今月になって新たに見つかった右目尻のシミ高松塚古墳の西壁には、北側に4人の女性が描かれている。その女子群像の中央に立つ女性の右の目尻に、直径約1mmの黒いシミが見つかった。黒いシミは右肩にかかる衣服でも発見された。今月2日の点検で撮影した画像を精査して、これらの新たなシミの発生がわかったという。
「ああ、飛鳥美人が黒い涙を流して泣いている・・・」 そのときの発掘で、古墳の石室(正確には石槨)に極彩色の壁画が描かれていることが明らかになった。鮮やかな古代衣装をまとった「飛鳥美人」は日本中を驚かせた。彼女たちは、被葬者の永久の眠りを石室の中で優しく見守っているはずだった。それがメディアによって大々的に宣伝され、以後の飛鳥ブームの火付け役となった。
高松塚古墳は、橿原考古学研究所(橿考研)の網干善教(あぼしよしのり)氏が率いる関西大学考古学研究室の学生たちによって発掘調査された。調査は昭和47年3月25日にほぼ終了し、翌26日の午後、橿考研の所長・末永雅雄氏はすべての調査結果を報道陣に発表した。こうして極彩色の壁画の存在がメデイアによって大々的に報じられ、その後、我が国の考古学史上の金字塔として長らく語り継がれることになる。 末永雅雄氏は、この極彩色の壁画が人類文化史上に持つ重要性をいち早く察知され、記者会見の後ただちに古墳を密閉することを命じられた。壁画の保護を第一に考えた上での指示だった。1300年の間、暗い土の中に置かれていた壁画は、石室が開かれ外部の光や空気が入り込んだ場合、どのような影響を受けるか全く不明だった。しかし、この処置に対して、「末永博士は壁画を独り占めにしている」と非難した週刊誌もあったようだ。 我が国初の装飾古墳発見という前代未聞の状況を前にして、末永氏が与えた指示はまことに適切だった。末永氏はさらに果敢な決断を下された。壁画の保存と調査研究の万全を期すために、古墳のすべてを挙げて国の保存と管理に委ねることを決意された。国民の財産とも言うべき壁画を、完存の形で次代の日本に伝えるためには、それが最善の道と判断されたようだ。 昭和47年4月5日、高松塚古墳は文化庁の所管に引き渡された。昭和48年3月、文化庁は高松塚古墳を早々と「国の特別史跡」に指定した。さらに、壁画があまりに貴重な発見だったので、翌年の昭和49年には、特別史跡の古墳から独立して壁画だけを絵画の「国宝」に指定した。昭和51年3月には、保存施設が竣工し、石室の内部は完全な空調管理下に発掘前の状態に保たれ、飛鳥美人たちは元の世界に戻ったものと、誰もが信じた。 だが、高松塚古墳の保存が文化庁の所管に付託されたこと、そして、古墳そのものと内部の壁画が特別史跡と国宝という別々の指定を受けたことが、実はこの古墳の悲劇の始まりだった。1300年の間、土の中で安定した状態で存在し続けた装飾壁画が、発掘から30年を経たにすぎない現在、カビの大量発生で瀕死の状態にあるのだ。発掘の責任者だった網干教授の言葉を借りるならば、鮮やかな壁画はすでに死に体になっており、その鮮やかさはすでに過去のものになってしまった。 |
高松塚壁画の消失を招いた我が国の文化行政
この国民の至宝ともいうべき壁画が文化庁の管理と保存のもとに置かれたことで、文化庁によって万全の体制で保存されているはずだった。発見から25年になるのを記念して、平成9年に文化庁は極彩色の壁画写真を報道陣に公開した。19年ぶりの写真の公開だった。その年の3月27日付け読売新聞紙上で、文化庁は”発見時そのままの保存状況”であるとコメントしている。 だが、実態は違った。昭和53年11月に文化庁が実施した保存修理の際に、東壁の左端男子の緑色衣上(灰色)、盗掘口近い下方、西壁と天井の南端などに、すでにカビの発生が確認されていた(国宝高松塚古墳壁画保存管理の経緯参照)。その後は毎年の点検でカビの発生が確認され、その都度応急処置が取られてきた。特に平成13年には、解体の直接の原因となるカビが大発生した。それでも平成14年に30周年を迎えた時、壁画の損傷や褪色に関する新聞社の取材に対して、「大きな問題はありません」と文化庁は答えている。
国宝の高松塚古墳壁画を、カビの発生原因も特定できないまま劣化させた責任は、文化庁にある。末永氏をはじめ、多くの関係者が壁画の完全保存を望んだ願いは、文化庁には届いていなかった。壁画の保存と管理を文化庁に付託した意味を、文化庁自身がなんら理解していなかった。もっと早い時期に情報が公開されていれば、対策の施しようがあったものを、と悔しがる専門家も多い。だが、自分たちの不始末を隠蔽しようとするのは、我が国官僚組織の通弊である。文化庁とてその例外ではない。 昨年10月に発売された「文藝春秋」には、New Perspectives Quarterly東京駐在員・大地舜(だいち しゅん)氏の特別寄稿が掲載された。「河合隼雄文化庁長官に問う 高松塚壁画消滅 隠蔽工作の全貌」というタイトルには、「誰も責任を問われないように仕組まれたシナリオ」のサブタイトルまで付いている。この寄稿で大地氏が明らかにしたのは、あきれかえるような文化庁の文化行政の実態である。 まず、文化庁は”発見時そのままの保存状況”であるとコメントし続けた裏の事情が明らかにされている。文化庁のいう”発見時”というのは欺瞞である。正確には、壁画古墳発見から15年後の壁画の状態と比べて、保存状態はそれほど変わっていないと読み替えなければならない。大地氏の寄稿によってそのことが初めてわかった。
だが、この本に収められた壁画写真を見れば、発見から15年を経て、壁画がに大きく損傷し、褪色していることを確認できるという。特に、昭和55年から翌年にかけては、広い範囲でカビが発生したことが赤裸々に示されているという。しかし、こうした事実は文化庁の仲間内で共有されただけで、上司の意向で広く国民に公表されることはなかった。 さらに卑劣なのは、すでに大きく損傷し、褪色した昭和62年当時の壁画の状態が比較の対象に使われてきたことだ。文化庁は”(壁画が)発見時そのままの保存状況”であるとのコメントを事あるごとに繰り返してきた。だが、その真意は、発見時の保存状態ではなく、壁画古墳発見から15年後の壁画の状態と比べて、保存状態はそれほど変わっていないという意味だった。こうした対処の仕方を、我々は隠蔽工作と呼んでいる。しかも、自分たちの失態を覆い隠すために繰り返されてきた組織的な犯罪である。その責任を糾弾されて当然であろう。 それにもかかわらず、文化庁は厚かましくも壁画発見30周年の記念事業として、平成14年9月から翌年の4月にかけて、東京文化財研究所に委託して最新のデジタル技術で壁画を撮影し、平成16年に『文化庁監修 国宝高松塚古墳壁画』(中央公論美術出版)を出版した。その序言で、河合隼雄文化庁長官は「幸い、30年を経ても壁画は大きな損傷あるいは褪色もなく保存されています」と書いている。
平成16年6月19日の夜、教授は朝日新聞橿原支局の記者の来訪を受け、出版されたばかりの『文化庁監修 国宝高松塚古墳壁画』を見せられた。そして、そこに収められている写真を見て驚かれた。とくに西壁中央に描かれた白虎を見て愕然とされ、「これは一体何事だ」と絶句されたという。 西壁中央に描かれた白虎は、昭和47年撮影の写真よりも頭や首の輪郭がぼやけて薄くなり、顔やたてがみの細かい描線はほとんど見えなくなっている。 朱色に塗られた口や前脚のつめは、退色したり黒っぽく変色したりしている。全体に灰色のカビのような汚れにも覆われていた。こんな状態で、”30年を経ても壁画は大きな損傷あるいは褪色もなく保存されている”と言えようか。そう語る網干教授の口調は淡々としていた。それだけに、貴重な壁画を後世に伝えることを願ってその保存を国家に委ねた網干教授ら発掘当事者の無念さが、胸に伝わってくる思いがした。 大地氏は、高松塚壁画の損傷は自然現象ではなく、役所の縦割り体制がもたらした人災である可能性が高いという。その理由はこうだ。上に述べたように、高松塚壁画はあまりに貴重な発見だったため、特別史跡の古墳から独立して、壁画だけが絵画の「国宝」に指定されている。そのため、古墳を所管する部局が文化庁の中に二つできてしまった。つまり、特別史跡は記念物課が所管し、国宝は美術学芸課が担当することになった。お役所の通弊として、互いに横の連絡がきわめて悪い。 そうした組織の弊害が、大量のカビ発生につながった。平成13年2月、記念物課は古墳の取り合い部(石室と外部施設をつないでいる空間)の天井が崩落するのを防ぐため、修理を20日間にわたって行なった。ところが、カビの被害に悩まされている美術学芸課とちがって、カビ対策をそれほど重視せず、疎水性の樹脂を天井工事に使用した。 疎水性の樹脂は水をはじくために水滴ができやすい。工事終了後の3月、美術学芸課が定期点検に訪れたとき、すでに取り合い部に大量のカビが発生していたという。翌年に美術学芸課の主導で親水性の樹脂に土を混ぜて天井部に張ったところ、カビの発生は止まったという。両部局がコミュニケーションがとれていたら防ぐことができた人災であると言われる所以である。 |
カビ発生の原因究明がなされぬまま、石室の解体をもくろむ文化庁
壁画を永久保存するには、石室の内部を発見当時の環境に保つことが一番望ましいとされた。そこで、一年を通じて気温摂氏11度から17度、湿度95%以上に保つ保存施設の設置が決定された。建設工事は昭和49年8月に開始され、最新式の保存施設が昭和51年3月に完成した。古墳の正面を無惨に切り裂いてコンクリートで固めた部分は、実はこの保存施設の外部である。
保存施設の空調設備は前室(前室 A、B および準備室)のみを空調して石室内は直接空調しないシステムとなっている。また空調設備は、取り合い部の土中温度と等温に制御された水を前室の天井・壁・床面に張り巡らした銅管パネルに常時流す「パネル系」と、保存施設内に人が立ち入るときにのみ高湿度の空気を前室に送り込む「空調系」の二つの系からなっている。したがって、盗掘坑に通じる最も奥の部屋を石室内と同じ環境に保ち、壁画を外気に触れさせることなく検査員が中に入ることを可能にしているという。 壁画が描かれている石室は、墳丘部を通して自然環境と直結している。現状では内部温度は地中温湿度の影響を直接受けており、保存施設では制御できない。網干教授も、こうした保存施設の実情をご存じなかったようだ。壁画発見30周年の記念事業で作成された文化庁監修の『国宝 高松塚古墳壁画』の出版を契機に壁画劣化がマスコミによって騒がれるようになって、初めて明らかになった事実である。私がこの事を知ったのは、1年半前に参加した飛鳥渡来文化の源流を尋ねる中国旅行の時だった。講師役で旅行に参加しておられた網干教授と食事の席で一緒になり、教授の口から直接お聞きした。 時期的には、朝日新聞橿原支局の記者が持ち込んだ図版で壁画の現状を見せつけられて愕然とされた時からほぼ2ヶ月後のことだった。保存設備が宇宙服のような服に着替えて滅菌して石室に入るためだけの設備だったことを知らされて、文化庁のような官僚組織に壁画の保存を委ねてしまった無念さを、断腸の思いで語られたことを今でも覚えている。
封土まではぎ取って行った発掘調査で、カビの発生原因は究明できたか。結果は否である。文化庁は平成17年2月22日、「直接的な原因はつかめなかった」と発表した。ところで、高松塚古墳そのものは「国の特別史跡」に指定されていることを忘れてはならない。文化庁がおこなったのは、自ら指定した「国の特別史跡」を自らの手で破壊したことに他ならない。
文化庁が作成したスケジュールによれば、実験は、早ければ今月中に始まる。そして、壁画を保護する養生期間を経て来年2月半ばから約1カ月半かけて石室を解体し、約10年にわたり石材、壁画を修理保存するという。 保存のための修理作業を何処で行うかについて、昨年、明日香村と文化庁との間で険悪な対立があった。文化庁は飛鳥資料館の中に修理施設を設置すべく予算措置を取ったが、明日香村から持ち出すことに村民が猛反対した。結局、文化庁側が折れて高松塚古墳の近くに建設されることになった。 だが、修復後の石室を古墳に戻すのか、あるいは古墳外の空調完備した施設で石室を保存するのか、結論はまだ出ていない。たとえ壁画が完全に修復されたとしても、発掘当時の姿に復元することは不可能であろう。飛鳥美人の目尻から黒い涙は取り除かれているかもしれないが、それを確認できるのは10年も先の話しだ。そのころまで私が存命であるという保証はない。 |
最後まで石室解体に反対し続ける老考古学者
高松塚古墳の発掘調査を直接現場指揮した考古学者でありながら、古墳の所管が文化庁に移って以来壁画の保存に対して何ら相談を受けなかったとのことだ。その無念さをいっさい口にせず、石室の解体の無謀さを、学者らしく根拠を示して説明された。教授によれば、石室に描かれた人物像や四神像、および日月や星宿は、きっちりとした計画性を持って描かれているという。いったん石室を解体したならば、現状通りに数ミリの狂いもなく復元するのは不可能である、と指摘される。 当然のことながら、網干教授は解体に強く反対しておられる。カビの発生原因すら特定できていない段階で、解体を云々するのは時期尚早で、それ以前にまだやることが一杯あると言われる。解体に反対している専門家は他にもいる。明治大学名誉教授の大塚初重氏もその一人だ。「残念ながら、壁画はもう死に体である。これ以上触らずに、古墳を元の形に戻して、それを21世紀の失敗として残せばよい」とコメントしておられる由である。 印象的だったのは、網干教授が「最後の一人になっても、高松塚の解体には反対の立場を固持する」と講演の中で静かに語られたことだ。おそらく、後世、高松塚古墳の歴史が語られるとき、網干教授の名は、発掘調査の責任者として、そして解体修理という無謀に最後まで反対した考古学者の一人として、語り継がれることであろう。 |
(*) http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/TAKAMATUTUKA/takamatutuka.htmlより転記
(**)朝日/毎日/奈良新聞インターネット版より転記
[参考資料] 大地舜著「河合隼雄文化庁長官に問う 高松塚壁画消滅 隠蔽工作の全貌」(文芸春秋2005−10号所収)、友史会創立50周年記念講演会レジメ