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| 玉手山丘陵とその周辺 |
玉手山1、2、3号墳
駅前広場の前にある「国分駅北」信号から南へ50mほどの所に「国分駅西」の交差点がある。交差点の角にある銀行の前を右折して丘陵方面へ向かうと、すぐの所に原川に架かる橋がある。橋のたもとに「市立玉手山公園」などいくつかの標識が立っている。玉手山1,2,3号墳0.5km、安福寺横穴群(府史跡)0.7kmと書かれた標識と矢印の方向を確認して先に進むと、道はすぐに緩やかな上り勾配に差しかかる。 今までに16基の古墳が玉手山丘陵の上に南北に連なって築造されていたことが分かっている。そのほとんどは古墳時代前期(3世紀半ば〜4世紀後半)に築かれた前方後円墳で、中期以降に時代が下るものは知られていないとのことだ。したがって、短期間に複数の地域の首長が、玉手山丘陵を共同の墓域として、造墓活動を繰り返していたと考えられている。その古墳の密集の仕方は他に例を見ない。 これまで多くの調査がなされデータも蓄積されているが、発掘調査されたにもかかわらずその成果が詳しく公表されていないものもある。そのため、重要な遺跡であるにかかわらず実体が解明されないまま戦後の開発で半数以上が姿を消してしまった。 現存している古墳は以下の6基だけである(出典:2002/08/31 現地説明会資料)
これらの古墳が築かれたのは、古墳時代前期とされているが、この時期は大和では前方後円墳という特異な墳形が大和王権のシンボルとして確定した時期でもある。そして、4世紀前半には大和東南部の纒向古墳群や柳本古墳群で盛んに前方後円墳が造られた。4世紀後半になると大和北部の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群や大和西部の馬見古墳群にも広がりを見せる。 玉手山古墳群に採用されていた墳形が前方後円墳であったという事実は、大和王権となんらかの関わりをもった氏族の族長たちを埋葬した墓であることを物語っている。ただ、その規模が最大のものでもせいぜい110mにすぎない。一方、4世紀末になると、石川の対岸に突如として巨大前方後円墳が築かれ始める。そのため、玉手山古墳群を築いた氏族が巨大化して古市古墳群を築くようになったとする説があるが、はたしてどうであろうか。そもそも、玉手山丘陵に営々と前方後円墳を築造し続けた氏族とは何者か。その氏族が大王家に匹敵する権威と権力を持たなければ、とても古市古墳群を継続して築造できたとは思えない。玉手山古墳群が同一氏族によって何世代にも渡って築かれたとして、その墳丘の規模は時代とともに巨大化していない。むしろ縮小傾向にあったようにも感じられる。
その敷地の裏側(北側)の丘が第3号墳である。古墳のさらに北側には市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っている。したがって、2つの敷地の間にある丘陵の尾根部分が古墳ということなるが、道路から見上げただけでは、古墳のように見えない。普明会教壇の建物の裏に回ってみれば、後円部であることがよく分かる。 このあたりは勝松山、勝負山、あるいは小松山と呼ばれており、後述するように大阪夏の陣で激戦が繰り広げられたことで知られている。また、安福寺境内に置かれている割竹形石棺墓(重文)は、この古墳からの出土品と伝えられている。 市立老人福祉センター「やすらぎの園」の北側に共同墓地が広がっている。実は、この場所にかって墳丘長70mの前方後円墳が横たわっていた。墓地は丘陵の尾根に南北に築かれていて市街地を俯瞰することができる。4世紀の古代人たちも21世紀の現代人も、考えることはどうやら同じのようだ。見晴らしの良い場所で永久の眠りにつきたいと考えるは、人間としての本源的な欲望なのだろうか。 共同墓地の北の端に、道路を挟んで第1号墳がある。墳頂110mの前方後円墳である。地名を取って別名を小松山古墳とも呼ばれている。後円部の頂上に大阪夏の陣で討ち死にした徳川方の武将・奥田三郎右衛門の墓が立っている。 |
玉手山7号墳とその周辺
市立玉手山公園は、平成10年5月に90年の歴史に幕を閉じた近鉄の「玉手山遊園地」を市が引継ぎ、平成11年3月にあらたに市民の「ふれあいパーク」としてリニューアルオープンした施設である。総面積68、000平方メートル(約20,500坪)の敷地に、メイン広場、憩いの森、コミュニティ広場、歴史の丘、冒険の広場、梅林など様々な施設が配されている。 この公園一帯は、大阪夏の陣で大阪方の先陣・後藤又兵衛らが奮戦した古戦場でもある。実は玉手山古墳群の第7古墳は、公園に東入口を入った目の前に位置していて、後円部の頂上には、大阪夏の陣の両軍戦死者の供養塔が建っている。 玉手山7号墳は前方部の西に向けた全長110mの前方後年墳である。後円部の墳丘は玉手山公園の中にあってかなり改変されており、また慰霊塔が建つ後円部の頂上は板石や丸石が散らばり埋葬施設がかなり破壊されていることが予想された。しかし、前方部には尾張藩主2代目・徳川光友の墓があり、頂はいくぶん削られているが、後円部より保存状態は良い。
この古墳については、過去に若干の埴輪のカケラや後円部の頂で滑石製の合子(ごうす、蓋付きの容器)が見つかった程度で、ほとんど情報がなかった。そこで、2001年夏から2002年夏にかけて、古墳の発掘調査が行われた。これらの調査の結果、以下のことが分かった。 以上は、発掘調査を実施した大阪市立大学日本史研究室が、2002年8月31日に配布した現地説明会資料の抜粋である。同研究室はこれらの成果をふまえて、第7号墳は古墳時代前期後半の河内を代表する前方後円墳であるとし、その被葬者は行燈山古墳に葬られた有力者と同時代を生き活躍した人物だったと想定している。さらに、大王陵と相似形の古墳を築き、また有力な古墳にしばしば見られる石製の合子と小壺のセットを副葬していることから判断して、畿内の王権と密接な関係をもったランクの高い古墳と位置づけている。 第7号墳の墳丘の横に、竪穴式石室と組み合わせ式の家形石棺がそれぞれ1基おかれている。説明版によると、玉手山公園一帯には多くの古墳があり、調査が終了した古墳の石室と石棺をここへ移して展示しているとのことだ。竪穴式石室は4世紀ごろの前方後円墳の墳頂にあったもので、内部は腐食していたが、青銅の鏡、硬玉の勾玉、碧玉の管玉、鉄桶、鉄斧などを副葬していたという。組み合わせ式家形石棺は横穴式石室にはいっていたもので、須恵器などを伴っていたため、6世紀の豪族の墓のものと推定されている。
● 初蝉や 人松陰を したふ此(ころ) 小林一茶(1763 - 1827)は寛政4年(1792)の春から6年間、上方・四国を旅した。その途中、寛政7年(1795)4月、当時すでに大阪夏の陣の先勝地として有名だった玉手山を訪れて、この句を詠んだ。句碑は一茶がその時のことを著した「西国紀行」から文字を拡大複写して刻んだものである。 一茶が信濃の国の柏原村(現在の長野県上水内郡信濃町)の出身である。一茶と「柏原」との縁はこんあところにもあるのかしれない。昭和48年(1973)4月、一茶を愛する有志によって、この碑が建てられた(小林一茶句碑の説明より)。
戦闘は、要衝「小松山」の争奪を巡って繰り広げられた。小松山とは、現在の市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っているあたりである。徳川軍の大軍を河内の峠で迎え撃つべく後藤又兵衛は5月6日未明自ら先陣として約3000の手勢を連れて、この山まで来た。だが、徳川方の先陣2万の軍勢がすでに到着していた。又兵衛は大阪方の2番手・薄田隼人らの軍を待たずに戦いの火ぶたを切った。 又兵衛の軍は奮戦したが、多勢に無勢は如何ともしがたく、敵弾に当たり負傷してしまった。側近の吉村武右衛門に介錯させて、又兵衛は自決した。その首は、この地の西北の片山・深田へ埋めさせたという。56歳だった。翌7日、大阪城が落城した。 第7号墳の墳頂には両軍戦死者供養塔が建っているが、古墳の横にも後藤又兵衛基の碑と吉村武右衛門の碑が建っている。 |
安福寺横穴群
有名な線刻壁画を見たいと思ったが、高井田横穴公園の横穴墓は入口にフェンスが設けられていて内部を伺うことができなかった。心ない見学者が壁面に落書きをするのを防ぐ処置だった。しかし、年に2回だけ一般公開している。今年の春は5月20日が線刻壁画公開日になっている。 玉手山横穴群は横穴墓が数カ所に築かれている。安福寺参道の両側に築かれた合計35基の横穴は有名で、大阪府の史跡指定を受けている。その他にも、安福寺近くの玉手地域コミュニティ会館のそばにも5基の横穴がある、こちらも玉手山横穴群の一部である。玉手山東横穴群では約20基の存在が確認されている。
安楽寺の山門をくぐると、木々に囲まれた小さな谷に参道が続いている。横穴はその両側に築かれいる。参道入口の傍らに、大阪府と柏原市の教育委員会が掲げた古ぼけた案内板が立っていて、参道両脇に口を開けている35基の横穴は、昔、火の雨が降ったとき非難した穴だとか、古代人の住居跡だとか言われてきたが、実は今から1400年ほど前の古墳時代後期の墓だったことを説明している。 横穴は、凝灰岩の崖面を掘って造られたもので、短い羨道と玄室からなり、天井はゆるいアーチ状となっている。造り付けの石棺を持つもの、陶質棺が納められているもの、騎馬人物像などの線刻壁画が描かれたものなどがある。これらの横穴は次々と築かれ、現代のマンションのように2層3層になって密集しているのが特徴である。 出土した土器から、横穴が築かれたのは6世紀の中頃から7世紀の初めにかけての頃だそうだ。高井田横穴公園の横穴墓とほぼ同時期に築かれたことになる。その時代は石を組んで造った石室に土を盛った横穴式石室墳が多く、横穴は柏原市にしか見られないとのことだ。この横穴群は昭和48年(1973)に府史跡に指定されている。 騎馬人像の線刻画が描かれている横穴を除いて、たいていのものは内部を見学できる。その中の一つに入ってみたが、アーチ状の天井を持つ内部は結構広い。玉手山古墳群を築いた氏族との関係が気になった。しかし、4世紀と6世紀では時代がかけ離れている。横穴墓を築いたのは、おそらく朝鮮半島からやってきた渡来人の集団であろう。 高井田横穴公園の横穴に描かれた線刻画の場合もそうだったが、こちらの線刻画も一筆書きでさっと描いたような軽妙さが良い。現物は見れなかったが、玉手山公園のコミュニティ広場にある展示館に、線刻画の写真が飾ってあった。何の目的で描いたのか分からないが、ずいぶん豊かな表現力を持った人間の作品のように見えた。 |