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| 万葉文化館の庭の一画に復元されている飛鳥池遺跡 |
5〜6世紀、手工業工房はトモ系有力豪族の本拠地に分散されていた大阪府立近つ飛鳥博物館の館長である白石太一郎氏は、今回の春季特別展の開催にあたり、その図録の冒頭を飾る「国家工房の成立 −首長工房から官営工房へ−」と題する一文を寄せている。
ただし、これら各種の宮廷工房は必ずしも特定の大王の宮に固定されて存在したわけではない。ヤマト王権が基盤とする大和や河内で、伴造またはトモの勢力の本拠地に分散していた。 たたとえば、奈良県橿原市曽我町にある曽我遺跡は、古墳時代の畿内を代表する玉作り工房跡である。この地では、5世紀後半から6世紀前半にかけて、勾玉、管玉、丸玉、小玉、たつめ玉、切子玉など様々な玉製品が生産された。発掘で出土した玉類の完成品と未完成品の数は約80万点に及んだという。これらの玉類の原材料の滑石や碧玉、緑色凝灰岩、琥珀、水晶等の原石はほとんどが、大和以外の地域から持ち込まれたものである。そして、この玉作り工房を管掌したのは、ヤマト王権の中で祭祀を司った忌部(いんべ)氏とされている。
4世紀末から大規模な生産が開始された須恵器(すえき)の生産拠点として、大阪府の泉北丘陵一帯に展開する陶邑(すえむら)窯跡群を挙げなければならない。ここには、現在確認されているだけでも854基の窯が知られている。須恵器の生産技術は韓半島からの渡来人によって伝えられたが、須恵器は祭器としての性格を持ち、その生産に関与したのは神まつりを担当する三輪氏だったとされている。 白石氏は、ヤマト王権が基盤とする大和・河内で分散的に行われていた手工業生産のあり方におおきな転換をもたらしたのは、飛鳥寺に始まる大規模寺院の造営事業だった、とされる。 |
明らかにされた飛鳥池遺跡と、その上に建つ万葉文化館
平成9年(1997)から平成13年(2001)にかけて、飛鳥寺の東南の地で発掘調査が実施された。現在の万葉文化館建設に伴う周辺調査である。その結果、金・銀・銅・鉄・ガラス・玉・漆・瓦など各業種に別れて生産を行なうコンビナートのような大規模な複合工房が存在したことが明らかになった。
工房跡は谷の斜面を大々的に削ってひな壇状に整地し、その際に出た土で谷間を埋めるなど大規模な造成が行われていた。この谷の一番奥は、その後に発掘された酒船石遺跡の亀形石槽が築かれており、谷の出口はかっての飛鳥寺の敷地に隣接していた。 丘陵斜面から谷間に堆積した土を取り除いていったら、さまざまな遺構が出土した。主な遺構の時期は、最上層のものが平安時代、中間層のものが7世紀中頃から8世紀初頭のもの、そして、最下層のものが古墳時代後期の工房跡であるという。最下層の工房跡は、おそらく飛鳥寺造営に関係した遺跡であろう。7世紀中頃から8世紀初頭の工房跡は、飛鳥京から藤原京の造営に関係したものと想定されている。
発掘調査によって、飛鳥池遺跡の工房は、当初は飛鳥寺造営のための工房として作られたが、その後は7世紀後半には飛鳥京や藤原京造営のために営まれた、大規模かつ多様な業種にわたる作業場であったことが明らかになった。まして、我が国最古の銅銭の鋳造地である。当然のことながら、万葉文化館の建設計画を中止し、遺跡を全面保存する要望が明日香村の内外から起きた。
その日、同遺跡の全面保存と活用などを求める明日香村民の会のメンバーは、工事現場付近で「飛鳥池遺跡を壊すような建設はやめよ」などの横断幕を掲げて抗議の声を上げたという。だが、そうした抗議の声を無視するかのように、同ミュージアムの展示棟予定地の中心部あたりに最初の基礎杭が打ち込まれた。 「飛鳥池遺跡を考える会」は、8月から開始した署名運動で、県内はもとより全国各地から4655人分の署名を集めた。すでに工事の着工が開始がされていた10月18日、署名簿は奈良県知事に提出された。同会では今後も署名活動などを継続し、要求貫徹の運動を粘り強く展開していくことを表明した。しかし、結局は遺跡の一部を保存することを県側が飲んだだけで、建設工事は進められ、平成13年(2003)9月15日、現在の万葉文化館が完成した。 万葉文化館の建設に先立って飛鳥池遺跡は埋め戻された。だが、埋め戻しのやり方が遺跡保存の方法として適切だったか疑問である。遺跡の再調査の必要が生じてもそれが可能なように埋め戻されたのではないようだ。近隣の住民の話では、建物の基礎固めにかなり分厚いコンクリートが流し込まれたとのこと。遺跡が再び地上に掘り起こされることはあるまい。飛鳥池遺跡は現在4mの地下に封印され、その上に万葉文化館の渡り廊下でつながれた展示棟と研究棟が建っている。 工房跡を発掘したときの状態で忠実に再現したレプリカが中庭に配置されているので、中庭に降りれば、すぐ近くで発掘時の様子を実感できるという。また、庭を下って行くと、石敷き井戸跡など北側の遺跡が再現されているという。だが、そこで目にするのは発掘された飛鳥池遺跡そのものではない。また、発掘当時の周囲の景観も大きく作り替えられてしまった。
寺院の礎石を見れば、実際にその上に聳えていた伽藍が明確に眼前に浮かび上がってくる。亀石を見れば、苦労してここまで運搬してきた古代人たちが交わしていたであろう会話が、飛鳥川の川風に乗って実際に聞こえてくる。こうした疑似体験をすることで、精神的にリフレッシュされ、それが明日の活力となっていくのである。遺跡保存の原点はそんなところにあるような気がする。明日香は心の目で見る観光地である、と言われるゆえんである。 観光客を誘致するためにテーマパークもどきの施設を作り上げることなど、本当に飛鳥を愛する人たちは望みもしなかった。万葉文化館がオープンしてまもなく3年になろうとしている。オープン当時は物珍しさの手伝ってある程度の集客力もあっただろう。だが、最近は平日に訪れてもだだっ広い駐車場は閑古鳥が鳴いている。文化館の前や北側の庭園へ降りて、往時の飛鳥池工房を心に中に描こうとしても、無様な建物の存在が、イメージを結実させてくれない。 文化庁や奈良県はなんとも無用な長物を作ってくれたものだ。 |
飛鳥寺が造営された頃、我が国でもっとも活気があった真神原
上の写真に示すように、前方の飛鳥集落の向こうで天香具山が北方を遮り、左手前方にせり出した甘樫丘は西の視界を遮っている。その狭い空間を稲田がゆっくりと傾斜しながら足下から北へ続いている。そして飛鳥川が南東から北西に向かって稲田の中を流れている。 6世紀の中頃、この付近は真神原と呼ばれるオオカミが出没する原野だった。その頃も飛鳥川はほぼ現在と同じ河道で流れていたであろう。そして川沿いや東の山際には何軒かの住宅で形作られた集落が点在していたはずである。雄略天皇の時代に渡来してきた陶部(すえべ)や鞍部(くらべ)、錦織部(にしごりべ)、衣縫部(きぬぬいべ)の人々がこの地に定住させられていた。 当時、現在の飛鳥寺がある付近から西の飛鳥川河畔にかけてはケヤキの林があった。その林のはずれに飛鳥衣縫部(あすかきぬぬいべ)の樹葉(このは)の家があったことが知られている。西暦588年のある日のこと、樹葉の家が突然立ち退きを命じられた。その前年の7月、政敵・物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼして、名実ともにヤマト朝廷の最高権力を掌握した蘇我馬子(そがのうまこ)は、長年の夢だった仏教寺院を真神原の中央に建立することを決意した。樹葉の家はその建設予定地に引っかかったための撤去である。 明日香村の飛鳥集落のはずれに、現在小さなお寺がある。飛鳥寺安居院という。飛鳥大仏を安置する本堂と小さな鐘楼だけが主な建造物である。だが、今からおよそ1400年前、この地に大豪族・蘇我氏の氏寺として日本最初の本格寺院が建立された。当時の山号は、仏法興隆の願いを込めて「法興寺」と命名された。飛鳥寺とは土地の名前ととった通称である。 1955年5月から1957年まで続けられた発掘調査によって、創建時の飛鳥寺の驚くべき事実が明らかになった。まず、飛鳥寺の寺域は東西約200m、南北約300mとまことに広大であった。その境内に、塔、金堂、回廊、中門、南門、講堂など伽藍の中枢部が建っていた。それ以外にも、鐘楼や経蔵、僧侶が生活するための設備などがあったと推察されている。
樹葉の家を取り壊した後の整地作業には、蘇我本宗家の住民はもちろん、多くの枝氏の住民が使役されたであろう。土木工事を指揮したのは、檜隈(ひのくま)付近に盤踞していた渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)の工人たちだったに違いない。彼らが指揮したのは、寺域の整地だけではない。飛鳥川の近くに巨大なため池も掘られたはずである。やがて近くの山々から切り出されてくる柱などの用材は、飛鳥川の水流を利用してこのため池に運び込まれる。一年ほど水に浸して樹液を抜いて芯から乾燥させなければ、建築資材としては使用できない。 蘇我馬子の命令を受けて、これらの工事を監督・指導した人物がいたはずである。筆者はその人物がひそかに東漢直駒(やまとのあやのあたい・こま)ではなかったかと疑っている。彼は古代の渡来系大豪族・東漢氏を束ねる若き族長だった。蘇我馬子の信任も厚く、常に護衛隊長として馬子に近侍していた。4年後の西暦592年11月3日、馬子の密命を受けて崇峻天皇(すしゅんてんのう)暗殺を実行したのも、この人物である。
橘寺の石垣に寄りかかりながら、飛鳥寺建立の準備作業を想像すると、眼前の稲田は上記のような喧噪とした工事現場に変わる。多くの工人たちが傾斜地をならすために掘削し、あるいはため池を掘り、その土を北の低地へ運んで寺域の平準化を進めている。監督官の怒声が飛び交い、時には空を切る鞭の音まで、飛鳥川の川風に乗って聞こえてきそうだ。 その年、朝鮮半島の百済は、恩率首信(おんそち・すしん)を大使とする朝貢使節団を送ってきた。今回の使節団は例年とは違って、何人もの僧侶と共に、寺工の太良未太(だらみだ)、文賈古子(もんけこし)、鑪盤博士の将徳白昧淳(はくまいじゅん)、瓦博士の麻奈文奴(まなもんぬ)、陽貴文(ようくいもん)、凌貴文(りょうくいもん)、麻帯彌(しゃくまたいふ)、画工の白加(びゃくか)といった寺院建立関係の技術者を伴っていた。前年に蘇我馬子が百済国に出した要請に応えたものである。僧侶たちは、馬子の邸宅を寺に改造した桜井寺(現在の向原寺の前身)に住むことになったであろう。他の技術者たちに対しては、おそらく現在の岡の集落付近に宿舎が設営されたにちがいない。
屋根だって、従来の茅葺きではない。瓦を焼いてそれを並べる。その先端には銅で作られた風鐸がつり下げられる。見たこともない高さの九重の塔の頂上には、燦然と輝く相輪を飾らなければならない。全ては初めての試みである。それらを全て、百済人技術者の指導のもとに習得しなければならない。渡来系氏族集団の中から優秀な工人たちが選抜され真神原に集結させられたはずである。かれらの作業訓練の場所として作られたのは、おそらく現在の飛鳥池工房跡あたりであろう。付近には瓦を焼く登り窯が築かれた。金堂や講堂を飾る金銅製の荘厳具製作小屋も造られた。一年余りをかけてじっくりと製作技術を学んだかれら技能工人たちは、その技術をさらに多くの工人たちに伝えたに違いない。 飛鳥寺の創建を伝える『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』に書き記された塔露盤銘の写しは、工人たちを指導して塔の露盤を製作した4人の技術指導者の名を伝えている。意奴弥首(おぬみのおびと)辰屋、阿沙都蘇首(あさづまのおびと)未沙乃(みしゃの)、鞍部首(くらつくりのおびと)加羅爾(からに)、山西首(かわちのおびと)都鬼(つき)である。いずれも渡来系の人物で、鑪盤博士の白昧淳に鑪盤の製作技術を伝授されたのであろう。 『日本書紀』の記述によれば、西暦590年冬10月、山に入って寺の用材の切り出しが始まった。それから6年間、596年11月に飛鳥寺が竣工するまで、真神原は連日戦場のような活気が続いたはずである。作業中に倒れてきた柱の下敷きになったりして怪我人も続出したであろう。作業上の近くには、そうした怪我人を治療する施設も設営されたはずだ。多くの工人たちの食事をまかなう施設も当然作られていて、そこでは大勢の飯女が働いていたはずだ。おそらくその頃の真神原は我が国でもっとも活気があった場所だったにちがいない。 毎日、作業現場の近くに大勢の見物人が押しかけてきた。彼らは、日を追うごとに寺としての様相を示してくる建物を見て驚きの目を見張ったであろう。近くでは、華やかな衣装をまとって仏前に奉納する舞の練習をする一団もいたはずである。見物人がそうした光景に驚く様をみて、一人悦に入っている人物がいたとすれば、それは蘇我馬子だった。彼が飛鳥寺建立を思い立った真の目的は、仏教文化の普及というより、蘇我本宗家の権力の誇示にあったはずである。 ところで、飛鳥時建立について不思議な謎がある。588年に百済から寺工をはじめとする技術顧問が派遣されて来ている中に、造仏工が見あたらないのだ。仏教寺院を建立するのであれば、その本尊の製作が不可欠となるが、蘇我馬子は造仏工の派遣を要請しなかったようである。3ツも金堂を作れば、それぞれに本尊を安置すべきであり、当時はまだ造仏工は我が国に存在しなかった。
『日本書紀』によれば、推古天皇4年(596)冬10月、法興寺が落成し、馬子の長子・善徳臣(せんとこのおみ)が寺司に任じられ、この日から高句麗の僧・慧慈(えじ)と百済の僧・慧聡(えそう)の二人が法興寺に住した、とある。落慶法要を済ませた寺に本尊が安置されていないはずはない。この謎に関して、一般的な解釈は、蘇我馬子がすでに本尊として安置すべき仏像を入手していたとする説がある。そのために、造仏工の派遣を要請しなかったという。確かに、飛鳥寺の建立が始まる4年前の584年9月、百済から帰国した鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩の石造一体をもたらし、佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体をもたらした。馬子はその二体の仏像を譲りうけ、私的に祀ったという。あるいは、史書には記述されていないが、他にも半島から招来した仏像があったのかもしれない。 謎はもう一つある。飛鳥寺の造営から10年近く経った推古天皇13年(605) 4月、天皇は金銅と繍(ぬいもの)の丈六の仏像をそれぞれ作る作ることを欲し、ひな形を募集したところ、鞍作止利(くらつくりのとり)が提出したものが気に入った。そこで、彼を造仏工に任命して、仏像を造らせたとのことだ。鞍作止利とは、後に飛鳥時代を代表する仏師と評される止利仏師である。仏像は翌年の4月8日に完成した。その仏像を安置したのが、実は飛鳥寺の中金堂であるという。すでに安置されていた仏像があったにも関わらず、天皇じきじきの発願で仏像を造り、それを蘇我氏の氏寺に安置したというのは、いかにも納得がいかない。 一つの妥当な解釈として、その頃には各豪族が氏寺を建立し始め、当初は蘇我氏の氏寺として建立された飛鳥寺が、官寺的性格を帯びてきたため、官寺にふさわしい金銅製の本尊に作り替えたというものである。鞍作福利が作成したのは、三尊形式の釈迦如来像であることは、すでに判明している。だが、鎌倉時代の建久7年(1196)に落雷を受けて飛鳥寺が焼け落ちたとき、本尊も破損してしまった。焼けただれた本尊は雨ざらしのまま放置されていたという。後に本尊は形ばかりの補修が行われたが、止利仏師が作ったとされる当初の仏像の面影はほとんど失われている。江戸時代の初期に形ばかりの草堂を建てて大仏を雨露から守り、後には尼僧が大仏のためにお堂を建てた。これが安居院の始まりとされている。 鞍作止利は、その名の通り、馬の鞍作りを専業とする鞍作部の出である。金銅製の鞍作りの技術を応用すれば、金銅仏を作ることは可能であっただろう。しかも、彼の家系は祖父の代から熱心な仏教信者だった。祖父の司馬達等(しめのたちど)は草庵を営み仏像を礼拝していた人物としても知られている。だが、鞍作氏の本拠としたのは、現在の祝戸地区にある坂田寺跡付近であり、工房もその付近にあったと推測される。 現在の坂田寺跡から飛鳥寺までかなりの道のりである。丈六の金銅製仏像を完成したとして、それを運んでくるのは大変な苦労だったと思われる。そこで、止利は仏像を鋳造する工房を飛鳥寺の近くに新たに設けたものと推察している。その推定地としてもっとも可能性が高いのが飛鳥池工房跡である。したがって、筆者は万葉文化館を訪れる度に、飛鳥池遺跡の北の端に立ち、その付近で止利が工人たちを叱咤激励しながら、仏像製作にいそしむ当時の姿を想像するのを楽しみにしている。だが、周囲の景観は、残念なことに止利が日々目にしたであろう景色とは大きく異なっている。 |