橿原日記 平成18年4月12日

我が国古代の宗教観の変遷を追う


飛鳥寺遠望
境内の桜も満開の飛鳥寺安居院

日香は先週末に桜の満開の時期を迎えた。甘樫丘の豊浦展望台や石舞台の周辺、あるいは橘寺など明日香観光のスポットでは、見事な花を付けた桜木が見慣れた風景に華やかさを添えていた。日本で初めて創建された仏教寺院・飛鳥寺の跡地に建つ安居院もその例外ではない。

春の嵐で見事に散った飛鳥川堤の桜
春の嵐で見事に散った飛鳥川堤の桜 (06/04/12撮影)
が、一昨日そして昨日と二日続きで、明日香は終日雨だった。昨日は雨に加えて南からの風もかなり吹いていた。この春の嵐で、アパートの近くで咲き誇っていた桜も潔く散っていく。花吹雪となって空中を飛翔していく光景は見事である。先日デジカメで撮影して4月6日付けの橿原日記に掲載した桜たちも、同じ光景を演出しているにちがいない。だが、雨では外出もままならない。仕方なく、少し腰を据えて我が国古代の仏教の変遷を追ってみたいと思い、本日は関係図書を読みあさっている。以下はその所感である。



2つの仏教伝来説

元前後のころ後漢時代の中国に伝わった仏教は、4世紀後半になると中国北朝の前秦(ぜんしん)から朝鮮半島の高句麗(こうくり)に、また5世紀の中頃には南朝の晋(しん)から百済(くだら)に伝えられた。だが、我が国に仏教が伝えられたのは、ずいぶん遅い。6世紀になってからである。

菩薩
教は、よく知られているように、百済が我が国に伝えてきた。これを「仏教公伝」という。百済の第25代聖王(在位523-554、『日本書紀』では聖明王と記す)から我が国の欽明天皇へ公式な外交使節を介して伝えてきたためだ。だが、我が国が懇願したから、聖王がそれに答えて仏教を伝えてきたわけではない。聖王が一方的に使者を派遣してきて仏像や経典を贈呈してきたのである。そうしなければならない事情が、百済側にあった。先ず、このことに注意しなければならない。

思議なことに、仏教公伝を伝える史料が2種類あり、それぞれ別の時期に仏教が伝えられたと記録している。先ず、『日本書紀』であるが、「552(欽明13)年10月に、百済の聖王が使者を遣わし、釈迦仏金銅像一躯と荘厳のための幡や蓋、また経論を献じ、別に表を奉って仏法の功徳を讃えた」と記録している。これに対して、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』は、「538(戊午、欽明7)年12月に、百済の聖王が使者を遣わして、太子像・灌仏の器、および「仏起」を説いた書巻を送り、また、聖王の言葉を口上で欽明天皇に伝えた」という。

の2つの仏教伝来の伝承に対して、通説では538年説が正しいとされている。『日本書紀』に記された552年説が支持されない根拠としては、先ず、養老2年(718)に唐から帰朝した道慈(どうじ)が日本に持ち帰った『金光明最勝王経』の文言が、仏教伝来の記述に使われている点があげられる。さらに、仏滅1500年で末法に入るとする当時の仏説によると、末法第一年が壬申(じんしん)年にあたる。西暦552年は干支年で言えば壬申(みずのえさる)であり、エポックメーキングなことが起こる年と信じられていたため、『日本書紀』の編者が仏教公伝をこの年に割り振ったにすぎないとする見方が大勢を占めている。

あああ
聖王の父・武寧王(在位502-523)を埋葬した宋山里7号墳
が、両方の記述を詳細に見てみれば、異なるのは年次だけではない。百済が552年に伝えてきたのは”釈迦仏金銅像一躯、荘厳のための幡や蓋、および経論”だった。一方、538年に伝えてきたのは、”太子像・灌仏の器、および「仏起」を説いた書巻”だった。つまり、仏像だけでなく、経典や荘厳具なども異なっている。だから、1つの出来事に対して2つの伝承があったのではなく、それぞれの伝承は別の出来事を伝えてきたとの解釈もなりたつ。歴史学者の中には、年次を特定しなくて欽明天皇の時代に仏教の公伝があったと理解するだけでよい、とする考えもある。

に述べたように、我が国が懇願したから、百済の聖王がそれに答えて仏教を伝えてきたわけではない。当時の仏教は、現代の我々が認識しているような個人的な信仰の対象としての宗教ではない。現代流に言えば、人文科学や社会科学、自然科学などを合わせたような、いわば総合文化だった。こうした仏教文化は、見方を変えれば、優れた軍事戦略のツールにもなりうる。

代社会で、石油などの燃料や小麦などの農作物の供給が、関係国間の外交取引上の極めて有効なカードとして利用されている。同じ事が、当時の仏教文化についても言える。聖王の時代、百済は高句麗と新羅の圧迫されて軍事的に劣勢に立たされていた。そのため、親交のあった倭国の軍事支援を期待して、盛んに高度な文化を誘い水として提供してきた。仏教文化は格好の”エサ”であった。

三国時代の朝鮮半島
三国時代の朝鮮半島
西暦538年は、聖王の治世16年目にあたる。当時の百済は、高句麗の軍事的な圧迫を受けて苦しんでいた。この年、聖王は都を熊津(現在の公州)から泗ヒ(今の忠清南道扶余市)に遷して、高句麗の圧迫に対処しようとした。541年、高句麗に対して共同戦線を張るために百済は新羅と同盟を結んでいる。その同盟関係が、552年が破綻して、再び新羅との間に敵対関係が生じた。

済側の事情を勘案すると、538年や552年のいずれの時期も、聖王が倭の軍事支援を必要としたように思えてならない。北の高句麗、東の新羅の両国と敵対するようになれば、倭国との軍事的紐帯がより重要にならざるを得ない。何しろ、西暦400年前後の倭国は、軍を朝鮮半島に派遣して高句麗と互角に戦ったり、新羅の王城を攻めたりした経緯がある。その軍事大国のイメージは、聖王の時代にも残っていたであろう。

済は538年、倭の朝廷の目の前に、格好の”エサ”をぶらさげて軍事支援を要請してきた。しかし、期待したほどの支援は得られなかった。そこで552年に新羅と敵対するようになると、もう一度エサを投げて軍事支援を引き出そうとした、と想定することは、当時の半島情勢からみて矛盾しない。



仏教伝来の頃の倭人の宗教観

俗学者の柳田国男によれば、日本人にとって死とは霊魂がその入れ物である肉体から分離することである。仏教を信仰している関係上、現代に生きる我々はほとんどが、死後の霊魂が行くところは、極楽浄土か地獄かのいずれかであると認識している。だが、6世紀に仏教が伝来する以前の倭人(当時はまだ日本という国名は存在しなかった)は、どのような宗教観を抱いていたのであろうか? 

ら古代人だって、重要な精神生活の一部として、先祖から引き継いできた宗教観や信仰心をもっていたはずである。縄文時代から引き継いできた古代人の宗教観を外観すると、およそ次のようなことが言えるそうだ。

 ■縄文時代・弥生時代には・・・

々が住む日本列島は、四季の移り変わりがハッキリしていて、自然の恵みも豊かである。このように気候風土の比較的穏やかな地域に住む人々に共通する宗教観は、アニミズム(自然崇拝)であるとされている。我々の遠い祖先である縄文人も、自然の中に神々(精霊)を見いだして生きてきた。すなわち、地上の森羅万象は神々の意志に基づいて、神々によって生み出され、神々が司っていると考えていた。彼らの固有の信仰は多神教だった。

古代の人々神々(精霊)を見いだした自然
古代の人々神々(精霊)を見いだした自然
生時代の農耕文化を受け入れた我々の祖先は、それ以後農耕民族として生きてきた。稲を守り豊饒な実りを約束して貰うために、田植えの時期には稲作の豊穣をもたらす田の神などを祭るようになる。夏には、害虫を防ぐ虫送りや,雨乞い・風祭り・日乞いなどの稲作儀礼を行い、稲刈りが終われば、初穂を農神・作神とみなされている神々に新穀として献じる。これが、後の新嘗祭(にいなめさい)の原点とされている。

の世の秩序は神々の意志の現れであると、古代の人々は考えていた。「マツル」というのは、神意をうけたまわって、その通りに行動することをいう。人々は神々の託宣を受けて、あるいは神々の意志を卜占でうらなって行動するのが常だった。その「マツル」という行動を社会的に表したのが「マツリゴト」である。祭りは神々がその意志を示すことを祈り乞う儀式のことである。

馬台国の卑弥呼は、神に仕える巫女(みこ)つまりシャーマンだったとされている。神々を祭り、神々の声を代弁する宗教指導者として君臨するとともに、邪馬台国の政治までも彼女は主導した。彼女の一声で兵士はいかようにも動かすことができた。卑弥呼が生きた時代は、祭りも政治も不可分の状態にあり、祭政一致の時代だったと言われる所以である。

 ■神話の世界観

居宣長は『古事記』や『日本書紀』に伝えられた神話を、神話とは言わずに古伝説と呼んだという。したがって、神話を解明することで、当時の人々が抱いていた世界観や人間観、宗教観というものが、ある程度見えてくる。

が国の神話は、古代の人々がこの宇宙を垂直に重なり合った3つの世界と理解していたことを示している。天上には神々が住む光明の世界である「高天原(たかまがはら)」がある。地下には悪霊が住む暗闇の世界である「黄泉(よみ)の国」または「根の国」がある。その両者の間に位置するのが、人間世界の「葦原の中つ国」である。中つ国は人間が生まれ、生き、死にゆく大地である。さらに、天上に属する神々と地下に属する悪霊とが交錯する世界でもある。

話の世界では、我が国の神々は「天つ神(あまつかみ)」と「国つ神(くにつかみ)」とに区別される。天つ神は天上にある高天原に住む神々であり、永遠の存在であって、死ぬことはない。国つ神は「中つ国」に住む神々である。国つ神は高天原に登ることはないが、その血統あるいは本質において高天原に連なっているという。

「斎庭(ゆにわ)の稲穂」
今野可啓画伯が描いた「斎庭(ゆにわ)の稲穂」(部分)
つ国は、生成の神であるイザナギ・イザナミの2柱の神が産んだくつかの島でできている。これらの島々を総称して大八州(おおやしま)という。イザナギ・イザナミは大八州の神々を生んでから、さらに多くの地上の神々を生んだ。風の神、海の神、木の神、野の神、山の神・・・・。こうした自然を司る神々の働きが、自然現象であり、地上の森羅万象はこうした神々の働きと見なされた。

孫降臨の神話は、高天原と中つ国を結ぶ物語である。太陽神である天照大神の孫にあたるニニギノミコトが、神聖なる稲穂である斎庭(ゆにわ)の穂をもって中つ国に降りてこられた。農業の事始めが高天原にあると信じた当時の人々は、その稲種を持って降臨してきた神の子を現人神(あらひとがみ)と信じて、その周囲に団結した。古代の大王であるスメラミコトは天照大神をまつる司祭者であり、その最大の役割は祭祀にあった。

 ■死後の世界

代の人々は、中つ国を人間の世界であると見なしていた。天つ神が中つ国に降臨して国つ神を支配し、その庇護のもとに人間が地上に生まれ、生き、死ぬと考えてきた。悪の源である悪霊たちは地下の世界から迷い出て、この世に生きるものを傷つけ、死に至らしむこともあるだろう。その他にも、疫病や風水害、干魃、飢饉といった自然の驚異に絶え間なくにさらされたであろう。だが、上代の人々は天つ神と国つ神の豊かな保護を信じて、楽天的に生きたようだ。

命」とは、人間の体に宿った神秘的な霊力を表す言葉である。古代の人々は、霊力が衰えると人は病気になり、霊力が消滅すれば死が訪れると考えた。そして、人が死ねば霊魂は死体から離れてフラフラと歩き回ると信じていた。死体は穢れているため土に埋めたが、霊魂は清浄であり、この世に留まっていると信じた。

教が伝わる以前から、古代の人々は死後にも霊魂は生き続けることを疑わなかった。人間が住んでいるこの世は、霊魂が死後も留まって生きている世界だった。人間が死んだら天上に生まれ変わるとか、地獄に堕ちるという観念はなかった。当時の人々は過去世や来世を信じていなかったようだ。

々の霊魂が住む死後の住まいが墓であり、人々の生活の場からそれほど遠くない場所に築かれた。古くは、年に何度も祖霊が子孫たちの家に訪ねてきて会食すると信じられていた。その日は、先祖たちが訪ねてくる道に灯籠を灯し、家紋に迎え火を焚いて、祖霊を家に迎えて、会食した。こうした風習は連綿と続き、やがて祖先崇拝として形が整えられていく。

古墳時代に作られた前方後円墳(復元)
古墳時代に造られた前方後円墳(復元)
が国では、3世紀初めから7世紀にかけて盛んに墳墓が造られた。特に3世紀半ばから7世紀初めにかけての約350年の間に、ほぼ全国で約5200基の前方後円墳が造られたとされる。巨大な古墳築造には、多額の財力と築造に要する労働力の集約が必要であり、そこに巨大な権力の存在が想定されることは言うまでもない。

墳の本質は言うまでもなく、亡くなった人を葬る「墓」である。死者の霊を厚く葬ることで、子孫たちを守って貰えると思っていたに違いない。被葬者の他界への旅立ちを祈って、さまざまな葬送儀礼が古墳の上で行われた。それと同時に、巨大な墳墓は一族の権力の象徴であり、古墳を造営し盛大な死者の霊を祭る儀式を行うことは、族長の地位を継承した証しとされたようだ。

 ■山中他界観と海上他界観

花の岩窟神社
花の岩窟神社のご神体は巨大な一枚岩
体を古墳や横穴に埋葬したが、霊魂がいつまでもそこに止まっているのではなく、別の場所へ行くものと、古代の人々は考えていたようだ。平野や盆地、山間に住んでいた人々は、近くの山中、あるいは山中の地下に他界があると観念していた。そして、他界のことを黄泉(よみ)の国とか根(ね)の国と呼び習わした。黄泉の国と現世の境に黄泉比良坂(よみのひらさか)があると考えた。記紀には、この境が出雲の伊賦夜坂(いふやさか)、または出雲と伯耆の国の境にある比婆山にあると記している。『日本書紀』の一説には、紀伊の有馬村に黄泉比良坂があったと伝えている。現在、三重県熊野市の海岸に花の岩窟(いわや)という神社があり、この神社が祭っている巨大な一枚岩が、この有馬村にあった黄泉比良坂の入口だったと伝えられている。

方、海岸や海に近い河川の近くに住んでいた人々は、他界は海の彼方または海の底にあると考えていた。当初は、死後の魂が行き着く海の彼方や海の底は、常夜の暗い世界と認識されていたようだ。しかし、次第に、海の彼方は祖霊がいる明るい世界、常世として観念されるようになり、海の底も、ぼんやりと明るい世界で沖縄でいう「青(おー)」の世界のようなイメージで理解されるようになった。

の彼方や海の彼方に”あの世”があると考えるのは水平的な認識である。それに対して、天上や地下にあの世があるとするは、垂直的な認識の仕方である。だが、こうした考え方は、我が国古来のものではなく、大陸から伝えられたものであるとされている。おそらく、弥生時代の朝鮮半島から渡来した人々が、稲作と一緒に持ち込んだのであろう。

思議なことに、記紀神話は皇孫が高天原から降臨したと語っているのに、古代の人々は、死後の世界が天空にあるとはあまり考えなかったようだ。わずかに一例だけ『万葉集』に死霊が天上に帰ることを詠んだ歌が記載されている。草壁皇子が亡くなったとき柿本人麻呂が詠んだ歌で、皇子が天空の世界の岩戸を開いて”神上がり”されたとある。


【参考】「古代人の死生観」和田萃著(歴史民族博物館編纂『王の墓と奉仕する人々』所収)、『古代日本人の謎』黛弘道著



崇仏・廃仏論争は本当にあったのか?

で述べたように、我々の祖先は自然の中に神々(精霊)を見いだし、地上の森羅万象は神々の意志に基づいて、神々によって生み出され、神々が司っていると考えて生きてきた。彼らの宗教はアニミズムであり、彼らの固有の信仰は多神教だった。さらに、人間は死ぬと肉体は滅びるが、霊魂は死体から離れてこの世に生き続け、日々の生活を護ってくれる信じて祖霊たちを祀ってきた。当時の人々には、死後に天上に生まれ変わるとか、地獄に堕ちるなどという考えはなく、人々は過去世も来世も信じていなかったとされている。

うした精神世界に生きる人々の前に、仏教という全く新しい精神世界を説く仏教が提示された。しかも、仏教が説く新しい神は金色に輝く人間と同じ体形をした仏像として現れた。『日本書紀』は、「西蕃の奉る仏の容貌、端厳」と記し、欽明天皇は光り輝く仏像に心奪われたと伝えている。

宣教師ザビエル
宣教師ザビエル
際は538年のこととされるこの事件は、一般に「仏教公伝」と呼ばれ、「仏教伝来」とは言わない。なぜならば、百済国王から倭国の大王へ公式に伝えられたきわめて外交的な特記事項であるためである。スペイン人のイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルがマラッカでアンジロウという日本人と出会い、天正18年(1549)に日本にやってきてキリスト教を伝えたのとは、次元が違う。

交問題であれば、国家として仏教を受容すべきか否かの態度を明確にして、百済国に返答しなければならない。欽明天皇は受容の可否を群臣たちに諮問したという。群臣の意見は分かれた。大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は、「西の諸国が皆礼拝している以上、我が国も仏教を受け入れるべきであるとの立場を取った。しかし、物部尾興(もののべのここし)や中臣鎌子(なかとみのかまこ)は、受け入れに反対した。我が国は常に天地社稷の百八十神(やおよろずのかみ)を祀っている。新しく蕃神(=仏)を拝むことになれば、国つ神の怒りを買うことになるというのが、その理由だ。

こで、欽明天皇は仏像を稲目に授けて、試しに礼拝させて見ることにした。百済に対して公式に仏教を受容するとも否定するとも表明しない、言ってみれば政治的配慮を示したことになる。喜んだ稲目は仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置し礼拝したという。ところが、その後に国に疫病が流行し、若死にする者が多く出た。物部尾興と中臣鎌子は、その原因が蕃神(=仏)を拝んだ事に対する国つ神の怒りであるとし、天皇に直訴して崇仏を禁止するよう懇願した。そして、天皇の許可を得て、小墾田の家を焼き払い、仏像を難波の堀江に流した。

石川精舎跡に建つ法明寺
蘇我馬子が石仏を祀ったとされる
石川精舎跡に建つ法明寺
日本書紀』は同工異曲で、疫病に起因した崇仏・廃仏論争をもう一度、次の世代で記している。敏達天皇14年(585)の春、天然痘が流行し死ぬ者が多かった。稲目の子・馬子も病気にかかった。占ってみると、父の代に難波の堀江に流された仏の祟りであるという。そこで、天皇に願い出て、百済から将来した石仏を礼拝する許可を求めた。

皇は父の欽明天皇にならって馬子一人に礼拝を許したが、疫病はいっこうに下火にならなかった。物部尾興の子守屋と中臣鎌子の子勝海は、天皇の許可を得て、馬子が建てた仏塔を切り倒し、同時に仏像と仏殿を焼いた。焼け残った仏像はまた難波の堀江に捨てた。しかし、疫病はやまず、天皇も守屋も天然痘にかかってしまったと記す。


上は、『日本書紀』が記す崇仏・廃仏論争の経緯である。だが、革新氏族・蘇我氏と物部氏族および中臣氏族に代表される守旧氏族の間で30有余年にわたる確執が本当に存在したのか、筆者は疑問に思っている。以下にその理由を述べる。

一の理由は、当時の仏教に対する理解が現代の我々の理解とは違うということだ。我々は「仏教」を魂の救済が目的の宗教と理解しがちであるが、そうした理解をこの時代に当てはめることはできない。釈迦が説いた教理の基本は、四法印、すなわち諸行無常、一切皆苦、諸法無我、涅槃寂静の四句に要約されるとされている。だが、釈迦入寂後およそ1000年を経て我が国に伝えられた仏教は大きく変貌し、宗教哲学とでも呼ぶべき学問だった。

の哲学に研鑽するのが僧侶であり、その研鑽の場が仏教寺院である。僧侶は人の命を救済するために高度な医学や薬学の知識を併せ持ち、燦然と金色に輝く仏像を本尊に祀る寺院は屋根を瓦で葺き、室内は荘厳のための幡や蓋で飾り、壁に仏画が描き、仏教行事に奉仕する楽隊や舞楽集団を備えていた。現代流に言い換えれば、ハイテク芸術・文化・技術の総合センターだったと言えよう。

石上神宮
石上神宮
教の教義以前に、当時の人々を魅了したのは、仏教に付随したそうした最先端技術であり文化であろう。渡来氏族の盟主的存在の蘇我氏は、仏教が持つそうした付随的な要素を理解し、一族の権威付けに十分利用できると考えていた。だが、蘇我氏以上に巨大な勢力を保持していた物部氏も、仏教の利用価値を十分理解していたと思う。確かに物部氏は石上神宮を氏神として祭祀しているが、その本質は軍事氏族である。4世紀末から半島で繰り広げられた対高句麗戦で、多くの兵士の先頭に立って戦ったのは物部氏出身の将軍たちだったはずだ。彼らは、百済の都で甍を並べる仏教寺院を目の当たりにし、花開く南朝仏教文化に直に接している。当然帰国して仏教文化の華やかさを族長である物部尾輿や物部守屋に報告していたはずだ。物部氏は、言われるような廃仏派ではなかった。八尾市の渋川廃寺跡は物部氏の氏寺だったとされている。

日本書紀』は、古代の二大豪族である蘇我氏と物部氏の対立の原因を仏教受容をめぐる抗争に求め、最終的に西暦587年の蘇我・物部戦争(丁未ていび)の変)へと導いていく。だが、蘇我氏と物部氏の対立の本質は、仏教受容をめぐる対立ではなく、用明天皇亡き後の皇位継承者擁立を巡る確執であり、さらに言えば、渡来氏族をバックに急激に勢力を伸ばしてきた新興の蘇我氏と大連(おおむらじ)として長年にわたって大和の政権を主導してきた古代豪族・物部氏との権力闘争だったと理解すべきである。

二の理由は、仏教の普及のために、寺院側が仏教の受難の歴史を創作した可能性がある。受難によって信者の結束が高まり、それが普及の起爆剤になるのは宗教が持つ特性の一つだ。だが、我が国のように多神教が信じられていた時代に外国の神が一つくらい入り込んできたところで、それほど問題とされることはなかったのでは? ただ、寺院側が仏教を普及させる方便として受難の歴史を作り上げたのではないだろうか。

るいは、『日本書紀』の編者は、それまでに中国大陸で行われた2回の仏教弾圧を知っていて、事件を創作したかもしれない。「三武一宗の法難」とされる仏教弾圧の第一回目は、北魏第3代・太武帝の時代の446年から452年にかけて行われた。原因は道教を国家的宗教にすることを画策する反仏教家の献策が原因とされている。第二回の仏教弾圧は北周武帝の時代の574年と577年に行われた。原因は財政上の問題と仏教教団側の堕落だった。

国新羅でも、仏教は受難の歴史があった。新羅が仏教を公式に受け入れたのはずいぶん遅く、西暦528年(法興王15年)とされている。新羅の法興王は仏教を新羅の国教に定めようと思い、貴族達を王宮に呼んで説得しようとしたが、 貴族達は王の意見に耳を貸そうとししない。そのとき、仏の教えを信じ、寺を建立したことがある異次頓(イチャドン)が王の前に進み出てこう言った。
「王よ、私を処刑してご意志を貫ぬいて下さい。真に仏がおわすなら、私が死ぬ時奇跡が起きましょう」
それを聞いて、貴族達は、国法を破って寺を建てた異次頓を罪人として糾弾し、彼を斬首することにした。異次頓が処刑されると、その首ははるか金剛山まで飛び、切り口からは血の代わりに白いミルク状のものが吹き出し、それが花に変わって落ちてきたという。 こうした奇跡が起きたため、人々が仏教を認めるようになったという。



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