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あの日から2年後の本日、明日香村は再び騒然とした一日を迎えた。本日は飛鳥京跡と石舞台古墳、石神遺跡の3カ所で現地説明会が開催されただけでなく、島庄遺跡の2005−12次調査地でも現地見学会が催された。2年前と同様、うららかな春の日差しが降り注ぐ明日香村に、朝早くから大勢の考古学ファンが押し寄せた。その中の一人は筆者だった。近くに住む友人のT.Y氏と自転車を駆って開始時刻の30分前に現場に到着したが、予定を早めた説明会はすでに開始されていた。 |
飛鳥京跡で新たに見つかった飛鳥浄御原宮の「内安殿、北の正殿」
昨年の3月12日、橿原考古学研究所(以下、橿考研と略称)が調査した飛鳥京跡と明日香村教育委員会が調査した島庄遺跡の現地説明会が、やはり同じ日に開催され、多くの考古学ファンや古代史ファンが見学に訪れた。あいにくと埼玉の自宅に戻っていたため、見学会に参加できず悔しい思いをした(平成17年3月12日付け橿原日記参照)。したがって、2年ぶりの現地説明会参加となる今回は、晴れ渡った空の下を明日香へ向かって踏む自転車のペダルも軽かった。
飛鳥京跡と呼ばれている史跡は、7世紀の飛鳥時代に舒明−皇極−斉明(皇極の重祚)−天智−天武−持統の5人6代の天皇が、宮殿を築いた場所である。今までの調査で、3時期の宮殿に関わる遺構が見つかっていて、T期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630〜、あすかおかもとのみや))跡、U期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643〜、あすかいたぶぶきのみや)跡、そして、V期が斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656〜、のちのあすかおかもとのみや)と天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672〜694、あすかきよみがはらのみや)跡と考えられている。 西暦672年、壬申の乱に勝利した大海人皇子(おおあまのみこ)は旧暦9月12日倭京に戻り、島宮に落ち着いた。そして、3日後、島宮から斉明天皇の宮だった後飛鳥岡本宮に移ると、南に宮殿を拡張し、その年の冬新装なった新殿に移った。天武天皇として即位したのは、年があけて西暦673年2月27日のことである。 それ以来、694年の藤原京遷都までの約20年間、この地が文字通り我が国の政治や文化の中心だった。天武天皇を頂点とする強力な皇親政治がこの地で繰り広げられた。しかし、天武天皇の宮殿が飛鳥浄御原宮と命名されたのは、ずっと後の朱鳥元年(686)7月になってからのことである。天武が崩御するわずか2ヶ月前にすぎない。 V期の宮殿跡は最上層に位置しているため、その構造はよく分かっていて、天皇の生活の場である内裏に相当する「内郭(ないかく)」と、政務の場である大極殿に相当する「エビノコ郭」、および官衙(かんが、役所)が配された「外郭(がいかく)」から構成されていたとされている。 ここ数年、橿考研は冬場の農閑期を利用して毎年「内郭」の学術調査を行ってきた。今までの調査で、飛鳥浄御原宮の正殿(せいでん)跡の全体がほぼ判明していた。昨年11月に開始された第155次調査では、この正殿跡の北側約700平方メートルを対象区域に設定して発掘を続けたところ、南の正殿跡とほぼ同規模・同構造と思われる建物跡が出土した。橿考研はそのことを3月7日に新聞発表し、本日の午前10時〜午後3時に現地説明会を開催すると通知した。
この北の正殿は、南北方向の奥行きが南の正殿と同じく12.2mで、柱の間隔も同じ。廊下状の柱跡もあり、全体像を復元すれば、東西方向の長さが約24mの建物の両側に渡り廊下で別棟がつながる南の正殿と同じ構造、大きさであることが判明した。さらに、中央の建物の南北両側にひさしが付き、その下に石組みの溝を設けていることや、周囲に人頭大の石を敷き詰め、角に当たる部分に、幢幡(とうばん、旗竿)を立てたとみられる柱穴があることも南の正殿と同じだった。 ただし、違いもある。今回出土した北の正殿には、南の正殿にあった階段の取り付け跡や建物の土台となる基壇状の高まりはない。地盤そのものもやや低い。このため、橿考研は、「南の正殿は内郭という天皇の私的空間の中でも公的な建物、今回発掘された北の正殿はより私的な建物」と推定しておるようだ。 しかし、『日本書紀』には、天武10年(681)正月7日、天武天皇が「向小殿(むかいのこどの)」で宴を催した日、親王・諸王は「内安殿(うちのあんどの)」に入り、諸臣は「外安殿(とのあんどの)」にはべった、と記述されている。されに、天武15年(686)年正月には、天武天皇が「大安殿(おおあんどの)」に出て、諸王卿を召して宴を催したとあるが、この大安殿は内安殿と外安殿の両者を併せた名称と解されている。したがって、”公的な建物”、”より私的な建物”といった抽象的な言い方ではなく、両方を合わせて大安殿跡と解してよいのではないだろうか。
『日本書紀』には、舒明天皇8年(636)6月、飛鳥岡本宮が火災で焼失し、天皇は田中宮(現在の橿原市田中町)へ遷ったと記されている。柱穴からは大量の焼土や炭が検出したことで、飛鳥岡本宮が焼失したという『日本書紀』の記述を裏付ける発見となった。
朱鳥元年(686)の旧暦8月9日、天武天皇が病に倒れた。9月4日には、親王をはじめ諸臣に至るまで、ことごとく川原寺に集って、天皇の病気平癒を誓願したという。その読経の声は風に乗って、飛鳥浄御原の正殿に臥す天皇の耳にも達したであろう。だが、天下万民の願いも空しく、天皇の病は遂に癒えることなく、9月9日不帰の人となった。享年?年。 享年を?年としたのには訳がある。『日本書紀』には波乱の人生を終えたこの天皇の出生年や崩御年を記載していない。通説では、天智天皇と天武天皇は舒明天皇を父、皇極天皇を母とする実の兄弟であり、即位前の天武天皇は大海人皇子と呼ばれ「皇太弟」として扱われている。 ところが、鎌倉時代の『一代要記』、南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』では、何を根拠にしたのか天武天皇は65歳(数え年、現代では64歳)で崩御したと記されている。天智天皇は15年前の671年に46歳で亡くなっている。『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』に従えば、その時の天武天皇の年は65ー15=50歳となり、計算上弟が兄より4歳年上になり、まことに奇妙な現象が生じる。したがって、65歳というのは56歳の誤記であったとされている。そうであれば、56−15=41歳となり、天智より5歳年下の弟だったことになる。 最近は「天智と天武は兄弟ではなかった」「天武は天智の異母兄だったのではないか」といった説もかなり流布されている。そればかりか、天武は当時「人質」として我が国に滞在していた新羅の王子・金多遂であるとか、あるいは皇極天皇が宝皇女と呼ばれていた時代に前夫・高向王との間にもうけた漢皇子(あやのみこ)であるとする説まである。 事の真偽は別として、壬申の乱で近江朝廷を倒し、飛鳥の地で皇親政治を開始した天武天皇は、歴代天皇の中でも屈指の傑出した大王だったことに変わりはない。発掘され赤茶けた土が剥きだしになった「南の正殿」跡には、今から1320年前確かに掘立柱式の宮殿が建っていた。その高床には、あるいは病を得て死期を悟った天武天皇が横たわっていたかもしれない。発掘現場を囲った見学路から宮殿跡に視線を投げながら、名をあげ功を成し遂げた彼の臨終が、果たして安らかだっただろうかと、ふと気になった。65歳とされている彼の崩御年が、たまたま筆者の馬齢と同じだったためだろう。 病の床にある天武天皇を枕頭で看病したのは、う野讚良(うののさらら)皇后(後の持統天皇)だったはずだ。「壬申の乱」から7年を経た天武8年(679)年、天武は諸皇子を引き連れて吉野に遊んだ。そのとき、彼女は少し強引とも思えるやり方で、溺愛する息子の草壁皇子(くさかべのみこ)を皇太子に指名させた。これを「吉野の会盟」という。 だが、姉の大田皇女が生んだ大津皇子(おおつのみこ)が成長するにつれて、次期皇位継者として人望を朝野から集めるようになってきた。事実、凡庸な草津皇子よりもはるかに優れた人物だったようだ。『懐風藻』によれば、大津皇子は身体容貌ともに優れ、幼少時は学問を好み、博識で詩文を得意としたが、長ずるに及び武を好み剣に秀でたという。 天武12年(683)2月1日、天武は21歳に成長した大津皇子が国政に参画することを認めた。我が子をなんとしても次期天皇にと切望す彼女には、夫の気持ちが大きく大津皇子に傾いていくのが我慢ならなかった。父や夫からさまざまな権謀術数を学んだ彼女は、この時点で大津皇子を亡き者にする計画を練り始めたはずである。その計画を立案したのは、あるいは股肱の臣として彼女の懐に飛び込んできた藤原不比等(ふじわらのふひと)だったかもしれない。 『日本書紀』は天武崩御から1ケ月も経たない10月2日、大津皇子の謀反が発覚し、皇子を逮捕するとともに、謀反に加わった三十余人も捕らえられたと伝えている。処断は早かった。翌日には大津皇子に訳語田(おさだ)の家で死を賜った。その迅速さの裏に、皇后・う野讚良の意志の強さと手回しの良さを感じさせる。天武の枕頭で看病に尽くしながら、彼女の脳裏には陰惨なシナリオの実行が何回も何回も反復されていたに違いない。ふとした素振りや言葉の端に、彼女の腹の底に渦巻く陰謀を天武が看取していたとすれば、・・・・。 |
石舞台古墳の隣接地から見つかった古墳造営時の工事宿舎跡?
偉大な父・蘇我稲目(そがのいなめ)の後を継いで大臣(おおおみ)の位に着いて54年、蘇我一族を天皇家をも凌駕する一大氏族に育て上げた蘇我馬子(そがのうまこ)は、『日本書紀』によれば推古天皇34年(626)5月20日に没した(ただし、異説がある。『法王帝説』には推古35年6月に薨るとある)。『扶桑略記』には、馬子の享年は76歳だったと記す。 馬子の死に遅れること2年、推古天皇は75歳の生涯を終えた。その遺言が曖昧だったため、皇嗣選びが難航した。後継者の候補としては、敏達天皇の孫に当たる田村皇子(たむらのみこ)と聖徳太子の長男・山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ)の二人がいた。大臣の位を継いだ蘇我馬子の次男・蝦夷(えみし)は田村皇子を推したが、馬子の弟・境部摩理勢(さかいべのまりせ)は山背大兄皇子を推して一歩も譲らなかった。そのころ、蘇我一族が皆集まって馬子のために墓を造るべく墓の周りに宿っていた。だが、馬子の墓とされる石舞台古墳は、本人が亡くなって2年も経つのにまだ完成していなかったようだ。
ある日、造営中の馬子の墓を見下ろす丘陵に築かれた摩理勢の蘆(いおり)に、阿倍臣麻呂(あべのおみまろ)と中臣連弥気(なかとみのむらじみけ)が連れ立って訪ねてきた。二人は、次期大王に田村皇子を推すよう摩理勢を説得するための使者として、大臣・蝦夷から派遣されてきたのだ。 摩理勢はどうやら武人的な性格の一徹な老人のようだった。それに、生前の厩戸皇子(うまやとのみこ、=聖徳太子)からさまざまな恩義を受けていた。その恩に報いるためにも、群臣たちの先頭にたって山背大兄皇子を次期大王に推した。当時の皇位継承は群臣たちの総意に基づいて決定された。したがって、対立候補が複数いる場合、群臣会議を主導する大臣に強力なカリスマ性がなければ、なかなか決着するものではない。 蘇我蝦夷は実直な男だったが、父・馬子のカリスマ性を受け継いでいなかった。そのため、推古女帝が崩御して10ケ月も経つのに、未だに次期大王が決まらなかった。蝦夷は田村皇子を次期大王に決めていたが、それに対抗して叔父・摩理勢が山背大兄皇子を協力に推しているため、いつも群臣会議が紛糾し、未だに大王を決められない状態が続いた。
使者としてやってきた二人は、蝦夷の伝言を伝え、執拗に協力を要求した。その余りの執拗さに、摩理勢は怒って二人を追い返すと、部下に向かってこう指示した。
発掘現場は石舞台古墳の石室から東へ約100mの場所で、比高が約10mほどある棚田である。遺跡は、県道新設計画に伴う調査で見つかった。昨年の秋、この付近で白い曼珠沙華を見つけてデジカメに撮影した(平成17年9月17日付け橿原日記参照) 現地説明会は、ここでも午前10時から開催されていた。ただし発掘現場が山の急斜面にあるため、石舞台古墳の西に広がる広場で説明を聞いた後、現場へ赴くように設定されている。説明は30分ごとに実施されるようにスケジュールされていた。だが、説明が始まる前に飛来した新聞社のヘリコプターが上空で旋回もせず留まっている。その轟音がすごく、説明員の声がかき消されてほとんど聞き取れない。上空に留まって何を撮影しているのか知らないが、メデイアの非常識さにはいささか怒りを感じた。 例によって、見学者の列がある程度さばけるまで、現場の手前で足止めされた。列が動き出すまでの間、説明会で配布された資料の調査区全体図を見ると、2枚の細長い棚田のうち下側が第一調査区、上側が第二調査区と呼ばれている。仮設の見学通路は発掘されたトレンチに沿って築かれていた。 第一調査区でめぼしい遺跡は大型の柱穴である。大きさは一辺1.8m、深さ1.8mで、上から覗くと直径30cmの柱を建てた痕跡があった。それと対をなす大型柱穴がもう一つ第二調査区でも見つかっている。こちらは一辺1.6m、深さ1.5mで、やはり直径30cmの柱の痕跡がある。『日本書紀』には、推古天皇28年(620)、欽明天皇を埋葬した桧隈陵(ひのくまのみささぎ)の周囲に土を積み上げて山を造り、氏ごとに「大柱(おおはしら)」を立てさせたという記述がある。そこから類推して、この二つの柱穴は、石舞台古墳の周りに立てた旗竿の穴と推定されている。そうであれば、石舞台古墳の葬送儀礼に関連する施設だったことになる。 第二調査区では、主軸方向が東へ25度振れた柱穴列も2列見つかっている。北側の柱穴は一辺が0.5mで1.7m前後の間隔で5間ぶん確認されている。南側の柱穴の規模や間隔も北側のものと同じだが、こちらは2間ぶんが確認された。これらが同一の柵になるのか、あるいは別の建物なのかは、もっと発掘地域を広げてみないと、何とも言えないという。しかし、上に示したように馬子の墓を造るため周囲に建てた工事宿舎跡の可能性が高いとされている。 |
島庄遺跡の方形池の北側で出土した飛鳥時代の掘立柱塀跡
石舞台古墳の工事宿舎跡を見学した後、帰路は自然と第2005−12次発掘調査地に導かれるように設定されていた。棚田の山際に沿った遊歩道の傍らに、白梅が今を盛りに咲き誇っていた。雲一つ無い春空から降り注ぐ日差しは柔らかい。飛鳥散策にはもってこいの休日である。 緩やかな坂道を下っていくと「島庄遺跡現地公開中」という看板が嫌でも目につく場所に立ててある。その先に見学資料を積んだテーブルがあるだけで、説明員も整備員も誰もいない。勝手に見学していってくれ、という気安さがよい。 今回の発掘では、石組み溝(幅約0.3m、長さ8m、深さ約0.3m)と三間以上の掘立柱塀跡が見つかった。この塀は北から西へ約50度振れていて、橿考研が行なった第20次調査で見つかった掘立柱建物と平行していることが判明した。7世紀半ば前後に築かれた可能性が考えられるという。いずれにしても、この塀跡が見つかったことで、島庄遺跡の飛鳥時代の遺構は、現在の唯称寺川のすぐ南側まで広がっていることが、改めて確認できたことになる。 |
石神遺跡で、「観世音経」の存在を示す七世紀の木簡が出土
奈良文化財研究所(以下、奈文研)は、以前の奈良国立文化財研究所である。政府が推進する行政改革の方針に従って、平成13年(2001)4月1日をもって独立行政法人として生まれ変わった。その奈文研が、須弥山石(すみせんせき)と石人像の出土地点の特定を目的に昭和56年(1981)に実施した発掘調査を皮切りに、石神遺跡の調査を毎年のように行ってきている。 発掘調査は毎年田んぼを一枚ずつ剥がすようにゆっくりと北へ向かって進められてきた。その成果として、7世紀前葉から中期にかけての饗宴施設と考えられる掘立柱建物や石組み・石敷きの遺構を始めとして、天武朝時代、藤原京時代のさまざまな遺構が見つかっている。 筆者はこの石神遺跡の発掘調査を毎年楽しみにしていて、早く古代の阿倍山田道を見つけ出してほしいと思っている。この道の北に接して、推古女帝の小墾田宮(おはりだのみや)があったと想定しているからである。阿部山田道が見つかれば、推古天皇16年(608)の旧暦8月3日の華やかな光景が、現実の飛鳥の風景の中に再現できる。その日は、飾り馬75匹に乗った騎乗兵に導かれ、沿道の歓呼に送られて海石榴市(つばきち)から堂々と行進してくる隋の使節団が入京した日だった。使節団の先頭を行くのが大使・裴世清(はいせいせい)、彼に続くのは副使・偏光高以下十二人の団員だったはずである。
建物跡などのめぼしい遺構は何も出土しなかった。しかし、観音信仰の仏典「観世音経」の存在を示す七世紀の木簡や、祭祀(さいし)に使われたとみられる銅製人形などが見つかった。奈文研はそのことを3月9日に新聞に発表した。2日の本日、現地説明会で現物を展示するというので、正午少し前に島庄遺跡から石神遺跡の説明会の会場へ回った。 迂闊にも、こちらの現地説明会が13:30分から開始される予定だったことを知らなかった。しかも説明は1回だけしか行わないとのことだ。飛鳥京遺跡や石舞台遺跡では、午前10時から午後3時まで数回に分けて説明会を開催していた。大勢の見学者の到来を想定して、飛鳥京遺跡では時間を前倒しして午前9時半には第1回の説明会を開いている。同じシステムで石神遺跡でも見学会が行われるものと、勝手に思いこんでしまったようだ。 遺跡は公開しているので自由に見学してよいという。仕方なく発掘現場を一通り見るなどして時間をつぶし、12時半になって到着したばかりの説明会資料を受け取り、これまた到着したばかりの出土品を人混みの間からのぞき込んでデジカメにおさめた。しかし、木簡だけはなぜか撮影禁止になっていた。それからジリジリして待つこと1時間、会場は他の遺跡見学を終えてきた人の波で埋まってしまった。お役所仕事らしく”定刻どおり”説明会が開始され、これまたお役所の催しの典型的なパターンで、責任者の挨拶が20分近く続いた。話の内容はすでに資料に記されており、発掘調査の来歴など見学者のほとんどには周知のことだ。それを長々と聞かされるのはきつい。
やはり、話題の中心は「観世音経」の存在を示す七世紀の木簡である。今回の発掘でも、多くの木簡片が出土したが完形で出土したのは、この木簡だけである。展示場で木簡を公開するとき、この説明員は水を含んだガーゼで覆った木簡が入っているシャーレーに、なにかの薬品を混ぜた水を注ぎこんだ。長い間地下に眠っていた遺品は地上の空気に触れると瞬く間に変色してしまう。それを防ぐための処置だそうだ。驚いたことに、「観世音経」木簡に刻まれた文字は1300年前に書かれたとはとても思えないほど鮮やかだった。 木簡(長さ18.6cm、幅2.3cm、厚さ0.4cm)は表面に「己卯年八月十七日白奉経」、裏面に「観世音経十巻記白也」と書かれている。この訓読について、説明員は3つの案を説明した。 その一つは、”己卯年八月十七日にご報告いたします。観世音経十巻をお納めいたしたことを(この木簡に)記し申しあげます”というものだった。 『観音経』は法華経の中の「観世音菩薩普門品第二十五」という一章である。観世音菩薩は広大無辺な大慈悲の心を備えた仏とされ、このお経を念ずれば、必ずやものに応じて三十三に身を変えて自由自在に人々を済度してくれると説いている。そのため、観世音菩薩すなわち観音は昔から多くの人々の厚い信仰を集めてきた。我が国でも飛鳥時代に法隆寺の百済観音や救世観音が造られていて、当時の観音信仰の流行は、早くから推察されていた。
木簡以外にもさまざまなものが出土している。封緘(ふうかん)木簡、銅製および木製人形(ひとがた)、斎串(いぐし)、船形および鳥形木製品、下駄、漆器、琴柱(ことじ)、鏝(こて)、横櫛(よこぐし)、土器、墨書土器、瓦などである。その他に馬の首も出てきたそうだ。古代には雨乞いのときに馬の首を切って川などに投げ入れる風習があったとされている。銅製や木製の人形、斎串なども見つかっているところから、このあたりに天武朝以後に活発に行われる祓い(はらえ)などの祭祀場があった可能性もあるという。
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付記 主催者側に申し入れたき事本日、三カ所の現地説明会に参加して、不愉快な思いをしたことが2点ある。今後のために主催者側に善処していただきたく、あえて申し添えておくことにする。 第一は、説明会会場の上空を我がもの顔で飛び回るヘリコプターの騒音である。説明会に参集する考古学ファンの様子を取材するため、ヘリを飛ばして上空から現場の様子を撮影したいとするメディア側の希望が分からないわけではない。だが、説明現場の上空を旋回もせずに一点で5分も10分も停滞してプロペラの轟音をまき散らしている機影を見上げると、つい撃ち落としてやりたい衝動に駆られる。 ハンドマイクで一生懸命に発掘状態を解説してくれる説明員の声も、空から降り注ぐ轟音でかき消されて、参加者はほとんど聞き取れない。そんな状態にあることぐらい、メディア側のパイロットや同乗しているカメラマンであれば、プロペラを廻すエンジンの回転音のすごさは日常経験しているはずである。しかも、現地説明会の前に行なう主催者側の記者発表は、各メディアがセンセーショナルな見出し付きで報道するが、説明会当日の様子を撮影された映像が放映されることなどあまりない。 主催者側は、こうしたメディア側の取材態度を強く規制すべきであろう。ヘリによる取材をさせないでくれといっているのではない。高度をもっと上げて、地上での説明が邪魔にならないよう配慮して欲しいだけだ。望遠カメラで撮影しているなら、高度をあげても取材に支障はきたさないはずだ。 第二は、奈文研の現地説明会のシステムに対する不満である。故意か偶然か、この時期明日香村で行われてきた発掘調査の現地説明会が、なぜか同じ日に同時開催される。見学する側にとっても、別々に開催されるより、同日開催の方がありがたい。そのため、大勢の考古学や古代史ファンが明日香村に押しかけ、いつも静かな村内がこの日ばかりは祭りのように騒然とした一日となる。その結果、見学する側も長蛇の列を作って長い時間待たされることになる。 主催者側は、過去の例から多数の見学者が訪れ、会場が混乱することは十分に分かっているはずだ。したがって、主催者同士が事前に打ち合わせを行ない、説明会を回る順序や説明会の回数、説明時間などをカリキュラムして参加者が各会場に分散して効率よく見学できるよう配慮すべきであろう。今までそうした配慮がなされたかどうか、寡聞にしてしらない。 しかし、石神遺跡の場合のように、午後12時半から資料配付、午後1時半から説明開始、しかも説明回数は1回だけというように設定されているところ見ると、事前に打ち合わせが行われているようにも見れない。そのため、他の場所を見学してきた人たちで2時間近くも前から会場に参集しだし、説明会の開始時には会場からあふれ出るほどの人だかりができてしまった。 ほとんどの見学者は、イライラしながら説明の開始を待っていたはずだ。やっと時間になったと思ったら、官僚組織の式次第そのままに肩書きのついたお偉いさんの挨拶がながながと続く。話の内容は説明会資料に要約されている上に、毎年訪れる考古学ファンには先刻承知している話の繰り返しだ。組織の責任者としては、この機会を捕まえて己の存在をアピールしたいのかしれないが、こうした挨拶は短いのをもって旨とすべしである。 我々は、奈文研が以前は文化庁に所属する奈良国立文化財研究所だったが、2001年4月に東京国立文化財研究所と統合され、独立行政法人としてスタートしたことを知っている。組織や名称は変わっても、その官僚的体質は少しも変わっていないようだ。会場がどのように混雑しようが、あるいは参加者から開始時期を早めるよう要望が出ようが、主催する側が午後1時半開始と決めた以上は、それまで大人しく待っておれという役人根性が見え隠れする。所詮は、壁画古墳の保存の失敗で悪名を馳せた文化庁の下部組織に過ぎないという印象はぬぐいきれない。
対照的に、橿考研などは開始時間を30分繰り上げて説明会を開始している。そうした現場を体験してきた見学者からみれば、独立行政法人の視点がどちらを向いているのかと、つい問いかけてみたくなる。来年以降、同じように現地説明会の同日実施が繰り返されるようであれば、もう少し見学者の立場にたった開催カリキュラムの作成を切に望むものである。
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