橿原日記 平成18年3月5日

見沼を眼下にのぞんだ縄文集落の謎

夏の馬場小室山
井山絋文画伯がイメージされた”夏の馬場小室山[7月]”(*)

縄文中期から後・晩期にわたって営々と築かれ続けた縄文集落

馬場小室山遺跡の所在
馬場小室山遺跡の所在
文の昔、現在の埼玉県さいたま市緑区三室付近は、見沼の海から入り込んだ入り江を見下ろす見沼台地の縁だった。この場所に縄文人が足跡を残し始めたのは、縄文早期の終わり頃とされている。縄文海進が始まった今からおよそ6000年も昔のことである。

場小室山遺跡の探訪記でも示したように、縄文人がこの地に本格的な生活拠点を築くようになるのは、縄文中期に海面が急速に後退(縄文海退)して入り江が陸地化したころである。今からおよそ4500年前と推定されている。当時は200mx200mの空間に環状の大集落を築いた。しかし、何故かその後にこの集落は廃棄されている。

文後期の中頃になると、住居が遺跡の内側の方へ移動してきて、150mx150mくらいの範囲に、直径50mの中央窪地を中心とした集落の基礎が出来てくる。そして、晩期中葉までの長い期間、縄文人たちは入れ替わり立ち替わり継続してこの地に住み続けたようだ。

の結果、小高い盛り上がりの塚が5つ窪地の周囲に築かれていた。こうした遺構のことを、考古学では環状盛土遺構と呼んでいる。環状盛土遺構は、寺野東遺跡(国指定史跡、栃木県)や三直貝塚(千葉県君津市)、井野長割遺跡(千葉県佐倉市)などでも見つかっている。

000年の長きに渡って、自分たちの祖先が同じ場所に住み続けた例などほとんどない。現在の奈良市は奈良時代の初めに計画的に造られた平城京の一部であるが、その歴史は1300年にすぎない。京都は1200年、東京に至ってはたかだか400年の歴史を経たにすぎない。馬場小室山遺跡では、縄文人がなぜ同じ場所に固執したのか、その理由はまだ解明されていない。また、住居跡とともに、直径4m、深さ3mを越える円形の土坑もいくつか出土している。その目的の解明もこれからの課題とされている。



第2回馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム

プラザイースト
市民フォーラムが開かれた「さいたま市プラザイースト」
会場
200名近い参加者で一杯になった会場
日の午後、さいたま市緑区にある「プラザイースト2F多目的ルーム」で第2回馬場小室山遺跡に望む市民フォーラムが開催された。第1回目のフォーラムは、第32回発掘調査が終わって1周年にあたる昨年の10月2日に開かれた。たまたま橿原にいて、そのフォーラムには参加できなかったが、参加者からのアンケートで「発掘調査の結果についてもっと知りたい」という意見が多く寄せられたそうだ。そこで、第2回目となる本日のフォーラムでは、2人の専門家を招いて馬場小室山遺跡の発掘調査について語って貰うことになった。

民フォーラム実行委員会の委員長である大田尭・東京大学名誉教授の挨拶の後、最初に演壇に立たれたのは、尾間木公民館館長の青木義脩(ぎしゅう)氏である。青木氏は旧浦和市教育委員会で文化財保護行政を担当され、馬場小室山遺跡の発掘調査に長年関わって来られた。本日は「見沼周辺の考古学的調査」というタイトルで、馬場小室山遺跡を含む見沼周辺の遺跡について、旧石器時代から古墳時代までの各時代を概観された。

演の中で、青木氏は馬場小室山遺跡から出土した土偶装飾付き土器人面画付き土偶を取り上げられた。そして、この2つの珍しい土器が祭祀遺物として各地の博物館や図録に紹介されている現実を指摘され、遺跡に結びつかない遺物の一人歩きを嘆かれ、いずれも祭祀遺物でないことを主張された。さらに、馬場小室山遺跡は環状盛土遺構、大土坑、集落跡、土器捨て場など話題が豊富であり、また安行式土器が豊富に出土していることから、安行文化を知る上で欠かせない遺跡であると指摘された。

いで、さいたま市遺跡調査会の柳田博之氏は、馬場小室山遺跡の第32次調査について、スライドで発掘調査の内容を解説された。柳田氏は平成16年6月21日から9月30まで実施された調査の主任調査員である。さすがに現場で直接指揮をとられただけあって、調査の進捗状況の解説は真に迫っていた。

田氏は講演の最後に、縄文人が環状盛土遺構を残すほど同じ場所に固執した理由の解明はこれからであり、また直径4m、深さ3mを越える円形の大土坑についても、十分な考察が必要である、と結ばれた。今後の馬場小室山遺跡研究の指針を示されたものと、私は理解した。
青木義脩氏 柳田博之氏
講演中の青木義脩氏講演中の柳田博之氏



謎の遺構、環状盛土遺構と円形大土坑

環状盛土遺構」と命名された縄文時代の遺構は、近年東北・関東地方で数十カ所発見されている。たとえば、1993年、栃木県小山市の寺野東で工業団地造成に伴う調査で、「寺野東遺跡」の中央に外形約160m、幅15〜30mの盛り土がドーナツ状に巡らされた遺構が出土した。盛り土は縄文後期から晩期にかけての千数百年の間に少しずつ盛り上げられたものだった。しかし住居跡などがあまり確認できなかった。そこで、國學院大學教授の小林達男氏は、遺構の規模などから「特別な祭祀の場」であるとの説を唱えられた。

時のメディアは、「周辺集落の共同祭祀跡」とか「まるでスタジアムのような巨大遺跡」という見出しでこの発見を報道したため、環状盛土遺構=縄文祭祀スタジアムというイメージができあがってしまった。しかし、小林説に意義を唱えたのは、明治大学教授・阿部芳郎氏である。阿部教授は、環状盛土遺構からの出土遺物が集落遺跡と変わらない点に着目し、縄文後・晩期に住居を同じ場所に繰り返して築いた結果、幾層もの土層となり、たかまりとなったのが盛土遺構であり、「盛り土は住居跡とみるのが妥当」との見解を示された。

馬場小室山遺跡
馬場小室山遺跡の概念図(鈴木正博氏作成)
野東遺跡では、盛土遺構はドーナツ形の土手状に築かれているが、馬場小室山遺跡では、直径約50mの中央の窪地の周囲に、直径約50m前後の大きな「土饅頭」が環状に5基配置された形態をしている。第32次発掘調査では、盛土の中に築かれた遺構を掘り下げていったところ、晩期の住居跡の多くが後期の住居跡の上に造られていることが判明した。つまり、同じ場所で住居の掘削・埋め戻しを繰り返した結果、小高い盛り土が生じたことになり、阿部教授の見解を後押しする結果となった。

土遺構が縄文人の住宅跡と確認されたことで、この遺構のすべてが解明された訳ではない。柳田氏自身も述べておられるように、縄文人が多世代に渡って同じ場所に固執して住居を築いてきた理由はまだ解明されていない。また中央に存在する直径約50m窪地はなんだったのか。単なる集落の共同広場だったのか、それとも別の目的に使用された空間なのか、といった点の報告は管見にして知らない。

建物跡の配置
伊勢遺跡の建物跡配置
かし、鈴木正博氏が馬場小室山遺跡を理解するために作成された概念図を見せられて思い出したイメージがある。右に示したのは、2001年12月8日に行われた滋賀県守山市の伊勢遺跡の現地説明会資料に記載されていたものである。伊勢遺跡は弥生時代後期の大規模集落遺跡であるが、楼観を中心に直径220mほどの円を描くと、その円周上に大型建物が並んでいることがわかってきた。これらの建物はいずれも建物の外側から2.5m離れた位置に棟持柱を持つ独特の構造をしていて、現在の伊勢神宮本殿に見られる神明造りと呼ぶ建築様式に似ている。そのため、祭りなどを行った祭殿ではないかと考えられている。

とより馬場小室山遺跡と伊勢遺跡をリンクするものは何もない。だが、千数百年も同じ場所に住居を建てることに固執し続けたという事実はやはり着目すべきだろう。その理由を想像するとき、やはり宗教に関する何かの思い入れがあったのではと疑いたくなる。

32回発掘調査で明らかにされた縄文晩期の大型円形土坑についても、謎がある、一部に食物などの貯蔵穴との見解が出ているようであるが、必ずしもそうとは言い切れない要素があるようだ。たとえば、第1号土坑は径3.4m、深さ0.9mと比較的浅い穴であるが、上層から下層まで遺物が充満しており、しかも土偶・耳飾り・ミニチュア土器・サメの歯(垂れ飾り)など特殊遺物が目立ったという。土坑の使われ方に関する一日も早い解明が待たれるところだ。


(*)井山絋文氏よりHP掲載の承諾取得済み
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