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ある日、Kさんから突然メールが届いた。
今日はその当日である。風はすこし冷たかったが、朝から雲一つ無い晴天に恵まれた。午前10時少し前に集合場所に到着すると、彼女から二人の男性を紹介された。I氏とY氏である。Kさんと同じ同好会のメンバーで、本日は一緒に花見会場の下見のために出てこられたそうだ。 自己紹介の後、駅前のベルマージュ堺の前の道を西に向かって歩き出した。道はすぐに「北三国ヶ丘」交差点で府道12号線(堺大和路線)に合流する。大阪刑務所の前をさらに西へ進み、次の「田出井町」交差点を過ぎると、歩道脇に最初の見学地の方違神社(ほうちがいじんじゃ)の標識が立っていた。「堺市」駅から徒歩10分ほどの距離である。
【目次】
【参考】百舌鳥古墳群散策ルート図 |
方災除けの社・方違神社から反正陵古墳
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| 方違神社境内の三国丘石碑 |
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| 方違宮の石碑 |
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| 方違神社の社殿 |
方違神社は三国の境界、つまり三国のいずれにも属さない場所にあることから、方位のない清い場所として古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきた。神社の正式な名称は”ほうちがいじんじゃ”であるが、近隣の人たちには”かたたがえさん”の名で親しまれているという。
表通りに面した参道から境内に足を踏み入れると、春の日差しが境内一杯に降り注いでいて思いのほか明るい。受付で貰った由緒書きによると、この神社の創建は古い。当社の創起は第10代崇神天皇8年まで遡るとされている。祭神として、八十天万御魂神(やおよろずのみたまのかみ、天神地祇)、素盞鳴命(すさのおのみこと) 三筒男大神(みつつおのおおかみ、上・中・底筒男)、および息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)を祭っている。これらの神々を祭祀するようになったいきさつを、由緒書きは次のように説明している。
崇神天皇の治世5年に国内に疫病が流行して多くの民が死に、国が治まらなかった。原因は大物主神をその子孫に祭祀させなかったためだった。そこで、崇神7年、茅淳県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)にいた大物主神の子の大田田根子(おおたたねこ)を見つけ出して祀らせたところ、疫病がおさまり、国内がようやく鎮まった。さらに崇神8年、物部大母呂隅宿禰(もののべのおほもろのすくね)をこの地に遣わして素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀らせたところ、疫病は途絶え、五穀は豊饒になったという。だが、『古事記』や『日本書紀』には崇神8年の伝承に該当する記述は見あたらない。
その後、時を経て息気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)が三韓征伐から凱旋したとき、かご坂・忍熊(おしくま)二王の叛乱にあった。そこで、住吉大神の教えにしたがって、この地で埴土を包んだ粽(ちまき)を天神地祇に奉り皇軍の方災除を祈ったところ、勝利することができたという。応神天皇の時代には、素盞鳴命、三筒男大神(みつつおのおおかみ、上・中・底筒男)、および息気長足姫命を合祀して、方違依羅神と号したという。
この神社が方災除けの神社として信仰を集めたのは、おそらく平安時代以降のことだろう。方違えとは陰陽道(おんみょうどう)の説で、院政期に最も盛んに行われた風習である。家や蔵を建てるとき、あるいは転居するとき、また旅に出るとき、人々はこの神社に詣でて方違の神符と粽を受けるようになったとされている。ちなみに、陰陽道で鬼が出入りするとされる不吉な方角を鬼門と呼んでいる。表鬼門は北東・裏鬼門は南西である。だが、当社では鬼門を不吉とはみなさず、特に清浄を保つべき方位としている。
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| 方違神社から見た反正陵古墳の後円部 |
拝所に向かうには、古墳の周りに築かれた住宅街の中の道を抜けて行かなければならない。堺市に長年住んでいるKさんは、このあたりの地理に詳しい。以前は、この付近は大きな屋敷が何軒も建っていたそうだ。それが現在では、瀟洒な住宅が並ぶ静かな住宅地に変わってしまったという。
反正陵古墳を見学するには、南海電車高野線の「堺東」駅からアクセスする方が便利だ。駅から緩やかな勾配の坂道を上がってくれば、3分ほどで拝所の前に立つことができる。百舌鳥古墳群が営々と築かれ続けた4世紀末から5世紀後半の頃、この付近は茅淳(ちぬ)の海が見下ろせる丘で、百舌鳥耳原(もずのみみはら)と呼ばれていた。その北端に築かれたこの古墳は、反正天皇の百舌鳥耳原北陵に治定され、宮内庁によって管理されている。だが、考古学的には、この治定を否定する説が強く、反正陵古墳とは呼んでいない。地名をとって単に田出井山古墳と呼んでいるにすぎない。
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| 反正陵古墳の拝所 |
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| 反正陵古墳の実測図 |
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| 反正陵古墳の全景 |
宮内庁は、なぜこの古墳を百舌鳥耳原北陵として管理しているのだろうか。百舌鳥古墳群の盟主である反正陵古墳(墳長148m)、仁徳陵古墳(墳長486m)、および履中陵古墳(365m)を百舌鳥耳原の北陵、中陵、南陵としてセットで認識する習慣は、奈良時代初期に編纂された『古事記』や『日本書紀』には見あたらない。『古事記』には、反正天皇の”御陵は毛受野(もずの)に在り”と記すに過ぎない。『日本書紀』の反正紀には埋葬地の記述すらない。ただ、允恭紀に”瑞歯別天皇(=反正天皇)を百舌鳥耳原陵に葬る”とあるだけである。
王陵3点セットが百舌鳥耳原北陵・中陵・南陵として認識されるようになるのは、記紀編纂から2世紀も経た『延喜式』(延喜5年(905)年編纂開始、延長5年(927)年完成、康保年(967)施行)になってからである。そうした歴史的事実一つとってみても、天皇陵の治定に対して疑問を抱くべきである。さらに、3点セットの中では、他の2基が超大型前方後円墳であるのに対して、この古墳は中型前方後円墳にすぎず、不釣り合いである。そのため、宮内庁は百舌鳥西之町にある全長290mのニサンザイ古墳を、反正天皇陵の有力候補として陵墓参考地に指定している。つまり、宮内庁自身もこの古墳が反正陵であるという自信をもっていない。
反正天皇は第16代・仁徳天皇と葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘・磐之媛(いわのひめ)との間に生まれた第3子である。同母兄に第17代・履中(りちゅう)天皇、住吉中皇子(すみのえのなかつみこ)が、また同母弟に第19代・允恭(いんぎょう)天皇がいる。兄の履中天皇が在位6年で崩御した後を継いで登極した。しかし、『日本書紀』は在位わずか5年に丹比柴雛宮(たじひしばがきのみや)で亡くなったと記す。
しかし、この天皇は「倭の五王」の中の「珍」にあたるとされている。『宋書』は元嘉十五年(438)、”讃が死んで弟の珍が即位した。使節を宋に遣わし貢献してきた。自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、上表してこの称号を認めることを乞うた。しかし、詔を下して単に”安東将軍・倭国王に除した”と伝えている。珍はまた、倭隋など十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に除正するよう求めてきたので、詔してこれを許したという。こうしてみると、外交に積極的な大王だったようだ。この天皇の時代は安定していて、『日本書紀』も「五穀実りて人民賑わい、天下太平」と記している。私のイメージの中でも、こうした天皇を埋葬するには、もっと巨大な墓こそふさわしい。
堺市役所の21階にある展望ロビーから見た百舌鳥古墳群
反正陵古墳の拝所前から住宅街の中の緩やかな坂道を西に下っていくと、南海電車高野線の「堺東」駅前に出る。線路の高架をくぐって反対側にでると、大阪和泉南線の大通りがある。このあたが堺市で一番の繁華街だそうだ。駅前に天を突くように聳えている高層ビルが堺市役所だ。 市役所のエントランスホールの奥にあるエレベータで一挙に21階まで上り詰めると、360度視界が開けた展望ロビーがある。平日の昼前とあって、見学者の人影は少ない。ボランティアのガイドも手持ちぶさただったのか、我々の姿を見かけると頼みもしないのに、いろいろ説明してくれた。
やはり気になるのは百舌鳥古墳群の配置である。北東方向に先ほど訪れた反正陵古墳がほぼ真下に見え、南東方向には仁徳陵古墳と履中陵古墳がその間に大仙公園を挟んで、市街地の中に緑の森を描いている。さらに、その向こうには御廟山古墳やニサンザイ古墳の緑の墳丘が小さく散らばっている。 展望ロビーの一角に、古墳群のジオラマが置かれていた。それを見ていると、百舌鳥古墳群の謎の一つとされていることがよく理解できる。この古墳群には盟主的存在の巨大前方後円墳が6基あるが、墳丘の向きに着目した場合、前方部を南に向けている古墳群と西に向けている古墳群に大別できる。 いわゆる王陵3セットと呼ばれている反正陵古墳(墳長148m)、仁徳陵古墳(486m)、履中陵古墳(365m)は前方部を南に向けて築かれている。これに対して、JR阪和線の東側に位置するいたすけ古墳(146m)、御廟山古墳(186m)、ニサンザイ古墳(墳長288m)は前方部を西に向けている。
当然の事ながら、毎年のように朝貢してくる朝鮮半島南部の国々の使節や、船で大和を訪れる国内の使者たちに対して、ヤマト王権の権力の巨大さを印象ずけるには、海岸に沿って築かれた山のような建造物は、視覚的にも効果があったにちがいない。当時の海岸線は、現在の府道30号線(大阪和泉南線)か、阪神高速堺線あたりだったと想定できるから、3段に築成された石葺きで埴輪の列を何重にも配した小山のような大王墓は、確かに大王家の偉大さに驚嘆するとともに、服従の念を抱かせるに十分であっただろう。 これらの墓は、現在のように樹木が繁茂した墳丘ではなかった。一面を河原石を敷き詰めた要塞のような人工の建造物だった。しかも百舌鳥の古墳群は、山の稜線の先端部分に築いたものではない。文字通り周囲に溝を掘り、その土を盛り上げて築いたものである。秦の始皇帝陵やギザのピラミットと並び称される仁徳陵古墳は、まさに圧巻であっただろう。 だが、王陵3セットが、倭の五王の時代に、外国の使節に対する一種のデモンストレーションとして築かれたのであれば、仁徳−履中−反正の三代だけで終わってしまったのは何故か。その後を継いだ安康天皇や雄略天皇の陵墓は、奈良市や羽曳野市など内陸地に築かれている。これらの天皇の陵墓も王陵3セットに並べて、海岸沿いに造営されていれば、さぞかし圧巻だっただろうと思うが、そうはなっていない。また、ニサンザイ古墳が真の反正陵だった場合には、側面鑑賞を重視したとする説も怪しくなってくる。 |
百舌鳥古墳群の中の雄・墳長486mの仁徳陵古墳(=大仙古墳)
堺市役所から次に向かった先は、3世紀中頃から7世紀初めごろまでの350年間、我が国で造営され続けたおよそ5200基の前方後円墳の頂点に立つ仁徳陵古墳(大仙古墳)である。この前方後円墳は、周濠に水が溜まった状態で墳丘の長さが486m、水がなければ512mという巨大さを誇る。エジプトのクフ王のピラミットや中国の秦の始皇帝陵と対比されることが多いが、ピラミッドも始皇帝陵も単純な方形なのに対し、大仙古墳は前方後円墳という独自な形をしている。 前方後円墳とは何か? まだ考古学者の間でも統一された見解がない。我が国独自のこの墓制を考案したのは、おそらく古墳時代のヤマト王権だろう。考古学者の広瀬和雄氏は当時のヤマト王権によって運営され、軍事・外交・イデオロギー的に共通性を持つ首長層の利益共同体を前方後円墳国家と呼んでいる。そして、その利益共同体の成員権を、前方後円墳で表象したと唱えている(広瀬和雄著「前方後円墳国家」)。 したがって、前方後円墳の特徴は、その可視性、画一性、階層性にあるという。巨大な墳丘や、その表面を埴輪や葺石などで装飾している点、目立つ場所での造営などは、首長の権威を多くの人々に誇示する目的だったといえる。また、築造された時期や場所によって若干の相違はあるが、どこで造られたものも画一的な相貌をしていて、造営を指導した専門集団の存在を伺わせる。さらに、仁徳陵古墳を頂点として、歴然たる階層性を持っているのも事実である。
仁徳陵古墳は多くの陪塚(ばいちょう)を伴っており、その数は15基とも18基とも言われている。後円部の北側を、国道310号線(大阪中央環状線)が東西に横切っているが、その道路を挟んで、2つの陪塚がある。道路の北側に位置するのが永山古墳、南側に位置するのが丸保山古墳である。 永山古墳は、仁徳陵古墳(大仙古墳)の北西約50mのところにあって、前方部を南に向けた前方後円墳。墳丘の規模は全長が約104mで、後円部は径約63m、高さ9m、前方部は幅約67m、高さ8mを測る。西側のくびれ部には造出しが認められる。墳丘は2段に築かれ、築造当時は葺石と埴輪で飾られ、周囲には盾型の周濠が巡らされていた。 宮内庁は仁徳陵の陪塚として管理しているので、調査が認められず、主体部の構造や副葬品は分かっていない。古墳の形状と規模から推して、陪塚とは考えにくいという説がある。現在、周濠は釣り堀として利用されている。通りがかりに覗いてみると、年老いた太公望たちがノンビリと釣り糸を垂れていた。 丸保山古墳は仁徳陵古墳の後円部の西側に近接して築かれた帆立貝式前方後円墳で、前方部を南に向けている。墳丘は全長が約87m、後円部は径約67m、前方部は幅約40mを測る。前方部は昭和30年(1955)の開墾で削られてしまい、現在は低く短い形をしている。5世紀後半ごろに造られたとされている。
仁徳陵古墳こと大仙古墳は墳長だけで486m、周濠を含めれば総長は512mを測る前方後円墳で、古墳ランクの第一位に君臨する。前方部3段、後円部4段で築成され前方部を南に向けて立地するその姿は、樹木が生い茂るにまかせた巨大な丘である。 周堤の周りの遊歩道には、右回りと左回りで歩いた場合の正面までの距離が表示してある。その距離を合計してみると、この古墳を一周する距離はなんと2,850mにも達する。遠くの墳丘を見上げながら、山裾を歩くようなものだ。その大きさは鳥のように上空に舞い上がらなければ実感できない。あるいは、近つ飛鳥博物館に置かれた150分の1の模型を眺めながら、その規模を想像する以外にない。 参考までに、後円部と前方部の大きさを示しておこう。後円部の直径は249m、高さは35mである。前方部の幅は300m、長さは225m、高さは33mである。築造された当時は、墳丘は葺石で覆われ、2万個以上の円筒埴輪や形象埴輪(馬、人物など)が並べられ、さらに、楯形の三重の周濠が巡らされていたという。さらに、左右のくびれ部には造出しが設けられていた。
仁徳陵古墳の体積は、140万立方メートルとされている。考古学者の梅原末治氏(1893 - 1983)は1955年にこの古墳の造営期間を試算している。それによると、1日1人の人間が掘削できる土の量を1立方メートルと仮定した場合、この古墳を築くのに延べ人数で140万人を必要としたことになる。1000人の人間を動員できたとしても、4年の歳月が必要だったことになる。それだけではない。掘った土を運搬して盛り土をする人間や、葺石を集めてきて墳丘に貼り付ける人間、埴輪の制作や配置に携わった人間などを考えると、おそらくそれに倍する労働力を必要としたであろう。 1985年に、大林組プロジェクトチームも古代の工法と最新の土木技術を用いた現代工法で仁徳陵古墳とまったく同じ規模の古墳を造る場合の工数と費用を算出したことがある。それによれば、現代工法をもってしても、一日あたりピーク時に60人の作業員が工事に従事したとして延べ29,000人、2年6ヶ月の工期を要し、総工費は20億円に達するとのことだ。同じ工事を古代の工法そのままで現在実施すれば、1日あたりピーク時に2000人を動員したとして、延べ6、807,000人、工期は15年8ヶ月、総工事費796億円になるという。 当時の人口はどの程度だったか知らないが、おそらく500万前後だっただろうと思う。古墳造りに狂奔したこの時代、近畿地方だけでも同時並行的に多くの場所で古墳が造られていたはずである。よくも国力を疲弊させないで、朝鮮への軍事介入ができたものだと、驚いている。
この巨大前方後円墳も陵墓として宮内庁に管理されているから、内部施設や副葬品に関してほとんど知られていないと思っていた。しかし、意外にもさまざまなことが知られている。 まず、埋葬施設が後円部と前方部の両方で確認されている。宝暦7年(1757)に刊行された『全堺詳誌』は、後円部の頂上に「石ノ唐櫃(からびつ)」があったことを記している。石ノ唐櫃とは石棺のことであり、その蓋の大きさは長さ1丈5寸(318cm)、幅5尺5寸(67cm)、厚さ約8寸(24cm)だった。しかし、石棺の中には遺骸も副葬品も見あたらず”空櫃”だったという。唐櫃の寸法から判断して、長持形石棺だったと思われ、しかも古市古墳群の中の津堂城山古墳の長持形石棺と同じ大きさである。長持形石棺としては最大規模であり、兵庫県の竜山石で造られていたと推測できる。考古学的知見では、仁徳陵古墳は5世紀後葉の築造とされているが、石棺が津堂城山古墳と同年代のものであれば、築造時期を5世紀前半に想定することも可能とのことだ。
さらに、石棺は開かれなかったが、その外側に置かれていた副葬品の丁寧な見取り図も残っている。石棺の東側には金銅製の甲冑、瑠璃色のガラス壺、白色のガラス皿、太刀金具など見つかっており、石棺の北東側には金具のない太刀が20口ほど残されていたという。石棺の形や副葬された甲冑の作りから、5世紀後葉に埋葬された後円部の被葬者と縁続きの男性か側近であろうと考えられている。 アメリカのボストン博物館には、仁徳陵出土品として獣帯鏡、三環鈴、馬鐸、環頭太刀の柄頭(つかがしら)の4点が所蔵されている。環鈴の形状や環頭太刀の柄頭の形状から類推して、これらの出土品は5世紀後葉から6世紀初めのものと考えられている。本当にこれらの品々が仁徳陵古墳からの出土品であれば、『日本書紀』や『古事記』が語る仁徳天皇の年代観と大きく異なり、仁徳天皇の陵墓に充当できなくなる。しかし、ボストン美術館に所蔵されるまでの経緯を調べたところでは、仁徳陵古墳から出土したことを直接裏付ける証拠はないらしい。 |
大仙公園を経て履中陵古墳へ
園内には、博物館や図書館、都市緑化センター、自転車博物館サイクルセンター、日本庭園、茶室などがあり、市民の憩いの場となっている。博物館に立ち寄りたかったが、あいにく月曜日で休館だった。公園の中にも、前方後円墳の長塚古墳やグワショウ坊古墳、七観音古墳などさまざまな小型の古墳が散らばっていて、おそらくゆっくり散策するには楽しい場所に違いない。しかし、先を急ぐ我々には、一つ一つゆっくりと見学する余裕もなく、履中陵古墳へ向かった。 【大仙公園で春を告げている木々の花】
近くに大量の鉄器や武器が発見された七観山古墳(または七観古墳)とい名の円墳があった。すでに消失しまっている古墳だが、名前がよく似ているため、七観音古墳が七観山古墳と間違えられることがよくあるという。
七観山古墳があったあたりは、現在円墳をイメージした新しいモニュメントができている。
履中陵古墳は石津ヶ丘の上に前方部を南に向けて横たわる前方後円墳で、第17代・履中天皇の御陵に治定されている。しかし、後述するように、この治定も考古学的知見とは矛盾する。そこで、考古学者は、上石津ミサンザイ古墳と呼んでいる。 履中陵古墳を見学するには、JR阪和線の「上野芝」駅が近い。下車して北西方向へ5分も歩けば、右手に巨大な古墳の墳丘が見えてくる。大仙公園からだと、後円部側にアクセスするようになるため、周濠に沿って前方部まで歩かなければならない。なにしろ、墳丘長365m、表面積17万平方メートルのこの古墳は、我が国で3番目にランクされる巨大さを誇っている。周遊するだけでも40分はかかるという。
宮内庁の管理下にあるため、主体部の構造や副葬品などは分かっていない。しかし、墳丘に葺石が葺かれ、埴輪が置かれていたことは分かっている。かっては、陪塚が10基ほどあったらしいが、現存しているのは4基のみである。 すでに消滅してしまった陪塚の七観山古墳は、径50mの円墳だった。この古墳から三角板革綴や小札鋲留の衝角付冑(しょうかくつきかぶと)が7個、三角板革綴短甲が6個以上、鉄刀130,鉄鏃100本以上、木芯鉄板張輪鎧や帯金具などが出土した。これらの出土品から判断して、考古学的には第16代・仁徳陵古墳に治定されている大仙古墳よりも、履中陵古墳の築造時期は古いとされている。江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったといわれていることから、すでに盗掘を受けている可能性がある。 |
保存運動のお陰で破壊を免れた”いたすけ古墳”
履中陵古墳の拝所の前を通る泉北1号線を東に進むと、JR阪和線の線路にぶつかる。立体交差の踏み切りを渡らずに、線路沿いの道を「百舌鳥」駅方面へ歩き、途中で無人踏切を渡ると、右手の民家の家並みが切れたところに巨大古墳が見えてくる。百舌鳥古墳群の中では8番目に大きく、また百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置する前方後円墳のいたすけ古墳である。
古墳の全長は約146mだが、周濠も含めれば200mを越えると言われている。前方部3段、後円部も3段に築成されており、前方部は西に向けて築かれている。木のないところが幅98m、長さ75mの前方部、竹が生えているところが直径90mの後円部である。墳丘には葺石が敷かれ、埴輪が並べられていた。右側のくびれ部に造出しが設けられ、また周囲に楯形の周濠が巡らされている。台地の南端に位置しているため、濠の南側には大規模な堤が築かれている。 この古墳の後円部から衝角付冑(しょうかくつきかぶと)形埴輪が出土している。また、この古墳は2〜3基の陪塚を従えていたと思われるが、その一つであった吾呂茂塚古墳から、削平された後に円筒埴輪と初期須恵器が見つかっている。これらの遺品から判断して、いたすけ古墳は5世紀後半頃に作られた古墳とされている。 百舌鳥古墳群にはかって100基を越える古墳が存在したという。今日、何らかの形でその一部が残っているものも含めても、現存するのは46基に過ぎない。墳丘長168mの百舌鳥大塚山古墳の墳丘部の破壊をはじめ、半数以上は第2次大戦後の宅地開発や道路建設の犠牲となって、姿を消してしまった。そんな中にあって、破壊の危機にさらされながら、地域住民を中心にした保存運動によって破壊を免れた古墳がある。それがいたすけ古墳である。 昭和30年(1955)当時、この古墳は民有地だった。土建業者が古墳の墳丘から土砂採り取りをしてその跡地を住宅にする目的で、工事車輌を墳丘に入れるための橋が架け、樹木が伐採を始めた。このとき、堺市内外の市民・教育団体・研究者などが遺跡保存に立ち上がり、必死に保存運動を行なった。 保存運動はやがて全国規模にまで拡大し、マスコミも大きく取り上げた。皇族の三笠宮が視察に訪れるようなこともあって、ついに工事は中止され、堺市が民有地を買収して、保存することを決定した。こうした保存運動のお陰で、国の史跡に指定され、かろうじて破壊を免れた。墳丘に架けられた橋は寸断されて現在ものこっている。その当時、後円部から出土した冑の埴輪が、堺市の文化財保護のシンボルマークになっている。 今から7年ほど前、いたすけ古墳にタヌキ一家が住み着いているのが発見された。現在も、毎日一家総出で廃橋の上にずらりと並び、住民がエサを投げてくるのを心待ちにしている。この日も、周濠の中をノンビリ泳いでいる鴨の姿を見やりながら、壊れた橋の上で、タヌキたちがノンビリとひなたぼっこをしていた。おそらく、発見当時とは数も増え、住民たちとの交流も続いているのだろう。 |
応神天皇の御廟と伝承されてきた御陵山古墳
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| 御陵山古墳の墳丘と周濠(前方部左隅方向から撮す) |
次にKさんが案内してくれたのは御廟山古墳である。いたすけ古墳の北東に位置するこの古墳は、住宅街を抜けて3分ほど歩いた所に位置している。御廟山という名称は、東側に位置する百舌鳥八幡宮の奥の院、すなわち応神天皇の御廟であるという伝承に由来する。この伝承によって、付近の住民はこの古墳を聖域とみなし立ち入ることがなかったため、現在まで自然の植生にまかされてきた。
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| 周堤に咲いていた桜 |
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| さざ波が洗う墳丘の裾部 |
お子さんたちがまだ幼かったころ、Kさんは夕暮れ時にベビーカーを押しながら濠のまわりをよく散歩されたそうだ。
「墳丘の影が水面に影を落として、シルエットがずいぶん綺麗ですね」とKさんに言うと、
「これからご案内するニサンザイ古墳のほうがもっと美しいですよ」
という返事が返ってきた。そう言えば、送ってもらった例会誌のなかでも、数多くの古墳の中でも、ニサンザイ古墳ほど美しい姿の古墳はないと、彼女は断言しておられた。
百舌鳥古墳群の中の主要古墳で、前方部を西に向けている前方後円墳が3基ある。いたすけ古墳、御廟山古墳、そしてニサンザイ古墳である。このうち、御廟山古墳は2番目に大きく、全長は186mを測る。後円部は径が約95m、高さが約17m、前方部は幅が約119m、高さが約17mの規模をほこり、百舌鳥古墳群では4番目に大きい前方後円墳である。
墳丘は3段築成で、南側のくびれ部には造出しを持つ。周囲には盾形の濠と堤が巡らされているが、最近の調査で二重の濠があったことがわかっている。墳丘には葺石が敷かれ、また埴輪が並べられていたが、埋葬の主体部の構造や副葬品などはわかっていない。なぜなら、応神天皇陵の第2候補として陵墓参考地に指定され、宮内庁が管理しているためである。
後円部の東側に、以前はカトンボ山古墳と呼ばれる陪塚があったそうだ。直径50m、高さ6mの円墳だったが、墳丘に埴輪と葺石が認められた。だが、宅地化の波に呑まれて、現在は消滅している。
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| 高林家の白壁土塀 |
この旧家の主屋は切妻造(きりずまつくり)の屋根に茅(かや)を葺いている。いわゆる大和棟(やまとむね)と呼ばれるもので、大阪府と奈良県北部にかつては数多く見られた特徴的な民家の姿を今に伝えていて、重要文化財に指定されている。現在も家族が居住していて、残年ながら内部の見学はできない。
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| 百舌鳥八幡宮の鳥居 |
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| 百舌鳥八幡宮の拝殿 |
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| 樹齢800年のクスノキ |
参道の突き当たりに石段があり、石段を登った正面に古めかしい社殿がある。当社では第15代・応神天皇を主祭神として祀り、神功皇后、仲哀天皇、住吉大神、春日大神も配祀している。中世の保元年間には石清水八幡宮の別宮となり、当地が石清水の荘園になった記録もあるという。
拝殿向かって右側には、四方に枝を張り出し境内を覆いつくすようにそそり立つ見事な巨木がある。樹齢700年とも800年とも伝えられる「百舌鳥八幡宮のクス」で、大阪府の天然記念物に指定されている。説明板には、胸高径約1.8m、幹周り約5.2m、樹高約25mとある。「クス」は暖地に多く生育するクスノキ科の常緑樹で、独特の芳香を生じ、堺市内には約30本の大木が知られているという。
境内の一角に、追手風部屋(おいてかぜべや)の練習部屋があった。大相撲の大阪場所が現在開催中である。境内の隅に、追手風部屋の幟(のぼり)や平幕の黒海太(グルジア)などの幟が、春風を受けてはためいていた。
百舌鳥古墳群のほぼ南東の端に位置する”ニサンザイ古墳”
Kさんに案内していただいた百舌鳥古墳巡りは、堺市が健康ウオーキングガイドに設定している「百舌鳥三陵周遊コース」(距離約10km)よりはるかに長い健脚一日コースである。その最後に訪れた巨大前方後円墳は、百舌鳥古墳群の中では南東の端に位置するニサンザイ古墳だった。宮内庁は反正天皇陵の第二候補地としてこの古墳を陵墓参考地に指定しており、考古学者は土師ニサンザイ古墳と呼んでいる。
外堤に築かれた遊歩道の入口に武人姿の埴輪が数基置かれていて、見学者を迎えてくれる。外堤に上ると、前方部を西に向けた大型前方後円墳が、さながら巨大戦艦のような美しいシルエットを、豊かな水をたたえた周濠に落としている。この古墳の周濠は、今まで見てきたいずれの古墳のものより広い。そのため、墳丘がまるで浮島のように見える。長年地元に住んでこの景色に慣れ親しんできたKさんは、この古墳のシルエットほど美しい古墳の姿はないと、つねずね自慢しておられた。外堤に立って眺める整美な形態の墳丘は、まさに”むべなるかな”である。
ニサンザイ古墳は、以前は長谷山(はせやま)と呼ばれていた。その発音が反正山(はせやま)に類似しているため、反正天皇の空陵(からみささぎ)であったとする説がある。履中天皇の殯(もがり)の場所の跡とする説もある。また、江戸時代、この古墳は「反正陵」とする伝承が、地元では伝わっていた。現在、宮内庁はこの古墳を陵墓参考地に指定して管理している。そのため、主体部の構造や副葬品を確認できない。 現在は田出井山古墳が反正天皇陵に治定されている。しかし、ニサンザイ古墳は田出井山古墳に比べて4倍近い面積を占め、大王陵としてふさわしい。ちなみに墳丘長290mを持つこの前方後円墳は、百舌鳥古墳群では3番目、全国でも8番目の大きさを誇る。
定の山古墳は、百舌鳥町鳥梅町にあり、百舌鳥古墳群の中では東の端にあたる。案内板によれば、中世にはこの古墳が「東村砦」と呼ばれる城として利用されたこともあるという。現在は「城の山公園」と名付けられた古墳公園になっている。見たところ、朝鮮半島でよく見かける土饅頭の墓のようにしかみえない。しかし、前方部を西に向けた帆立貝形古墳で、昭和43年(1968)に土地区画整理事業で墳丘を著しく変形してしまった。その後、墳丘範囲確認調査を行い公園として復元保存しているという。 元の墳丘は全長約69m、後円部径約53m、高さ約7m、前方部幅約28mを測り、葺石が敷かれ、須恵質の埴輪を含む形象埴輪が並べてあった。前方部と後円部の接点では、15個の円筒埴輪の底部だけが見つかっている。これらの埴輪は弧を描くように並べてあったとのことだ。さらに、前方部を削ったとき、埋葬施設の可能性がある粘土の塊が見つかっている。最近の調査では後円部の側に周濠の跡が見つかっており、出土した埴輪から、ニサンザイ古墳より若干古い5世紀後半ごろ築造された墓と推定されている。 御廟表塚古墳は、前方部を西に向けた帆立貝形の古墳である。民有地の中にあるこの古墳は、前方部が削られ、濠も後円部の一部を残して埋め立てられているため、一見したところ円墳に見える。前方部が削られてしまったため、墳丘の全長は詳しくはわからないが、約75mと言われている。2段に築かれた後円部は直径約54m、高さ約10mと推定されている。 昭和62年(1987)に後円部の南東側で幅約9.6m、深さ約1.5mの濠が見つかった。円筒埴輪や朝顔形埴輪とともに、家や蓋(きぬがさ)などの形象埴輪も出土したため、これらの埴輪から、5世紀後半頃に築かれた墓であろうと考えられている。
謝 意本日の百舌鳥古墳群巡りでは、Kさん、I氏、Y氏のお三人にすっかりお世話になりました。なかんずく地元にお住まいのKさんのガイドがなかったなら、方向音痴の私には一日でこんなに多くの古墳を巡ることなどとてもできなかっただろうと思います。本当に感謝しています。どうも有り難うございました。
我が国の成り立ちに興味を持ちながら、今までは奈良県を中心に史跡探訪をしてきたため、古墳時代に最大級の前方後円墳が何基も築かれた百舌鳥古墳群のことをまったく知らずに過ごしてきました。本日は本当によい勉強をさせてもらったと思います。さらに、探索の後の同好会の皆さんの懇談会に同席までさせていただき、皆さんの博学にはすっかり感心すると同時に、皆さんとお近づきになれたことを心から喜んでいます。本当に有り難うございました。 |