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明日香は先週末に桜の満開の時期を迎えた。甘樫丘の豊浦展望台や石舞台の周辺、あるいは橘寺など明日香観光のスポットでは、見事な花を付けた桜木が見慣れた風景に華やかさを添えていた。日本で初めて創建された仏教寺院・飛鳥寺の跡地に建つ安居院もその例外ではない。
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仏教伝来の頃の倭人の宗教観民俗学者の柳田国男によれば、日本人にとって死とは霊魂がその入れ物である肉体から分離することである。仏教を信仰している関係上、現代に生きる我々はほとんどが、死後の霊魂が行くところは、極楽浄土か地獄かのいずれかであると認識している。だが、6世紀に仏教が伝来する以前の倭人(当時はまだ日本という国名は存在しなかった)は、どのような宗教観を抱いていたのであろうか? 彼ら古代人だって、重要な精神生活の一部として、先祖から引き継いできた宗教観や信仰心をもっていたはずである。縄文時代から引き継いできた古代人の宗教観を外観すると、およそ次のようなことが言えるそうだ。 ■縄文時代・弥生時代には・・・我々が住む日本列島は、四季の移り変わりがハッキリしていて、自然の恵みも豊かである。このように気候風土の比較的穏やかな地域に住む人々に共通する宗教観は、アニミズム(自然崇拝)であるとされている。我々の遠い祖先である縄文人も、自然の中に神々(精霊)を見いだして生きてきた。すなわち、地上の森羅万象は神々の意志に基づいて、神々によって生み出され、神々が司っていると考えていた。彼らの固有の信仰は多神教だった。
この世の秩序は神々の意志の現れであると、古代の人々は考えていた。「マツル」というのは、神意をうけたまわって、その通りに行動することをいう。人々は神々の託宣を受けて、あるいは神々の意志を卜占でうらなって行動するのが常だった。その「マツル」という行動を社会的に表したのが「マツリゴト」である。祭りは神々がその意志を示すことを祈り乞う儀式のことである。 邪馬台国の卑弥呼は、神に仕える巫女(みこ)つまりシャーマンだったとされている。神々を祭り、神々の声を代弁する宗教指導者として君臨するとともに、邪馬台国の政治までも彼女は主導した。彼女の一声で兵士はいかようにも動かすことができた。卑弥呼が生きた時代は、祭りも政治も不可分の状態にあり、祭政一致の時代だったと言われる所以である。 ■神話の世界観本居宣長は『古事記』や『日本書紀』に伝えられた神話を、神話とは言わずに古伝説と呼んだという。したがって、神話を解明することで、当時の人々が抱いていた世界観や人間観、宗教観というものが、ある程度見えてくる。 我が国の神話は、古代の人々がこの宇宙を垂直に重なり合った3つの世界と理解していたことを示している。天上には神々が住む光明の世界である「高天原(たかまがはら)」がある。地下には悪霊が住む暗闇の世界である「黄泉(よみ)の国」または「根の国」がある。その両者の間に位置するのが、人間世界の「葦原の中つ国」である。中つ国は人間が生まれ、生き、死にゆく大地である。さらに、天上に属する神々と地下に属する悪霊とが交錯する世界でもある。 神話の世界では、我が国の神々は「天つ神(あまつかみ)」と「国つ神(くにつかみ)」とに区別される。天つ神は天上にある高天原に住む神々であり、永遠の存在であって、死ぬことはない。国つ神は「中つ国」に住む神々である。国つ神は高天原に登ることはないが、その血統あるいは本質において高天原に連なっているという。
天孫降臨の神話は、高天原と中つ国を結ぶ物語である。太陽神である天照大神の孫にあたるニニギノミコトが、神聖なる稲穂である斎庭(ゆにわ)の穂をもって中つ国に降りてこられた。農業の事始めが高天原にあると信じた当時の人々は、その稲種を持って降臨してきた神の子を現人神(あらひとがみ)と信じて、その周囲に団結した。古代の大王であるスメラミコトは天照大神をまつる司祭者であり、その最大の役割は祭祀にあった。 ■死後の世界古代の人々は、中つ国を人間の世界であると見なしていた。天つ神が中つ国に降臨して国つ神を支配し、その庇護のもとに人間が地上に生まれ、生き、死ぬと考えてきた。悪の源である悪霊たちは地下の世界から迷い出て、この世に生きるものを傷つけ、死に至らしむこともあるだろう。その他にも、疫病や風水害、干魃、飢饉といった自然の驚異に絶え間なくにさらされたであろう。だが、上代の人々は天つ神と国つ神の豊かな保護を信じて、楽天的に生きたようだ。 「命」とは、人間の体に宿った神秘的な霊力を表す言葉である。古代の人々は、霊力が衰えると人は病気になり、霊力が消滅すれば死が訪れると考えた。そして、人が死ねば霊魂は死体から離れてフラフラと歩き回ると信じていた。死体は穢れているため土に埋めたが、霊魂は清浄であり、この世に留まっていると信じた。 仏教が伝わる以前から、古代の人々は死後にも霊魂は生き続けることを疑わなかった。人間が住んでいるこの世は、霊魂が死後も留まって生きている世界だった。人間が死んだら天上に生まれ変わるとか、地獄に堕ちるという観念はなかった。当時の人々は過去世や来世を信じていなかったようだ。 人々の霊魂が住む死後の住まいが墓であり、人々の生活の場からそれほど遠くない場所に築かれた。古くは、年に何度も祖霊が子孫たちの家に訪ねてきて会食すると信じられていた。その日は、先祖たちが訪ねてくる道に灯籠を灯し、家紋に迎え火を焚いて、祖霊を家に迎えて、会食した。こうした風習は連綿と続き、やがて祖先崇拝として形が整えられていく。
古墳の本質は言うまでもなく、亡くなった人を葬る「墓」である。死者の霊を厚く葬ることで、子孫たちを守って貰えると思っていたに違いない。被葬者の他界への旅立ちを祈って、さまざまな葬送儀礼が古墳の上で行われた。それと同時に、巨大な墳墓は一族の権力の象徴であり、古墳を造営し盛大な死者の霊を祭る儀式を行うことは、族長の地位を継承した証しとされたようだ。 ■山中他界観と海上他界観
一方、海岸や海に近い河川の近くに住んでいた人々は、他界は海の彼方または海の底にあると考えていた。当初は、死後の魂が行き着く海の彼方や海の底は、常夜の暗い世界と認識されていたようだ。しかし、次第に、海の彼方は祖霊がいる明るい世界、常世として観念されるようになり、海の底も、ぼんやりと明るい世界で沖縄でいう「青(おー)」の世界のようなイメージで理解されるようになった。 山の彼方や海の彼方に”あの世”があると考えるのは水平的な認識である。それに対して、天上や地下にあの世があるとするは、垂直的な認識の仕方である。だが、こうした考え方は、我が国古来のものではなく、大陸から伝えられたものであるとされている。おそらく、弥生時代の朝鮮半島から渡来した人々が、稲作と一緒に持ち込んだのであろう。 不思議なことに、記紀神話は皇孫が高天原から降臨したと語っているのに、古代の人々は、死後の世界が天空にあるとはあまり考えなかったようだ。わずかに一例だけ『万葉集』に死霊が天上に帰ることを詠んだ歌が記載されている。草壁皇子が亡くなったとき柿本人麻呂が詠んだ歌で、皇子が天空の世界の岩戸を開いて”神上がり”されたとある。 【参考】「古代人の死生観」和田萃著(歴史民族博物館編纂『王の墓と奉仕する人々』所収)、『古代日本人の謎』黛弘道著 |
崇仏・廃仏論争は本当にあったのか?上で述べたように、我々の祖先は自然の中に神々(精霊)を見いだし、地上の森羅万象は神々の意志に基づいて、神々によって生み出され、神々が司っていると考えて生きてきた。彼らの宗教はアニミズムであり、彼らの固有の信仰は多神教だった。さらに、人間は死ぬと肉体は滅びるが、霊魂は死体から離れてこの世に生き続け、日々の生活を護ってくれる信じて祖霊たちを祀ってきた。当時の人々には、死後に天上に生まれ変わるとか、地獄に堕ちるなどという考えはなく、人々は過去世も来世も信じていなかったとされている。 そうした精神世界に生きる人々の前に、仏教という全く新しい精神世界を説く仏教が提示された。しかも、仏教が説く新しい神は金色に輝く人間と同じ体形をした仏像として現れた。『日本書紀』は、「西蕃の奉る仏の容貌、端厳」と記し、欽明天皇は光り輝く仏像に心奪われたと伝えている。
外交問題であれば、国家として仏教を受容すべきか否かの態度を明確にして、百済国に返答しなければならない。欽明天皇は受容の可否を群臣たちに諮問したという。群臣の意見は分かれた。大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は、「西の諸国が皆礼拝している以上、我が国も仏教を受け入れるべきであるとの立場を取った。しかし、物部尾興(もののべのここし)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、受け入れに反対した。我が国は常に天地社稷の百八十神(やおよろずのかみ)を祀っている。新しく蕃神(=仏)を拝むことになれば、国つ神の怒りを買うことになるというのが、その理由だ。 そこで、欽明天皇は仏像を稲目に授けて、試しに礼拝させて見ることにした。百済に対して公式に仏教を受容するとも否定するとも表明しない、言ってみれば政治的配慮を示したことになる。喜んだ稲目は仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置し礼拝したという。ところが、その後に国に疫病が流行し、若死にする者が多く出た。物部尾興と中臣鎌子は、その原因が蕃神(=仏)を拝んだ事に対する国つ神の怒りであるとし、天皇に直訴して崇仏を禁止するよう懇願した。そして、天皇の許可を得て、小墾田の家を焼き払い、仏像を難波の堀江に流した。
天皇は父の欽明天皇にならって馬子一人に礼拝を許したが、疫病はいっこうに下火にならなかった。物部尾興の子守屋と中臣鎌子の子勝海は、天皇の許可を得て、馬子が建てた仏塔を切り倒し、同時に仏像と仏殿を焼いた。焼け残った仏像はまた難波の堀江に捨てた。しかし、疫病はやまず、天皇も守屋も天然痘にかかってしまったと記す。 以上は、『日本書紀』が記す崇仏・廃仏論争の経緯である。だが、革新氏族・蘇我氏と物部氏族および中臣氏族に代表される守旧氏族の間で30有余年にわたる確執が本当に存在したのか、筆者は疑問に思っている。以下にその理由を述べる。 第一の理由は、当時の仏教に対する理解が現代の我々の理解とは違うということだ。我々は「仏教」を魂の救済が目的の宗教と理解しがちであるが、そうした理解をこの時代に当てはめることはできない。釈迦が説いた教理の基本は、四法印、すなわち諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静の四句に要約されるとされている。だが、釈迦入寂後およそ1000年を経て我が国に伝えられた仏教は大きく変貌し、宗教哲学とでも呼ぶべき学問だった。 その哲学に研鑽するのが僧侶であり、その研鑽の場が仏教寺院である。僧侶は人の命を救済するために高度な医学や薬学の知識を併せ持ち、燦然と金色に輝く仏像を本尊に祀る寺院は屋根を瓦で葺き、室内は荘厳のための幡や蓋で飾り、壁に仏画が描き、仏教行事に奉仕する楽隊や舞楽集団を備えていた。現代流に言い換えれば、ハイテク芸術・文化・技術の総合センターだったと言えよう。
『日本書紀』は、古代の二大豪族である蘇我氏と物部氏の対立の原因を仏教受容をめぐる抗争に求め、最終的に西暦587年の蘇我・物部戦争(丁未ていび)の変)へと導いていく。だが、蘇我氏と物部氏の対立の本質は、仏教受容をめぐる対立ではなく、用明天皇亡き後の皇位継承者擁立を巡る確執であり、さらに言えば、渡来氏族をバックに急激に勢力を伸ばしてきた新興の蘇我氏と大連(おおむらじ)として長年にわたって大和の政権を主導してきた古代豪族・物部氏との権力闘争だったと理解すべきである。 第二の理由は、仏教の普及のために、寺院側が仏教の受難の歴史を創作した可能性がある。受難によって信者の結束が高まり、それが普及の起爆剤になるのは宗教が持つ特性の一つだ。だが、我が国のように多神教が信じられていた時代に外国の神が一つくらい入り込んできたところで、それほど問題とされることはなかったのでは? ただ、寺院側が仏教を普及させる方便として受難の歴史を作り上げたのではないだろうか。 あるいは、『日本書紀』の編者は、それまでに中国大陸で行われた2回の仏教弾圧を知っていて、事件を創作したかもしれない。「三武一宗の法難」とされる仏教弾圧の第一回目は、北魏第3代・太武帝の時代の446年から452年にかけて行われた。原因は道教を国家的宗教にすることを画策する反仏教家の献策が原因とされている。第二回の仏教弾圧は北周武帝の時代の574年と577年に行われた。原因は財政上の問題と仏教教団側の堕落だった。
隣国新羅でも、仏教は受難の歴史があった。新羅が仏教を公式に受け入れたのはずいぶん遅く、西暦528年(法興王15年)とされている。新羅の法興王は仏教を新羅の国教に定めようと思い、貴族達を王宮に呼んで説得しようとしたが、 貴族達は王の意見に耳を貸そうとししない。そのとき、仏の教えを信じ、寺を建立したことがある異次頓(イチャドン)が王の前に進み出てこう言った。 |