橿考研付属博物館の特別陳列「古代刀剣の復元」
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| 特別展示のチラシ |
橿原考古学研究所(橿考研)の附属博物館では、本日までの期間限定で特別展示を行ってきた。古墳から副葬品として出土する刀剣は、鉄さびを帯びて本来の姿を思い描くことが難しい。だが、その姿を現代に蘇らせてくれる神業を持った人たちがいる。古刀の復元に情熱を燃やす刀鍛冶や、木工・金工・ガラス加工・織物などの専門技術者である。
その中心的役割を果たしてきたのが、昨年度の奈良県無形文化財保持者に指定された刀匠の河内国平氏である。今回の特別展示では、河内氏の刀鍛冶の仕事の内容を紹介するとともに、展示のために新たに復元された石上神宮の七支刀の制作工程と作品も陳列された。
その他に、古代刀剣の復元品として、安来市の大成古墳出土の素環頭大刀、高広横穴墓群出土の双龍環頭大刀、大東市の堂山1号墳出土の鉄刀、香芝市の今泉から出土したと伝えられる銀装大刀、藤ノ木古墳出土の飾り大刀・剣・円筒大刀なども展示されていた。特に藤ノ木古墳出土のものは、複製品だけでなく、出土品そのものも展示されていた。
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| 復元刀を説明する河内国平氏 |
3月19日には、橿考研の講堂で研究講座が開かれ、七支刀復元のための鋳造工程や象眼技術の苦労話が関係者からスライドとビデオを使って説明された。特に、河内国平氏は20数年前に恩師の故末永雅雄氏の指導で七支刀を鍛造(たんぞう)で造った経験者であるが、そのとき、七支刀は鍛造ではなく鋳造で造られたのでは、との疑問を持たれ、今回鋳造(ちゅうぞう)での制作に挑戦されたという興味深い話を伺った。
ちなみに、鉄に含まれる炭素の量が約2%以下の場合を「はがね」という。これを炭火で赤らめて大きな金槌で叩いて伸ばしたりくっつけたりして形を作りだしていく製法を鍛造という。逆に炭素の量が約2%を越える鉄をずく(銑鉄)といい、これを摂氏1500度くらいの高熱で溶かして、土や石で作った鋳型に流し込んで形を作る製法を鋳造という。
■ 七支刀とは・・・・
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| 七支刀の象嵌(**) |
七支刀とは、奈良県天理市の石上神宮で「六叉の鉾(ろくさのほこ)」の名で伝世されてきた全長74.9cmの鉄剣(国宝)である。表と裏に金象嵌(きんぞうがん)で61文字が刻まれていて、表の銘文は冒頭に「泰和四年」とあり、中国・東晋の太和4年(369年)を指すとされている。『日本書紀』にも、神功皇后52年9月、百済から七支刀(ななつさやのたち)が献上されたと記載されている。神功皇后52年は、西暦になおすと372年にあたり、刀が製作されて3年後に我が国に伝えられたことになる。 日本が国家形成の揺籃期にあった4世紀後半の東アジア情勢、特に倭国と百済の関係を証す重要な刀である。なお、神宝であるため、石上神宮はこの刀を一般公開していない。
明治9年(1876)、当時宮司だった管政友(かんまさとも)が、この刀に金象嵌で文字が刻まれていることを発見し、明治20年(1887)に『任那考』で解読文を発表したことで、この事実が世に出た。銘文は次のように読めるとのことだ。
泰□四年□月十六日丙午正陽造百錬鋼七支刀□辟百兵宜供供候王□□□□作 (表)
先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故為倭王旨造□□□世 (裏)
象嵌の一部が剥落していることもあり、銘文の解釈についてはさまざまな説がだされているが、銘文の大意は、泰和4年に百済王の太子が倭王のためにこの七支刀を作ったというものである。 以前は、『日本書紀』の内容から、日本の歴史学者は七支刀は属国の百済から倭国に”献上”されたと解釈してきた。しかし、韓国の歴史学者はこの解釈に猛反発し、百済から属国の倭に「下賜」したものだと唱えた。歴史的事件に現在のナショナリズムを持ち込んだ誠に意味のない論争が続いたが、現在では、対等の独立国である両国が一種の軍事同盟を結んだ記念に百済から倭国に贈呈されたものとして、一応落ち着いている。
問題は、西暦369年という時期に、なぜ倭と百済が軍事同盟を結ばなければならなかったかである。その謎を解くには、当時の東アジア世界の動向に視点を向けなければならない。
■激動の4世紀の朝鮮半島
『資治通鑑』によると、漢が紀元前108年に4郡を設置して以来420年余に渡って中国人の支配下にあった楽浪郡とその南の帯方郡を、高句麗の美川王(在位300-331)が攻略して中国人の政治勢力を完全に韓半島から駆逐した。西暦313年から314年にかけてのことである。そのころ、韓半島では百済の新興勢力が旭日の昇天のように出現してきた。だが、高句麗が楽浪と帯方の両郡の土地を合わせたことで、百済は高句麗と国境を接するようになり、高句麗との武力衝突を運命づけられるようになった。
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| 4世紀の朝鮮半島 |
百済としては、北の高句麗に対抗するためにどのような対策を講じたであろうか。まず、隣国・新羅との友好関係の樹立である。近肖古王(在位347-375)の治世21年(366)3月に、新羅に使者を派遣し、さらに近肖古王23年(368)3月には馬二匹を送って友好関係を深めている。しかし、5年後の近肖古王28年(373)7月、禿山城主が300人を率いて新羅に逃げ込むという事件が発生し、それによってこの友好関係に亀裂が生じることになる。
一方、新羅は新羅なりに百済と友好関係を築くことに意義があった。新羅としても当然高句麗の南下に備えなければならなかった。さらに今一つは倭への備えである。『三国史記』の新羅本紀によれば、奈勿尼師今9年(364)4月、倭兵が新羅に侵入し、倭軍が潰滅するという戦闘があったことを伝えている。この記述は注目してよい。この頃すでに倭軍が朝鮮半島南部で軍事行動を展開していたことの証となる。
北の高句麗に対抗するには新羅との和親だけでは心許なかったのだろう。伽耶諸国を支援するために半島まで軍を派遣させて来ている軍事大国・倭の存在に、百済は着目した。近肖古王19年(364)百済は久■(くてい)、弥州流(みづる)、莫古(まくこ)の3人を伽耶諸国の一つ卓淳(とくじゅん)国に派遣して、倭と通交しようとした。しかし、卓淳国王は倭への交通路を知らなかったため、倭の使者が来たら連絡して欲しいと言い残して帰ったという。
百済が新羅と手を結んだ366年3月、倭国から斯摩宿禰(しまのすくね)が卓淳国に派遣れてきた。斯摩は卓淳国王からこの話を聞いて、さっそく従者の爾波移(にはや)という者を卓淳人の過古(わこ)に付けて百済に派遣した。近肖古王は喜んで使者を厚遇し、多くの珍宝を見せて、これらを倭国に献じるため使者を派遣することを約したという。
『日本書紀』は神功皇后47年(367)に近肖古王が久■(くてい)、弥州流、莫古を遣わして朝貢してきたと記している。神功皇后49年(369)には、倭から派遣された千熊長彦と百済王は、百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てたとしている。百済の太子はこの同盟を記念して、七支刀一口を作らせたのであろう。それから3年後の372年、千熊長彦に従って来朝した百済使節・久■(くてい)らは、七子鏡1面および種々の重宝とともに、この七支刀を献じたという。
高句麗と百済の本格的な衝突は故国原王が369年9月に歩騎2万を率いて百済の北界を侵略したことに端を発しているとされている。奇しくもその年は、七支刀が制作された中国・東晋の太和4年にあたる。すでに新羅と和親が成立し、倭との通交も実現した百済には後顧の憂いはなかった。近肖古王は太子の近仇首を遣わして、高句麗軍の南下を防ぐとともに、逆に逃げる敵を追撃して北の水谷城(いまの新渓)まで追い払ったという。
2年後の371年、高句麗は再び百済領に攻め込んだ。近肖古王は太子の近仇首とともに精兵3万を率いて出陣すると、待ち伏せによって高句麗を敗退させ、高句麗の南進の牙城である平壌城まで侵攻した。このとき、高句麗の故国原王は力を尽くして防戦したが、百済軍の流れ矢にあたって戦死した。百済は故国原王の首を切りさらしものにしたという。そのことが、高句麗にとって忘れがたい、骨髄に徹する怨恨となった。これ以後高句麗・百済間の衝突はますますエスカレートしていく。
近肖古王23年(375)、高句麗が北辺の城を攻めてきたので、将兵を派遣してこれを防いだが、この時は勝てなかった。近肖古王は大軍を起こして報復しようとしたが、その年の11月死亡してしまった。その後を嗣いだのが、七支刀を作らせたとされる太子の近仇首である。
倭国はこの百済との同盟関係に引きずられて、麗・済戦争への加入を余儀なくしていく。故国壌王(在位384〜391)の跡を継いだ広開土王(在位391〜412)が即位した辛卯年(391)以来、倭軍は高句麗を相手に壮絶な戦闘を半島で繰り広げることになる。そのことは、広開土王の輝かしい戦績を記録した碑に詳しい。現代の日本が、軍事同盟という足かせのために、海外まで派兵しなければならなくなった現状とどこか似ている。
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