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| 国立歴史民俗博物館(歴博)(2006/04/22 撮す) |
ちょっと変わった切り口で、神社の成り立ちを究明した企画展示
都バスが「国立博物館入り口」のバス停に着いた。降りようとすると、運転手が声をかけてきた。
エントランスホールで受け付けをすますと、展示室の入り口で案内の女性が 通常、我が国の古い神社は、信仰や宗教といった精神面から貴重な歴史的文化的施設と見なされてることが多い。しかし、神社周辺の鎮守の森に着目すれば、現在でも立派に環境保全機能や公園的機能を果たしている。さらに、古い神社の建物を現在まで維持した技術は、建築工芸技術の面から見れば十分な研究の対象になりうる。また、美術工芸品や古文書などを所蔵し保存してきた美術館的機能も、神社は有している。このように神社はきわめて多面的な機能を備えている文化的構造物と見ることが可能である。 歴博は、神社をこうした視点で捉え、歴史学、考古学、民俗学などさまざまな専門分野の第一線の研究者によって学際的な共同研究を行っている。今回の企画展示では、そうした研究成果の一部を、4つの神社に代表させて展示していた。
第二室では、神社の有する建築美術工芸品の保存伝承という観点から、厳島神社の海に浮かぶ華麗な寝殿造りとそこに伝承されてきた平家納経をはじめとする美術工芸品が紹介されていた。また、神社と神宝について特別コーナーを設け、伊勢神宮の20年ごとの遷宮の際に奉献される神宝を展示して、神宝とは何かを解説していた。 第三室では、平安京での疫病や怨霊を鎮める信仰の基盤となった神仏習合の信仰と都市祭礼の代表例として、祇園八坂神社と祇園祭りの世界を紹介していた。 こうしたさまざまな切り口で神社という多面的な機能を持つ施設を究明するというのは、画期的な試みである。特に古代人の信仰とか宗教に興味を抱いている筆者にとっては、見逃すことができない企画だった。 |
縄文時代と弥生時代の人々が信じた神々4月12日の橿原日記にも記したように、我々の遠い祖先である縄文人は、自然の中に神々(精霊)を見いだして生きてきた。地上の森羅万象は神々の意志に基づいて、神々によって生み出され、神々が司っていると考えていた。彼ら宗教観はアニミズム(自然崇拝)であり、彼らの固有の信仰は多神教だった。 弥生時代になると、大陸や朝鮮半島の移住者たちによって、農耕文化と金属文化が伝えられた。そうした文化を受け入れた我々の祖先は、それ以後農耕民族として生きてきた。稲を守り豊饒な実りを約束して貰うために、田植えの時期には稲作の豊穣をもたらす田の神などを祭るようになる。夏には、害虫を防ぐ虫送りや,雨乞い・風祭り・日乞いなどの稲作儀礼を行い、稲刈りが終われば、初穂を農神・作神とみなされている神々に新穀として献じる。これが、後の新嘗祭(にいなめさい)の原点とされている。
ところが、昭和59年(1984)7月、島根県東部の斐川町にある神庭(かんば)荒神谷から、それまでの全国出土数をはるかに上回る358本の銅剣が見つかった。翌年には、さらに銅鐸6個を銅矛16本が発見された。平成8年(1996)になると、荒神谷遺跡から山を挟んで3.4kmほど離れた加茂町岩倉で、農道工事現場で史上最多となる39個もの銅鐸が見つかった。 島根県は銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏とが交差する地域であり、両文化圏と交渉を持ったとされている。こうした青銅祭器は、近くの村々が農耕祭祀のためにそれぞれ保持していた神の依り代だったかもしれない。興味深いのは、いずれの遺跡でも青銅祭器が、土の中に埋納された状態で発見された点である。青銅器埋納については、廃棄説や隠匿説、地鎮説など古くからさまざまな説が出されているが、まだ定説をみない。 興味深い説の一つに、佐原氏が提唱された土中保管説がある。弥生青銅器を農耕儀礼に用いられたと考え、地霊のパワーを蓄積するために聖なる場所に埋めておき、田植えなどの際に取り出して豊作を祈願して祀ったという説である。この説では、収穫が終わると感謝の祭りを行って再び埋納したが、大量出土したのは、青銅祭器の祭りが終わりをつげた頃、そのまま放置したためとしている。 さらに、これらの青銅祭器は当時の集落から離れた小高い丘の頂上ではなく、尾根の斜面に埋納されていた。その点に関しても、佐原氏は面白い見解を示しておられる。すなわち、山頂は神が宿る場所であり、眺望の良い尾根は神を招く場所であり、そこで祭りを挙行した後、その斜面に祭器を埋めたり埋納したことを暗示しているという。
人々の霊魂が住む死後の住まいは墓である。古墳時代、一族の長が死ぬと、人々の生活の場からそれほど遠くない場所に墓を築き、その霊を祀った。こうした風習は連綿と続き、やがて祖先崇拝として形が整えられていく。 その最たる例が、畿内を中心に盛んに築造された前方後円墳であろう。大王家をはじめとする主要な氏族は、死せる族長の権威や権力を象徴する巨大な墓を築き、新しい族長はその墓の上で祖霊を祀り、首長権の継承儀礼を厳かに執行したとされている。 |
神話の伝承を裏書きした巨大な神の宮・出雲大社生きとし生けるものはすべて、この世に生まれ、生き、そして死んでいく。人間もその例外ではない。そして、自分は何処から来たのかという疑問をふと抱いたとき、人々は自分のルーツ探しを始める。それは、人間の根元的な知識欲であり、現代であれ古代であれ変わりはない。自分の祖先を追い求め、さらに追い求めてその先が分からなくなったとき、人間は神の世界を創造した。それぞれの民族はそれぞれの神話を持つ。神話は古代の人々がルーツ探しの果てに地上で創造した神々の世界である。
そのとき国譲りの条件として、大国主神は、 神話の話は別として、出雲大社の具体的な創建時期を示す史料は伝わっていない。『日本書紀』の斉明天皇5年(659)に記載されている「この年、出雲国造(いずものくにのみやつこ)に命じて、神の宮を修厳せしむ」という記録が一番古いとされている。したがって、それ以前に築造されていたことは間違いない。そもそも神を奉斎する常設の社殿として神社が築かれるようになったのは、仏教寺院の影響であるとされている。そうであれば、我が国の最初の仏教寺院である飛鳥寺が造営されたのは推古天皇4年(596)であるから、7世紀に入ってからのことである。その際に、倉庫として築かれていた高床式建物を神社の建築様式として採用したとされている。
神を祀る祭祀空間は、「社(やしろ)」と呼ばれていた。当時は、社の多くは一定の聖空間を占有し、「神が降臨する場所」あるいは「神が坐す所」と認識され、杜や甘南備山、磐座など自然界と密接な関わりを持つ場所に存在した。一方、神の「宮(みや)」は「御屋」の意であり、社のうちもっぱら神を奉斎する常設の社殿を持つ祭祀空間を指した。『出雲国風土記』によれば、この風土記が完成した天平5年(733)頃、出雲には399の社があったが、神の「宮」とされたのは出雲大社(当時の呼称は杵築大社(きづきのおおやしろ))だけだったという。
古代出雲大社本殿の巨大さを伝える資料は、他にもあった。出雲国造千家家に伝えられてきた建築平面図とも言うべき『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』である。その図面によれば、柱の太さが1丈(3m)もあり、しかも9本の柱はそれぞれ、3本の木を鉄の輪で1つに束ねってあって、まさに異様とも言える巨大さだった。それに加えて、前面に描かれた引橋の長さが1町(約109m)と記されている。常識的には、100mもの長さの階段が必要な建物など、現実には到底存在しないとされた。 平成11年(1999)年9月から建設予定地の発掘調査をおこなったところ、翌平成12年になって驚くべき発見があった。神殿の柱の根本部分が、拝殿北側から3本も出てきたのである。これらの柱は大社造りの9本柱のうち、最も重要な心の御柱、本殿の棟を支える宇豆柱(うずばしら、棟持柱)、および側柱(がわばしら)だった。しかも、いずれの柱も3本の木を束ねて1本とした巨大なものである。3本を束ねた柱の直径は約3mであり、『金輪御造営差図』に描かれた柱の太さは現実だった。
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神社建築の開始に関する通説を覆す発掘事例神を奉斎する常設の社殿は仏教寺院に対抗して築かれるようになったとする従来の通説を覆す発見が、次々と行われている。例えば松江市南郊の忌部川下流域に、標高46mの田和山と呼ばれる独立丘陵がある。そこから弥生時代の環壕集落跡が発見された。現在は、田和山史跡公園として整備されているが、その環壕集落は小高い丘を中心にして山麓まで三重の環壕と土塁を巡らされていた。
9本柱が「田」の字型に配置された建築様式は、後世の大社造り建築の基本である。そのため、田和山はこの地域一帯の人々から象徴的・精神的に重要な聖地であり、山頂の施設は集落統合の重要な意味を持った建物だったと推測されている。 現在、西側斜面に奥行き約10m、幅、高さ各約4mの山陰最大の掘立柱建物が復元されている。竪穴住居跡に隣接することから、この建物跡は単なる住居とは考えにくく、九本柱遺構がある山頂部を遥拝(ようはい)する場だったのではと推測されている。
これらの線刻絵画の中で、長い柱と梯子を持つ高床建物は印象的である。まるで復元された出雲大社の本殿のイメージのようで、後世の出雲大社の建築様式のルーツが伺える。右手の船は単なる船ではなく、神の魂を運ぶ「天の鳥船」を表していると解釈されている。また、船上の人々は祭祀に関わった人々を表しているとのことだ。 |