橿原日記 平成18年4月22日

国立歴史民俗博物館(歴博)に神社の由来をたずねる

国立歴史民俗博物館
国立歴史民俗博物館(歴博)(2006/04/22 撮す)


企画展示の入場券あ
企画展示の入場券
葉県の佐倉市は、江戸時代の初めに土井利勝が佐倉城を築いた土地である。明治になると、その城址に佐倉連隊が置かれたが、現在は城址公園として整備されいる。その一角に「歴博」と通称される国立歴史民俗博物館の近代的な建物が築かれている。1982年3月に設立された歴博は、単なる歴史資料の展示・公開するだけの歴史博物館ではない。当初から国立大学の共同利用機関として位置づけられていて、考古学、歴史学、民俗学などの各分野で大学や他の研究機関と共同で研究を推進する施設でもある。そのため、大学共同利用機関法人の人間文化研究機構によって運営されている。

者は2つの理由で歴博に関心をもっていた。まず、1997年から2001年8月まで歴博の館長を務められたのが、考古学者の佐原真(さはらまこと)氏だったことだ。佐原氏は、学部こそ異なるが実は筆者の7年先輩にあたる。大阪外国語大学ドイツ語学科を1957年に卒業されながら、考古学への夢を捨てきれず、翌年京都大学院修士課程に入学され、有光教一・小林行雄・樋口隆康氏らの指導を受けて考古学の世界に入られた。『考古学つれずれ草』など多くの著作があるが、2002年に亡くなられたのは残念である。

う一つの理由は、九州北部の弥生時代早期から前期の遺跡から出土した土器に付着していた炭化物を、AMS法(加速器質量分析法)による高精度炭素14年代測定法によって計測し、弥生時代の開始時期が通説より500年早まるという衝撃的な研究発表を行なったのが、歴博の研究グループだったことだ。

心からかなり離れたところに立地しているため、今まで歴博を訪れたことがない。ところが、現在「日本の神々と祭り 神社とは何か?」という企画展示を行っていると聞いて、良い機会だから訪れてみる気になった。自宅を出たのが朝の9時少し前である。最寄りのJR武蔵野線「東浦和駅」で9時10分発の電車に乗った。途中、西船橋と千葉で列車を乗り継ぎ、さらに総武線の「佐倉」駅からバスに乗り継いで、11時26分に歴博に到着した。やはり2時間半を越えるアクセスはきつい。



ちょっと変わった切り口で、神社の成り立ちを究明した企画展示

バスが「国立博物館入り口」のバス停に着いた。降りようとすると、運転手が声をかけてきた。
「歴博へ行かれるなら、次の「国立歴史民俗博物館」で降りてください。このバスは歴博の正面玄関まで乗り入れますよ」
どうやらJR佐倉駅を始発とするバスは2系統あるらしい。バス停「国立博物館入り口」からだと、正面玄関まで上り坂を5分ほど歩かなければならない、とのことだ。

バス停から正面玄関へ続く上り坂
バス停から正面玄関へ続く上り坂
地階へ下る階段
地階へ下る階段
ったりと弧を描くスロープが、みずみずしい新芽をふいてまぶしい木々の間を縫って続いている。バスは緩やかな丘陵を登り切ると、駐車場の前でUターンして、文字通り歴博の正面玄関前で停車した。だが、バス停から正面玄関までは、まだ赤い煉瓦を敷いた階段状の上り坂が続いている。見上げると、博物館の建物に「歴博」の二文字がくっきりと浮かび上がっていた。

ントランスホールで受け付けをすますと、展示室の入り口で案内の女性が
「企画展示室は地階になります」
と丁寧に教えてくれた。歴博には1階と地階にそれぞれ3つの展示室がある。建物はコの字型に築かれ、中央が吹き抜けの中庭になっている。本来ならプロローグの回廊を通って第一展示室へ向かうべきだろうが、それぞれの展示室を見て回れば2時間近くかかるという。やむを得ず、企画展示が催されている地階へ長い階段を下りていった。

常、我が国の古い神社は、信仰や宗教といった精神面から貴重な歴史的文化的施設と見なされてることが多い。しかし、神社周辺の鎮守の森に着目すれば、現在でも立派に環境保全機能や公園的機能を果たしている。さらに、古い神社の建物を現在まで維持した技術は、建築工芸技術の面から見れば十分な研究の対象になりうる。また、美術工芸品や古文書などを所蔵し保存してきた美術館的機能も、神社は有している。このように神社はきわめて多面的な機能を備えている文化的構造物と見ることが可能である。

博は、神社をこうした視点で捉え、歴史学、考古学、民俗学などさまざまな専門分野の第一線の研究者によって学際的な共同研究を行っている。今回の企画展示では、そうした研究成果の一部を、4つの神社に代表させて展示していた。

出雲大社
出雲大社
一室では、神社の始源とその歴史を示すために古代日本の代表的神社とされている出雲大社を中心とした出雲世界が紹介されていた。出雲世界は国譲りの舞台となった古代神話の世界であると同時に、弥生時代の祭器とされる銅鐸や銅剣・銅矛などの青銅器が多数埋納されていた神庭(かんば)荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡の所在地でもある。

厳島神社
厳島神社
伊勢神宮
伊勢神宮

二室では、神社の有する建築美術工芸品の保存伝承という観点から、厳島神社の海に浮かぶ華麗な寝殿造りとそこに伝承されてきた平家納経をはじめとする美術工芸品が紹介されていた。また、神社と神宝について特別コーナーを設け、伊勢神宮の20年ごとの遷宮の際に奉献される神宝を展示して、神宝とは何かを解説していた。

三室では、平安京での疫病や怨霊を鎮める信仰の基盤となった神仏習合の信仰と都市祭礼の代表例として、祇園八坂神社と祇園祭りの世界を紹介していた。

うしたさまざまな切り口で神社という多面的な機能を持つ施設を究明するというのは、画期的な試みである。特に古代人の信仰とか宗教に興味を抱いている筆者にとっては、見逃すことができない企画だった。



縄文時代と弥生時代の人々が信じた神々

月12日の橿原日記にも記したように、我々の遠い祖先である縄文人は、自然の中に神々(精霊)を見いだして生きてきた。地上の森羅万象は神々の意志に基づいて、神々によって生み出され、神々が司っていると考えていた。彼ら宗教観はアニミズム(自然崇拝)であり、彼らの固有の信仰は多神教だった。

生時代になると、大陸や朝鮮半島の移住者たちによって、農耕文化と金属文化が伝えられた。そうした文化を受け入れた我々の祖先は、それ以後農耕民族として生きてきた。稲を守り豊饒な実りを約束して貰うために、田植えの時期には稲作の豊穣をもたらす田の神などを祭るようになる。夏には、害虫を防ぐ虫送りや,雨乞い・風祭り・日乞いなどの稲作儀礼を行い、稲刈りが終われば、初穂を農神・作神とみなされている神々に新穀として献じる。これが、後の新嘗祭(にいなめさい)の原点とされている。


大量の銅剣を出土した神庭荒神谷遺跡
大量の銅剣を出土した神庭荒神谷遺跡
銅鐸発掘時の状況を復元したレプリカ
加茂岩倉遺跡で大量出土した銅鐸
生時代に伝えられた金属文化は鉄と青銅の文化である。硬くて切れ味も鋭い鉄は鋭利な武器や農耕具として使用された。しかし、青銅器は我が国で独自な発展を遂げ、利器としてではなく農耕祭器として次第に大型化していった。祭器としての青銅製品に着目した場合、北九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏と、近畿を中心とする銅鐸文化圏が存在したとされてきた。

ころが、昭和59年(1984)7月、島根県東部の斐川町にある神庭(かんば)荒神谷から、それまでの全国出土数をはるかに上回る358本の銅剣が見つかった。翌年には、さらに銅鐸6個を銅矛16本が発見された。平成8年(1996)になると、荒神谷遺跡から山を挟んで3.4kmほど離れた加茂町岩倉で、農道工事現場で史上最多となる39個もの銅鐸が見つかった。

根県は銅剣・銅矛文化圏と銅鐸文化圏とが交差する地域であり、両文化圏と交渉を持ったとされている。こうした青銅祭器は、近くの村々が農耕祭祀のためにそれぞれ保持していた神の依り代だったかもしれない。興味深いのは、いずれの遺跡でも青銅祭器が、土の中に埋納された状態で発見された点である。青銅器埋納については、廃棄説や隠匿説、地鎮説など古くからさまざまな説が出されているが、まだ定説をみない。

味深い説の一つに、佐原氏が提唱された土中保管説がある。弥生青銅器を農耕儀礼に用いられたと考え、地霊のパワーを蓄積するために聖なる場所に埋めておき、田植えなどの際に取り出して豊作を祈願して祀ったという説である。この説では、収穫が終わると感謝の祭りを行って再び埋納したが、大量出土したのは、青銅祭器の祭りが終わりをつげた頃、そのまま放置したためとしている。

らに、これらの青銅祭器は当時の集落から離れた小高い丘の頂上ではなく、尾根の斜面に埋納されていた。その点に関しても、佐原氏は面白い見解を示しておられる。すなわち、山頂は神が宿る場所であり、眺望の良い尾根は神を招く場所であり、そこで祭りを挙行した後、その斜面に祭器を埋めたり埋納したことを暗示しているという。


首長クラスを埋葬した前方後円墳
首長クラスを埋葬した前方後円墳
(例:復元された保渡田八幡塚古墳)
然を支配する精霊たちを神々として理解したように、古代の人々は人が死ぬと肉体は滅びるが、霊魂は死体から離れてこの世に生き続け、日々の生活を護ってくれる信じていたようだ。当時の人々には、死後に天上に生まれ変わるとか、地獄に堕ちるなどという考えはなく、人々は過去世も来世も信じていなかったとされている。

々の霊魂が住む死後の住まいは墓である。古墳時代、一族の長が死ぬと、人々の生活の場からそれほど遠くない場所に墓を築き、その霊を祀った。こうした風習は連綿と続き、やがて祖先崇拝として形が整えられていく。 その最たる例が、畿内を中心に盛んに築造された前方後円墳であろう。大王家をはじめとする主要な氏族は、死せる族長の権威や権力を象徴する巨大な墓を築き、新しい族長はその墓の上で祖霊を祀り、首長権の継承儀礼を厳かに執行したとされている。



神話の伝承を裏書きした巨大な神の宮・出雲大社

きとし生けるものはすべて、この世に生まれ、生き、そして死んでいく。人間もその例外ではない。そして、自分は何処から来たのかという疑問をふと抱いたとき、人々は自分のルーツ探しを始める。それは、人間の根元的な知識欲であり、現代であれ古代であれ変わりはない。自分の祖先を追い求め、さらに追い求めてその先が分からなくなったとき、人間は神の世界を創造した。それぞれの民族はそれぞれの神話を持つ。神話は古代の人々がルーツ探しの果てに地上で創造した神々の世界である。

国譲りの舞台となった稲佐が浜
国譲りの舞台となった稲佐が浜
古事記』や『日本書紀』は、両書の間に多少の異動はあるものの、ほぼ同様な神話を今に伝えている。これを一般には記紀神話と呼んでいる。戦前、記紀神話は皇室に伝えられた史実として学校教育でも教えられたが、第二次世界大戦で敗戦した後は、歴史教育から除外されてしまった。津田左右吉は、記紀神話は記紀編纂者の”机上の創作”とまで言い切ったとされているが、それは少し言い過ぎの気がする。少なくとも『古事記』や『日本書紀』が編纂された8世紀初めの頃は、遠い祖先から語り伝えられてきた伝承として、人々は神話を信じ精神生活の糧としていたはずである。歴史的事実とは次元が異なる。

大国主神の像
大国主神の像
うした記紀神話の中で、「出雲」の国の稲佐が浜は、「国譲り」の舞台となった重要な場所として知られている。そのころ、葦原中国(あしはらのなかつくに)を支配していたのは大国主神(オオクニヌシノカミ、=大己貴神)だったが、高天原の神々はその国を天孫に支配させるために、建御雷神(タケミカヅチノカミ、=武甕槌神)を派遣して国譲りを迫った。

のとき国譲りの条件として、大国主神は、
「この葦原中国はことごとく献上いたしましょう。ただ、私の住むところは、天つ神の御子が皇位を継がれる立派な宮殿のように、地底の盤石に宮柱を太く立て、大空に千木を高々にそびえさせた神殿を造っていただけるなら、私は幽界に隠退しましょう」
と申し出たという。 そして、大国主神を祭神として祀る神社として建てられたのが、出雲大社と伝えられている。

話の話は別として、出雲大社の具体的な創建時期を示す史料は伝わっていない。『日本書紀』の斉明天皇5年(659)に記載されている「この年、出雲国造(いずものくにのみやつこ)に命じて、神の宮を修厳せしむ」という記録が一番古いとされている。したがって、それ以前に築造されていたことは間違いない。そもそも神を奉斎する常設の社殿として神社が築かれるようになったのは、仏教寺院の影響であるとされている。そうであれば、我が国の最初の仏教寺院である飛鳥寺が造営されたのは推古天皇4年(596)であるから、7世紀に入ってからのことである。その際に、倉庫として築かれていた高床式建物を神社の建築様式として採用したとされている。

瑞垣に囲まれた出雲大社の神殿(模型)
瑞垣に囲まれた出雲大社の神殿(模型)
が、「神社」が突然出現した訳ではない。古墳時代には、山・岩などを対象とした祭祀や、峠や島で行われた祭祀、池泉や川辺で行われた祭祀などの跡が、全国各地で発掘されている。出雲大社の境内でも、祭祀行為にかかわりがあると思われる古墳時代前期末(4世紀末ごろ)の遺跡が発見されている。

を祀る祭祀空間は、「社(やしろ)」と呼ばれていた。当時は、社の多くは一定の聖空間を占有し、「神が降臨する場所」あるいは「神が坐す所」と認識され、杜や甘南備山、磐座など自然界と密接な関わりを持つ場所に存在した。一方、神の「宮(みや)」は「御屋」の意であり、社のうちもっぱら神を奉斎する常設の社殿を持つ祭祀空間を指した。『出雲国風土記』によれば、この風土記が完成した天平5年(733)頃、出雲には399の社があったが、神の「宮」とされたのは出雲大社(当時の呼称は杵築大社(きづきのおおやしろ))だけだったという。

『金輪御造営差図』
出雲国造千家家に伝わる『金輪御造営差図』
掘り出された心御柱
掘り出された心御柱
ころで、出雲大社の言い伝えでは、神殿の高さは上古には32丈(約96m)もあったという。 32丈という途方もない高さは、ちょっと信用する気になれないが、平安時代には16丈(約48m)の神殿が建っていたという。天禄元年(970)に源為憲(みなもとのためのり)が書いた『口遊(くちずさみ)』という本に、当時の日本の三大建築物が「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」として記されている。これは、所在地を姓として大きさの順を表したもので、「雲太」は出雲太郎の略で、出雲大社の本殿を指している。同様に、「和二」は大和二郎の略で東大寺大仏殿を、「京三」は京三郎の略で京都の大極殿を表している。 その当時の東大寺大仏殿の高さは15丈あったとされている。したがって、出雲大社の神殿はそれを越える十六丈(約48m)はあったと想定され、「天下無双の大廈(たいか)」と讃えられた。

代出雲大社本殿の巨大さを伝える資料は、他にもあった。出雲国造千家家に伝えられてきた建築平面図とも言うべき『金輪御造営差図(かなわのごぞうえいさしず)』である。その図面によれば、柱の太さが1丈(3m)もあり、しかも9本の柱はそれぞれ、3本の木を鉄の輪で1つに束ねってあって、まさに異様とも言える巨大さだった。それに加えて、前面に描かれた引橋の長さが1町(約109m)と記されている。常識的には、100mもの長さの階段が必要な建物など、現実には到底存在しないとされた。

成11年(1999)年9月から建設予定地の発掘調査をおこなったところ、翌平成12年になって驚くべき発見があった。神殿の柱の根本部分が、拝殿北側から3本も出てきたのである。これらの柱は大社造りの9本柱のうち、最も重要な心の御柱、本殿の棟を支える宇豆柱(うずばしら、棟持柱)、および側柱(がわばしら)だった。しかも、いずれの柱も3本の木を束ねて1本とした巨大なものである。3本を束ねた柱の直径は約3mであり、『金輪御造営差図』に描かれた柱の太さは現実だった。

出雲大社
出雲大社の復元イメージ(原図 張仁誠氏 復元 大林組)
さ16丈(48m)の木造建造物など建築学の常識では不可能と思われてきたため、『金輪御造営差図』に基づいて古代出雲大社の復元シミュレーションが試みられた。シミュレーションを行ったのは、工学博士・福山敏男氏と建設会社・大林組プロジェクトチーム。その結果、16丈の高さの高層神殿の建設が可能なことが実証された。現在、3本の木を束ねた巨柱の模型が拝殿の裏に置かれている。さらに巨柱が埋まっていた位置が八足門の前に描かれている。



神社建築の開始に関する通説を覆す発掘事例

を奉斎する常設の社殿は仏教寺院に対抗して築かれるようになったとする従来の通説を覆す発見が、次々と行われている。例えば松江市南郊の忌部川下流域に、標高46mの田和山と呼ばれる独立丘陵がある。そこから弥生時代の環壕集落跡が発見された。現在は、田和山史跡公園として整備されているが、その環壕集落は小高い丘を中心にして山麓まで三重の環壕と土塁を巡らされていた。

田和山遺跡の復元された掘立柱建物
田和山遺跡の西側斜面に復元された掘立柱建物
般に、弥生時代の環壕集落は多数の人口を抱えた集団の居住域と理解されてきたが、この遺跡はちょっと様子が違っていた。環壕によって厳重に守られた丘の頂は、平らな部分が東西10m、南北30mほどしかなく、そこでは「5本柱」と「9本柱」の建物跡と柵状の柱列しか確認できなかった。

本柱が「田」の字型に配置された建築様式は、後世の大社造り建築の基本である。そのため、田和山はこの地域一帯の人々から象徴的・精神的に重要な聖地であり、山頂の施設は集落統合の重要な意味を持った建物だったと推測されている。

在、西側斜面に奥行き約10m、幅、高さ各約4mの山陰最大の掘立柱建物が復元されている。竪穴住居跡に隣接することから、この建物跡は単なる住居とは考えにくく、九本柱遺構がある山頂部を遥拝(ようはい)する場だったのではと推測されている。

稲吉角田遺跡出土の土器に描かれた線刻絵画
稲吉角田遺跡出土の土器に描かれた線刻絵画
取県淀江町で見つかった弥生時代の稲吉角田(いなよしすみた)遺跡からは、線刻絵画土器が出土している。復元すると高さが1mを越える大型の壺だが、太陽を思わせる車輪紋や、舟を漕ぐ鳥装の人々、細長い柱と梯子を持つ高床建物などが、その頸に描かれている。

れらの線刻絵画の中で、長い柱と梯子を持つ高床建物は印象的である。まるで復元された出雲大社の本殿のイメージのようで、後世の出雲大社の建築様式のルーツが伺える。右手の船は単なる船ではなく、神の魂を運ぶ「天の鳥船」を表していると解釈されている。また、船上の人々は祭祀に関わった人々を表しているとのことだ。




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