死ぬまで一年生」と自覚しておられるとのことだ。本日の演題は”生活と密着した紙すき文化と越前和紙の魅力”となっているが、岩野氏自身は「自分は職人であるため、上手に話すことはできないので、与えられた2時間を思いつきのまま自由に話させていただきたい」と前置きされた。そして、原稿もなしに、ときおり懐かしい福井弁を交えながら講演された。 本人は謙遜しておられるが、並みの講演者よりも聴衆の心をつかむのがはるかにうまい。所々で興味あるエピソードを交えて聴衆の笑いを誘い、2時間の講演時間があっという間に過ぎ去った。話の内容は、家内産業としての生漉奉書製作に打ち込んできた半生の苦労話と、生漉奉書の伝統を守り続ける職人としてのこだわりが中心だった。しかし、話の合間に「越前和紙の里」にあるパピルス館や紙の文化博物館、卯立(うだつ)の工芸館の話題も紹介もされ、さりげなく地元の宣伝をしておられた。どうしてどうして、なかなかの話上手とお見受けした。以下に、筆者の関心を引いたエピソードのいくつかを紹介しておこう。 ■300年の間、守り続けた生漉奉書の製作技法 初代の市兵衛は今から300年ほど前に岩野平三郎家から分家して 現在の岩野家を起こされた。そしてコウゾだけを原料とする生漉奉書の製作に従事し、その技法を一子相伝で伝えられた。現在の市兵衛氏は9代目にあたる。本人は小刀研ぎが得意で、将来は版画家になることを夢見ておられたようだが、16歳のとき家業の手漉き和紙の道に入られた。以来56年、古来の技法を守って現在も生漉奉書を漉いておられる。300年にわたって引き継がれてきた伝統製造技術を守っていくことは、並み大抵の努力ではあるまい。 最近は技術革新の世の中である。製紙技術についても、さまざまな新しい技法や便利な機械が考案されてきている。しかし、岩野家は和紙製作本来の技法を後世に残さなければならない、とする強烈な先祖伝来の遺志を受け継いでおられる。九代目が漉く生漉奉書も、薬品や機械を一切使わず、古来の技法そのままの手作業工程で作られている。司会者の言葉を借りれば、”無農薬野菜”のような和紙を製造しておられると言い換えてもよい。岩野氏に古武士のような一種の風格を感じ取ったのは、そうした家柄に生まれ育って伝統を引き継いで来られたためだろう。幸い、息子の順市さんが後継者として一緒に仕事をしておられるとのことだ。 ■原料や工程に対するこだわり
和紙の原料となる部分は、コウゾの外皮の下にある柔らかな部分でこれを靭皮(じんぴ)という。岩野氏はこの靭皮が色が白いことから白皮(はくひ)と表現された。岩野氏が漉かれる越前生漉奉書は、原料としてコウゾ以外のものは一切使用しておらず、文字通りコウゾ100%を原料とした製品である。しかも、コウゾであれば何処のものでもよいという訳ではない。岩野氏は茨城産のナスコウゾしか使われないとのことだ。コウゾの産地としては土佐が有名だが、岩野氏はナスコウゾにこだわられる。 その訳は「仕事がしやすいからだ」とイタズラっぽく説明された。土佐コウゾの繊維は長さが不揃いだが、ナスコウゾは繊維がほぼ1cmほどに平均している。このため、後工程の作業がやりやすいというのが理由らしい。しかし、ナスコウゾにたどり着くまでに、先祖代々さまざまなコウゾを試されてきたのであろう。詳しい説明は避けられたが、岩野氏の一見人を食ったような説明の裏には、きっと代々積み重ねて来た山のような苦労話があるものと推察した。
煮沸するにもソーダ水または草木灰を使用される。苛性ソーダなどの薬品を使えば時間を短縮でき、チリも大半消えてくれるので経済的である。しかし、できあがった製品は感心したものにならないとのことだ。叩解(こうかい)の工程でも、最近は年を取ったため部分的に機械に頼ることがあるそうだが、大部分はケヤキの板で手でたたいて繊維を分解しているという。さらに、手漉きの前段階でもどろどろになったコウゾの繊維を水流に晒して澱粉質を徹底して洗い出してしまうとのことだ。澱粉質が残っていれば、虫に食われてぼろぼろになってしまう。それを防ぐための措置である。 岩野氏は淡々と、ご自分でこなしておられる工程を説明されるが、それぞれの工程に伝統工芸家としてのこだわりを感じさせた。原料といい製造工程といい、科学万能の時代の潮流に逆らって、紙漉きの原点ともいうべき技能を後世に伝えるためには、そういったこだわりが要求されるのだろう。あらためて和紙の世界の奥深さを知らされた。 ■「習うより慣れろ」「職人は死ぬまで一年生」 講演の中で一番印象深かったのは、両親が岩野氏に語った言葉だ。八代目の岩野氏は決して厳しい師匠ではなかったそうだ。和紙製造技術の習得は、教えて体得できるものではない。習うより慣れろの諺のごとく、耳学問ではなく体で覚える以外に方法はない。伝統を引き継ぐというのは、そういうことかもしれない。母親からも職人は「死ぬまで一年生」と、事あるごとに諭されたそうだ。「名人」と人から呼ばれるようになっても、母の言葉は胸に残っているという。何事にもそうした謙虚さがあって初めて物事の奥を極めることができるのであろう。筆者などにとっては、耳に痛い言葉である。 ■水が岩野の和紙を作ってくれる 途中の休憩を挟んで後半の講義で、岩野氏はまず、越前和紙が現在まで生き延びてこれたのは水のおかげであることを指摘された。岩野氏が漉く和紙は薬品も漂白剤も使わない。その白さは、水で晒すことで得ている。水で丹念に洗うことでコウゾの白さを引き出すことができる。もう一つの紙の柔らかさにも、水の水質が大きく影響する。紙の発色性を良くし、柔らかさを保つには、中性の軟水が必要であるとのことだ。 岩野氏はこうした紙漉きによい水を簡単に見分けることができるという。蛍が生育している川の水は、中性の軟水で製紙に向いている。反対に水がいかにきれいでも、金魚草が生えている川の水は製紙には向かないらしい。越前和紙の里の大滝村を流れ下ってくる谷川の水や地下からくみ上げる水は、和紙作りに最適の水だそうだ。和紙の生産で水の性質がいかに重要かを示すために、岩野氏は、「私が漉く和紙を作っているのは私ではない、水が岩野の和紙を作ってくれている」とまで表現された。 昔と違って、現代生活では一般の人々が和紙を使う機会はほとんどない。明治時代には7万軒あった和紙製造業者が現在は300軒程度に減っている。そのうち、越前和紙の里で手漉き和紙を専業としている家は50軒、手漉きと機械漉きを併用している家が4軒、和紙の加工に従事している家が20数件で、合計80軒。その従業人口は770人程度であるが、全国の和紙生産の半分は越前和紙の里で占められているとのことだ。 岩野家のように伝統の技法を守って生漉和紙を生産していた家は、昭和17〜18年頃には越前和紙の里に4軒あった。それが戦後は2軒に減り、そのうち生漉奉書だけを漉いている家は岩野家だけになってしまったという。和紙そのものの需要が極端に少なくなった現在、生漉和紙の需要はさらに厳しい。主な用途は版画などの用紙程度とのことだ。そう話す岩野氏の顔に心なしか寂しさが漂う。 しかし、和紙に対するこだわりを岩野氏は誇らしげに話しておられたのが印象的だった。ある絵画展示会での出来事は、そうした岩野氏の一面を語るエピソードの一つとして紹介しておこう。その展示会で平野氏は97cmx67cmの額入りの版画の五連作品に遭遇され、版画の図柄よりもその用紙の漉き上がりのすばらしさに驚かれたそうだ。これほどすばらしい出来の和紙には滅多にお目にかかれるものではない。何処で誰が漉いた和紙か版画家に直接聞いてみようと一枚一枚丹念に見て行ったら、最後の版画の下隅に名刺大の紙が張ってあり、そこに画題と使用用紙の制作者が表示してあった。なんと用紙の制作者の欄に書かれていたのは自分の名前だったので、二度驚かれたとのことだ。 こんな話もされた。良い和紙を作るには普段から和紙を絶えず研究する必要がある。そうした習性が昂じて、岩野氏は初対面の人と名刺交換すると、つい透かして見たくなるそうだ。職業がら何の紙で作られた名刺なのか、つい気になるらしい。したがって、全国の和紙は一目見ただけで、どこで漉かれたものかほぼ判別できるそうだ。ある講演会の後の親睦会で、参加者の夫人が示された紙の産地はおろか、その制作者まで言い当てた話をされた。もっともそれには種があり、その裏話も付け加えられた。 時代は時ととも移り変わる。長年受け継がれてきた文化も時代に応じて変わっていく。だが、時代の流れに棹(さお)さして伝統を守り続けることは、それだけでも価値のあることである。岩野家に伝わる生漉和紙の製作技能は、やがて息子さんに引き継がれ、さらにお孫さんへと受け継がれていくであろう。その頃には生漉和紙に対する新しい需要が生まれていることを祈りたい。 |