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| 橿原市内を流れる飛鳥川の桜 |
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| 4分咲きの桜のトンネル |
T.Y君との待ち合わせ時間は午前10時。時間があったので、藤原京の近くに出て、そこから飛鳥川の堤を自転車で下ることにした。実は、昨年の桜の季節に飛鳥川の堤防を散策して偶然見つけた桜の名所がある。それは見事な咲きっぷりだった。知名度の高い桜の名所まで出かけなくても、十分事たれりとの印象を持った。
河岸の桜は大抵堤の片側に植えられ、川面に枝を延ばすように剪定されている。だが、ここは違った。堤の両側に植えられた桜が見事なアーケードを作っている。残念ながら、今年は3分か4分咲きといったところで、昨年見たような華やかさは、未だない。だが、女学生が自転車で春風を切って颯爽と桜のトンネルを通り過ぎていったのが、印象的だった。
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| 橿原市内で飛鳥川に架かる蘇武橋 |
橿原市の市街を流れる飛鳥川には朱塗りの橋が架けられている。蘇武橋(そぶばし)という。地元では尊坊橋(そんぼばし)と呼んでいる。今井町を通って「八木西口」駅へ行くときは、必ずこの橋を通る。橋の西詰の南側に、蘇武井(そぶのい)という井戸がある。蘇武井は、聖徳太子が水を飲まれたとも、黒駒に水を与えられた井戸とも伝えられている。
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| 今井町の町並み |
■ 環濠を巡らした、かっての城塞都市・今井町
T.Y君との待ち合わせ場所は、近鉄橿原線の「八木西口」駅前。橿原市の今井町は八木西口」駅に近い。この町は、戦国時代の石山本願寺の家衆だった今井兵部が、宗派の道場だった称念寺を中心に築いた城塞都市と言われている。今でも町を囲うように環濠が掘られている。安土桃山時代の茶人・今井宗久はここの出身である。
江戸時代になると、今井町は商業都市に様相を変えて、大阪の堺と共に「海の堺、陸の今井」と称されるようになる。今井町が占める面積は、東西600m、南北310mにすぎないが、旧環濠内にある600軒余の民家のうち、約500軒が江戸時代からの伝統様式を残す町家である。そのうち8軒が国の重要文化財に指定されている。江戸時代へタイムスリップできる良い街である。
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| 小綱町付近の飛鳥川 |
橿原市の小綱(しょうこ)町の端から飛鳥川が大和川に合流する地点まで、自転車歩行者優先道路が堤防に築かれている。大和郡山市と田原本町と橿原市が共同で築いた散策路である。緑のペンキで識別された優先道路は、ときどき左岸と右岸を入れ替えて、延々と続いていく。車が入ってくる心配がないので、自転車を併走しながら、楽しく会話できる。
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| 二上山遠望 |
楽しめるのは会話だけではない。視線をはるか西に投げれば、二上山が薄いシルエットを見せている。東を見ても同じだ。こちらには三輪山が遠望できる。飛鳥川は、まさに国中(くんなか)を二つに割るように北に向かって一直線に延びていく。
■ 蘇我入鹿の霊を祀る入鹿神社
飛鳥川がJR桜井線の線路をくぐれば、橿原市の小綱(しょうこ)町である。橋のたもとにあるコンビニの前を左折して小綱町に入り、最初の交差点を右折して少し進むと、入鹿(いるか)神社がある。祭神としてスサノオノミコトと、西暦645年の乙巳の変(いっしのへん)で犠牲になった蘇我入鹿(そがのいるか)の霊を祀っている。
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| 入鹿(いるか)神社 |
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で殺された入鹿がなぜこの地に祀られているのかよく分からない。しかし、小綱町の西隣は曽我(そが)町であり、入鹿神社から北西方向1.6kmには宗我都比古(そがつひこ)神社がある。宗我都比古神社は蘇我馬子(そがのうまこ)が、蘇我氏の始祖の 宗我都比古(そがつひこ) ・ 宗我都比売(そがつひめ) を祭るために創建したと伝えられている。おそらく、この付近が蘇我氏発祥の地だったのだろう。
入鹿神社の境内に、三間四方寄せ棟造りの「大日堂」(国重文)がある。明治以前の神仏混淆の時代に、入鹿神社の神宮寺として建立された仏起山普賢寺の本堂だった。明治初年の廃仏毀釈によって寺は廃絶し、大日堂は近くの正蓮寺の管理に帰した。木造の大日如来像(国重文)は鎌倉時代の作と伝えられている。
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| 田原本町を一直線に北に流れる飛鳥川 |
新の口(にのくち)池を過ぎると、やがて飛鳥川は田原本町に入り、文字通り一直線に北へ流れていく。その両岸には桜並木が続くが、まだ木は若い。もう十年もすれば、近隣では評判の桜の名所になるにちがいない。
■ 駐輪場は捨て猫たちの住みか
田原本町に入って最初の地域を多(おお)という。その地区を流れる飛鳥川の左岸に県営福祉パークがある。その手前に小さな駐輪場が設けてあり、自転車専用道路を散策する人たちの休憩所に当てられている。
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| 駐輪場で戯れる猫たち |
駐輪場は、実は捨て猫の住みかでもある。何年か前にここを訪れたとき、近くの中学校に英語講師として招かれた若いカナダ人女性が、自転車でやってきて猫に餌を与えていた。声をかけて聞いてみると、カナダでも猫を飼っていて、ここに捨てられた猫たちが見るに忍びないので、毎日餌を持ってきてやっているとのことだった。
当時もかなりの数だったが、今日も数えてみたら7匹いた。人見知りしないで、声をかけると寄ってくる。我が愛猫”チビコ”に似た毛並みの猫もいた。あずま屋の下のベンチが段ボールで囲いガムテープで留めてある。たまたま掃除にきていたオバサンに聞いてみると、猫のベッドだという。冬の寒さよけに誰かがしつらえていったらしい。
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| 多氏の祖・神八井耳を祀る多神社 |
■ 太安万侶の祖先を祀る多神社
駐輪場前の橋を渡って対岸にでると、堤防の近くに多神社(おおじんじゃ)がある。多神社という呼称は俗称で、正式には多坐弥志理都彦(おおにいますやしりひこ)神社という。
この鎮座地は、『古事記』の作者・太安万侶(おおのやすまろ)で有名な古代豪族・多氏の本拠地だった。多神社は、祭神として弥志理都比古命(やしりひこのみこと)を祀っている。弥志理都比古命は、神武天皇の子供で、多氏の祖・神八井耳の(かむやいみみのみこと)の別名とされている。他に、神武天皇、神淳名川耳命(綏靖天皇)、姫御神(玉依姫)を配祀している。
拝殿の横に回ると4柱の神々を祀る本殿を見上げることができる。見事な造りである。見事と言えば、社務所に庭に咲いているしだれ桜も見事だった。土塀越しにしか見ることができなかったのが残念である。
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| 多神社の本殿 |
社務所庭園の見事なしだれ桜 |
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| 水量が増えて河口に近づいた飛鳥川 |
飛鳥川はやがてゆっくりと弧を描くようにして流れを西に変える。そして、国道24号線(橿原バイパス)に架かる橋の下を抜けたあたりでは、完全に西に向かって流れる。しかし、尾就川や中の橋川など小さな河川の水を集めて再び北流し、川西町に入るころは水流が増えてくる。このあたりまで来ると、川岸のあちこちに植えられていた桜の並木を見かけなくなる。
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| 合流地点の手前で大和川に架かる太子橋 |
近鉄田原本線の「但馬」駅の近くで、自転車専用道路はいったん飛鳥川の堤から離れる。しかし、線路を越えると、また堤にすり寄っていき、再び堤防の上を走るようになる。そして、川西(かわにし)町に入って、県道36号線の手前で自転車専用道路は消える。その先で、飛鳥川が大和川と合流するからだ。
大和川に架かる古い橋がある。「太子橋」という。この橋を渡れば生駒郡の安堵(あんど)町に入る。大和川の左岸に築かれた車道を西に向かうと、すぐに西名阪自動車道の高架の下をくぐり、富雄川の左岸にでる。
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| 飛鳥川と大和川の合流地点 |
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| 飽波葦垣宮伝承地 |
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| 太子道の碑 |
■ 成福寺(飽波葦垣宮伝承地)
富雄川の右岸近くに「成福寺」跡がある。この付近は「大安寺伽藍縁起」や『聖徳太子伝私記』にある「飽波葦垣宮(あくなみあしがきノみや)」の伝承地とされている。昔、聖徳太子が膳妃(かしわでのひ)と晩年を過ごされた所である。だが、金網のフェンスが張り巡らされて中に立ち入ることができない。
『日本書紀』は推古天皇29年(621)春2月5日、夜半、聖徳太子は斑鳩宮(いかるがのみや)で薨去されたと記す。しかし、法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背の銘文は、推古天皇30年(622)正月22日に聖徳太子と膳大郎女が病気にかかり、一ヶ月後の2月21日まず膳大郎女が亡くなり、翌日の22日に聖徳太子も亡くなった、と記している。二人の夫婦が魂を引きあうように帰天していったのは、あるいはこの飽波葦垣宮だったかもしれない。
金網の内側に「太子道」と大書された石碑が建っている。太子道とは、斑鳩と明日香を最短距離で結ぶために整備させた全長17kmの官道で、聖徳太子は舎人の調子麻呂を従え、愛馬の黒駒に乗って明日香へ出向いたとされている。
■ 上宮遺跡歴史公園
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| 上宮遺跡歴史公園 |
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| 聖徳太子孝養の像 |
平成3年、斑鳩町教育委員会は法隆寺南にある上宮(かみや)遺跡の発掘調査を行った。調査の結果、5世紀から6世紀にかけての掘立柱建物や溝を検出した。また飛鳥時代の井戸や溝から、7世紀前半頃の土器が比較的まとまって出土した。聖徳太子の亡くなった宮殿の跡地に建てられたと伝えられる成福寺が近くにあることから、これらの出土遺物は「飽波葦墻宮」の実在性が示すものと考えられている。
また、奈良時代の大型掘立柱建物群が発見され、平城京で使われたものと同じ軒瓦も多数出土している。これらは神護景雲元年と3年に称徳天皇が行幸した際に止宿した「飽波宮」である蓋然性が高い言われている。公園自体は「歴史・緑・水」をテーマに、地下遺構の保存に配慮する形で建設された。その一画に、聖徳太子の孝養像のリリーフが立っている。
■ 調子丸古墳と黒駒古墳
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| 調子丸古墳 |
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| 黒駒古墳 |
上宮遺跡歴史公園の近くの、分譲住宅に囲まれた田んぼの中に小さな円墳がある。聖徳太子の舎人(とねり)で、つねに太子の横に付き従っていた調使麻呂(つきのおみまろ)の墓との伝承をもつ古墳である。しかし、考古学的知見は、この伝承を否定している。調子丸古墳は4〜5世紀ごろの築造とされるが、使麻呂は7世紀後半まで存命であった。
調子丸古墳の北西方向に約100mの地点に別の古墳がる。国道25号線沿いの平地に築かれた前方後円古墳で、黒駒古墳という。名称は聖徳太子の愛馬・黒駒を葬ったとの伝承に由来する。『聖徳太子伝暦』などの太子伝によると、598年(推古6)年に聖徳太子は諸国に善馬を求めた。黒駒は、献上された馬の中から選び出された甲斐の名馬だった。聖徳太子が死去したとき棺に寄り添い、太子が墓に葬られるとともに息絶えたという。
斑鳩町教育委員会はこの古墳の発掘調査を行ってきた。その結果、埴輪や土師器の破片など出土した遺物と古墳の墳丘形態などから判断して、古墳が築造された時期は4世紀後半ごろと推定されている。したがって、黒駒のために作られた可能性は無くなった。聖徳太子の一族である上宮王家がこの地に移って来る前に、この一帯を治めていた平群氏の誰かが被葬者であろう、と推測する考古学者もいる。しかし、斑鳩町教育委員会は、「先に存在した古墳に黒駒を葬った可能性は残る」としている。 現在、墳頂に青いシートがかぶせてあり、発掘調査中のようだった。
■ 法隆寺
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| 法隆寺の中門へ続く参道 |
午前10時に「八木西口」駅を出発して約2時間、法隆寺の近くにたどり着いたときはすでに正午を過ぎていた。途中で何カ所かに立ち寄ったので、予定より少し時間がかかった。途中のファミリー・レストランで昼食を取って、法隆寺の南大門をくぐった。
法隆寺の境内では、いつもは中門の縁石に腰掛けて、五重塔の宝輪の上空を流れる雲を眺めたり、金堂のどっしりした質感を味わうのだが、今回の目的は桜見学だったので、つい桜の木に目がいってしまう。講堂の左右に桜があった。向かって左側のソメイヨシノは今が見頃だった。向かって右側の紅しだれ桜はまだ小木ながら、あたりに存在感を示していた。
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| 講堂横の桜(1) |
講堂横の桜(2) |
■ 往路と復路
2時間かけて来た道は、また同じ時間をかけて戻らなければならない。来るときは、法隆寺まで、という目標があったから、久しぶりの遠出でもなんとか体が頑張ってくれた。しかし、1時間以上かけて法隆寺の各伽藍を参観して回った後では、足に疲れがきた。普段から運動不足で参るだろうな、と思っていたT.Y君が意外と元気なのには驚いた。
法隆寺を出発した時はすでに午後の3時ちかくになっていた。本日は一日晴天であると保証した気象庁だが、午後からは曇り空に変わった。幸い、風がないのは救いだった。飛鳥川の川風を正面から受けてペダルを踏むのはきつい。
「一週間早かったかな」とはT.Y君の弁である。確かに現在4分咲き程度の堤の桜は一週間後には満開を迎えていて、飛鳥川の堤は花吹雪が舞っているだろう。
「来週もう一度出かけてこようか」との私の誘いに、T.Y君からの返事はなかった。途中どこにも立ち寄らなかったお陰で、帰路は1時間30分ですんだ。
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