橿原日記 平成18年5月22

待ち時間75分、見学時間1分、「白虎」壁画狂想曲

白虎復元イメージ
キトラ古墳石室の西壁に描かれた白虎復元イメージ

春期特別展
春期特別展の図録

在、奈良文化財研究所の飛鳥資料館では「キトラ古墳と発掘された壁画たち」と銘打って平成18年度春期特別展が開催中である。特に、キトラ古墳壁画のうち保存修理を終えた西壁の白虎が5月12日から5月28日の期間限定で一般公開されるようになって、明日香は連日のように「白虎」の狂想曲 が奏でられている。

鉄電車は社内放送で「白虎」特別展示を放送し、明日香への最寄り駅にあたる「橿原神宮前」駅では、列車が到着するたびに「白虎」見学を呼びかけている。構内の書店には春期特別展の図録が店頭に山のように積まれ、どの駅にも春期特別展のポスターが何枚も貼られている。

の週末を迎えた5月13日には、雨にもかかわらず約3300人が飛鳥資料館を訪れ、白虎の見学は最高100分待ちになった。当日は明日香村中央公民館で、古代史に関心が深い女優の竹下景子さんらの「感動鼎談(ていだん) キトラ古墳(白虎)公開を語る」があり、考古学ファンら約300人が聴き入ったという。竹下さんは、白虎と対面した印象を聞かれ、「表情がユーモラスで前足には勢いがある。細やかな描写や鮮やかな赤色に、本物でなければ伝わらない迫力を感じた」と感動を述べている。

日の14日(日)には、4100人が訪れ、1975年の開館以来、1日の入館者数では最多となった。 一般公開10日目の21日(日)には入館者が3万人を突破した。同日だけで5344人が訪れ、14日の最多入館者数も軽く更新してしまった。まさに磁力で吸い付けられるように、人々は連日飛鳥資料館へなびいていく。観光バスを連ねて見学にくる小学生の団体がいる。レンタサイクルの途中で立ち寄る若者たちがいる。見学者の顔ぶれを観察すると、必ずしも定年退職したリタイヤ組やその連れ合いとは限らない。

ああああ
一般公開された「白虎」壁画(出典:時事通信)
間の心理とは不思議なものである。狂想曲の旋律が激しくなればなるほど流れに身を置きたくなる。そうしなければ、自分だけが世の中の潮流に押し流されてしまいそうな妙な錯覚を感じる。一般公開が残り1週間と迫った今日は月曜日、ニュースで伝えられているほどの人出はないだろうと、友人のT.Y氏と飛鳥資料館を訪れた。まだ、10時15分前だったが、すでに整備員が「75分待ち」のプラカードを持って行列の最後に立っていた。

列は常設展示室から山田寺回廊展示室へと延々と連なり、遅々として進まない。お陰様で展示室のコーナーで流されているビデオによって、キトラ古墳の石室内撮影の様子や、壁画の剥奪の様子などをじっくり鑑賞できた。


キトラ古墳壁画の剥ぎ取り
キトラ古墳壁画の剥ぎ取り(出典:奈良新聞)
トラ古墳の石室(正確には石槨)は凝灰岩切石が組み合わされて作られている。内部の大きさは、長さ240cm、幅104cm、高さ114cmで、高松塚の石室(長さ265.5cm、幅103.5cm、高さ113.4cm)とほとんど変わらない。石室の内部は漆喰が塗られ、天上には天文図が、東西南北の壁の中央には四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれている。四方の四神が描かれた壁の下には、それぞれ三体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれているとされているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など六体の発見に留まっている。

トラ古墳にとって最大の問題は、壁画の保存対策と言って良い。平成16年(2004)2月に石室を開き、6月から石室内の発掘を開始したが、壁画が描かれた漆喰面が今にも剥落しそうな危険な状態にあることが判明した。そこで、文化庁はその年の7月に緊急手術として「はぎとり修復」を決断し、石室外で修復することを決めた。そして、8月4日には「戌(いぬ)」とみられる十二支像(西壁)が、8月11日には剥離が激しい青竜(東壁)が剥ぎ取られ、9月7日には白虎(縦25センチ、横45センチ)の剥ぎ取りを行なった。

れ以来、1年以上に渡る保存修理が完了した「白虎」の壁画を、今回の春季特別展の中で一般公開し、保存処理の成果を示すことになった。ただし、期間限定であり、5月12日から28日までの17日間だけである。

剥ぎ取られた直後の白虎 保存修理を終えた白虎
剥ぎ取られた直後の白虎(出典:文化庁のHP) 保存修理を終えた白虎(出典:展示会図録)


成18年度春期特別展「キトラ古墳と発掘された壁画たち」は、地下1階で開催されている。だが、「白虎」の壁画だけは、1階の山田寺回廊展示室の隣の特別室で展示されている。75分も列を崩さず並んで待つのは、それなりに忍耐力と体力がいる。前に並んでいた老人などは、何回も座りこんで足をさすっていた。長時間並んで立っていると膝が痛むのであろう。見ていて可哀相だった。

別室に近くになって様子を見ていると、整備員が20〜30人ほどのグループで招き入れている。列の先頭近くになってようやく中へ入れると安堵したら、足止めを喰った。何のことはない、社会見学に来ている小学生の団体の割り込みがあった。

前11時過ぎ、ようやく特別室に招き入れられた。そこでも列を作って待たされた。剥ぎ取られて組み合わされた二枚の漆喰は、密閉されたガラス容器に収められ、部屋の隅の高さ1mほどのテーブルに置かれていた。それを見るには、部屋の中央から延びているスロープを進まなければならない。

番が来て、壁画の実物と実際に対面することになった。緊張して胸の高まりを感じるかと思ったが、意外と冷静だった。確かに、ライトを浴びて浮かび上がった白虎の線や朱色の舌は、写真で見るより鮮やかに見えた。だが、絵画で言えば、縦が25cm、横が45cm程度の小さな作品である。竹下景子さんが口にしたほどの迫力を感じることはなかった。実物に接しておられた時間は1分足らず。後続に押されてトコロテン式にその場から押し出された。



古墳の壁画は”暗黒の中の芸術”

在、高松塚古墳とキトラ古墳という2つの壁画古墳が飛鳥の地で瀕死の状態にある。高松塚古墳の壁画は、保全を委託された文化庁の不手際でカビまみれになって退色し、もはや発見当時の面影はない。キトラ古墳の壁画は、発掘調査時点ですでに漆喰が崩落の恐れがあり、剥がして外部で修理する以外に手段がない状態に置かれていた。
ああああ
高松塚古墳の石室模型内部で損傷箇所を
示す文化庁職員(出典:毎日新聞)
ああああ
里中満智子氏が描いた作業の想像図
(出典:朝日新聞)

松塚古墳にしろキトラ古墳にしろ、現代の我々がその極彩色の壁画を見ることができるのは、まったく偶然の発掘によるものだ。本来、古墳壁画は死者のために描かれたものである。寺院の壁画とは異なり、再び白日のもとに曝されるとは絵師たちも予想していなかったにちがいない。それでも、絵師たちは死者の鎮魂を意味を込めて必死に描いたのであろう。それ故に、京都橘大学名誉教授の門脇禎二(かどわきていじ)氏などは、壁画に高い芸術性を感じておられる。教授の言葉を借りるならば、古墳の壁画は”暗黒の中の芸術”である。

に述べたように、石室の内部は家庭の押入の下半分程度の空間にすぎない。先日の毎日新聞には、高松塚古墳の石室模型内部で損傷箇所を示す文化庁職員の写真が載っていた。それを見ても、石室内部はいかに狭いか分かろうというものである。特別展では朝日新聞が用意した「ののちゃんのキトラ探検」と題する新聞紙大の解説記事を受付で渡している。その中に漫画家の里中満智子(さとなかまちこ)さんがイラストで再現した絵師の作業風景が掲載されていた。

都橘大学の猪熊兼勝(いのくまかねかつ)教授によると、キトラ古墳の壁画を立体顕微鏡で調査したところ、4人の筆の跡が確認できたという。里中満智子さんはその話を聞いて「おそらく一人の絵師と数人の助手が作業を分担して描いたのだろう」と想像し、その光景でイラストで表現された。狭い石室で絵師が座り込み、助手が灯明で絵師の手元を照らし、顔料の入った皿を差し出している光景は、実によくできている。

お、奈良文化財研究所(奈文研)で修復保存の作業中に、前足の付け根の毛を描いた部分に赤い線が5本ほど数センチにわたって引かれているのが見つかった。この赤い線はヘラによる下書きの刻線と一致していた。そのため、ベンガラなどの赤色顔料を塗った紙をまず漆喰の上に置き、その上に白虎の下絵をのせて、輪郭線をヘラでなぞり、白虎の絵を写していたものと推測されている。こうした描き方は中国の技法とされている。


弟墳ではないかと噂されている高松塚古墳とキトラ古墳には、四神が描かれている。四神とは、中国神話に登場する、この世の動物たちの長だと考えられている聖獣で、世界の四方向を守護するとされる東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武を指す。この四神が揃う土地は風水で理想的な地形配置とされ、四神相応という。古墳の石室に四神が描かれていることは、死者の霊界をこれらの霊獣で守護するという願いが込められているのであろう。

キトラ古墳の白虎 高松塚古墳の白虎
キトラ古墳の白虎 高松塚古墳の白虎

古墳に描かれた白虎に関して、その描かれ方に少しずつ違いがある。まず双方の白虎は西壁に描かれていながら、高松塚の白虎は左向き、すなわち南向きに描かれているのに対して、キトラ古墳の白虎は右向き、すなわち北向きに描かれている。伝統的な四神相応図においては、東の青龍も西の白虎も頭は南のほうを向いているのが一般的である。なぜかキトラ古墳では逆向きになっていて、ひとつの謎とされている。

古学者の中には「キトラ古墳を造った人は、中国の道教的な世界観(神仙思想)の理解が不十分であった」という人もいるようである。だが、美術史が専門の神戸大学の百橋明穂教授は、その見解を否定し、仏教の輪廻の概念の影響を受けて日本的な解釈や感性が加味されたた結果、循環構図への転換が図られたと推測され、和風化した日本絵画の始まりと位置づけておられる。

キトラ古墳の天文図
キトラ古墳の天文図(出典:飛鳥資料館HP)
トラ古墳の天井には、天帝=北極星を中心とした星座世界が描かれ、四神像の下には、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」といった十二支を表す図柄が描かれている。これらは一つの世界の循環を描いたものだ。そうであれば、北東南西の四面にそれぞれ描かれた玄武・青龍・朱雀・白虎の図も、循環構図で描かれて当然であると言われる。循環構図で描けば、白虎は当然北を向く。

方の壁画には天文図の描き方にも差異があり、キトラ古墳に描かれた天文図は朝鮮半島、わけても高句麗と密接な関係があることが指摘されている。最も近いとされるのが、李氏朝鮮(朝鮮王朝)の時代に作られた「天象列次分野之図」である。同図に付記された銘文から、この図には原図となった石刻星図が高句麗の都・平壌に存在したが、唐・新羅連合軍の対高句麗戦争で大同江に沈んでしまったという。

虎の描き方にも微妙な差がある。前述の猪熊教授は、キトラの絵は線が細かいが、高松塚の絵はキトラを省略した形であり、キトラ壁画の方が数年前に描かれたと推測されている。

日本書紀』には、推古天皇12年(西暦604年)秋9月、に渡来系の技術者の中から選抜して、黄文画師(きぶみのがし)と山背絵師(やましろのえし)という公認の画家集団を置いたことが記されている。高松塚古墳もキトラ古墳も8世紀初頭の終末期古墳である点を考慮すれば、大宝元(701)年に制定された大宝律令で、中務省に画工司(がこうし)が置かれたことも注意してよい。あるいは渡来系の黄文画師と山背絵師の子孫たちが、画工司に所属し、上司の指示で壁画を描いたのかもしれない。


シンポジウム「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」

シンポジウムのプログラム
シンポジウムのプログラム
トラ古墳の白虎壁画が公開されていることを記念し、日本遺跡学会と朝日新聞は20日、大阪商工会議所国際会議ホールでシンポジウム「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」を開いた。シンポジウムは、元元興寺文化財研究所の坪井清足氏と国立西洋美術館長の青柳正規氏の特別講演をはじめ、6人の専門家の講演と特別討論で構成され、朝の10時から途中1時間の昼休み休憩を挟んで午後4時半まで続く結構重い内容のシンポジウムだった。

講師の話はそれぞれに興味深いものがあったが、中でも特に異彩を放ったのが関西外国語大学教授の佐古和枝(さこかずえ)教授の熱のこもった講演だった。佐古氏は、「カビの発生で貴重な壁画の劣化を招いたことは大きなショックだった。だが、その原因の追及が徹底的になされないままに、石室解体という対策が突然のように打ち出されたことは、さらに大きなショックだった」と、考古学者としての正直な気持ちを披瀝された。高松塚古墳の壁画が劣化した問題で、まるで犯人さがしのように誰が悪かったのかを究明することよりも、何が悪かったのか、その原因を究明することの方が先で、原因が分からなければ先へ進めないはずなのに、一気に石室解体の方針を打ち出した施策に疑問を呈された。

シンポジウム最後のパネル・ディスカッション
シンポジウム最後の特別討論のパネリスト
封土を剥がれた高松塚古墳
封土を剥がれた高松塚古墳(H17/02/27 撮影)
宝の壁画の価値を守るには「石室の解体修理」しかない、とする文化庁に対し、佐古氏は「壁画を守るために墳丘を壊し、石室を解体することは、国がこれまで掲げてきた文化財保存の方針に反するのではないか」と疑問を呈された。昭和47年4月5日、高松塚古墳が文化庁の所管に引き渡されると、翌年の3月、文化庁は高松塚古墳を早々と「国の特別史跡」に指定した。さらに、壁画があまりに貴重な発見だったので、昭和49年には、特別史跡の古墳から独立して壁画だけを絵画の「国宝」に指定した。だが、昨年の2月、文化庁はカビ発生の原因を究明するという目的で、高松塚古墳の封土を剥いでしまった。自ら国の特別史跡に指定した古墳を破壊するという暴挙に出たわけである。

古氏はさらに、「壁画を救うためとはいえ、はぎ取ったり、さらには石槨を解体するという措置は、古墳にとっては荒療治であり、その痛みで古墳が泣いている」と、考古学者の立場から文化庁の古墳保存行政のあり方を非難された。彼女の決して流暢とは言えない木訥(ぼくとつ)とした語り口は、聴衆の心を打った。



(H18/05/23 記す)
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