橿原日記 平成18年4月10日

漢字の伝来と日本語化について


本語は漢字と片仮名と平仮名を用いて表す。片仮名は漢文訓読のために平安時代の初め頃に発明されたもので、漢字の一部を取り出して造られた。平仮名は万葉仮名を極端に草書化したもので、平安時代に女性がもっぱら用いたため、女手(おんなで)とも呼ばれた。したがって、奈良時代やそれ以前の飛鳥時代、我が国では中国から伝えられた漢字や、漢字の元の意味とは無関係にその表音を漢字で表した万葉仮名が用いられたことになる

本は中国を中心とする漢字文化圏に属する国である。言うまでもなく、漢字は中国で発明された。その周辺諸国は漢字を中国との通交の公用語とすることで、多くの文化を受け入れてきた。ふと気になって、我々の祖先はいつ頃から言葉の表現の手段として漢字を使い出したのか調べてみた。



漢字の発明

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国では、文字は神との対話から始まったとされている。殷王朝の時代、牛の肩こう骨と亀の甲羅の裏を火であぶって表面にでた割れ目によって吉凶を占った。その占いの内容を彫りつけたものは、甲骨文字(こうこつもじ)と名づけられ、後の漢字の原形とされている。

代が少し下って周王朝の頃になると、各地の豪族は周王に忠誠を誓い周王に仕えることになった由来を、王から報償として受けた金属の地金などで造った青銅器に記した。秦の始皇帝(前259―前210)は春秋戦国の世を統一すると、字体の統一を重要な政策として取り上げ、古文(甲骨文・金石文・籀文)を基礎として篆書(てんしょ)を制定し、これを公式書体とした。つまり、度量衡などと同様に、統治の道具として文字の書体を統一した。

かし、篆書で書類を書くことは役人の大きな負担に成ったため、漢の時代になると、徒隷(下級役人)にも書き易いように篆書を簡略化した。こうして隷書体が普及した。漢の時代には、その他にも様々な工夫改良が加えられて、行書、楷書、草書などが作られ、現在に伝えられている。



漢字の伝来

字が我が国に伝えられたのは中国本土から直接だったか、あるいは朝鮮半島経由だったかは不明である。一説には、漢字の伝来は紀元前3世紀まで遡る可能性が高いとする説がある。その説によれば、秦の始皇帝が国土の統一事業に乗り出したことで、始皇帝に追われ国を挙げての流亡の動きが始まった。その一環として、山東半島付近から十余万人人々が日本列島に渡来し、稲作文明を伝え、弥生時代が始まったという。後に「(わ)」と称する国名はこれらの人々の故郷の地名であった可能性が高い。

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元前後の我が国は、まだ弥生時代のまっただ中である。それでも、多くの小国が漢帝国と通交していた。その証拠は、あちこちの遺跡から出土する「貨泉」の存在である。中国で貨泉が初めて鋳造されたのは、前漢を滅ぼしたの時代の天鳳元年(西暦14年)である。新はわずか17年の短命王朝で、西暦25年には後漢にとって代わられ、貨泉の通用は禁止された。したがって、この貨幣の通用期間はわずか35年にすぎない。

が国では、対馬、壱岐をはじめ佐賀県から福岡県の海岸に沿った地域や、河内平野のかっての「河内潟」の南岸に沿う港津集落跡から、貨泉が出土している。これらの地域は、いずれも港津があったところで、貨泉の存在は、倭の国々と中国の新との間で頻繁に交流が行われたことを物語っている。交易には貨泉が支払い通貨として用いられたかもしれない。

の東西を問わず、交易は書類を仲立ちして行われることは今も昔も変わりはない。つまり、紀元前後の頃交易に従事していた倭人たちは漢字を読んで理解する能力があったと思われる。交易だけではない。漢王朝との外交にも文書が仲立ちしたはずである。紀元57年、倭の奴国王は後漢に朝貢し、光武帝から「漢倭奴国王」の金印を下賜されている。この朝貢使節団を構成したのは、おそらく大陸または半島からの渡来人の後裔であろう。当然のことながら、漢語を理解し、漢字を読むことができた。

世紀になると、邪馬台国と中国の魏との通交が開始される。史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によれば、景初三年(西暦239年)、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)は魏に朝貢し、「親魏倭王」の金印や「銅鏡百枚」を贈られている。その後、正始八年(247)には、卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼がたがいに攻撃する状況に至ったため、魏は帯方郡から曹掾史(国境守備の属官)の張政らを邪馬台国に派遣し、詔書・黄憧をもたらし、また檄(げき)をつくって、攻めあうことのないよう告諭した。邪馬台国と魏とのこれら一連の外交でも、当然のことながら公式な文書を介した交渉が行われたことは、想像に難くない。

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は、当時の倭人たちが漢字を理解し、使用したことを考古学的に証明できるのか。実は可能なのである。三重県安濃町にある大城古墳群の住居跡から出土した2世紀前半の弥生式土器の高坏には、脚の部分に「奉」あるいは「年」と読める文字が刻まれていた。同じく三重県嬉野中川町の貝蔵遺跡から平成9年に出土した3世紀初頭の土器片には、明らかに筆に墨を含ませて「い」の字風に墨書されている。また貝蔵遺跡に近い片部遺跡からは、4世紀初め頃の「田」字を墨書した土器が平成7年に見つかっている。興味深いのは、三重県のこれら3つの遺跡は、いずれも交易が行われたかっての港津集落、すなわち先進的な文化が受け入れられ発揮された場所である。2世紀頃から交易のために文字を操ることができる集団がいたことは間違いない。

世紀になると、百済は369年に倭国との軍事同盟が成った記念に七支刀(しちしとう)を作り、倭王に送ってきた。七支刀は現在、天理市の石上神宮に神宝として安置されている。全長74.8cmの七支刀を有名にしているのは、その特異な形状もさることながら、刀身の両面に金象嵌された61文字の銘文である。当時の大和朝廷にはすでに銘文の意味を理解できる官人たちがいた。その多くは朝鮮半島からの渡来人およびその子孫たちであっただろう。

上で見たきたように、我が国における漢字の受容は我が国にそれなりの必要があって取り入れられた可能性が高い。すなわち、政治的・経済的利益を図るために、中国および朝鮮半島の王朝との通交・外交関係を継続しようという政治的行為が、漢字の受容の背景にあったことは明らかだ。



漢字の日本語化

は、漢字はどのようにに日本語化されたのだろうか。一般に、次の3つの方法があったとされている。

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つ目の方法は、古代の中国の漢字の読み方を日本風のなまった形で取り入れ、そのまま日本語の単語として用いた。したがって、同じ漢字でもそれを取り入れた時代によって読み方、つまり発音が異なる。6世紀以前の古い中国語の発音を真似たものが「呉音」、6世紀以後の新しい中国語の発音を真似たものが「漢音」、鎌倉時代以後に取り入れられた読み方が「唐音」という。例えば、「行」という字は、呉音では「キョウ」「ギョウ」、漢音では「コウ」、唐音では「アン」と発音する(例:諸行、銀行、行灯)。

らに、3世紀以前の「論語」などが書かれた時代の発音が、朝鮮半島で一度定着し、それから我が国にもたらされた読み方があり、これを「古韓音」という。例えば、停止の「シ」を「ト」と読む場合がある。7世紀前半に書かれたいわゆる「推古遺文」にも古韓音の例がある。このため、推古天皇の時代の文筆に従事したのは、半島からの渡来人だったとされている。

つ目の方法は、漢字と同じ意味の単語が我が国にあれば、それを当てはめた。いわゆる「訓読み」と言われる読み方で、例えば山(サン)を「ヤマ」と読む場合などがある。

つ目の方法は、漢字が表す意味を棚上げして発音だけを借りて別の語を書き表す方法で、「仮借(かしゃ)」と呼ばれている。たとえば。「来」という字は、本来は麦の穂の形象であるが、同じ発音の動詞を書き表すのに用いられた。仏教の経典などにも印度語の発音を表すのにさかんに仮借の方法が用いられている。我が国では「仮借」が定着して「万葉仮名」になった。その万葉仮名が平安時代に簡略化されて「片仮名」や「平仮名」になった。



朝鮮半島での漢字のはじまり

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国と地続きの朝鮮半島は、我が国より早く漢字文化を受け入れたと思われる。特に、紀元前108年に漢の武帝が朝鮮半島に4郡を設置して以来、半島と中国王朝との通交関係はより緊密になり、漢字文化の流入が進んだと思われる。そして、313年、楽浪郡とその南にあった帯方郡が高句麗によって滅ぼされると、両郡に滞留していた中国系の人々や、この時期に混乱を迎えた中国から逃れてきた人々は、朝鮮半島の文化の担い手として活躍した。とりわけ中国王朝との外交には、これらの人々を必要としたと思われる。

鮮半島でも、漢字を朝鮮語風に読む必要から、誓記体(せいきたい)と呼ばれる変体漢文が工夫された。古代朝鮮の自国語風なまった語順の漢文で、例えば「之」の字は文章の終わる句点「。」、「也」は文章が大きく変わる段落を示すために用いられた。特に、古代新羅語の語順は日本語と同じであり、当時の人々は、同じ文字の彼我の発音の違いを理解していれば、通訳なしでも十分に会話ができたと思われる。



【参考文献】『古代日本の文字世界』(平川満編、大修館書店)、『古代日本 文字の来た道』(平川満編、大修館書店)
【注】このテキストは昨年7月18日、ブログ「Panchoの古代幻想」に掲載したものである。


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