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| 井山絋文画伯がイメージされた”夏の馬場小室山[7月]”(*) |
縄文中期から後・晩期にわたって営々と築かれ続けた縄文集落
馬場小室山遺跡の探訪記でも示したように、縄文人がこの地に本格的な生活拠点を築くようになるのは、縄文中期に海面が急速に後退(縄文海退)して入り江が陸地化したころである。今からおよそ4500年前と推定されている。当時は200mx200mの空間に環状の大集落を築いた。しかし、何故かその後にこの集落は廃棄されている。 縄文後期の中頃になると、住居が遺跡の内側の方へ移動してきて、150mx150mくらいの範囲に、直径50mの中央窪地を中心とした集落の基礎が出来てくる。そして、晩期中葉までの長い期間、縄文人たちは入れ替わり立ち替わり継続してこの地に住み続けたようだ。 その結果、小高い盛り上がりの塚が5つ窪地の周囲に築かれていた。こうした遺構のことを、考古学では環状盛土遺構と呼んでいる。環状盛土遺構は、寺野東遺跡(国指定史跡、栃木県)や三直貝塚(千葉県君津市)、井野長割遺跡(千葉県佐倉市)などでも見つかっている。 2000年の長きに渡って、自分たちの祖先が同じ場所に住み続けた例などほとんどない。現在の奈良市は奈良時代の初めに計画的に造られた平城京の一部であるが、その歴史は1300年にすぎない。京都は1200年、東京に至ってはたかだか400年の歴史を経たにすぎない。馬場小室山遺跡では、縄文人がなぜ同じ場所に固執したのか、その理由はまだ解明されていない。また、住居跡とともに、直径4m、深さ3mを越える円形の土坑もいくつか出土している。その目的の解明もこれからの課題とされている。 |
謎の遺構、環状盛土遺構と円形大土坑「環状盛土遺構」と命名された縄文時代の遺構は、近年東北・関東地方で数十カ所発見されている。たとえば、1993年、栃木県小山市の寺野東で工業団地造成に伴う調査で、「寺野東遺跡」の中央に外形約160m、幅15〜30mの盛り土がドーナツ状に巡らされた遺構が出土した。盛り土は縄文後期から晩期にかけての千数百年の間に少しずつ盛り上げられたものだった。しかし住居跡などがあまり確認できなかった。そこで、國學院大學教授の小林達男氏は、遺構の規模などから「特別な祭祀の場」であるとの説を唱えられた。 当時のメディアは、「周辺集落の共同祭祀跡」とか「まるでスタジアムのような巨大遺跡」という見出しでこの発見を報道したため、環状盛土遺構=縄文祭祀スタジアムというイメージができあがってしまった。しかし、小林説に意義を唱えたのは、明治大学教授・阿部芳郎氏である。阿部教授は、環状盛土遺構からの出土遺物が集落遺跡と変わらない点に着目し、縄文後・晩期に住居を同じ場所に繰り返して築いた結果、幾層もの土層となり、たかまりとなったのが盛土遺構であり、「盛り土は住居跡とみるのが妥当」との見解を示された。
盛土遺構が縄文人の住宅跡と確認されたことで、この遺構のすべてが解明された訳ではない。柳田氏自身も述べておられるように、縄文人が多世代に渡って同じ場所に固執して住居を築いてきた理由はまだ解明されていない。また中央に存在する直径約50m窪地はなんだったのか。単なる集落の共同広場だったのか、それとも別の目的に使用された空間なのか、といった点の報告は管見にして知らない。
もとより馬場小室山遺跡と伊勢遺跡をリンクするものは何もない。だが、千数百年も同じ場所に住居を建てることに固執し続けたという事実はやはり着目すべきだろう。その理由を想像するとき、やはり宗教に関する何かの思い入れがあったのではと疑いたくなる。 第32回発掘調査で明らかにされた縄文晩期の大型円形土坑についても、謎がある、一部に食物などの貯蔵穴との見解が出ているようであるが、必ずしもそうとは言い切れない要素があるようだ。たとえば、第1号土坑は径3.4m、深さ0.9mと比較的浅い穴であるが、上層から下層まで遺物が充満しており、しかも土偶・耳飾り・ミニチュア土器・サメの歯(垂れ飾り)など特殊遺物が目立ったという。土坑の使われ方に関する一日も早い解明が待たれるところだ。 |