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| 極楽寺ヒビキ遺跡で見つかった大型掘立柱建物復元イメージ(* 春季特別展の図録より) |
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山頂に生えた樹木の間からこうした景観を眺めるたびに、いつも一つの誘惑に駆られる。フーッと一息で現在の市街地を吹き消して、山麓を原生林に、平地を水田や原野に置き換えることができたら・・・と。すると、5世紀の葛城地方の景観が彷彿として目の前に浮かび上がってくる。そこは、大王家との姻戚関係をテコに、古墳時代中期の5世紀代に大王家と肩を並べるほどの勢力を誇った古代豪族・葛城氏が拠点とした葛城地方の野や山である。 大和の南西部位置する葛城地方は広大であり、一般には北葛城と南葛城の2つの地域に分けて理解され、北葛城地域には馬見古墳群あたりまで含まれる。一方、南葛城地域は、古代には金剛山と葛城山をあわせて「葛木山」と呼ばれていた山々の東麓に位置する。この付近はおそらく葛城氏の祖とされる葛城襲津彦(かつらぎのあそつひこ)や、仁徳天皇の后となり履中・反正・允恭の3天皇を生んだ磐之媛(いわのひめ)が生まれ育った地域である。葛城臣円(かつらぎのおみ・つぶら)が安康天皇を暗殺した眉輪王(まゆわのおおきみ)を匿い、即位前の雄略天皇に攻撃されて焼き殺されるという事件が起きたのも、おそらく南葛城地域であっただろう。
橿考研は新たに発見されたこうした考古学的資料を一堂に展示し、今後の多角的検討によって葛城氏の実態解明に資するため、「葛城氏の実像」と題する春季特別展を、付属博物館で現在開催している(期間:4月22日(日)〜6月18日(日))。さらに、本日は「国際博物館の日」の記念事業として、現地見学会「南葛城の遺跡を訪ねて」を実施した。終日雨降りで気温もあまり上がらない一日だったが、雨の中をこの現地見学会に参加してきた。
【コース】 近鉄御所駅 → 鴨都波遺跡 → 室宮山遺跡 → 名柄遺跡 → 南郷遺跡群 → 極楽寺ヒビキ遺跡 → 近鉄御所駅
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鴨都波遺跡 − 弥生時代の南葛城を代表する最大規模の複合拠点集落
最初の見学場所の鴨都波(かもつば)遺跡は「御所」駅から南へ500mほどのところにある。10時15分に駅前を出発した一行は、国道24号線の歩道を一列縦隊で進んだ。ほどなく、歩道の脇に石の鳥居が建っている場所に到着した。そこが鴨都波神社の西参道入口である。
特に、2000年の済生会御所病院の増設中に発見された古墳は注目に値する。鴨都波1号墳と名付けられた方墳は、南北20m、東西16mを測り、墳丘の周り幅3〜5mの周濠が巡らしてあった。墳丘の中には高野槙で作られた木棺が納められていた。この埋葬設備は盗掘されておらず手つかずの状態にあり、三角縁神獣鏡4面をはじめとして、数々の出土品が出土した。鴨都波1号墳の築造時期は4世紀中頃と推定されているが、その後5世紀前半になると、南の室の地に200mを越す巨大な宮山古墳が突然出現する。そのため、両古墳の被葬者の関係に興味が持たれている。
弥生時代の中頃、鴨族の一部が金剛山の東斜面から大和平野の西南端にある今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波(かもつば)神社をまつって水稲栽培をはじめた。また御所市東持田の地に移った一派も葛木御歳(かつらぎみとし)神社を中心に、同じく水稲耕作に入った。それで、高鴨神社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになった。ともに鴨一族の神社である。 その鴨族の出自を求めると、神武天皇東遷の時烏(カラス)に化けて天皇を熊野から大和へ道案内した賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)に行き着く。大和を平定した後の論功行賞で、神武天皇はその功に対して厚く報償したという。そのときから賀茂建角身命を八咫烏(やたがらす)と称するようになった。 『山城国風土記』逸文には、大和の葛城山にいた賀茂建角身命が山代の国の岡田の賀茂に至り、木津川を下り山代国に移って賀茂川の上流の久我の山麓に住むようになった、と伝えている。神が一人で移ることはない。その神を祀る集団の移動するのである。すなわち、何時のころか、葛城山麓を離れた鴨氏の一派が奈良盆地を北上し、奈良山を越えて加茂町まで勢力を伸ばし、さらに現在の京都の上加茂、下加茂の辺りにまで進出して、この地に定着したのであろう。 京都には、古代山城国に移り住んだ鴨(賀茂)族が祀る有名な神社がある。「葵祭」で知られる上賀茂神社(賀茂別雷神社)と下鴨神社(賀茂御祖神社)である。上賀茂神社は、賀茂族の氏神で、祭神として賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)を祀る。この神は葛木山の峰から山代国に移った賀茂建角身命の娘・玉依媛(たまよりひめ)命と山代の乙訓(おとくに)社の雷神との間に生まれた若き雷神であったと伝える。単に賀茂神社といえば、この上賀茂神社を指す。一方、下鴨神社は奈良時代の頃新しく作られた神社で、上賀茂神社の祭神の賀茂別雷大神の母である玉依姫とその父の賀茂建角身命を祀る。京都3大祭の一つ「葵祭」は2日後の5月15日に行われる。 山城国に移り住んだ鴨(賀茂)族の一派とは別に、高鴨神社や御歳神社、鴨都波神社を守り続けて南葛城地域に住み続けた鴨(賀茂)族がいたはずである。4世紀の半ば、鴨都波1号墳に埋葬されたのは、その一族の首長だったかもしれない。そして、その子孫たちが葛城氏として5世紀代に大王家に匹敵する巨大な豪族にのし上がったのかもしれない。 |
室宮山古墳
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| 葛城川に架かる橋 | 葛城川から葛城・金剛山を望む |
神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)と彦八井命(ひこやいのみこと)を祭神として祀る野口神社を過ぎて、田畑の中の田舎道を進むと、前方左手にノンビリと寝た姿の前方後円墳が見えてきた。背後の巨勢丘陵から延びる尾根の先端を利用して築かれていて、全長238mの前方後円墳で、室宮山(むろみややま)古墳という。御所市大字室に所在するので、別名を「室の大墓」とも呼ばれている。
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| 北側から見た室宮山古墳 |
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| 室宮山古墳の実測図 |
後円部に2つの石室があり、北側の石室は古くから知られ、取っ手が付いていたことから石棺の一部と見られていたが、石室の上板だった。南側の石棺は昭和25年(1950)にあい、調査したところ竜山石の長持式石棺を納めた竪穴式石室であることが分かった。内部は盗掘のために攪乱されていたが、それでも三角縁神獣鏡や吉野川産の滑石製模造品、滑石製勾玉、あるいは鉄剣や鉄刀、短甲、冑といった武具の副葬品が、破片として多く残されていた。
また、後円部の墳頂には、石室を囲むように埴輪の列が巡らされていたことも判明した。形象埴輪の家、靫(ゆぎ)、蓋、鶏、高坏、草摺、冑、短甲などさまざまなものの破片が見つかっている。最近では、舟型土器をはじめとする舶載陶質土器も採集された。
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| 採集された刀子。斧・琴柱・ 勾玉などの滑石製模造品(*) |
採集された玉類・三角縁神獣教片・ 杵形石製品(*) |
ぬかるんだ階段を伝って後円部の墳丘に登と、木々に囲まれた空き地の中程に高さ142.6cm、最大幅95.5cmの復元靫形埴輪が立ち、その横に南側石室があった。石室の上板一枚破壊されており、そこからのぞき込むと、墳丘主軸に平行して長さ5.51m、幅1.71〜1.88m、高さ1.06mの扁平割石小口積みの竪穴式石室があり、内部には凝灰岩製の組合式長持形石棺が見えるはずである。石棺の蓋は長さ3.51m、幅1.32〜1.47m、厚さ0.28m、身は内法長2.29m、幅約0.9m、高さ0.9〜1mで、身と蓋に14個の縄掛け突起があり、蓋の上面には格子状に模様が彫られているという。雨にもかかわらず、何人かはしゃがみ込んで石室の内部をのぞきこんでいた。
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| 復元された靫形埴輪 | 北側石室の上板 |
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| 宮山古墳北西にある方墳・ネコ塚 |
室宮山古墳の北西には、ネコ塚と呼ばれる方墳がある。宮山古墳の後に造営されたと推測されている。あるいは、室宮山古作の陪塚(ばいちょう)かもしれない。現在、墳丘は貸農園になっている。
名柄遺跡
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| 発掘当時の現場写真(*) |
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| 校舎の渡り廊下の横で案内板を読む見学者たち |
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| 発掘現場の現状 |
室宮山古墳から400mほど西にある「宮戸橋」交差点で、国道309号線と国道24号線が交差する。その交差点を過ぎあたりから、道はなだらかな上り坂となってどこまでも西へ延びていく。そして、金剛・葛城山麓を南北に走る県道30号線(御所香芝線)との交差点「名柄(ながら)」の手前で左折して名柄集落の中に入れば、すぐのところに「名柄小学校」がある。
雨でぬかるんだ校庭の奥に校舎をつなぐ渡り廊下があり、遺跡はその廊下向こう側に保存されていた。この遺跡の発掘調査は1987年から1989年にかけて2回行われ、方形の竪穴住居や石積みを伴う濠などの跡が見つかった。濠の中からは、須恵器、土師器、韓式系土器、木製品など多種多様な遺物が出土した。
土器の形式などから5世紀代に造られた居館址と推定されている。特に木製品としては刀把、剣鞘、弓矢の武器類、糸枠などの機織具、横槌や鍬など農耕具などと共に、未完成品や削りかすなども見つかっていることから、これらの道具を製作する工房であった可能性が高い
筆者はこの付近の「名柄」という地名に関心を抱いている。というのは、『古事記』では葛城襲津彦を葛城長江曽都毘彦(かつらぎのながえのそつひこ)と記されており、また『紀氏家牒』には襲津彦は5世紀の大和の有力在地豪族・葛城氏の始祖にあたる人物で、「大和国葛城県長柄里」に家居したと記されているためである。「長江」は後に「長柄」に転化し、「名柄」と表記されるようになったと思われる。
そうであるならば、葛城襲津彦が本拠としたのはこの付近であり、彼の娘の磐之媛(いわのひめ)が望郷の念にかられて詠んだとされる「我が見が欲し国は 葛城高宮 我が家のあたり」歌の葛城高宮もこの付近だったと推定されるからである。当地が水越峠を越えてくる古代交通路の大和側の入口である点を考えれば、襲津彦ならずとも、その要路を押さえるために付近に邸宅を構えて当然であろう。彼の邸宅が大和盆地を見下ろす名柄遺跡の近辺にあったと想像するのは楽しい。
南郷遺跡群
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| 傘の花を咲かせて南郷遺跡群の中の道を行く見学者たち |
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| 飛鳥寺の本尊・飛鳥大仏 |
その四名とは、 意奴弥首(おぬみのおびと)辰屋、阿沙都蘇首(あさづまのおびと)未沙乃(みしゃの)、鞍部首(くらつくりのおびと)加羅爾(からに)、山西首(かわちのおびと)都鬼(つき)であり、彼らが工人たちを指導して事に当たったと毛利氏は説かれる。毛利説の当否は別として、四名の工人指導者のうち最初の二人は、なんと南葛城地方の居住者である。
すなわち、忍海(意奴弥、おしみ)氏は忍海(奈良県葛城市新庄町忍海)を本拠とする渡来釆氏族であり、手工業とくに金工の技術を伝えていた氏族である。朝妻(阿沙都林、あさづま)氏は朝妻(奈良県御所市朝妻)に居住する渡来氏族で、冶金などに従事した氏族である。いずれも蘇我氏配下の渡来系氏族の指導者として、飛鳥寺建立に協力したのであろう。
葛城地域の渡来系氏族に関しては、興味深い記述が『日本書紀』に示されている。神功摂政5年の記述の中に、葛城襲津彦が新羅の人質となっていた王子を護送していった際に、王子に逃亡されその腹いせに新羅に渡って草羅城を攻め落として、捕虜として連行した人々を桑原(くわはら)・佐糜(さび)・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)の四つの邑に住まわせたとある。神功摂政5年という暦日は信用できないとしても、この記述は5世紀初めのころの史実が何らかの形で伝承されてきたものと解釈されている。
これらの4つの邑のうち高宮は、現在の御所市名柄から森脇にかけての一帯を指すものと考えられている。また、佐糜は葛上郡内の佐味から御所市鴨神の一帯に比定され、忍海は葛城市南部と御所市の一部に当たるとされている。桑原邑だけが現在地は不詳であるが、歴史学者の和田萃氏などは、その所在を南郷遺跡群の地に求めておられる。
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| 南郷遺跡群が展開する金剛・葛城山麓(東からの鳥瞰図)(*) |
南郷遺跡群は金剛山東麓に約1km四方にわたって展開する古墳時代中期の大集落である。主な遺跡を拾ってみると、次のものがある(遺跡の場所については南郷遺跡群位置図を参照のこと)。
● 南郷安田遺跡:
南郷安田遺跡は1995年に発掘調査が行われた。この遺跡を代表する遺構として、5世紀中葉以前の建造と推定される大型掘立柱建物跡を挙げなければならない。東北へ緩やかに傾斜する地形に建てられた建物は三重の柱の列で構成され、内側の柱列は身舎(もや)、中央のものは庇(ひさし)、外側のものは縁か孫庇だったと思われる。外側の柱列は桁行6間(長さ約17m)、梁行6間(長さ約15.5m)を測る大規模なもので、建物全体のの面積は283.5平米にも達する。
この遺跡で特徴的なのは、他の遺跡に共通して見られる壺などの渡来系の遺物が全く発見されていないことだ。見つかったのは、48の柱穴のうち30個の柱穴に残っていた柱の根本である。保存状態が良く、大きいものでは太さ50cm、長さ1.5mに達するものもあった。
大型掘立柱建物の性格については、祭殿、あるいは豪族の居館の主屋と推定されているが、現時点ではどちらとも断定できない。この遺跡と後述の南郷大東遺跡を南郷遺跡群の中の祭祀エリアと見る専門家もおり、その場合は祭殿となる。この遺跡跡の圃場整備がすでに完了しており、現状ではどのあたりが発掘調査された現場なのか判然としない。
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| 発掘当時の大型掘立柱建物跡(*) | 掘り出された大型掘立柱建物の柱(*) |
● 南郷大東(おおひがし)遺跡:
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| 発掘当時の南郷大東遺跡(*) | 圃場整備が完了した現在の遺跡付近 |
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| 導水施設での祭祀イメージ |
導水施設の他に、南郷大東遺跡からも多くの渡来系土器が出土している。南郷遺跡群から出土した渡来系土器は朝鮮半島からの渡来人と関わりがある。5世紀の朝鮮半島では、陶質土器、軟質土器、瓦質土器の三種類が制作されたが、我が国に伝わったのは最初の二種類だけである。
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| 南郷大東遺跡から出土した軟質土器と初期須恵器(*) |
南郷安田遺跡と同様に、現在はこの遺跡も圃場事業の整備が終わった棚田の下に埋められてしまって、発掘時の様子は当時の現場写真と出土遺物から思い描く他はない。せめて発掘現場だったことを示す、案内板か標識ぐらいは立てておいてもらいたいものだ。
● 南郷遺跡群を構成するその他の主な遺跡
今回の現地見学会では訪れなかったが、南郷遺跡群にはその他にも注目すべき遺跡がいくつかある。sそもそもこの地に集落が形成されるようになるのは5世紀の第四半期ごろとされている。その頃営まれたと推測される遺跡に南郷角田遺跡や南郷柳原遺跡がある。角田遺跡では金属・ガラス・鹿角などが出土していて、大規模かつ複合的な生産活動を行った工房だったと推測されている。この遺跡からは大量の韓式土器も出土しており、生産活動に従事したのは半島からの渡来人だったと思われる。柳原遺跡からは同じ時期の石垣を伴う大壁建物跡が出土している。大壁建物は渡来人特有の建物である。
また、下茶屋カマ田遺跡からは、5世紀第2四半期の竪穴住居から鉄滓(てつさい)や鞴(ふいご)の羽口といった鍛冶関連遺物や韓式土器や初期須恵器が見つかっている。緑色凝灰岩を管玉に加工する際に未製品や遺物も出土している。佐田クノ木遺跡からは、ガラス小玉の鋳型や大壁建物跡が見つかっている。井戸キトラ遺跡でも同じ時期の鉄滓や鞴の羽口が出土している。南郷千部遺跡からは窯業生産や鍛冶生産を行った渡来系工人の小集落と推定される住居跡が見つかっている。
こうしてみると、5世紀の第2四半期に入ると、葛城氏の手によって渡来系の技術集団が計画的に南郷地区の配置され、大量の手工業製品を生産する当時の「工業団地」が出現したことを伺わせる。5世紀中葉以降もこの地域で渡来系工人の継続的な生産活動は続けられたようで、その住居である大壁建物跡が南郷井柄、南郷生家(せいけ)、南郷安田の各遺跡から検出されている。また井戸大田遺跡からは大規模な倉庫が発見されている。
極楽寺ヒビキ遺跡
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| 極楽寺ヒビキ遺跡付近を遠望 |
その日は、県道30号線沿いにある極楽寺近くに車を止めて会場にアクセスしたので、集落の中の道をかなり下って受付で資料を受け取ったのを覚えている。本日の現地見学会では、南郷大東遺跡からアクセスすることになり、金剛山の東斜面をずいぶん登っていくことになった。しかも、発掘現場は圃場整備で工事中であり、近くにアクセスすることもできない。開析谷に沿って繁茂する樹木で視界を遮られた遺跡付近を、たた遠くから眺めて通り過ぎただけだった。
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| 発掘当時の極楽寺ヒビキ遺跡(*) | 極楽寺ヒビキ遺跡 遺構配置図(*) |
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| 神戸大学工学部建築史研究室が 復元した板状柱の大型建物模型 |
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| 室宮山古墳から出土した家形埴輪(*) |
だが、意外なところに復元の参考になる遺物が存在した。室宮山古墳の墳丘上に並べてあった埴輪の中に家形埴輪があった。昭和25年の調査で発見されたのは粉々に砕かれた埴輪片だったが、橿考研の精密な考証によって、直弧文を施した板状の柱を持つ家形埴輪に復元されていた。
家形埴輪には板状の柱をもつものがかなりあるようだ。しかし、家形埴輪は最初、粘土板で四角い箱状のものを作り、柱となる部分を残して側面の壁を切り抜くという制作技法が用いられている。このため、板状の柱を持つ家形埴輪ができあがるが、実際の建物遺構は円柱がほとんどで、まれに角柱があるというのが常識であり、板状の柱を持つ建物が当時存在したとは誰も思っていなかったという。
だが、現実には板状柱を用いた大型掘立柱の建物が存在した。しかも、この建物は西側と南側に柵が巡らされ、さらにその外側には南北25m以上、東西50mの掘立柱の塀で囲まれていた。それだけではない。周囲には幅約13m、深さ約2mの濠が掘られ、その斜面全体に葺石が施されていた。そして、濠の南側に、幅約8m、長さ12mの渡り堤が取り付けられていて、建物の出入りはこの堤を介して行われていた。
従って、誰が見てもこの建物は一般的な建物ではなく、特殊な機能を持った施設であると考えるべきであろう。極楽寺ヒビキ遺跡の北には南郷遺跡群が広がる。その中には、祭祀エリアと想定されている南郷大東遺跡や大型掘立柱建物があった南郷安田遺跡、および数々の工房と渡来系工人の住居跡とされる遺跡が連なっている。南郷遺跡群が5世紀代の桑原邑に比定されるなら、その北にはさらに高宮、忍海といった邑が存在した。一方、極楽寺ヒビキ遺跡の南には佐糜(さび)邑があった。
さらに面白い事実が指摘されている。極楽寺ヒビキ遺跡からの出土遺物はきわめて少なく、あっても細分化したものが多いとのことだ。出土した土師器や須恵器の破片から類推しても、供献に用いられた種類の物がかなりの量を占める。ということは、この遺跡を祭祀施設と見なすことも可能となる。
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(*)橿考研制作「春季特別展 葛城氏の実像」図録より転記 【引用・参考文献】 ・橿考研制作「春季特別展 葛城氏の実像」図録 ・現地説明会「南葛城の遺跡を訪ねて」のレジメ ・加藤謙吉著「大和の豪族と渡来人」(吉川弘文館) |