橿原日記 平成18年4月28日

遂に姿を現した(?)幻の小墾田宮(おはりだのみや)

石神遺跡(いしがみいせき)で新たな発見

石神遺跡から杭列や石組みが出土
石神遺跡から出土した杭列(*)
る3月11日、「観世音経」の存在を示す七世紀の木簡が出土したとして現地説明会が開かれたばかりの明日香村飛鳥の石神遺跡で、また新しい発見があった。発掘を担当している奈良文化財研究所(奈文研)は昨日、7世紀前半の杭列と溝とみられる石組み遺構が見つかったことを発表した。

見された場所は、斉明天皇時代の迎賓館跡(7世紀中ごろ)から約60mほど北にあたる。その場所からL字形の石組み池が出土した。人頭大の石を面をそろえて積み上げてあり、水をためる施設だったようだ。その池のそばに、直径6〜8cmの杭を20〜30cmの間隔で打ち込んだ長さ約22m以上の杭列があった。杭列は西端から北へ5.5m、東端から北へ11mに延びるコの字形に打ち込まれていて、建物や建物の基礎となる土壇を囲んでいた可能性があるという。

文研は、毎年農閑期に田んぼを一枚か二枚めくって発掘場所を北へ移動させながら石神遺跡の北側を調査している。昨年秋に開始された第18次調査では、上記の木簡の他に、封緘(ふうかん)木簡、銅製および木製人形(ひとがた)、斎串(いぐし)、船形および鳥形木製品、下駄、漆器、琴柱(ことじ)、鏝(こて)、横櫛(よこぐし)、土器、墨書土器、瓦などが見つかっている。その他に馬の首も出てきたそうだ。しかし、これといった特別な施設跡は見つからなかった。

石神遺跡から杭列や石組みが出土
石神遺跡から出土した石組み池(手前)と
柵列(手前から左奥に伸びる白線)(**)
ともと、石神遺跡の北側は、沼地が広がり施設が存在しないと考えられていた。だが、第18次調査の現地説明会の後に、その調査区であらたに建物や建物の基礎となる土壇を囲んでいたと思われる杭列が見つかったのである。この付近は、推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)推定地と隣接することから、奈文研も「「小墾田宮の関連施設や有力豪族の邸宅跡だった可能性がある」と述べている。筆者にとっては、発掘調査がやっと推古天皇の小墾田宮跡に到達してくれたという思いで胸が一杯である。今後は、小墾田宮跡の解明が一日も早くなされることを期待している。



古来、小墾田宮推定地は複数あった

明日香村にある古宮土壇
明日香村にある古宮土壇(ふるみやどだん)
日本書紀』の記載によると、第33代推古天皇は592年12月に豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、そこで11年を過ごした後、603年冬10月に小墾田宮に遷ったことになっている。その新しい宮の跡地は、長年「古宮土壇」のある場所とされてきた。明治時代にここから金銅製の壷(四環壷)が出土しており、さらに、1970年と1973年に行われた発掘調査で、川原石を組んで作った溝や、小池を持つ庭園、石敷き、掘立柱建物跡などが出土したためである。これらは小墾田宮を構成する宮殿遺構の一部とみられてきた。

だし、豊浦宮と小墾田宮は道路を挟んでまさに指呼の間にある。隣の敷地に新しい家を新築してそこへ移り住んだようなものである。このため、小墾田宮は「古宮土壇」ではなく、別の場所ではなかったかとする疑問が、昔から持たれていた。たとえば、奈良時代の『日本霊異記』には、小墾田の宮は雷丘(いかずちのおか)の南にあったという伝承を載せており、古宮土壇とは異なっている。

三十八柱神社
三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)
墾田宮が桜井市大福にある三十八柱神社(みそやはしら)あたりだったとする説もある。神社が所蔵する「聖徳太子伝暦」注記や法隆寺の秘蔵本「太子伝玉林抄」の記載を根拠に、宮司の石井繁男氏が唱えておられる説である。日本の古代史に特異な見解を示す哲学者・梅原猛氏も、その著書「聖徳太子」などで小墾田宮=大福説を支持しておられる(小墾田宮跡の伝承地の一つ三十八柱神社参照)。

987年、飛鳥側東岸の雷丘付近で「小治田宮」と墨書した土器が多数出土した。また、奈良時代の建物群が発見されたことから、小墾田が雷丘よりも東に広がる土地であった可能性が出てきた。ちょうど、かっての阿倍山田道を西に進み雷丘に突き当たるあたりである。そのため、最近ではこの付近一帯が宮地であったと推定されている。
雷丘の東側一帯
雷丘(いかづちのおか)の東側一帯

古15年(607)7月、我が国は小野妹子を大使とする遣隋使を隋に派遣した。翌16年(608)、妹子らが帰国するにあたり、隋は裴世清(はいせいせい)の他12名からなる送迎使を国情視察のために派遣してきた。妹子に同行した一行はその年の4月に筑紫に着き、6月の半ばに難波の迎賓館に迎えられた。2ヶ月後の8月3日、一行は川船で大和川を遡り海柘榴市(つばいち)で上陸すると、9日間その地に滞留させられたが、6月12日、飾り馬で小墾田宮に迎えられた一行は、皇子や諸王、諸臣が清掃して居並ぶ朝庭で進物をならべ、裴世清は使いの旨を言上すると国書を提出したという。

者には、そのときの様子をはっきりと瞼の裏に思い描くことができる。一行は海柘榴市から阿倍山田道を進んで飛鳥に入ったに違いない。異国の使者たちを人目見ようと沿道には近隣から多くの人々が駆けつけたはずである。旧暦の6月は現在の7月にあたる。真夏の太陽が容赦なく照りつける中を、飾り馬に乗った儀仗兵たちに先導されて白く乾いた山田道を進んでいったに違いない。

小墾田宮の復元イメージ
小墾田宮の復元イメージ
のときの小墾田宮における謁見の様子、および2年後に訪れた新羅・任那使節の謁見の様子から、小墾田宮のレイアウトがある程度復元されている。すなわち、南門が小墾田宮の正門であり、おそらく阿倍山田道に面して築かれていたであろう。南門を入ると、左右の役所の建物があり、その間に石敷きの朝庭があった。朝庭の正面に大門があり、その奥は天皇が住む私的空間で、推古女帝と彼女に使える采女(うねめ)たちは大殿で生活していたものと思われる。


(*) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060428-00000000-nara-l29.view-000 より転記
(**) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060427-00000116-kyodo-soci より転記



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