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| 第26番札所・金剛頂寺境内から見た室戸岬(2006/05/05 撮す) |
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もとより連休が続く5月3日〜5日は何処のホテルや旅館も予約で満杯なことは分かり切っている。一応インターネットで検索してどこも予約できなければ諦めてくれるものと思ったら、5日の夜高知市のビジネスホテルで部屋が取れたという。 よく知られているように、四国霊場八十八カ所の内訳は、徳島県 (阿波) 23カ寺、高知県 (土佐) 16カ寺、愛媛県(伊予)26カ寺、香川県(讃岐) 23カ寺である。そして、徳島県を「発心の道場」、高知県を「修行の道場」、愛媛県を「菩堤の道場」、香川県を「涅槃の道場」と呼びならわしている。昨年の2月、筆者と娘は阿波の国の23霊場を巡拝した(四国遍路:「発心の道場」阿波の国二十三カ寺を巡るを参照)。 室戸岬から高知市までの間には、岬の先端にある第24番札所・最御崎寺(ほつみさきじ、東寺)から始まるいくつかの札所がある。時間が許せば、ついでにそれらの霊場も巡拝してまわりたいという。幸い今年のGWは天候にも恵まれるというので、娘の”アッシー君”として四国巡りを付き合うことにした。以下は、その記録である。
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土佐の国が「修行の道場」とされている訳
昨年の阿波遍路では、第7番札所・十楽寺の宿望で一夜の宿を借りた。その夜、津軽三味線を担いで行脚を続ける東京から来たお遍路さんと夕食を共にした。5回目の歩き遍路に挑戦している70歳代の老人だった。その老人が「修行の道場は車で巡るほうが良いですよ」とアドバイスしてくれた。修行の道場、つまり高知県一国を打つには、歩きより車にしなさいというのだ。しかも、5回目の歩き遍路に挑戦している本人がである。
どうやら別の意味も有るらしい。四国巡礼は歩き遍路が基本であり、徒歩で霊場を巡拝することがお遍路の修行とされている。その修行の道は半端な道ではない。たとえば第23番札所・薬王寺から次の第24番札所・最御崎寺(ほつみさきじ)までは、83kmの道のりである。どんな健脚でも踏破するのに最低2泊3日はかかり、途中でいくつかの峠を越え、延々と続く海岸線を行くことになる。 第26番札所・金剛頂寺(こんごうちょうじ)から第27番札所・神峯寺(こうのみねじ)への遍路道も30kmの道のりである。歩けば1日がかりだが、最後の山門までの5kmは特に厳しい。つづら折りの山道が続いていて、車道ができるまではお遍路さんは「真っ縦」と呼ぶ急坂を登るほかなかった。そのため、遍路ころがしの一つに数えられている。今回は第27番札所まで巡拝したにすぎないが、歩き遍路にとって土佐一国はまさに”修行の道場”であることを垣間見た思いである。
午前10時近くに、四国霊場第23番札所・薬王寺に近いJR牟岐線の「日和佐」駅の隣に新しくできた道の駅で、小休止を取った。鳴門ICで高速を下りて初めての休憩である。アパートを出てすでに5時間が経過し、一般国道55号線に下りてからでもすでに1時間以上走ってきたことになる。驚いたことに、日和佐の町名が「美波(みなみ)」に変わっていた。今年の3月31日、日和佐町と由岐町が合併し、新しく誕生したホヤホヤの町とのことだ。 |
土佐湾に突き出た室戸岬
歩き遍路では、山越えのためにつづら折りの長い上り坂を登り切り、トンネル内の片側に築かれた歩道を行くことになる。車で通過するだけではわからないが、おそらくトンネル内は車の排気ガスが充満し、異臭を放っているに違いない。こうした過酷な環境を耐えて霊場を巡拝して回るのも”修行”(?)なのだろうか。 牟岐町を過ぎたあたりから、左手の車窓に太平洋の茫洋とした海原や小さな岬に切り取られた入り江が見えてくる。五月晴れの空の下で、深い紺色に輝く海原は目に痛いほどまぶしい。高知県に入ると、海岸線は単調になり、海原の先にいくつもの岬がせり出している景観を堪能することができる。
青年大師像の前を過ぎるとすぐに室戸岬の先端に着く(歩いても17分ほどの距離である)。岬の先端を見下ろす丘の中腹にも銅像が建っている。こちらは、明治維新の勤王の志士で、海援隊長の坂本竜馬と共に活躍した中岡慎太郎の像である。慎太郎は土佐国の大庄屋・中岡小伝次(こでんじ)の長男として生まれ、安政4年(1857)、20歳で大庄屋見習となり、村政に携わった。その後、高知および江戸に遊学し、文久元年(1861)に藩主・山内豊信に随伴して帰国すると、土佐勤王党に加入して、尊穣運動を展開した。元治元年(1864)7月の禁門の変では、長州藩遊撃隊に加わって参戦している。 やがて従来の尊穣運動に限界を感じた慎太郎は、新たに薩摩・長州両藩の富国強兵政策に注目し、両藩が協力して王政復古を実現するするため同志らと奔走した。これに坂本龍馬も加わり薩長同盟が成功した。一般には、薩長同盟は龍馬ひとりの手によってなされたと思われているが、周到に薩摩、長州を説得したのは慎太郎であり、薩長同盟の成立は理論武装した慎太郎の弁舌による功績が大きいとされている。龍馬は歴史の表舞台に出たが、舞台の裏方として重要な仕事をしたのが慎太郎だった。 龍馬と慎太郎はその目指すところは同じだったが、目的を達成する方法論がちがっていた。理想主義者だった龍馬はあくまでも無血クーデターを目指した。だが慎太郎は『戦』なくしては倒幕はありえないと考え、それを実践するめために『陸援隊』を組織した。しかし、慶応3年(1987)11月15日の夜、竜馬をその下宿近江屋に訪問して会談中に、見廻組に襲われて重傷を負い絶命した。慎太郎、30歳、龍馬33歳。幕末を駆け抜けた二人は、志半ばにして維新を見ることな無念のうちに若き命を終えた。 中岡慎太郎の銅像は、昭和10年(1935)安芸郡青年団が主体となって建てられた。彼の目線の先には、土佐湾を挟んで桂浜の岸壁に建つ坂本龍馬の銅像があるという。二人が現代に生きていたとすれば、沈没に瀕している日本という国家の再建策を熱く語り合っているかもしれない。残念ながら、現代の日本には当時の若き志士たちの熱き心を引き継ぐ者はみかけられない。
今からおよそ1200年前、当時は19歳の空海が、阿波の大滝獄からこの地に来て、洞穴に引きこもり難行苦行の修行を重ねた。ある日のこと、虚空蔵菩薩への祈りを唱え続けていた彼の口に突然“光り”が飛び込み、虚空蔵求聞持法を会得したと伝えられている。虚空蔵求聞持法とは、決まった真言を一定の時間に100万回唱えると8万4000もの経文を意のままに暗唱できるという超記憶術である。この修行により彼は抜群の記憶力を得て、 その後の成功につながったとされている。 弘法大師・空海(774-835)は、この地で悟りを開いた。それまでは、無空、如空、教空など様々な名を名乗っていたが、この洞窟から見える空と海に感銘を受けて、それ以後”“空海”と名乗るようになったと言われている。ちなみに「弘法大師」の諡号は、入寂後86年を経て延喜21年(921)、醍醐天皇が彼の遺徳を讃えて、贈ったものである。御厨人窟の中には五御神社と呼ばれる社があり、前には当時の苦行を詠った句碑が立つ。お遍路さんが洞窟に立ち寄って般若心経を唱えていく。窟内は読経の声が響く落ち着いた空間である。御蔵洞の先に、歩き遍路の最御崎寺への登り口がある。 中岡慎太郎の銅像の前から弘法大師が灌頂の会式を行なったと伝えられる浜に続く遊歩道が築かれている。その道を進むと、すぐに岩礁の間に美しい小石が散乱した浜辺に出る。浜辺で腰をおろし、沖から打ち寄せる波が岩礁に当たって砕け散る様は、いつまで見ていても飽きがこない。
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二十四番札所 室戸山 最御崎寺
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| 大正3年に再建された本堂 |
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| 参道左手にある大師堂 |
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| 大師堂の横にある鐘石 |
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大同2年(807)唐から帰国した空海は、 この地を訪れた。そして、嵯峨天皇の勅願により伽藍を建立し、虚空蔵菩薩像を刻んで本尊として安置したのが、寺の始まりとされている。嵯峨天皇を始め歴代天皇の信仰が厚く、足利時代には土佐の安国寺に定められ、以後各武将の寄進により七堂伽藍も整う大寺院だった。だが、その後は次第に寂れていき、元和年間(1615‐23)になって最勝上人によって復興された。
以前の遍路道は、室戸岬から約700mの険しい坂道だったそうである。現在はドライブウエイが開通して、駐車場から寺まで300mの道のりになっている。坂道を登り詰めて山門をくぐると、参道左手に大師堂、 右手に鐘楼が建ち、正面に四柱造りの本堂、その手前に多宝塔がある。本堂は大正3年に永江大仁師が再建したものである。
大師堂の脇に、空海の七不思議とされる「鐘石」がある。石質安山岩で小石で叩くと鐘のような音がする。この響きは冥土まで届くと言われ、俗に鐘石と呼ばれるようになったという。
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| 四国の南東端に位置する室戸岬の灯台 |
灯台の光源として、以前は石油を使用していたそうだが、大正6年(1917)に電化された。現在ののレンズは日本一の一等レンズで、160万カンデラの光の強さを有する。そのため、26.5海里(約49km)先まで光が届くとのことだ。
二十五番札所 宝珠山
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| 眼下の室津港 |
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| 階段の途中にある朱塗りの仁王門 |
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| 石段の上の本堂 |
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| 大師堂 |
山の麓にある朱塗りの山門をくぐると、右手に大師堂と方丈がある。正面には125段はあるという急な石段が続いている。石段の途中には朱色の仁王門がある。石段の脇にに鯉のぼりが大空を泳いでいた。見ると、竿の先端に結ばれている吹き流しの代わりに、港町らしく大漁旗がはためいていた。地元ではこの寺を「津寺」と呼んでいるという。階段を上りきったところに、本堂が町を見下ろすように立っている。本堂はいかにも現代的な建物で、昭和50年(1975)に完成した。
寺伝によると、弘法大師が大同2年(807)に当地を訪れたとき、漁業と航海の安全を祈願して、高さ1m程の延命地蔵菩薩像を刻み、堂宇を建立して安置したのが、この寺の始まりとされている。戦国時代には長宗我部氏が、江戸時代には藩主・山内氏が深く帰依していた。
本尊は秘仏のため拝観はできないが、海上の安全と火難除けの霊験あらたかとされている。この本尊については次のような伝承が残っている。慶長7年(1602)秋、土佐藩主山内一豊公が室戸の沖を航行中にわかに暴風雨となり、船が遭難しかけた。そのとき、本尊が僧に化身して船の舵を取り無事室津の港へ避難させた。 港につくと僧の姿が見えないので後を追うと、津寺の本堂の中へ消えた。本尊を拝したら全身潮でびしょぬれで、それ以来、地元の漁民はこの本尊を"揖取(かじとり)地蔵" と呼んで慕っているという。
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二十六番札所 龍頭山
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| 山門へ続く厄よけの石段 |
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| 本堂 |
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| 大師堂 |
全盛時代は寺運も大いに栄え、歴代藩主の厚い 庇護を受け七伽藍も整い、寺領 3500を有する大寺だった。だが、火災などの災害が続いて、ほとんどの堂塔を失い、大師堂のほかは すべて明治以降の再建されたものである。特に昭和58年(1983)に新しく建立された本堂は、豪壮で立派である。
本尊の薬師如来座像に関しては、面白い伝承が伝えられている。上に述べたように空海自らがこの薬師如来を彫刻されたが、本堂が完成すると、如来は自から本堂の扉を開いて堂内に入り、鎮坐したという。秘仏として扱われているが、毎年12月31日から翌年1月8日まで開帳される。
大師堂は境内に背を向けて立っている。大師の修行の邪魔をするテングを足摺岬に閉じ込めるために大師像を足摺岬にむけて安置した、という伝説がある。この地には昔から天狗が住んでおり、金剛頂寺にもあらわれて修業の僧を悩ませていたという。そのことを聞いて空海は天狗たちと問答をし、仏の貴さを教えた。そして、自分がここに居る時は決して来てはいけないと言われ、自分の姿を池に映して彫り、大きな楠の木のほこらに安置した。その像を空海その人だと思った天狗たちは、空海の命令に従ってその後は全く現れなくなったという。空海自身が彫った像は、楠の木のほこらに置かれた後、大師堂に安置されたと伝えられている。
大師堂の横に、「一粒万倍の釜」が置かれている。弘法大師が3合3勺の米を入れて炊いたところ、万倍にも増えたという伝説を持つ釜である。大師堂の前には、幹がコブだらけの椿の木がある。がん封じの椿という。
本堂の横には、大師が背負って歩いた旅壇具や真言八祖像など重要文化財六点のほか、古美術六十点が保管されているの「霊宝館」がある。また境内には、太洋漁業の取締役だった泉井守一氏が一代で8万頭の 鯨を捕獲した記念と、その霊を慰 めるため寄進した正倉院様式の「鯨昌館」があ り、館内には昔からの捕鯨用具や 鯨に関するさまざまな品が陳列されている。 境内には鯨の霊を供養する石碑も 建っている。 また、寺内には寄生植物ヤッコソウも自生しており、これは県の天然記念物に指定されている。
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| 境内に立つ捕鯨八千頭供養塔 | がん封じの椿 |
二十七番札所 竹林山
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寺の縁起によれば、当初は神功皇后が戦勝を祈願することを目的に天照大神など諸神を祀ったのが始まりとされている。後に行基菩薩が自ら十一面観音を刻んで安置し、神仏を合祀した。大同4年(809)、聖武天皇の勅命によって観音堂と名づけられ、さらに廷暦年間には四国霊場に定められた。明治の神仏分離で一時廃寺となったが、明治17年に現在の形に再興されたとのことだ。
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| 本堂 |
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| 大師堂 |
自動車で山門までたどり着くのも決して楽ではない。国道55号線沿いのバス停「安田明神」で右折して、1kmほど走ると東谷集落がある。そこから先の約4kmの山道はヘアピンカーブが連続して続く上に、道幅が狭くて車同士がすれ違うのにも一苦労である。特に下りの車とカーブですれ違うときは、側溝に脱輪するほど車を寄せなければすれ違えない。やっとの思いで、駐車場にたどり着いたときは、脇の下が汗ばんでいた。
有料駐車場の上に神峰休憩所があり、その前を通り過ぎて坂道を登っていくと仁王門の前に出る。仁王門の右手に神峰神社の鳥居がある。仁王門から本堂までは、約150段の石段が続く。石段の両脇には美しい日本庭園が整備されていて、その景観の美しさは四国霊場でも有数といわれている。石段の参道の両脇に鐘楼と庫裏が建ち、鐘桜の裏手に、病気平癒に霊験あらたかであるという言い伝えがある石清水が湧き出ている。石段を登りきって左へ進めば本堂へ、右へ進めば大師堂へ向かう。
高知城丸の内緑地内での土佐二十四万石博神峰寺の駐車場を後にしたのは、もう午後5時近かった。娘が高知駅前のビジネスホテルに今晩の宿を予約してくれていた。神峰寺から高知市内の中心部までは50km弱なので、国道55号線を走れば午後6時頃にはホテルに到着できるはずだった。ところが、途中で事故渋滞に巻き込まれてしまった。結局ホテルにチェックインしたのは7時を過ぎていた。
高知市内の観光名所はいくつもあるが、定番はやはり「よさこい節」で知られるはりまや橋、坂本龍馬の銅像が建つ桂浜、それに関ヶ原戦の功績によって徳川家康から土佐一国を拝領した山内一豊が完成させた高知城であろう。 今年のNHK大河ドラマは、司馬遼太郎原作の『巧名が辻』である。高知城丸の内緑地に築かれた大河ドラマ館では、初代土佐藩主山内一豊とその妻・千代の「夫婦愛」と「出世物語」をテーマにした「土佐二十四万石博」が4月1日から開催されている。娘の希望もあって、高知を発つ前に大河ドラマ館を訪れることにした。開館まで時間があったので、はりまや橋から桂浜を見た後、高知城に戻ることにした。
昨夜この付近を散策したしたときは、けっこう大勢の人たちがたむろしていた。近くでテレビの撮影も行われていて、けっこう賑やかだった。早朝のはりまや橋の周りに人影はない。この橋は藩政初期の豪商・播磨屋宗徳と櫃屋道清が両家の往来をするために架橋したものだそうだ。
この銅像のポーズは、慶応3年(1867)1月に上野彦馬写場で撮った龍馬33歳の時の湿板写真を下敷きにしている。龍馬が風邪を引いて京都河原町の近江屋新助宅母屋の二階に引きこもっていたとき、訪ねてきた陸援隊の中岡慎太郎とともに襲撃されて殺されたのは、慶応3年の11月15日(旧暦)のことである。したがって、写真は暗殺されるわずか10ヶ月前に撮られたものである。
関ヶ原合戦の翌年、山内一豊は大高坂山に新城の築城工事を開始した。2年後に城の大部分が完成したので、一豊は土佐藩主として新装なった高知城に移ってきた。その後、高知城は享保12年(1727)に起きた城下町の大火で追手門以外の城郭のほとんどを焼失するという惨事に見舞われたが、宝暦3年(1753)までに創建当時の姿のまま再建された。現在も当時の面影を残し、「南海道随一の名城」と呼ばれている。 一豊の妻である見性院(千代、まつ)は夫を「内助の功」で助けた賢妻として知られている。貧乏で質素な暮らしをしていた一豊には、京の馬揃え(観兵式)のための馬がなかったが、嫁入りのとき持ってきた持参金の十両で名馬を買い与えて、夫の面目を保たせた。信長はその事をおおいに評価し、一豊が頭角を現すきっかけになったという。この逸話が戦前の日本で教科書にも採りあげられ、女性のあるべき姿として学校教育に用いられた。今年のNHK大河ドラマ『功名が辻』は、司馬遼太郎作の同名の歴史小説の映画化であるが、一豊を上川隆也が、千代を仲間由紀恵がそれぞれ演じて好評のようだ。 NHKは手前みそのテレビドラマを宣伝するように、今年の4月から来年の1月までの長期間、「土佐二十四万石博」という展示を、高知城丸の内緑地の大河ドラマ館で開催している。毎週日曜日の夜、NHKでこのドラマを見ている娘は、旅行で出る前からこの展示博を見学することを楽しみにしていた。館内では、一豊・千代夫婦の「夫婦愛」と「出世」を転機を、『功名が辻』からヒントを得て5つの辻で現し、回り舞台形式で展示していた。 展示博では、俳優たちが衣装なども展示してあり、それなりに楽しい催しだった。一通り見終わって出口で娘を待っていたが、なかなか出てこない。しばらくして出口に現れた娘は、『功名が辻』に登場する女性たちに合わせた性格占いがあったので、それで自分の性格を占ってみたら、お市の方タイプだと診断された」という。何処が似ているのかと、思わず吹き出してしまった。 午後から雨になった。途中もう一泊して二〜三カ所立ち寄ることを予定していたが、すべてキャンセルして、瀬戸大橋を渡り、山陽自動車道を長駆運転して夜遅く橿原のアパートに戻った。 |