古来、小墾田宮推定地は複数あった
ただし、豊浦宮と小墾田宮は道路を挟んでまさに指呼の間にある。隣の敷地に新しい家を新築してそこへ移り住んだようなものである。このため、小墾田宮は「古宮土壇」ではなく、別の場所ではなかったかとする疑問が、昔から持たれていた。たとえば、奈良時代の『日本霊異記』には、小墾田の宮は雷丘(いかずちのおか)の南にあったという伝承を載せており、古宮土壇とは異なっている。
1987年、飛鳥側東岸の雷丘付近で「小治田宮」と墨書した土器が多数出土した。また、奈良時代の建物群が発見されたことから、小墾田が雷丘よりも東に広がる土地であった可能性が出てきた。ちょうど、かっての阿倍山田道を西に進み雷丘に突き当たるあたりである。そのため、最近ではこの付近一帯が宮地であったと推定されている。
推古15年(607)7月、我が国は小野妹子を大使とする遣隋使を隋に派遣した。翌16年(608)、妹子らが帰国するにあたり、隋は裴世清(はいせいせい)の他12名からなる送迎使を国情視察のために派遣してきた。妹子に同行した一行はその年の4月に筑紫に着き、6月の半ばに難波の迎賓館に迎えられた。2ヶ月後の8月3日、一行は川船で大和川を遡り海柘榴市(つばいち)で上陸すると、9日間その地に滞留させられたが、6月12日、飾り馬で小墾田宮に迎えられた一行は、皇子や諸王、諸臣が清掃して居並ぶ朝庭で進物をならべ、裴世清は使いの旨を言上すると国書を提出したという。 筆者には、そのときの様子をはっきりと瞼の裏に思い描くことができる。一行は海柘榴市から阿倍山田道を進んで飛鳥に入ったに違いない。異国の使者たちを人目見ようと沿道には近隣から多くの人々が駆けつけたはずである。旧暦の6月は現在の7月にあたる。真夏の太陽が容赦なく照りつける中を、飾り馬に乗った儀仗兵たちに先導されて白く乾いた山田道を進んでいったに違いない。
|
(*) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060428-00000000-nara-l29.view-000 より転記
(**) http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060427-00000116-kyodo-soci より転記