橿原日記 平成18年3月25日

松岳山古墳(まつおかやまこふん)河内国分寺跡(かわちこくぶんじあと)を訪れる

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国分寺大橋から大和川の下流を見る (2006/03/25 撮影)

松岳山古墳(まつおかやまこふん) 4世紀後半に築かれ、古市古墳群との関係が重視される前方後円墳

前10時、昨日に続いて再び近鉄大阪線の「河内国分」駅に来た。ただし、降り立ったのは昨日とは逆の東口である。本音を言えば、昨日もう一カ所訪れてみたい場所があった。だが、方向音痴のせいで昨日の玉手山古墳巡りでは何回も道に迷い、挙げ句の果てに丘陵の反対側へ降りてしまった。そのために体力を消耗してしまい、計画を中止した。

近鉄大阪線の「河内国分」駅
近鉄大阪線の「河内国分」駅
れたかったのは、大和川左岸の松岳山(まつおかやま、標高60m)の頂に4世紀中頃に築かれた前方後円墳である。その松岳山古墳から、我が国で最古の年紀を持つ船王後(ふねのおうご)の墓誌が江戸時代に出土したと聞いていた。4世紀の古墳から7世紀の渡来人の墓誌が?・・・。なんとなく違和感を感じさせる古墳の存在が、いつまでも記憶の底に残っていた。

んなところか一度見ておきたいと思っていただけに、昨日探訪できなかったのは心残りだった。幸い、本日は昨日以上の好天に恵まれるとのことだった。やはり行きたいときに行っておかないと、何時のことになるか分からない。そう決心して出かけてきた。ついでに、近くにある2つの史跡も訪れることにした。河内国分寺塔跡竹原井頓宮(たかはらのい・とんぐう)跡である。


松岳山古墳付近の概略図
松岳山古墳付近の概略図
岳山古墳は柏原市の国分市場1丁目に鎮座する国分神社の裏山に位置している。アクセスするにはいろんなルートがあるのだろうが、大和川の左岸を行くことにした。国豊橋の手前にある「国豊橋南詰」の交差点まで出て、そこから大和川の流れを左手に見ながら進んだ。しばらく水面を見せていた流れは、やがて幅広い河川敷の向こうに遠のき、しかも河川敷に繁茂する竹などの雑木に隠されてしまった。

ざわざこのルートを選んだのには訳がある。6世紀から7世紀の頃、大和川の川船を利用して大和と河内を往来した古代人が、船縁から眺めたであろう当時の景観を追体験して見たかった。遣隋使節として隋に派遣された小野妹子たちも、彼らを送って国情視察に赴いてきた隋の使節・裴世清(はいせいせい)たちもこの地を川船で往来した。

流に向かう船から見ると、右岸に広がっていた河内平野がこのあたりで切れ、芝山から延びてきた松岳山の山塊がぐっと川岸まで迫って来たはずだ。流れは芝山の山麓を巡るように大きく蛇行し、その先にある亀の瀬峡谷の泡立つような浅瀬に向かう。おそらく、亀の瀬の手前で船を降り、川岸を歩いて上流に向かったにちがいない。亀の瀬を越えれば、その先は大和の国である。それとも古代には山崩れなど発生していなくて、亀の瀬峡谷はゆったりとした川の流れだっただろうか。


道路脇の標識
道路脇の標識
国分神社の西参道
国分神社の西参道
墳頂へ続く道<あ
墳頂へ続く道
上り道の途中に建つ石碑
上り道の途中に建つ石碑
松岳山古墳の主体部
松岳山古墳の主体部
はやがて上り坂になり、そのまま国分市場の集落へ入って行く。河内国分駅から歩くことおよそ18分、集落の中ほどでようやく山際に国分神社と松岳山古墳の標識に出くわした。標識は国分神社の西参道入口に立っている。コンクリートで固められた西参道を進み、鳥居をくぐったところで左手を見ると、古墳の頂上への登り口があり、その脇に国史跡「松岳山古墳」の案内板が立っていた。

内板によると、国分神社があるこの丘陵上には、10基ほどの小さな円墳や方墳があったが、その中で一番高所に築かれていたのが前方後円墳の松岳山古墳だった。古墳は前方部を南西にむけて築かれていて、全長は130m、後円部は直径72m、高さ16m、前方部は幅32m、高さ6.5mとのことだ。

丘は後円部が3段、前方部が2段で築成され、墳丘の裾の部分に扁平な板石を葺いた15〜20度の傾斜を持つ外周施設の帯が巡らされている。この外周施設帯までを墳丘と見なした場合、全長155m、後円部4段、前方部3段築成となる。


頂への登り口に「無断立ち入り禁止」の札が立っていた。さらに「入山についての災害は、神社にはいっさい無関係のことを承知の上で入山してください」とも書かれている。せっかく来たのだから、とにかく墳頂まで登ってみることにする。山の斜面は傾斜がきついせいか、道がジグザグにつけられ、しかも両側にロープが張られている。枯葉が散乱した道に日差しがこぼれているものの、土の表面が湿っている。おそらく転ばないようにロープを握って歩きなさいという意味だろう。

の中腹に「史跡松岳山古墳」と書かれた碑が建っていた。昭和14年(1939)3月に大阪府が建てたものである。その碑の所で下山してくる3人組の男に出あった。この辺鄙な場所にある古墳を見学に来る愛好家は、筆者以外にもいた。

円部の頂にたどり着いて驚いた。おそらく復元したものであろうが、石棺が露出しており、石棺の前と後に立石が立っている。案内板によると、この古墳の主体部(=埋葬施設)は、墳丘の主軸に直交するように後円部の中央に築かれた竪穴式石室である。その石室は安山岩の板石を積んで築かれていた。そして、石室の南北両端近くに高さ1.8〜2.3m、幅1.4mとかなり大きい立石が置かれていた。何故か、立石には中央に小さな穴が穿たれてる。

室の中は、粘土を詰めた床の上に、長持形石棺に先行する形式の組合せ式石棺がが納められていた。石棺の大きさ内法で長さが2.5m、北側の幅1.09m、高さ0.75m、南側の幅0.87m、高さ0.7mを測る。底石の中央に遺骸を納めるための浅い彫り込みがあり、その北側に枕が施されていた。

棺の蓋石と底石は花崗岩を使っているが、側石は凝灰岩で香川県の鷲の山石を使っているという。明治10年(1877)に発掘され鏡や玉類が出土したと伝えられているが、詳細は明らかでない。昭和32年(1957)年に行われた発掘調査では、刀、剣、斧、鋤、鎌、碧玉製品などの副葬品が出土した。これらの出土品から4世紀後半ごろに造られたと考えられている。

丘の南側のくびれ部にある中段のテラスで箱形石棺、また墳丘の裾で竪穴式の小さな石室が見つかっている。同様な施設が他の箇所でも存在する可能性もあるという。

考までに追記すると、柏原市立歴史資料館の常設展示室の入口には、松岳山古墳から出土した鰭(ひれ)付楕円形埴輪が2基置かれている(1月18日付け橿原日記参照)。
露出した組合せ式長持形石棺 露出した組合せ式長持形石棺
北→南方向から見た組合せ式長持形石棺南→北方向から見た組合せ式長持形石棺


船氏の墓の石標
宝の船王後(ふねのおうご)の墓誌が江戸時代に松岳山から発見されたと伝えられれている。そのため、後円部の頂上の近くに「船氏墳墓」と書かれた石標が建てられている。だが、墓誌の出土地点は確定されていない。また、松岳山古墳の築造が4世紀後半とされている以上、船氏ゆかりの墓ではあるまい。

誌には次のように書かれていた。「船氏の故王後首(おうごのおびと)は、船氏の中祖、王智仁首の子、那沛故首の子である。他田宮(おさだのみや)に治天下天皇(敏達天皇)の世に生れ、豊浦宮に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、飛鳥宮に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。……大仁の官位を賜い、第三品と為す。舒明天皇の末年(641)に逝去した。戊辰年(668)十二月、その夫人の安理故能刀自(ありこのとじ)と同墓にして松岡山の上に改葬し、大兄の刀羅古首の墓に並べて作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地と為すものである。」

氏は朝鮮半島からの渡来氏族で、その祖先は王辰爾(おうしんに)とされている。王辰爾が歴史の舞台に華々しく登場してきたいきさつが「烏羽の表(からすばのひょう)」の故事として知られている。敏達天皇元年(572)五月のことである。高句麗からの使節が烏の羽根に書かれた国書を朝廷に提出した。しかし書記を務める渡来系の官人は誰一人解読することが出来なかった。そんな中にあって、王辰爾は羽根を炊飯の湯気で蒸した後、柔らかい上等な絹布に羽根を押しつけて文字を写し取り、これを読み解いた。そのため、天皇の激賞を受けたという。

船氏王後の墓誌
船氏王後の墓誌
方、『日本書紀』は欽明14年(553)10月の条に、蘇我稲目(そがのいなめ)の命によって、王辰爾が淀川を往来する船舶から通行税を徴収し、それを記録することに功績があったので、船史(ふねのふひと)の姓を与えられたと記している。「烏羽の表」の故事とは20年近い差があるが、いずれにせよ王辰爾は蘇我氏に重用され、その一族・子孫らは、船(ふね)、津(つ)、葛井(ふじい)、白猪(しらい)、菅野などの姓を得て発展していく。

氏は羽曳野市に西部を本拠地を置いたとされ、野中寺は船氏の氏寺ではないかといわれている。船王後は王辰爾の孫とされ、7世紀前半の推古朝から舒明朝にかけて飛鳥の王権に仕え、聖徳太子が制定した冠位十二階の第三等にあたる大仁位に叙せられた官人である。船王後は舒明天皇13年(641)に没した。天智天皇7年(668)に夫人の安里故能刀自とともに河内国の松岳山に改葬されたと伝えられている。この改葬の伝承が事実ならば、松岳山古墳ではなく、松岳山の中のある墓に夫婦で合葬されたことになり、その墓から墓誌が出土したと考えられる。

の墓誌が、歴史上重要な意味を持つのは我が国で発見されている最も古い墓誌であること以上に、「治天下天皇」の文字が使われている点だ。墓誌が船王後を改葬した668年に埋められたものならば、「天皇」という君主号が使われるのは、飛鳥浄御原令(持統3年(689)制定)以後であるとする、史学会の通説よりさらに20年近く遡ることになる。



国分神社(こくぶじんじゃ) 本殿の背後の山頂に松丘山古墳がある神社

国分神社の表参道
国分神社の表参道
あああああ
国分神社の社殿
分神社は標高60mの丘陵の中腹に築かれた神社である。近鉄の「河内国分」駅から東の方角に直線距離にして1kmほどのところに鎮座している。麓の国分市場集落からかなり急な石段の参道を登ってこなければならないが、階段の途中を車道が横切っている。神社の創建年代は詳らかではない。古書や口伝などから類推して、鎌倉時代の建立であると、由緒書には記している。

社が鎮座する山を宇美山という。しかし背後の古墳がある山は松岳山と呼ばれている。松岳山古墳は史跡として当社の所有になっている。この付近は渡来系氏族の船氏が住んでいたようだが、鎌倉幕府が成立して武家政治が始まると、船氏の地位も消失してしまった。そこで、氏人たちの信仰があった三輪明神の大国主命と少彦名命を勧請して当地で祀り、さらに飛鳥部の飛鳥大神も勧請したという。これら3柱の神々が当社の祭神になっている。

社は明治5年に村社に列し、明治40年には字水谷の無格社・杜本神社を合祀して、現在に至っている。松岳山古墳の西の字向井山(むかいやま)にある茶臼山古墳から寛永6年(1629)に出土したと伝承されている三角縁盤竜鏡1面と三角縁神獣教2面を宝物として所蔵しているという。いずれも国の重要文化財に指定されている。



河内国分寺塔跡(かわちこくぶんじとうあと) 大和川を望む絶好の眺望に恵まれた傾斜地に築かれた国分寺の跡

河内国分寺の塔跡
河内国分寺の塔跡 (2006/03/25 撮影)

平13年(741)3月、聖武天皇は国分寺(国分僧寺、国分尼寺)造営の詔を発した。天平などという年号とは裏腹に、当時は飢饉や病、新羅との関係悪化、藤原広嗣の乱と不安の種のつきない時代だった。救いを仏教に求め、仏の力で国家の安泰を願おうと寺院の建立を思い立ったものとされている。

河内国分寺伽藍推定地
河内国分寺伽藍推定地
平年間後半ないし天平勝宝年間には、国分東条(ひがんじょう)町に鎮護国家を目的とする河内国分寺が創建され,偉容を誇っていたとされている。その場所は、大和川に沿って河内国府から平城京へ通じる幹線道路だった竜田道(現在の国道25号線)や奈良街道を見下ろす高台だった。だが、河内国分寺がいつ頃完成し、どのような伽藍配置だっったのかは、実の所よく分かっていない。

在、発掘されて遺構が判明しているのは塔跡だけである。中門跡などの遺構も一部発掘されたが、その他の伽藍遺構は失われたままで全くわからないという。塔は七重塔であったと推定されているから、平城京に向かう旅人は、高台に達つ国分寺の塔に、目を奪われたはずである。

和川を挟んだ対岸には、元正、聖武、光仁天皇が難波の宮への行幸の際に宿泊したとされる「竹原井頓宮」(たかはらのい・とうんぐう)があったとされている。


通学路
ジェイテクトの敷地の裏にある通学路
国分小学校
国分東小学校のピンクの校舎
分神社から国分寺塔跡へ向かうために、神社の表参道からまっすぐ延びる道を歩いて国道25号線の「東条西」交差点に出た。交差点の角にコンビニがあったので、立ち寄って国分寺塔跡方面への道を確認した。100mほど西にある次の「国分市場2」交差点で右折し、最初のT字路を左に入り、あとは山麓に向かって道なりに進めばよい、という。その道は小学生の通学路とのことだ。

えられた通りの道を進んだ。このあたりはトヨタグループのベアリング大手の光洋精工の工場街である。光洋精工は今年の1月1日から社名を「ジェイテクト株式会社」に変更した。どの工場の建物にも「JTEKT」の文字が貼り付けてある。

ェイテクトの敷地の裏側を山麓に沿って緩やかな上り坂が続く。やがて道はブドウ畑の中を進むようになる。道の行く手に淡いピンク色の国分東小学校の校舎が見えてきた。

学校前の畑で苗木業者が立ち話をしていたので、塔跡までの距離を聞いた。はるか彼方の青い屋根の平屋を指さし、あの建物向こう側だと教えてくれた。彼が手入れをしていたしだれ梅が見事な花を咲かせていたので、写真を撮らせてもらった。
紺碧の青空に生える白梅 紺碧の青空に生える紅梅
紺碧の青空に生える白梅 紺碧の青空に生える紅梅

塔跡の標識
うやく河内国分寺の塔跡にたどり着いた。復元された塔跡の回りに植えられた桜の木の蕾がふくらみ、数日後には開花する勢いを見せている。塔跡は、近鉄の「河内国分」駅から東へ直線距離でほぼ2kmに位置する。大和川を見下ろす絶好の場所にあり、すばらしい景観に恵まれている。

阪府と柏原市の教育委員会が建てた説明板には、河内国分寺は、東西2町(216m)南北2.5町(270m)の範囲を寺域とし、西側の丘陵には南大門、中門、金堂、講堂などが、また東側の丘陵上には塔院のほか寺院に付属する施設が建てられていたと考えられている、とある。

河内国分寺塔跡
河内国分寺塔跡
が、現場に立ってみて本当かと疑いたくなる。山岳仏教が盛んになった時代ならいざしらず、都市仏教だった奈良時代にこのような急傾斜地に伽藍を配したとは、ちょっと信じがたい。説明版に記された伽藍配置をイメージするには、すこし難しい地形のように思われる。 。

は1辺63尺(18.9m)、高さ5尺(1.54m)の基壇の上に建てられていた七重塔だったと推測されている。基壇は周囲に凝灰岩の切石を積んだ壇上積み基壇で、基壇の上面には凝灰岩の切石を敷き詰め、ホゾの出た礎石を配してあったという。花崗岩の礎石は心礎を含めて6個残っていた。礎石の位置から、塔の一辺は10.36m、七重の塔であったと推定されている。
大和川を望む
塔跡近くの道路から大和川を望む (2006/03/25 撮影)



竹原井頓宮跡(たけはらのいとんぐうあと) 国分寺塔跡の対岸で消えてしまった(?)遺跡

亀の瀬を望む
国分寺大橋から亀の瀬を望む (2006/03/25 撮影)

万葉集』の挽歌は、雑歌・相聞とともに三大なジャンルの一つとされている。その冒頭を飾るのが次の歌である。
●家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥(こや)せる この旅人(たびと)あはれ (巻3−415)
この歌の詠み手は、なんと聖徳太子であり、太子が竹原井(たかはらのい、現柏原市高井田または青谷)に来遊したとき、竜田山で死人を見て悲しんで作った歌とされている。

の歌に続く挽歌は
●ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻3−416)
この人口を膾炙(かいしゃ)して止まない大津皇子(おおつのみこ)の歌よりも先に、聖徳太子の歌が置かれているのを知って、竹原井という地名がずーっと気になっていた。後に、奈良時代の天皇が難波宮への行幸時の中継地として利用した頓宮(とんぐう)が置かれた場所であることを知った。

国分寺大橋
国分寺大橋
国分寺寺跡付近を望む
対岸から国分寺塔跡付近を望む
煙がたなびいている付近が塔跡
建築資材置き場
建築資材置き場
建築資材置き場の内部
建築資材置き場の内部
なみに、皇族が政治、保養、狩猟などの目的で行幸し、宿泊した別荘を離宮という。 その中で一時的なものを頓宮、または行宮という。竹原井は「竜田道」の中間に位置する大和川河岸の風光明媚な地である。おそらく聖徳太子の時代も頓宮に似た施設がすでに築かれていたのであろう。太子が竹原井へ出向いたとき目にした光景はどんなものだっただろうか。ずいぶん長い間、そのことが気になっていた。

和川の右岸に青谷(あおたに)という集落がある。古代の大県郡鳥取(ととり)郷の地と考えられている。大和川に架かる国分寺大橋の西方で、その集落の前を流れる大和川は大きくS字を描いている。現在市営の青谷青少年運動広場がある低地から、奈良時代の瓦の破片が発見され、鳥取廃寺跡、青谷廃寺跡、国分尼寺跡などと様々な推測が流れたが、現在は青谷遺跡と呼ばれている。

和59年(1984)5月、その遺跡が発掘調査され、奈良時代の複弁蓮華文丸瓦や均正唐草文平瓦などの他に、建物間の石敷き遺構などが出土した。そのため、『続日本紀』に見られる、元正、聖武、光仁の各天皇が難波の行幸した際に利用した「竹原井頓宮」の有力候補と取りざたされるようになった。国分寺塔跡から見て、その場所は正面の大和川の対岸に位置している。

地に不案内であることは、時に大きな時間の損失を招くことがある。国分寺塔跡から河岸の国道25号線まで下ってきて、はてどのように対岸に渡ろうかと迷った。国道の東側を見ると、はるか彼方に国道と立体交差している橋桁が見える。地図で確認すると国分寺大橋だった。

図をもう少し丹念に見ていたら、他の手段もあることに気づくべきだった。なんとすぐ近くに吊り橋が架けられていた。ただし、工場の建物などに遮られて、国道の歩道に立ってもその姿は見えない。止む得ず国分寺大橋まで歩き、そこから大和川を渡った。橋の上から川上を見たら、亀の瀬の浅瀬が思いの外近くに見えた。

岸に渡って青谷遺跡を探したが、何処にもそれらしい形跡が見あたらない。20年前に発掘調査したのであれば、何かの標識が立っているものと思ったが何も見あたらない。付近にあるのは、鉄板で四方を囲った建築資材置き場とその先にある青少年運動広場だけである。二人ほど通行人に地図を見せて場所を尋ねたが、誰も遺跡のことなど知らないという。

方なく資材置き場に入り仮設事務所で昼食を取っている職員にも尋ねてみた。やはり知らないという。この付近で20年ほど前発掘調査が行われたはずだがと聞いても、自分もここで15年勤めているが発掘があったという話は記憶にないという。しかし、地図で見る限り、資材置き場の一画が青谷遺跡だったような気がする。

ね求めた遺跡が見つからないとき疲労度は倍加する。疲れた足を引きずってまた国分寺大橋経由で戻らなければならないのかと思っただけで、足が急に重くなった。資材置き場の前の道を大和川に沿って下っていけばなんとかなると思って歩き出した。だが、道は青少年運動広場で行き止まりである。

方に暮れていると、ヒョイと道路に出てきたオバサンが「そんなら、吊り橋を渡りなさい」と教えてくれた。対岸から青少年運動広場に来るために吊り橋が渡されていることを、このとき初めて知った。揺れる吊り橋を渡って対岸に出ると、そこは国道25号線に面した「ジェイテクト」の工場の前だった。
吊り橋・青谷遺跡側 吊り橋の途中 国分寺大橋
吊り橋・青少年運動広場側 吊り橋の途中 吊り橋・国道25号線側




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