橿原日記 平成18年3月24日

玉手山古墳群と安福寺横穴群を訪れる

玉手山丘陵とその周辺
玉手山丘陵とその周辺


玉手山古墳群付近の地図
玉手山古墳群付近の地図
阪府の柏原市(かしわらし)市から羽曳野市(はびきのし)にまたがる丘陵がある。玉手山丘陵である。この丘陵は、大和川と石川の合流地点に向かって南からぐうっと北にせり出している。

和川を挟んだ対岸は、生駒山系の南端にあたる。その斜面には、6世紀の中頃から7世紀の初めころに築かれた高井田横穴群の名で知られる有名な集団墓地がある。一方、石川を挟んだ対岸には、誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳をはじめとして多くの巨大前方後円墳を擁する古市古墳群が展開している。

墳造りに熱中した古代の人々が、両大河に挟まれて見晴らし抜群の丘陵を一族の長(おさ)たちの奥津城として利用しなかったはずがない。そう思って柏原市の地図を眺めていると、やはりその丘陵の尾根づたいに、十数基の前方後円墳が、南北約2.5kmに渡って群在していた。3世紀半ばから4世紀後半の古墳時代前期に築かれた玉手山古墳群である。さらに、市立玉手山公園に隣接する安福寺(あんぷくじ)の参道には、高井田横穴群ほどの規模ではないが、ほぼ同時期の6〜7世紀に築かれた35基の横穴墓がある。

たがって、玉手山丘陵地帯は、考古学上も大変貴重な地域であるとされている。そんな貴重な遺跡があるのに、今まで探訪しなかったのが情けない。しかも、玉手山古墳群は「河内国分」駅で下車して徒歩10分から15分くらいでアクセスできるという。筆者が大阪へ出るときは近鉄大阪線を利用することが多い。「河内国分」駅は電車が大和川を渡る手前にある通過駅である。「大和八木」経由で30分もあれば行ける。

舌鳥古墳群を歩いた20日の月曜日に続いて、本日も穏やかな晴天の一日になると、朝の天気予報が告げている。その予報を聞いた途端に出かける気にになって、気づいたときはいつものスタイルでアパートを飛び出していた。



玉手山1、2、3号墳

「河内国分」駅からのアクセス
「河内国分」駅からのアクセス
原川に架かる橋の上の標識
原川に架かる橋の上の標識
前10時、近鉄の「河内国分」駅の改札を出て西口広場の前に立った。駅前を府道27号線が南北に走っている。その沿線に立ち並ぶ商店街のビルの間から、朝日を浴びて眩しげな住宅街の高まりが見えた。古墳群があると聞くと、樹木が生い茂った丘陵地帯を想像しがちだが、玉手山丘陵はそうしたイメージとは縁遠い。比高差50〜80mほどの丘陵は、宅地開発の波に押しまくられて、その頂上まで戸建ちの住宅が並んでいる。

前広場の前にある「国分駅北」信号から南へ50mほどの所に「国分駅西」の交差点がある。交差点の角にある銀行の前を右折して丘陵方面へ向かうと、すぐの所に原川に架かる橋がある。橋のたもとに「市立玉手山公園」などいくつかの標識が立っている。玉手山1,2,3号墳0.5km、安福寺横穴群(府史跡)0.7kmと書かれた標識と矢印の方向を確認して先に進むと、道はすぐに緩やかな上り勾配に差しかかる。


までに16基の古墳が玉手山丘陵の上に南北に連なって築造されていたことが分かっている。そのほとんどは古墳時代前期(3世紀半ば〜4世紀後半)に築かれた前方後円墳で、中期以降に時代が下るものは知られていないとのことだ。したがって、短期間に複数の地域の首長が、玉手山丘陵を共同の墓域として、造墓活動を繰り返していたと考えられている。その古墳の密集の仕方は他に例を見ない。

れまで多くの調査がなされデータも蓄積されているが、発掘調査されたにもかかわらずその成果が詳しく公表されていないものもある。そのため、重要な遺跡であるにかかわらず実体が解明されないまま戦後の開発で半数以上が姿を消してしまった。

存している古墳は以下の6基だけである(出典:2002/08/31 現地説明会資料)

古墳名墳形全長葺石埴輪・他埋葬施設副葬品
1号墳前方後円墳110m円筒・楕円筒後円部・竪穴式石室
前方部・粘土槨
不明
2号墳前方後円墳70m不明円筒後円部・竪穴式石室か石棺不明
3号墳前方後円墳96m円筒・朝顔・蓋?後円部・竪穴式石室、粘土槨か?鉄製品?盾?
7号墳前方後円墳110m円筒・朝顔・家形・土師器壺後円部・竪穴式石室か?石製合子(容器)・石製小壺
8号墳前方後円墳80m円筒・楕円筒・朝顔・家後円部・粘土槨か?鉄剣
9号墳前方後円墳65m円筒・朝顔・土師器壺後円部・竪穴式石室琴柱形石製品・勾玉・ガラス小玉・鉄剣・鉄斧・土師器

れらの古墳が築かれたのは、古墳時代前期とされているが、この時期は大和では前方後円墳という特異な墳形が大和王権のシンボルとして確定した時期でもある。そして、4世紀前半には大和東南部の纒向古墳群や柳本古墳群で盛んに前方後円墳が造られた。4世紀後半になると大和北部の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群や大和西部の馬見古墳群にも広がりを見せる。

手山古墳群に採用されていた墳形が前方後円墳であったという事実は、大和王権となんらかの関わりをもった氏族の族長たちを埋葬した墓であることを物語っている。ただ、その規模が最大のものでもせいぜい110mにすぎない。一方、4世紀末になると、石川の対岸に突如として巨大前方後円墳が築かれ始める。そのため、玉手山古墳群を築いた氏族が巨大化して古市古墳群を築くようになったとする説があるが、はたしてどうであろうか。そもそも、玉手山丘陵に営々と前方後円墳を築造し続けた氏族とは何者か。その氏族が大王家に匹敵する権威と権力を持たなければ、とても古市古墳群を継続して築造できたとは思えない。玉手山古墳群が同一氏族によって何世代にも渡って築かれたとして、その墳丘の規模は時代とともに巨大化していない。むしろ縮小傾向にあったようにも感じられる。


第3号墳
宗教法人の建物の裏にある第3号墳
かっての玉手山1号墳も今は墓地
かっての玉手山2号墳も今は墓地
玉手山1号墳
奥田三郎右衛門の墓が立つ玉手山1号墳
地分譲地の中をジグザグで上っていく坂道が、突然幅の広い、しかも中央分離帯がある直線道路に変わった。そこは五叉路の交差点になっていて、角にタバコ屋がある。五叉路を右折して尾根に沿った細い道を進むと、まもなく右手に宗教法人普明会教壇大阪支部の敷地がある。

の敷地の裏側(北側)の丘が第3号墳である。古墳のさらに北側には市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っている。したがって、2つの敷地の間にある丘陵の尾根部分が古墳ということなるが、道路から見上げただけでは、古墳のように見えない。普明会教壇の建物の裏に回ってみれば、後円部であることがよく分かる。

のあたりは勝松山、勝負山、あるいは小松山と呼ばれており、後述するように大阪夏の陣で激戦が繰り広げられたことで知られている。また、安福寺境内に置かれている割竹形石棺墓(重文)は、この古墳からの出土品と伝えられている。

立老人福祉センター「やすらぎの園」の北側に共同墓地が広がっている。実は、この場所にかって墳丘長70mの前方後円墳が横たわっていた。墓地は丘陵の尾根に南北に築かれていて市街地を俯瞰することができる。4世紀の古代人たちも21世紀の現代人も、考えることはどうやら同じのようだ。見晴らしの良い場所で永久の眠りにつきたいと考えるは、人間としての本源的な欲望なのだろうか。

同墓地の北の端に、道路を挟んで第1号墳がある。墳頂110mの前方後円墳である。地名を取って別名を小松山古墳とも呼ばれている。後円部の頂上に大阪夏の陣で討ち死にした徳川方の武将・奥田三郎右衛門の墓が立っている。



玉手山7号墳とその周辺

市街地
公園の東入口へ続く坂道から振り返って見た市街地 (06/03/24 撮す)

「歴史の丘」地区
市立玉手山公園内の「歴史の丘」地区
墳丘頂上へ続く階段
第7号墳の墳丘頂上へ続く階段
供養塔
後円部の頂上に建つ供養塔
発掘調査に基づく実測図
2001/2002年度の発掘調査に基づく実測図
び五叉路の交差点に戻って中央分離帯がある広い直線道路を上っていくと、丘陵の反対側斜面にかかる地点で、道はまた曲がりくねった急な下り坂にかかる。その手前が三叉路になっていて、市内循環バスの「玉手山公園」バス停があり、そばに「市立玉手山公園」の標識が立っている。標識の矢印の方向に進むと、玉手配水池があり、その横に碑があった。その碑の前を道なりに進むと、やがて浄土宗運潮寺の玉手山墓苑の看板が見えてくる。そのまま直進すると、左側に展望が開けた急な坂道が立ちはだかっている。あえぎながら坂道を上りきったところが「玉手山公園ふれあいパーク」の東入口だった。

立玉手山公園は、平成10年5月に90年の歴史に幕を閉じた近鉄の「玉手山遊園地」を市が引継ぎ、平成11年3月にあらたに市民の「ふれあいパーク」としてリニューアルオープンした施設である。総面積68、000平方メートル(約20,500坪)の敷地に、メイン広場、憩いの森、コミュニティ広場、歴史の丘、冒険の広場、梅林など様々な施設が配されている。

の公園一帯は、大阪夏の陣で大阪方の先陣・後藤又兵衛らが奮戦した古戦場でもある。実は玉手山古墳群の第7古墳は、公園に東入口を入った目の前に位置していて、後円部の頂上には、大阪夏の陣の両軍戦死者の供養塔が建っている。

手山7号墳は前方部の西に向けた全長110mの前方後年墳である。後円部の墳丘は玉手山公園の中にあってかなり改変されており、また慰霊塔が建つ後円部の頂上は板石や丸石が散らばり埋葬施設がかなり破壊されていることが予想された。しかし、前方部には尾張藩主2代目・徳川光友の墓があり、頂はいくぶん削られているが、後円部より保存状態は良い。

の古墳については、過去に若干の埴輪のカケラや後円部の頂で滑石製の合子(ごうす、蓋付きの容器)が見つかった程度で、ほとんど情報がなかった。そこで、2001年夏から2002年夏にかけて、古墳の発掘調査が行われた。これらの調査の結果、以下のことが分かった。
●墳丘の形がほぼ完全に復元でき、墳丘各部の規模は全長110m、後円部径約70m、前方部長約40m、前方部幅約40mだった
●前方部と後円部はいずれも三段築成で築かれている。またくびれ部は勾配をつけたスロープを設けて接続している
●墳丘の形は、後円部に対して前方部が短く、前方部の幅があまり広がっていないもので、奈良県の行燈山古墳(崇神天皇陵)に類似していて、ほぼ2分の1の規模に相当する
●埋葬施設としては、後円部の墳頂に南北方向の竪穴式式石室が設置されている埋葬施設が判明し、またあらたに石製の小壺が見つかった。
●出土した土器と埴輪から、築造時期は古墳時代前期後半と考えられる

上は、発掘調査を実施した大阪市立大学日本史研究室が、2002年8月31日に配布した現地説明会資料の抜粋である。同研究室はこれらの成果をふまえて、第7号墳は古墳時代前期後半の河内を代表する前方後円墳であるとし、その被葬者は行燈山古墳に葬られた有力者と同時代を生き活躍した人物だったと想定している。さらに、大王陵と相似形の古墳を築き、また有力な古墳にしばしば見られる石製の合子と小壺のセットを副葬していることから判断して、畿内の王権と密接な関係をもったランクの高い古墳と位置づけている。


7号墳の墳丘の横に、竪穴式石室と組み合わせ式の家形石棺がそれぞれ1基おかれている。説明版によると、玉手山公園一帯には多くの古墳があり、調査が終了した古墳の石室と石棺をここへ移して展示しているとのことだ。竪穴式石室は4世紀ごろの前方後円墳の墳頂にあったもので、内部は腐食していたが、青銅の鏡、硬玉の勾玉、碧玉の管玉、鉄桶、鉄斧などを副葬していたという。組み合わせ式家形石棺は横穴式石室にはいっていたもので、須恵器などを伴っていたため、6世紀の豪族の墓のものと推定されている。
み合わせ式の家形石 竪穴式石室
6世紀の組み合わせ式の家形石 4世紀ごろの竪穴式石室


小林一茶の句碑
小林一茶の句碑
7号墳から東へ少し下ったところに、俳人・小林一茶の次の句を刻んだ石碑が建っている。
● 初蝉や 人松陰を したふ此(ころ)
小林一茶(1763 - 1827)は寛政4年(1792)の春から6年間、上方・四国を旅した。その途中、寛政7年(1795)4月、当時すでに大阪夏の陣の先勝地として有名だった玉手山を訪れて、この句を詠んだ。句碑は一茶がその時のことを著した「西国紀行」から文字を拡大複写して刻んだものである。

茶が信濃の国の柏原村(現在の長野県上水内郡信濃町)の出身である。一茶と「柏原」との縁はこんあところにもあるのかしれない。昭和48年(1973)4月、一茶を愛する有志によって、この碑が建てられた(小林一茶句碑の説明より)。


後藤又兵衛基(右)と吉村武右衛門(左)の碑
後藤又兵衛基(右)と吉村武右衛門(左)の碑
小松山の戦い
大阪夏の陣の戦端を開いた小松山の戦い
臣方と徳川方の最終決戦となった大阪の陣は、慶長19年(1614)の冬の陣と翌慶長20年(1615)の夏の陣の2度に渡って行われた。玉手山は夏の陣の先端が開かれた場所であり、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川の大群を迎え撃って討ち死にした戦場として知られている。

闘は、要衝「小松山」の争奪を巡って繰り広げられた。小松山とは、現在の市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っているあたりである。徳川軍の大軍を河内の峠で迎え撃つべく後藤又兵衛は5月6日未明自ら先陣として約3000の手勢を連れて、この山まで来た。だが、徳川方の先陣2万の軍勢がすでに到着していた。又兵衛は大阪方の2番手・薄田隼人らの軍を待たずに戦いの火ぶたを切った。

兵衛の軍は奮戦したが、多勢に無勢は如何ともしがたく、敵弾に当たり負傷してしまった。側近の吉村武右衛門に介錯させて、又兵衛は自決した。その首は、この地の西北の片山・深田へ埋めさせたという。56歳だった。翌7日、大阪城が落城した。

7号墳の墳頂には両軍戦死者供養塔が建っているが、古墳の横にも後藤又兵衛基の碑と吉村武右衛門の碑が建っている。



安福寺横穴群

標識
年の1月、JR大和路線(関西本線)の「高井田」駅の近くにある「史跡高井田横穴公園」を訪れた。現在までに確認されているだけでも162基の横穴墓が累々と築かれている史跡公園だった(1月18日付け橿原日記参照)。そのとき、大和川の対岸にあたる玉手山丘陵にも横穴墓が築かれている場所があることを、市立歴史資料館で知った。

名な線刻壁画を見たいと思ったが、高井田横穴公園の横穴墓は入口にフェンスが設けられていて内部を伺うことができなかった。心ない見学者が壁面に落書きをするのを防ぐ処置だった。しかし、年に2回だけ一般公開している。今年の春は5月20日が線刻壁画公開日になっている。

手山横穴群は横穴墓が数カ所に築かれている。安福寺参道の両側に築かれた合計35基の横穴は有名で、大阪府の史跡指定を受けている。その他にも、安福寺近くの玉手地域コミュニティ会館のそばにも5基の横穴がある、こちらも玉手山横穴群の一部である。玉手山東横穴群では約20基の存在が確認されている。


安福寺の門
安福寺の門
参道右手の横穴
参道右手の横穴群
参道左手の横穴群
参道左手の横穴群
横穴の一つに描かれた線刻画
横穴の一つに描かれた線刻画
福寺の横穴群を見るために、再び市内循環バスの「玉手山公園」バス停まで戻った。曲線を描いて下る急な坂道を降りていくと、途中に鈴木歯科医院の青い看板が立っていた。その前が三叉路になっていて、安楽寺方面への標識があった。

楽寺の山門をくぐると、木々に囲まれた小さな谷に参道が続いている。横穴はその両側に築かれいる。参道入口の傍らに、大阪府と柏原市の教育委員会が掲げた古ぼけた案内板が立っていて、参道両脇に口を開けている35基の横穴は、昔、火の雨が降ったとき非難した穴だとか、古代人の住居跡だとか言われてきたが、実は今から1400年ほど前の古墳時代後期の墓だったことを説明している。

穴は、凝灰岩の崖面を掘って造られたもので、短い羨道と玄室からなり、天井はゆるいアーチ状となっている。造り付けの石棺を持つもの、陶質棺が納められているもの、騎馬人物像などの線刻壁画が描かれたものなどがある。これらの横穴は次々と築かれ、現代のマンションのように2層3層になって密集しているのが特徴である。

土した土器から、横穴が築かれたのは6世紀の中頃から7世紀の初めにかけての頃だそうだ。高井田横穴公園の横穴墓とほぼ同時期に築かれたことになる。その時代は石を組んで造った石室に土を盛った横穴式石室墳が多く、横穴は柏原市にしか見られないとのことだ。この横穴群は昭和48年(1973)に府史跡に指定されている。

馬人像の線刻画が描かれている横穴を除いて、たいていのものは内部を見学できる。その中の一つに入ってみたが、アーチ状の天井を持つ内部は結構広い。玉手山古墳群を築いた氏族との関係が気になった。しかし、4世紀と6世紀では時代がかけ離れている。横穴墓を築いたのは、おそらく朝鮮半島からやってきた渡来人の集団であろう。

井田横穴公園の横穴に描かれた線刻画の場合もそうだったが、こちらの線刻画も一筆書きでさっと描いたような軽妙さが良い。現物は見れなかったが、玉手山公園のコミュニティ広場にある展示館に、線刻画の写真が飾ってあった。何の目的で描いたのか分からないが、ずいぶん豊かな表現力を持った人間の作品のように見えた。



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