橿原日記 平成18年5月13日

現地見学会「南葛城の遺跡を訪ねて」に参加

大型掘立柱建物復元イメージ
極楽寺ヒビキ遺跡で見つかった大型掘立柱建物復元イメージ(* 春季特別展の図録より)


畝傍山山頂から眺める葛城・金剛山系
畝傍山山頂から眺める葛城山(右)と金剛山(左)
畝傍山山頂から眺める二上山
畝傍山山頂から眺める二上山
の散歩で畝傍山の山頂から眺める金剛山系は、筆者の好きな景観の一つだ。奈良県と大阪府を区切る金剛山や葛城山、二上山が尾根を連ねながら南から北へ延びている。そして、それらの山々の山麓から平地に向かって、御所市、葛城市、香芝市などいくつかの市や町を構成する市街地がまるでは箱庭のように続いている。

頂に生えた樹木の間からこうした景観を眺めるたびに、いつも一つの誘惑に駆られる。フーッと一息で現在の市街地を吹き消して、山麓を原生林に、平地を水田や原野に置き換えることができたら・・・と。すると、5世紀の葛城地方の景観が彷彿として目の前に浮かび上がってくる。そこは、大王家との姻戚関係をテコに、古墳時代中期の5世紀代に大王家と肩を並べるほどの勢力を誇った古代豪族・葛城氏が拠点とした葛城地方の野や山である。

和の南西部位置する葛城地方は広大であり、一般には北葛城と南葛城の2つの地域に分けて理解され、北葛城地域には馬見古墳群あたりまで含まれる。一方、南葛城地域は、古代には金剛山と葛城山をあわせて「葛木山」と呼ばれていた山々の東麓に位置する。この付近はおそらく葛城氏の祖とされる葛城襲津彦(かつらぎのあそつひこ)や、仁徳天皇の后となり履中・反正・允恭の3天皇を生んだ磐之媛(いわのひめ)が生まれ育った地域である。葛城臣円(かつらぎのおみ・つぶら)が安康天皇を暗殺した眉輪王(まゆわのおおきみ)を匿い、即位前の雄略天皇に攻撃されて焼き殺されるという事件が起きたのも、おそらく南葛城地域であっただろう。

春季特別展のチラシ
春季特別展のチラシ
の南葛城地域で、橿原考古学研究所(橿考研)は過去10年余りの間に多くの発掘調査を手がけてきた。こうした調査で得られた資料は、古墳時代の葛城地域のイメージを大きく塗り替えるに十分なものである。発掘された遺跡や出土した資料は、5世紀にこの地域を支配した豪族の居館や政の場、祭祀の場を明らかにし、その氏族を支えた各種の技術集団の住居や生産の実態をも明らかにしつつある。

橿考研は新たに発見されたこうした考古学的資料を一堂に展示し、今後の多角的検討によって葛城氏の実態解明に資するため、「葛城氏の実像」と題する春季特別展を、付属博物館で現在開催している(期間:4月22日(日)〜6月18日(日))。さらに、本日は「国際博物館の日」の記念事業として、現地見学会「南葛城の遺跡を訪ねて」を実施した。終日雨降りで気温もあまり上がらない一日だったが、雨の中をこの現地見学会に参加してきた。


【コース】 近鉄御所駅 → 鴨都波遺跡 → 室宮山遺跡 → 名柄遺跡 → 南郷遺跡群 → 極楽寺ヒビキ遺跡 → 近鉄御所駅
【関連地図】 「南葛城の遺跡を訪ねて」探訪地図



鴨都波遺跡(かもつばいせき) − 弥生時代の南葛城を代表する最大規模の複合拠点集落

集合場所に指定された近鉄御所駅
集合場所に指定された近鉄御所駅
合場所に指定された近鉄御所線の「御所」駅に午前10時5分前に到着した。すでに改札口付近で現地見学者の受付が始まっていた。受付をすますと、見学会の資料と5枚入りの和紙はがきのセットを渡された。はがきはどうやら「国際博物館の日」の記念品らしい。前線の影響で本日は終日雨との予報が昨日から出されていたため、今回の参加者は思いの外少なかった。それでも70名が参加したとのことである。

初の見学場所の鴨都波(かもつば)遺跡は「御所」駅から南へ500mほどのところにある。10時15分に駅前を出発した一行は、国道24号線の歩道を一列縦隊で進んだ。ほどなく、歩道の脇に石の鳥居が建っている場所に到着した。そこが鴨都波神社の西参道入口である。

鴨都波神社の本殿
鴨都波神社の本殿
都波神社は、葛城山麓から流れ出る柳田川と金剛山塊に源を発する葛城川の両河川の合流地点に鎮座する古社で、鴨都味波八重事代主命(かもつみはやえことしろぬしのみこと)と下照比売命を祭神として祀っている。創建は明らかではないが、「異本三輪神三社鎮座次第」によると、太田田根彦(おおたたねひこ)の孫にあたる大賀茂都美命 ( おほかもつみのみこと ) が崇神天皇の勅に奉じて葛城の賀茂に事代主命(ことしろぬしのみこと)を奉斎し、賀茂の氏を賜ったといい、大神神社(おおみわじんじゃ)の別宮としている。

講師の木下亘氏
講師の木下亘氏
都波遺跡は、二つの河川によって築かれた河岸段丘の上に位置し、鴨都波神社を中心として南北約500m、東西約450mの広い範囲を占めている。現在はすっかり埋め戻されているが、すでに20数次をこえる発掘調査が実施されていて、数多くの成果が得られている。今回の見学会では、橿考研付属博物館の木下亘・総括学芸員が講師をつとめられた。木下氏は境内の社殿の軒先を借りて降りしきる雨を避け、鴨都波遺跡の調査位置図を示しながら最初の解説を始められた。

鴨都波1号墳の発掘調査現場
鴨都波1号墳と15時発掘調査地域(*)
都波遺跡は弥生時代における南葛城最大の拠点集落である。遺跡は弥生時代前期から古墳時代後期にかけて長期間営まれており、南葛城地域の古墳時代前史を知る上で非常に貴重な遺跡とされている。資料の調査位置図には発掘調査が行われた場所が黒墨で表示されていて、神社の南に位置する県立御所高校の敷地内での調査が多い。数年前に高校の敷地から、鍬とか鍬などのたくさん木製品が大きな井戸の中から出土した。

に、2000年の済生会御所病院の増設中に発見された古墳は注目に値する。鴨都波1号墳と名付けられた方墳は、南北20m、東西16mを測り、墳丘の周り幅3〜5mの周濠が巡らしてあった。墳丘の中には高野槙で作られた木棺が納められていた。この埋葬設備は盗掘されておらず手つかずの状態にあり、三角縁神獣鏡4面をはじめとして、数々の出土品が出土した。鴨都波1号墳の築造時期は4世紀中頃と推定されているが、その後5世紀前半になると、南の室の地に200mを越す巨大な宮山古墳が突然出現する。そのため、両古墳の被葬者の関係に興味が持たれている。


鴨神の地に鎮座する高鴨神社
鴨神の地に鎮座する高鴨神社
葛木御歳(かつらぎみとし)神社
葛木御歳(かつらぎみとし)神社
言うのは、弥生時代に金剛山東山麓の開けた段丘上の斜面に住み着いて陸稲や稗、粟などの畑作農耕に従事した集団がいた。鴨族と呼ばれる一族で、阿治須岐託彦根(あじすきたかひこね)神を祀っていたという。「阿治須岐」とは、美しい農具で開墾することを表す形容詞である。このことから、阿治須岐託彦根神を開拓者としての歴史的祖先、または農耕生産の神として崇めたものと思われる。御所市の字鴨神の地に鎮座する高鴨神社は、この神を祭神とする神社である。

生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつば)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作に入った。それで、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。ともに鴨一族の神社である。

の鴨族の出自を求めると、神武天皇東遷の時烏(カラス)に化けて天皇を熊野から大和へ道案内した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に行き着く。大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。

山城国風土記』逸文には、大和の葛城山にいた賀茂建角身命が山代の国の岡田の賀茂に至り、木津川を下り山代国に移って賀茂川の上流の久我の山麓に住むようになった、と伝えている。神が一人で移ることはない。その神を祀る集団の移動するのである。すなわち、何時のころか、葛城山麓を離れた鴨氏の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して、この地に定着したのであろう。

都には、古代山城国に移り住んだ鴨(賀茂)族が祀る有名な神社がある。「葵祭」で知られる上賀茂神社(賀茂別雷神社)下鴨神社(賀茂御祖神社)である。上賀茂神社は、賀茂族の氏神で、祭神として賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祀る。この神は葛木山の峰から山代国に移った賀茂建角身命の娘・玉依媛(たまよりひめ)命と山代の乙訓(おとくに)社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。単に賀茂神社といえば、この上賀茂神社を指す。一方、下鴨神社は奈良時代の頃新しく作られた神社で、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神の母である玉依姫とその父の賀茂建角身命を祀る。京都3大祭の一つ「葵祭」は2日後の5月15日に行われる。

城国に移り住んだ鴨(賀茂)族の一派とは別に、高鴨神社や御歳神社、鴨都波神社を守り続けて南葛城地域に住み続けた鴨(賀茂)族がいたはずである。4世紀の半ば、鴨都波1号墳に埋葬されたのは、その一族の首長だったかもしれない。そして、その子孫たちが葛城氏として5世紀代に大王家に匹敵する巨大な豪族にのし上がったのかもしれない。



室宮山古墳(むろみややまこふん) − 別名を「室の大墓」とも呼ばれている巨勢山古墳群の中で最大の前方後円墳

葛城川 葛城川から葛城・金剛山を望む
葛城川に架かる橋 葛城川から葛城・金剛山を望む

0時半、鴨都波(かもつば)神社の東参道にある鳥居をくぐって集落の中の生活道路を南に向かう。まもなく、葛城川に架かる橋に出る。この付近では川幅は大して広くもないないが、昨夜から降り続いている雨のせいで、黄濁した水流の水かさが増している。視線を西に向けると、腕を組むようにしてそびえる葛城山と金剛山が、降りしきる雨の中で黒々とした山塊を見せていた。橋を渡ると葛城川の東岸に位置する蛇穴の集落に入る。蛇穴とかいて”さらぎ”と読むのは、蛇がトグロを巻き、穴をつくる状態をサラキまたはサカケというからである。サラキは新来(いまき)、すなわち新しく移り来た所の意味でもある。

倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)と彦八井命(ひこやいのみこと)を祭神として祀る野口神社を過ぎて、田畑の中の田舎道を進むと、前方左手にノンビリと寝た姿の前方後円墳が見えてきた。背後の巨勢丘陵から延びる尾根の先端を利用して築かれていて、全長238mの前方後円墳で、室宮山(むろみややま)古墳という。御所市大字室に所在するので、別名を「室の大墓」とも呼ばれている。
室の宮山古墳
北側から見た室宮山古墳

1時7分、室宮山古墳の後円部先端に位置する八幡宮に到着。境内には「孝安天皇室秋津島宮跡」の石碑が建っている。灯籠の間を抜けて墳丘に登る道がある。

室宮山古墳の実測図
室宮山古墳の実測図
幡宮の境内で、木下講師は室宮山古墳の実測図を見ながら、古墳の概要を説明された。この古墳は前方部を西に向けて5世紀前半に築かれた前方後円墳で、全長238m、後円部径148m、前方部幅約152mを測る巨大古墳である。古市古墳群の中の津堂城山古墳に似ていて、小さな作り出しと張り出しを持つ。

円部に2つの石室があり、北側の石室は古くから知られ、取っ手が付いていたことから石棺の一部と見られていたが、石室の上板だった。南側の石棺は昭和25年(1950)にあい、調査したところ竜山石の長持式石棺を納めた竪穴式石室であることが分かった。内部は盗掘のために攪乱されていたが、それでも三角縁神獣鏡や吉野川産の滑石製模造品、滑石製勾玉、あるいは鉄剣や鉄刀、短甲、冑といった武具の副葬品が、破片として多く残されていた。

た、後円部の墳頂には、石室を囲むように埴輪の列が巡らされていたことも判明した。形象埴輪の家、靫(ゆぎ)、蓋、鶏、高坏、草摺、冑、短甲などさまざまなものの破片が見つかっている。最近では、舟型土器をはじめとする舶載陶質土器も採集された。
採集された刀子。斧・琴柱・勾玉などの滑石製模造品 採集された玉類・三角縁神獣教片・杵形石製品
採集された刀子。斧・琴柱・
勾玉などの滑石製模造品(*)
採集された玉類・三角縁神獣教片・
杵形石製品(*)

かるんだ階段を伝って後円部の墳丘に登と、木々に囲まれた空き地の中程に高さ142.6cm、最大幅95.5cmの復元靫形埴輪が立ち、その横に南側石室があった。石室の上板一枚破壊されており、そこからのぞき込むと、墳丘主軸に平行して長さ5.51m、幅1.71〜1.88m、高さ1.06mの扁平割石小口積みの竪穴式石室があり、内部には凝灰岩製の組合式長持形石棺が見えるはずである。石棺の蓋は長さ3.51m、幅1.32〜1.47m、厚さ0.28m、身は内法長2.29m、幅約0.9m、高さ0.9〜1mで、身と蓋に14個の縄掛け突起があり、蓋の上面には格子状に模様が彫られているという。雨にもかかわらず、何人かはしゃがみ込んで石室の内部をのぞきこんでいた。

復元された靫形埴輪 北側石室の上板
復元された靫形埴輪 北側石室の上板

かつにも、北側にも石室があることを知らなかった。この室宮山古墳は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の墓の有力な候補とされている。『日本書紀』には葛城氏の族長の活躍を語るいくつかのエピソードを伝えている。南葛城地域最大の墓はまことに彼の奥津城にふさわしい。だが、同じ古墳にもう一人の被葬者が眠っているとなると、場合によっては見方を変えなければならないかもしれない。「発掘調査する予定はないのか」と木下氏に聞くと、「予算を付けていただければ」と冗談っぽい返事が返ってきた。

あああ
宮山古墳北西にある方墳・ネコ塚
989年に室宮山古墳の北側にある幅40mの周濠(ごう)の外堤下層で、4世紀末〜5世紀初めの竪穴住居跡の一部が見つかった。床には置き忘れられたように高さ30cmほどの壺が一つ残されており、ベンガラ約7キロが詰まっていた。ベンガラは、埴輪(はにわ)などに塗り、古墳造営に必要な資材である。竪穴住居は造営の際に使われ、墳丘の完成直後に取り壊されたらしい。

宮山古墳の北西には、ネコ塚と呼ばれる方墳がある。宮山古墳の後に造営されたと推測されている。あるいは、室宮山古作の陪塚(ばいちょう)かもしれない。現在、墳丘は貸農園になっている。



名柄遺跡(ながらいせき) − 5世紀代に造られた居館址は、さまざまな道具を製作した工房跡(?)

次に向かった先は、御所市大字名柄(ながら)で発掘された名柄遺跡である。以前に葛城古道を歩いたとき、この遺跡の所在が分からなかった。分からなかったはずである。遺跡は名柄小学校の敷地の中に位置している。室宮山古墳から名柄遺跡へ行くには、古墳の横から国道309号線をまっすぐ葛城・金剛の山麓へ向かえばよい。この道は水越峠(みずこしとうげ)を越えて御所(ごせ)市と富田林市を結ぶ道で、「富田林街道」の名で親しまれている。何のことはない、昨年のGW中に、室宮山古墳からソツヒコの霊を呼び出して一緒に水越峠越えを試みた道である(平成17年5月3日付け橿原日記参照)。
発掘当時の現場写真(*)
発掘当時の現場写真(*)
見学者たち
校舎の渡り廊下の横で案内板を読む見学者たち
発掘現場の現状
発掘現場の現状

宮山古墳から400mほど西にある「宮戸橋」交差点で、国道309号線と国道24号線が交差する。その交差点を過ぎあたりから、道はなだらかな上り坂となってどこまでも西へ延びていく。そして、金剛・葛城山麓を南北に走る県道30号線(御所香芝線)との交差点「名柄(ながら)」の手前で左折して名柄集落の中に入れば、すぐのところに「名柄小学校」がある。

でぬかるんだ校庭の奥に校舎をつなぐ渡り廊下があり、遺跡はその廊下向こう側に保存されていた。この遺跡の発掘調査は1987年から1989年にかけて2回行われ、方形の竪穴住居や石積みを伴う濠などの跡が見つかった。濠の中からは、須恵器、土師器、韓式系土器、木製品など多種多様な遺物が出土した。

器の形式などから5世紀代に造られた居館址と推定されている。特に木製品としては刀把、剣鞘、弓矢の武器類、糸枠などの機織具、横槌や鍬など農耕具などと共に、未完成品や削りかすなども見つかっていることから、これらの道具を製作する工房であった可能性が高い

者はこの付近の「名柄」という地名に関心を抱いている。というのは、『古事記』では葛城襲津彦を葛城長江曽都毘彦(かつらぎのながえのそつひこ)と記されており、また『紀氏家牒』には襲津彦は5世紀の大和の有力在地豪族・葛城氏の始祖にあたる人物で、「大和国葛城県長柄里」に家居したと記されているためである。「長江」は後に「長柄」に転化し、「名柄」と表記されるようになったと思われる。

うであるならば、葛城襲津彦が本拠としたのはこの付近であり、彼の娘の磐之媛(いわのひめ)が望郷の念にかられて詠んだとされる「我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり」歌の葛城高宮もこの付近だったと推定されるからである。当地が水越峠を越えてくる古代交通路の大和側の入口である点を考えれば、襲津彦ならずとも、その要路を押さえるために付近に邸宅を構えて当然であろう。彼の邸宅が大和盆地を見下ろす名柄遺跡の近辺にあったと想像するのは楽しい。



南郷遺跡群(なんごういせきぐん) − 渡来系工人の集落と工房を主体とした古代の工業団地

見学者たち
傘の花を咲かせて南郷遺跡群の中の道を行く見学者たち

者が葛城地域や葛城襲津彦に関心を抱くようになったきっかけは、飛鳥寺の本尊の制作者を調べているとき、「飛鳥大仏の周辺」と題する毛利久氏の論文に出会ったためである。通説では、我が国最初の本格的な仏教寺院である飛鳥寺(=法興寺)は、時の権力者・蘇我馬子(そがのうまこ)によって推古4年(596)11月に建立された、とされている。そして、その本堂に安置されている本尊は渡来系氏族の仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)によって推古17年(609)4月に制作された、とされている。

飛鳥大仏
飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏
鳥寺創建に関する史料は、なにも『日本書紀』がすべてではない。飛鳥寺の創建を伝える「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」という文献も残されていて、そこには本尊の丈六釈迦如来像の光背に刻まれた銘文(丈六光銘)と、塔の露盤に刻まれた銘文(塔露盤銘)が転記されている。毛利久氏は、丈六光銘から推古17年に止利仏師が制作したのは、東西の両金堂に安置された銅と繍(ぬいもの)の丈六像であり、推古4年(596)の飛鳥寺完成時には中金堂の本尊がすでに制作されていたとし、その作者は塔露盤銘に記さされた四名の渡来系工人である、と推論された。

の四名とは、 意奴弥首(おぬみのおびと)辰屋、阿沙都蘇首(あさづまのおびと)未沙乃(みしゃの)、鞍部首(くらつくりのおびと)加羅爾(からに)、山西首(かわちのおびと)都鬼(つき)であり、彼らが工人たちを指導して事に当たったと毛利氏は説かれる。毛利説の当否は別として、四名の工人指導者のうち最初の二人は、なんと南葛城地方の居住者である。

なわち、忍海(意奴弥、おしみ)氏は忍海(奈良県葛城市新庄町忍海)を本拠とする渡来釆氏族であり、手工業とくに金工の技術を伝えていた氏族である。朝妻(阿沙都林、あさづま)氏は朝妻(奈良県御所市朝妻)に居住する渡来氏族で、冶金などに従事した氏族である。いずれも蘇我氏配下の渡来系氏族の指導者として、飛鳥寺建立に協力したのであろう。

城地域の渡来系氏族に関しては、興味深い記述が『日本書紀』に示されている。神功摂政5年の記述の中に、葛城襲津彦が新羅の人質となっていた王子を護送していった際に、王子に逃亡されその腹いせに新羅に渡って草羅城を攻め落として、捕虜として連行した人々を桑原(くわはら)・佐糜(さび)・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)の四つの邑に住まわせたとある。神功摂政5年という暦日は信用できないとしても、この記述は5世紀初めのころの史実が何らかの形で伝承されてきたものと解釈されている。

れらの4つの邑のうち高宮は、現在の御所市名柄から森脇にかけての一帯を指すものと考えられている。また、佐糜は葛上郡内の佐味から御所市鴨神の一帯に比定され、忍海は葛城市南部と御所市の一部に当たるとされている。桑原邑だけが現在地は不詳であるが、歴史学者の和田萃氏などは、その所在を南郷遺跡群の地に求めておられる。


金剛・葛城山麓
南郷遺跡群が展開する金剛・葛城山麓(東からの鳥瞰図)(*)
剛山の裾野は東に向かって広大な斜面地を形成しているが、斜面地は狭く細い開析谷によって東西に幾重にも分断されている。これらの開析谷によって分断された丘陵には多くの遺跡が存在しているのが分かってきたのは、そんなに古い話ではない。1992年から始まった圃場(ほじょう)整備事業に伴う発掘調査で次々の遺跡が見つかり、現在までに30カ所以上の存在が明らかにされている。橿考研はこれらの遺跡を南郷遺跡群と総称している。

郷遺跡群は金剛山東麓に約1km四方にわたって展開する古墳時代中期の大集落である。主な遺跡を拾ってみると、次のものがある(遺跡の場所については南郷遺跡群位置図を参照のこと)。

● 南郷安田遺跡:
郷安田遺跡は1995年に発掘調査が行われた。この遺跡を代表する遺構として、5世紀中葉以前の建造と推定される大型掘立柱建物跡を挙げなければならない。東北へ緩やかに傾斜する地形に建てられた建物は三重の柱の列で構成され、内側の柱列は身舎(もや)、中央のものは庇(ひさし)、外側のものは縁か孫庇だったと思われる。外側の柱列は桁行6間(長さ約17m)、梁行6間(長さ約15.5m)を測る大規模なもので、建物全体のの面積は283.5平米にも達する。

の遺跡で特徴的なのは、他の遺跡に共通して見られる壺などの渡来系の遺物が全く発見されていないことだ。見つかったのは、48の柱穴のうち30個の柱穴に残っていた柱の根本である。保存状態が良く、大きいものでは太さ50cm、長さ1.5mに達するものもあった。

型掘立柱建物の性格については、祭殿、あるいは豪族の居館の主屋と推定されているが、現時点ではどちらとも断定できない。この遺跡と後述の南郷大東遺跡を南郷遺跡群の中の祭祀エリアと見る専門家もおり、その場合は祭殿となる。この遺跡跡の圃場整備がすでに完了しており、現状ではどのあたりが発掘調査された現場なのか判然としない。

大型掘立柱建物 掘り出された大型掘立柱建物の柱
発掘当時の大型掘立柱建物跡(*) 掘り出された大型掘立柱建物の柱(*)

● 南郷大東(おおひがし)遺跡:
発掘当時の南郷大東遺跡 現在の遺跡付近
発掘当時の南郷大東遺跡(*) 圃場整備が完了した現在の遺跡付近

導水施設での祭祀イメージ
導水施設での祭祀イメージ
郷安田遺跡の南西約200mのところに位置する南郷大東遺跡は、南郷遺跡群の南端に位置する。1994年に実施された発掘調査で、この遺跡から導水施設が出土したことで、五世紀前半ごろの祭祀遺跡と推定されている。蛇行して流れる小さな河川の屈曲部を改修して造られた導水施設は、上流からの水を溜める貯水池とその水を下流へ流す三つの木の樋で構成されていた。真ん中の木樋は全長4mの一本の木で作られていて、受け部が三本の小溝が切られ、そこを通過した水は中央の櫓の部分にいったん溜まり、下方へ流れていく仕組みになっている。この木樋は覆屋とその外側に巡らされた垣で二重に外部から遮断されていた。

水施設の他に、南郷大東遺跡からも多くの渡来系土器が出土している。南郷遺跡群から出土した渡来系土器は朝鮮半島からの渡来人と関わりがある。5世紀の朝鮮半島では、陶質土器、軟質土器、瓦質土器の三種類が制作されたが、我が国に伝わったのは最初の二種類だけである。

軟質土器と初期須恵器
南郷大東遺跡から出土した軟質土器と初期須恵器(*)
クロを使って整形された硬質土器としては、蓋・高坏・把手付き椀などがあるが、この時期周辺には須恵器窯がない。そこで、これらの土器は陶邑窯跡群で焼かれ水越峠を越えて運ばれてきた可能性が指摘されている。軟質土器は渡来人自らが実際の生活で使用した深鉢や甑(こしき)、鍋、壺、長胴壺などがある。これらの出土土器は伽揶系と馬韓・百済系に大きく分類されるという。両系統が共存しているが、どちらかと言えば後者が多いとのことである。

郷安田遺跡と同様に、現在はこの遺跡も圃場事業の整備が終わった棚田の下に埋められてしまって、発掘時の様子は当時の現場写真と出土遺物から思い描く他はない。せめて発掘現場だったことを示す、案内板か標識ぐらいは立てておいてもらいたいものだ。

● 南郷遺跡群を構成するその他の主な遺跡

回の現地見学会では訪れなかったが、南郷遺跡群にはその他にも注目すべき遺跡がいくつかある。sそもそもこの地に集落が形成されるようになるのは5世紀の第四半期ごろとされている。その頃営まれたと推測される遺跡に南郷角田遺跡南郷柳原遺跡がある。角田遺跡では金属・ガラス・鹿角などが出土していて、大規模かつ複合的な生産活動を行った工房だったと推測されている。この遺跡からは大量の韓式土器も出土しており、生産活動に従事したのは半島からの渡来人だったと思われる。柳原遺跡からは同じ時期の石垣を伴う大壁建物跡が出土している。大壁建物は渡来人特有の建物である。

た、下茶屋カマ田遺跡からは、5世紀第2四半期の竪穴住居から鉄滓(てつさい)や鞴(ふいご)の羽口といった鍛冶関連遺物や韓式土器や初期須恵器が見つかっている。緑色凝灰岩を管玉に加工する際に未製品や遺物も出土している。佐田クノ木遺跡からは、ガラス小玉の鋳型や大壁建物跡が見つかっている。井戸キトラ遺跡でも同じ時期の鉄滓や鞴の羽口が出土している。南郷千部遺跡からは窯業生産や鍛冶生産を行った渡来系工人の小集落と推定される住居跡が見つかっている。

うしてみると、5世紀の第2四半期に入ると、葛城氏の手によって渡来系の技術集団が計画的に南郷地区の配置され、大量の手工業製品を生産する当時の「工業団地」が出現したことを伺わせる。5世紀中葉以降もこの地域で渡来系工人の継続的な生産活動は続けられたようで、その住居である大壁建物跡が南郷井柄南郷生家(せいけ)、南郷安田の各遺跡から検出されている。また井戸大田遺跡からは大規模な倉庫が発見されている。



極楽寺ヒビキ遺跡(ごくらくじひびきいせき) − 板状柱で建てられた大型建物は葛城氏中枢部に関わる施設

極楽寺ヒビキ遺跡付近を遠望
極楽寺ヒビキ遺跡付近を遠望
楽寺ヒビキ遺跡は、県営圃場整備事業にともなって2004年度に実施された試掘調査で見つかった。その近くでは、二光寺廃寺跡が見つかり、発掘調査で約二千点のセン仏の破片が出土した。そこで橿考研は昨年の2月26日、二つの遺跡の現地説明会を同じ日に実施した(平成17年2月26日付け「橿原日記」参照)。冬の気圧配置のせいで冷え込んだ日で、西にそびえる金剛山から吹き下ろす風が小雪をまき散らしていた。

の日は、県道30号線沿いにある極楽寺近くに車を止めて会場にアクセスしたので、集落の中の道をかなり下って受付で資料を受け取ったのを覚えている。本日の現地見学会では、南郷大東遺跡からアクセスすることになり、金剛山の東斜面をずいぶん登っていくことになった。しかも、発掘現場は圃場整備で工事中であり、近くにアクセスすることもできない。開析谷に沿って繁茂する樹木で視界を遮られた遺跡付近を、たた遠くから眺めて通り過ぎただけだった。

発掘当時の南郷大東遺跡 現在の遺跡付近
発掘当時の極楽寺ヒビキ遺跡(*) 極楽寺ヒビキ遺跡 遺構配置図(*)

掘当時の上空からの写真が示すように、この遺跡は金剛山の東麓から東に延びる尾根の平坦面を最大限に利用して営まれていた。遺跡付近の標高は250m前後で、北側に大和盆地を一望できる見晴らしのよい場所に立地している。遺跡の中心は長い渡り堤をもつ濠によって区画され、さらに柵や塀で外部から遮断された大型建物遺構だった。建物の身舎(もや)部分は2x2間で、その周りに5x5間の縁を取り付けた構造になっている。

復元した大型建物模型
神戸大学工学部建築史研究室が
復元した板状柱の大型建物模型
室宮山古墳から出土した家形埴輪
室宮山古墳から出土した家形埴輪(*)
戸大学工学部建築史研究室の黒田龍二助教授を中心とするグループが、この大型建物の遺構図から1/10の大きさに復元した模型が、春季特別点に展示されている。古代遺跡の建物跡から実際に存在した建物を復元するのは難しい。しかも、この建物は身舎(もや)の部分を支える8本の柱は円柱ではく、柱跡は扁平な板状をしている。発見当初は、この板状のものが柱であることに疑問が持たれ、はたして遺構が建築物であることを疑問視する声もあったという。

が、意外なところに復元の参考になる遺物が存在した。室宮山古墳の墳丘上に並べてあった埴輪の中に家形埴輪があった。昭和25年の調査で発見されたのは粉々に砕かれた埴輪片だったが、橿考研の精密な考証によって、直弧文を施した板状の柱を持つ家形埴輪に復元されていた。

形埴輪には板状の柱をもつものがかなりあるようだ。しかし、家形埴輪は最初、粘土板で四角い箱状のものを作り、柱となる部分を残して側面の壁を切り抜くという制作技法が用いられている。このため、板状の柱を持つ家形埴輪ができあがるが、実際の建物遺構は円柱がほとんどで、まれに角柱があるというのが常識であり、板状の柱を持つ建物が当時存在したとは誰も思っていなかったという。

が、現実には板状柱を用いた大型掘立柱の建物が存在した。しかも、この建物は西側と南側に柵が巡らされ、さらにその外側には南北25m以上、東西50mの掘立柱の塀で囲まれていた。それだけではない。周囲には幅約13m、深さ約2mの濠が掘られ、その斜面全体に葺石が施されていた。そして、濠の南側に、幅約8m、長さ12mの渡り堤が取り付けられていて、建物の出入りはこの堤を介して行われていた。

って、誰が見てもこの建物は一般的な建物ではなく、特殊な機能を持った施設であると考えるべきであろう。極楽寺ヒビキ遺跡の北には南郷遺跡群が広がる。その中には、祭祀エリアと想定されている南郷大東遺跡や大型掘立柱建物があった南郷安田遺跡、および数々の工房と渡来系工人の住居跡とされる遺跡が連なっている。南郷遺跡群が5世紀代の桑原邑に比定されるなら、その北にはさらに高宮、忍海といった邑が存在した。一方、極楽寺ヒビキ遺跡の南には佐糜(さび)邑があった。

らに面白い事実が指摘されている。極楽寺ヒビキ遺跡からの出土遺物はきわめて少なく、あっても細分化したものが多いとのことだ。出土した土師器や須恵器の破片から類推しても、供献に用いられた種類の物がかなりの量を占める。ということは、この遺跡を祭祀施設と見なすことも可能となる。



南葛城地域に築かれた工業団地は葛城氏の巨大化の源泉だった(?)

二光廃寺跡の現状<
二光廃寺跡の現状
二光廃寺跡の現説状況(2005/02/26撮影)<
二光廃寺跡の現説状況(2005/02/26撮影)
後に立ち寄った二光廃寺跡も、圃場整備の真っ最中だった。昨年2月26日、小雪が舞い散る中で見学した寺跡が、現在はまったく巨大な埋め立て土壌の下に沈み、その上を重機の轍(わだち)が散乱していた。多くのセン仏の破片を出土した遺跡は、やがて棚田か畑の下で元の状態に戻っていく。現地説明会で多くの見学者が目にした礎石群がふたたび白日のもとに晒されることは、もはやないのかもしれない。

発地点の近鉄「御所」駅に戻るには、二光廃寺跡から金剛山の斜面を下って国道24号線に出なければならない。国道に出れば、奈良交通の「鳥井戸」バス停があり、30分に1本ながら御所駅方面へのバスの便がある。だが、その下りの坂道は半端な道のりではない。長々と続く坂道を歩きながら、なぜこの地が古代豪族が栄える源泉となったか考えてみた。

でこそ、重機を用いて大々的な土地改良を行ない金剛山麓を田畑に変えることが可能だが、葛城氏が栄えた5世紀代には、この傾斜地で稲作を行なうことはおそらく不可能だったであろう。朝鮮半島南部の戦禍を避けてこの地に移り住んだ渡来系の人々は、自分たちが持ち込んだ金属加工や農機具製造、あるいは管玉や勾玉などの装飾品の製造といった手工業で生活を支える以外に、生き延びる手段はなかったはずである。

大和における豪族分布図
大和における豪族分布図(*)
時としてはまだ弱小の在地豪族にすぎなかった葛城氏は、おそらく渡来系工人のこうした技術に着目し、その独占をはかったのであろう。葛城襲津彦が朝鮮半島から捕虜としてつれてきた渡来人を四つの邑に住まわせたという伝承は、あながち偽りではなさそうだ。5世紀の第2四半期には、葛城氏によって渡来系技術集団が計画的にこの地に配され、手工業製品の製造に従事させられたにちがいない。葛城氏は、彼らが生産する製品を独占的に所有し、それを近隣の諸豪族と交易することで、富と権力を獲得していったにちがいない。そして、やがて大王家に匹敵する大和最大の豪族に発展していく。

城氏が支配した地域は南葛城だけではない。北葛城に展開する馬見古墳群も葛城氏の奥津城ではなかったかとする説がある。最近なにかと話題を提供してくれる巣山古墳は、馬見丘陵の中央部に位置する北向きの大型前方後円墳で、墳丘の全長は約220mを測る。築造時期は4世紀末葉から5世紀初め頃と推測されている。大王陵が佐紀から河内へ移る移行期の墓とされているが、被葬者が葛城氏の有力族長だったとしてもおかしくない。


(*)橿考研制作「春季特別展 葛城氏の実像」図録より転記
【引用・参考文献】
・橿考研制作「春季特別展 葛城氏の実像」図録
・現地説明会「南葛城の遺跡を訪ねて」のレジメ
・加藤謙吉著「大和の豪族と渡来人」(吉川弘文館)

return