橿原日記 平成18年5月2日

古代に海東の島国にやってきたイラン系渡来人たち


”イラン系医者は6世紀に来ていた”!?

い日記帳をめくっていたら、ページの間から一枚の紙切れが膝の上に落ちた。何だろうと思って拾い上げてみると、新聞の切り抜きである。昭和57年(1982)5月8日付けの東京朝日新聞の夕刊から切り抜いておいたものだ。何かの資料にするつもりで日記帳に挟んでおいて、そのまま忘れていたものと思われる。

昭和57年5月8日付けの朝日新聞夕刊からの切り抜き
昭和57年5月8日付けの朝日新聞夕刊からの切り抜き
事のタイトルは、”イラン系医者は6世紀に来ていた”となっている。読んでみると、当時は弘前大学医学部麻酔科の助教授だった松木明知氏と中世ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏の共同研究によって、イラン系の医師が初めて来朝したのは、これまでの通説である8世紀ではなく、6世紀の半ばであることを解明したというものである。通説では、天平8年(736)に遣唐使に従って来朝した李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人医師とされていた。

木明知氏は、麻酔術が日本に伝わった時期を研究するため『日本書紀』をひもといて、見慣れない二人の人名に気づかれた。欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。欽明天皇はその前の年に隣国の百済(くだら)に対して、軍事支援の見返りとして「医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」と要求した。要求に応えて百済から派遣されてきた交代要員の博士たちの中に、二人の医師が含まれていた。

木氏は親交のあった伊藤教授に解読を依頼したところ、王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」の写音文字で「ワイ(神)によって助けられるもの」という人名であることが判明した。潘量豊丁有陀についても、「ボリヤワーデン・アヤード」の写音文字で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」という意味であり、イラン系の医師であると判断したという。その他に、天平8年(736)に来朝した李密翳(りみつえい)は医師とされているが、翳(えい)は中世ペルシャ語では楽人を表し、医師ではないこともほぼ確実になったという。

木助教授は、昭和57年(1982)6月5日と6日の両日、京都市の京都医師会館で開催された日本医史学会でこの共同研究を発表されたようだが、どのような評価を受けたかは聞いていない。



百済がイラン系医師を派遣してきた背景

者は、王有陵陀や潘量豊丁有陀が来朝したとされる時期が欽明天皇15年、すなわち西暦554年であることに注目している。『日本書紀』の記述では、百済の聖王(在位523-554)が仏教を伝えたのは、2年前の欽明天皇13年の冬10月とされている。聖王の立場からすれば、この仏教公伝の見返りに倭国からの軍事支援をどうしても必要としていた時期である。

漢江流域回復以前の三国時代
漢江流域回復以前の三国時代
王には一つの悲願があった、80年ほど昔の475年に高句麗に奪われた漢城や漢江流域の故土を回復して、名実とも百済中興の大業を実現することだった。そのため、それまで敵対していた新羅の真興王(在位540-576)と同盟を結び、551年に共同で北伐を敢行し、高句麗を撃退し、漢江流域の故土を修復することに成功した。このとき、百済は北漢城と南漢城を含む漢江下流方面を、新羅は漢江上流域の諸郡邑をそれぞれ奪取したとされている。

が、新羅が百済と手を結んだことは一時的な方便にすぎないことは、聖王も十分承知していたはずである。新羅の長年の夢は、漢江の下流域を占有して、中国南朝との交通路を確保することだった。百済との共同北進も悲願達成のための方便だった。漢江上流域を手中に納めた新羅は、必ず百済が奪回した漢江下流を攻撃してくると読んでいた。倭国に仏教を伝え、見返りに軍事支援を取り付けることは、聖王が打った対新羅対策の柱だったはずだ。

現在のソウル市内を流れる漢江
現在のソウル市内を流れる漢江(ハンガン)
期した通り、553年になると新羅は百済との和親を破り、百済の回復した南北の漢城などを突然奪取して自国の州県とし、名を新州とした。この新羅の背信行為に激昂した聖王は、倭国にたびたび使者を派遣して軍事支援を要請した。倭国が医博士や易博士の派遣を要求してくれば、それを飲んで第一級の博士を派遣することまでした。王有陵陀潘量豊丁有陀がイラン系の医者であるならば、聖王は宗主国の南宋に懇願して派遣してもらった第一級の医師だったに相違ない。それを惜しげもなく、倭国へ派遣する文化使節に加えた。聖王がいかに倭国の軍事援助に期待していたかが分かろうというものである。

54年の文化使節の派遣に対して、倭国がどの程度の軍事援助を行なったか不明である。『日本書紀』には何回か兵馬を送ったことが記されているが、具体的な数は伝えていない。その年、聖王は大加耶の兵と連合して、新羅の管山城(いまの沃川)を攻撃した。しかし、新羅の伏兵の奇襲を受けて、聖王は戦死し、百済軍は惨敗を喫した。

時は百済からの医博士や易博士、暦博士などの文化人の派遣は交代制だったようだ。イラン系の医者として来朝した王有陵陀や潘量豊丁有陀も、何年かしてまた百済に戻っていったであろう。いつも思うのだが、彼らのような異国の知識人や技術者は、己の意志で極東の地までやってきたわけではない。そこには、必ず王権の一方的な指示があったはずだ。そして、彼らとて生身の人間だ。現地の女性との交渉ももったであろう。碧眼紅毛の混血児も生まれたであろう。そうした混血児たちが倭国の社会にすんなりと受け入れられたとは思えない。おそらく周囲から迫害されて過酷な人生を生きたにちがいない。



故・松本清張氏が提唱したペルシャ人飛鳥渡来説

シンメトリックに彫られた溝がある酒船石
シンメトリックに彫られた溝がある酒船石
上部の2カ所に方形の孔がくり抜かれた益田岩船
上部の2カ所に方形の孔がくり抜かれた益田岩船
鳥時代に古代イラン人(ペルシャ人)が我が国に渡来していたとする説を提唱した作家がいる。推理小説作家の第一人者で、古代史にも造詣が深かった故・松本清張氏(1909 - 1992)である。松本氏は昭和48年(1973)6月16日から翌年の10月13日にかけて、朝日新聞の朝刊に「火の回路」という小説を連載した。全477回、原稿用紙1500枚近い大作である。大学の史学科助手・高須通子を主人公に仕立て上げて、飛鳥に残る酒船石猿石益田岩船などの古代石造遺物の謎の解明を行っている。作品の中で、これらの製造物は飛鳥時代に渡来したペルシア人が遺したとする仮説を、主人公に立てさせている。

鳥の「謎の石造物」は古代ペルシャのゾロアスター教と関係があり、飛鳥時代にペルシャ人が我が国に来て彼らの宗教であるゾロアスター教を伝えた産物であるとする仮説は、勿論松本清張氏のオリジナリティである。そのオリジナリティの裏付けと取るために、氏は執筆前に約10日ほどイランへ現地取材を敢行している。一般大衆を読者とする新聞小説としては、かなり硬派の内容だったが、現代小説に古代史の謎解きをからめ、独自の新境地を拓いた意欲作だった(後に「火の路」と改題され、文芸春秋社から出版された)。

人公の高須通子は雑誌『史脈』に「飛鳥の石像遺物」という一文を掲載し、飛鳥に点在する石像遺物と土木工事を好んだ斉明天皇が多武峰の山頂に築かせようとして完成しなかった両槻宮(ふたつきのみや)と関係があるとする仮説を展開した。飛鳥には、酒船石遺跡の丘陵上に置かれた酒船石をはじめとして、橘寺近くの畑の中に亀石、吉備姫王墓の前に猿石、橘寺境内に二面石、石神集落の田んぼの中から掘り出され現在は飛鳥資料館内に置かれている道祖神石須弥山像石がある。少し離れた橿原市の岩船山には益田岩船がある。

れらの石像物には次のような共通した特徴がある。

  1. 『古事記』や『日本書紀』などの古典に、これらの石造物の記事がない
  2. 製作年代は7世紀中葉と思われる
  3. 石の材質が、付近の古墳の石槨や石室に使われている凝灰岩より硬い花崗岩である
  4. 彫刻などの技術が稚拙である
  5. 未完成なものが多い
  6. 製作目的や用途がはっきりしない
  7. 飛鳥地方に集中している

本氏は、『日本書紀』の斉明紀に記された次の3つの記事に着目された。
●斉明2年(656)、前年に造営しかけた小墾田宮(おはりだのみや)を放棄して、後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)を造って、ここに移り住んだ。
●田身嶺(多武峰)の山上に垣を巡らした。また、峰の上の二本の槻(つき)の樹のほとりに観(たかどの)を建てた。名付けて両槻宮(ふたつきのみや)または天宮(あまつみや)といった。
●香具山の西から石上山に至る溝(小運河)を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を積んで流れのままに挽き、宮の東の山に重ねて垣とした。

に示した土木工事について、世間では「狂心の渠(たふれごころのみぞ)をつくるのに人夫3万人を費やした。垣を造るのに人夫7万余人を費やした。宮の用材は腐って山頂に埋めた」と、その乱費を呪った。また「石の山丘を作るはしから自然にこわれてゆくにちがいない」と嘲笑したという。

謎の石造物「亀石
謎の石造物「亀石
須弥山石(レプリカ)
飛鳥資料館の庭に置かれた須弥山石(レプリカ)
般には、多武峰の山頂に築こうとした両槻宮は一種の山上防城で、外敵が来攻してきたときの宮廷避難先を兼ねた軍事施設だったのではと解されている。しかし、松本氏は、斉明天皇が異宗教的な雰囲気のある女帝であることから、宗教的な建造物を建設しようとした、だが、それは一般に言われているような道教の寺院ではなかったとして、暗に拝火教(ゾロアスター教)の寺院ではなかったかと匂わせている。そして、酒船石も、亀石も、二面石も、道祖神像も、猿石も、須弥山像石も、すべて両槻宮(天宮)に供されるはずの施設物ではなかったかと推論される。

かし、両槻宮造営は失敗した。多武峰には両槻宮も石垣の痕跡も見つかっていない。飛鳥に散在する謎の石が、この両槻宮の施設物として製作されつつあったならば、宮が工事失敗で造営が中止された以上、予定の施設物のほうも未完成のまま放置されたはずである。このように解釈することで、謎の石像物が飛鳥に集中している理由も、それらが完成品でない理由も解決できるという。

して、斉明天皇の呪術的性格、両槻宮の奇怪な工事崩壊、飛鳥石仏の異様性をつなぐものの先に見えて来るのが異宗教的な体質であるとして、斉明天皇が拝火教(ゾロアスター教)の信奉だった可能性を指摘される。

ルシャ人の渡来に関しては、上に述べたように天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人とされている。その後、鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明〜815年)もペルシャ人だったとされている。だが、松本氏によれば、それ以前にペルシャ人の渡来を記した記述が存在する。例えば、斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、朝廷が召したという記録や、斉明天皇5年(659)に吐火羅(とから)人が妻の舎衛婦人とともに来たとする記録が『日本書紀』にある。

貨邏や吐火羅と表記されたトカラは、現在のタイ国に擬する説があるが、松本氏は中央アジアの西トルキスタン、現在のアフガニスタンにあったとするのが妥当であろうとされる。さらに、推古20年(612)、百済から帰化したした人間が顔と体に斑白(白子のこと)があり、白癩病(はくらいびょう)と誤解され絶海の孤島に流そうとした。しかし、自分は山岳の形をつくる才能があるというので、作らしてみると、須弥山と呉橋(中国風の石橋)を見事に作ったという。おそらく中国から百済に来ていたペルシャ系の人間で、百済から我が国に渡来したものと思われる。


「ペルセポリスから飛鳥へ」
「ペルセポリスから飛鳥へ」
本清張氏は、よほどペルシャ人飛鳥渡来説を書きたかったのだろう。主人公の女性研究者にイラン取材旅行を行わせて学術雑誌に論文の形でペルシャ人飛鳥渡来説を発表させ、それを批判する在野の学者の手紙のやりとりを中心に物語を展開させている。したがって、作者自身の言葉を借りれば、この作品の主人公は「論文」ということになる。

品を書き上げた後も、作者自身が自分の仮説がいたく気に入ったのか、NHKの企画を受け入れて再び関連取材のためにイランにまで行っている。その取材記録は後にNHK特集「清張 古代史をゆく」というタイトルでテレビ放送され、日本放送出版協会からも「ペルセポリスから飛鳥へ」という題名で出版された。

の中で、さまざまな興味深い収穫を披瀝しておられる。例えば、アケメネス朝(前700〜前300)の首都だったペルセポリスに立つ柱頭には、ライオンやワシが背中合せになっている彫刻が施されている。松本氏によれば、、柱頭飾りの機能をなくせば直接背中合せとなり、この形の人物像が飛鳥の道祖神像であり、二面石のモチーフに類似するという。

た、須弥山石と道祖神像についても、噴水施設をもっている点に着目される。噴水の石像は中国にも朝鮮にもない。噴水施設は砂漢の国の発想である。チェヘル・ソトゥーン宮殿跡にはライオンの口から噴水がでる施設がある。飛鳥はこうしたイランの流れを取り入れたといえるだろうと推測されている。

の後、松本氏は、両槻宮造営の失敗でその施設物に供するはずだった石像物が未完のまま放置されたとする自説を修正された。平成12年4月5日付けの東京朝日新聞では、”蘇我馬子が飛鳥の自邸に泉池をもうけた時、須弥山石・道祖神像・二面石・猿石などを装飾物として彫刻させたとされている。表裏に二つの顔があるのは、一は地上から見、一は池の倒影を見る効果からである。噴水施設はチェヘル・ソトゥーン宮殿と同じ、酒船石は薬酒の製造施設、益田岩船や石の宝殿は「水の石」を模して造った。続日本紀には奈良時代に波斯人(イラン系胡人)が居住したと伝えるが、飛鳥時代にも渡来していたに違いなく、その工人が馬子のためにイラン的泉池と石造物を作って奉仕したのだろう。工人のいたずらではない。馬子のあと蝦夷や入鹿により石造物の製作は続けられたが、蘇我氏の減亡で邸宅は壊され、石造物は邪魔物として飛鳥川辺や島の庄あたりに捨てられ、ワシ・グリフィンは造りかけとなり(亀石)、石の宝殴も仕上ったまま運搬できず残置された。こう考えることで、飛鳥の石造物はその謎が解けると思うがどうだろうか”と述べておられる。



ゾロアスター教の成立と東アジアへの普及

ゾロアスターの肖像
ゾロアスターの肖像(*)
ロアスター教は古代イランの民族的宗教で、教祖ゾロアスター(ザラトゥシュトラ)は紀元前7世紀から6世紀頃の人物とされている。彼は少年のころ祭司になる教育を受け、成人になって祭司職に就いた。30歳になったとき、サバランの山頂で善の神であるアフラ・マズダの啓示を受け、善と悪の対立を存在の第一の原因とした壮大な宇宙観を展開させ、新しい宗教を説くようになった。しかし、故郷では受け入れられなかったため、唯一の改宗者である従兄をともなって放浪の旅にでた。

2歳のとき東部イランのウィシュタースパ王の王妃を改宗させ、その仲介の労で王の帰依を得ると、この王の保護と援助によって彼の教説はおおいに流布されるようになった。77歳のとき、バルクでトゥラーン王アルジャスプの軍隊に襲われて殉難し一生を終えたが、それまでに新しい宗教の基礎を固めたと言われている。

ロアスター教の特徴は、宇宙の法たる神(光明神)アフラ・マズダを主神とし、アフラ・マズダに従う善神スプンタ・マンユに代表される善の勢力と、アフラ・マズダに背く悪神(暗黒神)アンラ・マンユに代表される悪の勢力の二つの原理により、世界は成立しているとする。この二元的な本体は、互いに勝敗を決すべき戦いをしている。光明にして善なる神アフラ・マズダは一切の善なるものを創造し、暗黒にして悪なる神アンラ・マンユは多くの悪なるものを創造して、相互に闘争している。この世に昼夜の交替や生死の現象があるのも、この善と悪の両神の所作にすぎない。

命は善に属するので、生命をもって生まれた人間は、善の神アフラ・マズダの側にたって悪の破壊力と戦わねばならない。にもかかわらず、邪悪さや虚偽や怒りや妬みに引きずられて悪に走った人間は、その死にあたって裁かれ、地獄に落とされ、最低の生活を送るものとされた。世界が終わるときに、善神アフラ・マズダが遣わす救世主によって、善は究極的に悪に勝利し、大地は溶けた金属でおおわれ、邪悪なものはその流れを渡ることで滅び、作りなおされた完全な世界がその後永遠に続く、という。

ササン朝ペルシャの版図
ササン朝ペルシャの版図
ロアスター教の寺院は拝火の殿堂であり、そこで光の象徴としての純粋な聖火が焚かれ、祭官がこれを護持している。そのため拝火教とも呼ばれている。西暦226年にパルティアを滅ぼして西アジアを統一したササン朝ペルシア(222〜651年)は、ゾロアスター教を国教と定めた。そのため、ゾロアスター教はイラン人の宗教として、7世紀以降のイスラムの侵入までイランの人々の信仰のよりどころとなっていた。だが、イスラムがイラン国内に入り、各地で大発展を遂げると次第にゾロアスター教は少数派となり消滅していった。

代イランのゾロアスター教は、後漢末から三国時代にかけて中国に伝えられ、5世紀頃には東西に分裂していた華北の北周や北斉で広まっていたという。、 唐代には「けん教」と呼ばれ、都の長安や洛陽、敦煌や涼州などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。 景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。

国にゾロアスター教を伝えたのは、中央アジアのソグド地方に居住していたイラン・アーリア族の住人である。ソグド地方は古代の東西交易路の三叉路にあたり、この地域の住民は商売がうまくその商業的活動は他の民族の追随を許さなかった。ソグド人は中国で「胡賈(こか、外国商人)」と呼ばれた。「胡」は中央アジア以西のイラン族を指す。

後漢書』によれば、後漢の霊帝(168−188)は「胡服、胡帳、胡牀、胡座、胡飯、胡クゴ、胡笛、胡舞を好んだので、都の貴族たちは皆これにならった」と伝えている。胡の習俗は、後漢依頼、中国では一種の先進文化として受け取られていた。ハイカラ趣味のように3世紀以来中国の貴族にもてはやされたのである。ソグド人の商人はゾロアスター教徒だった。中国に商売のため逗留したり、居住したりする内に、その信奉する宗教が貴族の間で西域趣味としてもてはやされたこともあったろう。



【参考・引用文献】
松本清張全集50『火の路』、文藝春秋刊
松本清張著『ペルセポリスから飛鳥へ』、日本放送出版協会
小川秀雄/山本由美子共著 世界の歴史4『オリエント世界の発展、央公論社刊


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