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| 白河上皇の熊野詣の行宮所となった「御所の芝」から和歌浦方面を望む (2006/02/19 撮す) |
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熊野古道が万葉の昔に「牟婁の湯」(むろのゆ、現在の白浜湯崎温泉)との往還に利用されたかどうかは定かではない。だが、謀叛の罪で捕えられた有馬皇子が牟婁の湯から大和へ護送される途中、藤白坂で絞首刑に処せられた、と『日本書紀』は伝えている。そうであれば、皇子も捕縛された身で藤白峠を越えたものと思われる。 したがって、今回の「歩く会」は、大和へ護送されて行く有馬皇子の心中を思い描きながらの万葉の旅であり、史跡探訪の旅となった。天気予報では、本日の和歌山県地方は雲は多いものの雨の心配は夜までないとのことだった。しかし高速道路を降りるころ、バスの窓ガラスが小さな雨粒で曇るようになった。見学の途中でも、たびたび小雨に見舞われた。講師の坂本氏は「有馬皇子の涙雨だろう」と、万葉学者らしい表現をされていた。
【コース】 近鉄上本町駅地上改札前→雲雀山得生寺 → 糸我稲荷神社 → くまの古道歴史民族資料館 → 糸我王子 → 橘本王子跡(阿弥陀寺) → 峠の地蔵峰寺 → 御所の芝 → 藤白坂 → 有馬皇子墓→藤白王子・藤白神社→近鉄難波駅 |
雲雀山得生寺 別名「中将姫寺」として知られている伝説の地
中将姫は藤原四家のなかでも最も力のあった南家の右大臣藤原豊成(727〜796)の娘として生まれた。しかし、母の紫の前に若くして死別し、豊成が後妻に迎えた橘諸房の息女・照夜の前に継子いじめをされた。豊成が諸国巡視の旅に出ている間に、継母に命じられた家臣によって、殺害の憂き目にあったとされている。
雲雀山得生寺の由来を語る伝承では、家臣の名は伊藤春時になっている。春時夫婦は13歳の中将姫を当地まで連れ出し雲雀山で殺害しようとしたが、姫の徳に打たれて殺すことができなかった。そこで、春時夫婦は剃髪してそれぞれ名を得生と妙生尼に改め、姫を守ることにし、当地に庵を結び安養院と号した。それがこの寺の始まりとされている。その後、承平(931〜7)の頃山号を雲雀山得生寺と改め、享徳(1452〜4)の頃に浄土宗の寺になったという。中将姫が3年間隠れ棲んだとされる雲雀山は、峰が2つに分かれている。得生寺から見て、左の峰には中将姫本廟の祠が建ち、近くに春時の墓がある。
得生寺の掃除の行き届いた境内は、桜やツツジの植木が多い。一歩境内に足を踏み入れると、処世訓の警句を書いた木札があちこちの木々に懸けられている。それを読んで我が身につまされながら奥に進むと、正面に開山堂があり、右手に本堂がある。いずれも静かなたたずまいの建物である。開山堂には、永禄元年(1558)に大和の当麻寺から贈られたという中将姫及び春時夫妻の座像が安置されている。その他に、中将姫の作という蓮糸縫三尊や、中将姫の筆という紺地金泥三部経と称賛浄土経、国の重要美術品に認定された絹本着色の当麻曼陀羅図なども、当時に所蔵されているとのことだ。
開山堂の前には、来迎会式(らいごうえしき)の練供養(ねりくよう)の舞台となる朱塗りの橋が置かれていた。この会式は中将姫の大往生の様子を再現した行事で二十五菩薩練供養とも言い、中將姫の命日にちなんで毎年5月13日、14日に行われる。練供養では、姫のように美しく聡明な徳を得させてもらおうと、地蔵菩薩を先頭に二十五菩薩の面をつけた子供たちが開山堂から本堂までかけた橋を渡る。当日は「嫁をとるなら糸我の会式、婿がほしけりゃ千田の祭り」といわれるほど遠近の人々で賑わう。ちなみに、この会式は県の無形文化財に指定されている。
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糸我稲荷神社
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| 糸我稲荷神社遠望 |
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| 糸我稲荷神社の拝殿 |
伏見稲荷大社は秦忌寸(はたのいみき)の祖とされる秦伊呂具(はたのいろぐ)が、元明天皇の和銅4年(711)2月壬午の日に、勅命によって三柱の神を伊奈利山の三つの峰に祀ったのが始まりとされている。しかし、糸我稲荷神社の縁起によれば、主祭神の倉稲魂神(うかのみたまのかみ、=稲荷大明神)が糸鹿(=糸我)の山に降臨したのは、第27代安閑天皇3年乙卯の春(西暦535年)で、郷民たちが仮殿を造営して大神を祀り稲葉根社(いなばねのやしろ)と称したという。そして、時移り第36代孝徳天皇の白雉3年(652)に、参詣に便利なように「社」を麓に移し現在に至っているとのことだ。
文化7年(1810)当時の神官・林周防が寺社奉行に報告した「糸鹿社由緒」にも、糸我社の創建は「37代孝徳天皇白雉3年壬子の春、社地を正南森に移し、糸鹿社と申す」と記述されているそうだ。そのため、糸我稲荷神社を我が国で最初に創建された稲荷神社であるとし、社前の鳥居にも「本朝最初稲荷大神社」の額を掲げている。果たして史実はどうであろうか。もっとも、イナリはイネナリまたはイネネルがつづまったもので、人間生活の根元であった稲によって、天地の霊徳を象徴した古語とされている。伏見稲荷大社が建てられる以前に、それぞれの地域で稲を祀る風習があったのかもしれない。
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| 「本朝最初」の扁額を掲げた鳥居 |
後の次代に熊野三山の信仰が高まり、上皇から貴族・庶民にいたるまで、蟻のように列をなして熊野に参詣するようになったとき、楠の古木が生い茂る当神社は格好の休息所となったはずである。平家物語や源平盛衰記にも、白河法王の御幸の際に御輿(みこし)を降ろして、しばし休息したと記されている。確かに、境内には現在でも樹齢400年から500年と推定される3本の大楠がそびえており、歴史の古さを感じさせる。ところで、この神社の本殿の屋根はいささか変わっている。大棟の両端に取り付けられた千木(ちぎ)の形が前と後で異なっているのだ。前の千木の先端は地面に対して垂直に切られているが、後の千木は先端が地面と平行に切られている。
くまの古道歴史民族資料館
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| 熊野古道資料館 |
昼食の後に、熊野古道関係資料の展示しているコーナーに入ってみると、「後鳥羽院熊野御幸記」や「藤原定家」の日記等のレプリカが展示されていた。面白かったのは、「御幸記」の記述に従って、熊野参詣の足取りがイラストで図示されていた。
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| 熊野御幸記 |
天皇が外出することを「行幸(ぎょうこう)というのに対して、上皇や女院の場合は御幸(ごこう)という。したがって、熊野御幸とは上皇や女院が熊野へ参詣することをいう。最初に熊野御幸を行ったのは10世紀初頭の宇多上皇であり、10世紀末には花山上皇も行ったが、この時期の熊野への参詣はまれだった。
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| 熊野三山と熊野古道 |
当時の熊野詣(くまのもうで)は、上皇や貴族たちが京都から船で淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸した。そこには熊野権現の分霊を祭った窪津王子(くぼつおうじ)と呼ばれる神祠があり、熊野古道紀伊路の出発点とされていた。一行は天満橋から海岸筋を通り、熊野の玄関口、口熊野(くちくまの)といわれた田辺まで南下すると、そこからは中辺路(なかへち)の山中の道を本宮へ向かう。
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| 藤原定家の像 |
建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇は第4回目の熊野御幸を行なった。10月5日に京を発ち、途中で和歌会を催しながら16日に本宮に到着した。2日後には新宮、さらに翌日には那智へ到っている。上皇が京に還御したのは10月26日のことだった つまり、その往復に22日を要したことになる。後鳥羽上皇に重用され、この御幸に付き従った歌人・藤原定家は、その時の様子を「後鳥羽院熊野御幸記」(「熊野御幸記」と略称)で詳細に記録している。 その中で、本宮に参詣できた喜びを、定家は「山川千里を過ぎて、遂に宝前に奉拝す。感涙禁じがたし」と記している。
糸我王子跡
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| 糸我王子社の前を通る熊野古道 |
この付近一帯でミカンの栽培がはじまったのは、16世紀になってからとされている。稲荷神社の由緒書によれば、室町時代初期の永享年間(1429-1440に糸我の庄の中番村に、橘の樹が一本自生していて毎年実を結び、その味が蜜のようだったので、蜜柑と名付けたという。その後、室町時代後期の大永年間(1521-1527)に「接ぎ木」が始まり、糸我稲荷社に奉献されるようになった。接ぎ木は1511年に始まる文永年間に開始されたという説もある。
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| 糸我王子社 |
熊野詣のルート、特に紀伊路・中辺路(なかへじ)の道筋には、熊野権現の分身として出現した御子神を祭った「王子(おうじ)」と呼ばれる神祠が、あちこちに祀られていた。御子神を王子と呼んだのは、修験道の影響によるようである。修験道では、峰中などで修行者を守護する神仏は童子の形をしている。王子はこれらと類似した神仏と考えられた。
最初の王子である「窪津王子」は、紀伊路の出発点となる淀川河口付近、現在の大阪市天満橋の辺りにあった。そこから熊野三山に至るまでの片道300kmに及ぶ紀伊路・中辺路の道中に、多くの王子が祀られていた。これらの王子をまとめて「熊野九十九王子」と呼んでいるが、九十九は実数ではなく、数が多いことを表しているにすぎない。
説明版によると、糸我王子の名がはじめて見えるのは、建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の熊野御幸に随行した藤原定家の日記からである。それ以前には、糸我王子の存在は確認されていない。江戸時代には、この付近に「水王子社」と「上王子社」の2つがあった。地元では、「上王子社」を糸我王子社に比定しているという。両王子社は、明治時代に糸我稲荷神社に合祀された。しかし、平成7年、愛郷会の人たちによって、当地に糸我王子社として再建されたという。
橘本王子跡(阿弥陀寺)
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| 橘本王子跡に建つ阿弥陀寺 |
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| 阿弥陀寺の標識 |
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| 境内の橘 |
最初に目指したのは、下津橘本にある阿弥陀寺。以前は丈六山宝蔵院という真言宗の寺だったが、慶長元年(1598)に浄土宗として再建され、本尊として阿弥陀如来を祀っている。この寺に立ち寄ったのは、境内に往時の「橘本王子社」の跡地があるからだが、現在は寺の古い棟札にその名残を留めているだけで、昔をしのぶべき物は何一つ残されていない。
いや、昔をしのぶものが一つだけあった。境内に置かれた「橘本王子社」跡の説明版の後ろに植えてある橘の木である。見たところ、橘の実は直径3cmくらいのダイダイ色の実をつけているが、ミカンより小ぶりである。種の部分が大きくて酸っぱいとのことだが、柑橘類に共通したさわやかさがあって食べられないことはないらしい。橘とミカンの関係はよく分からないが、バスガイドの説明によれば、紀州のミカン栽培は戦国時代末期に有田の人が熊本・八代地方から苗を導入して本格的に発展したとのことだ。
紀伊名所図絵によれば、白河法皇が熊野詣の御幸のとき、ここに泊まられて「橘の本に一夜の旅寝して入佐の山の月を見るかな」の歌を詠まれたと伝えられている。
ここに元々あった橘本王子社は、明治時代の神社合祀で次の所坂(ところざか)王子跡に橘本神社として再建された。橘本神社は、加茂川の南岸に鎮座している。祭神として祀っているのが、田道間守(たじまもり)である。『日本書紀』には、垂仁天皇の命を受け常世の国に渡って不老長寿の果物を持ち帰った人物として描かれている。彼が持ち帰った果物は非時香菓(ときじくのかくのみ)だったと記されているが、どうも橘などミカンの仲間だったようだ。しかし、田道間守が帰国したときは、垂仁天皇をはすでに崩御していた。彼は天皇の陵に向かって号泣し、そのまま死んでしまったとされている。
地元では、田道間守が持ち帰り天皇に献上した橘が、日本で最初にこの地に植えられたと伝えられている。橘本神社の旧社地は「六本授の丘」と呼ばれているが、その由来は、田道間守が持ち帰った橘の実から発育した六本の木が植えられたことによるという。そして、この橘が品種改良されて今日の紀州ミカンになったとされている。この伝承は、糸我稲荷神社に伝わる伝承と異なっている点が面白い。
峠の地蔵峰寺
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| 藤白坂を越えて行く古道 |
橘本王子跡の阿弥陀寺から地蔵峰寺に至る二つのルートがある。一つは、峠へ通じる農道で、車での通行も可能なように舗装されているが、山の斜面にジグザグに築かれている。今一つは、熊野参詣で賑わった往時の街道を復元した熊野古道である。こちらは、ほとんど蛇行せずに山の斜面を登る急坂だ。往時の人々の苦労を体験するために、地蔵峰寺へのアクセスは、途中までこの熊野古道を往くことになった。
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| 集落の中を行く熊野古道 |
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| 這うようにして登る坂道 |
ところで、坂道を喘ぎ喘ぎ歩きながら気になったことがある。熊野詣が盛んだった当時、毎年のように繰り返された熊野御幸で上皇や女院たちは、どのようにして藤白坂の急坂を越えたのであろうか。まず思い浮かぶのは御輿を供の者に担がせての登攀だが、現実には這うようにして登る傾斜地では御輿は用をなさなかったであろう。そうであれば、上皇や女院たちも途中から歩いて山越えをしたのであろうか。しかし、日常の生活を歌舞音曲で過ごしてきた彼らに、徒歩で山越えできるほど足腰がしっかりしていたのだろうか。
もっとも熊野詣のルーツは修験道にある。山歩きが即修行であるとする教えに基づけば、苦行するほど御利益が多いのかもしれない。とはいっても、宮廷人にとって徒歩での熊野詣は大変だったであろう。あるいは、熊野参詣に備えて、密かに宮中でにわか体力作りに精を出していたのかも知れない。その姿を想像しながら歩くと、山登りの苦痛も少しは癒される。
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| 峠の地蔵峰寺 |
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| 本尊の地蔵菩薩坐像 |
この寺が栄えたころは、僧徒も多く在住しており、阿弥陀堂、鐘楼堂、弁財天社、経堂などもあった。しかし、天正年代に退廃し、現在は本堂と庫裡を残すのみである。寛文11年(1671)に紀州藩主・徳川頼宣が真言宗から天台宗に改宗させたと伝えられている。本尊の地蔵菩薩座像は、総高3.17mで、国内で最大級の石仏である。本体と後背を砂岩の一材で彫刻し、台座は地山をはった岩盤に数個の石を寄せて造っている。像は法衣をまとい左手に宝珠を、右手に錫杖をとって座していて、地元では峠の地蔵さんとして親しまれている。
御所の芝
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| 「御所の芝」展望台で講義する坂本教授 |
御所の芝の展望台で講義される坂本教授の話を聞きながら、この場所に立った時の有馬皇子の気持ちをあれこれ想像して見た。
さしずめ現代ならば、現在フィリピンで起きているアロヨ大統領政権打倒のクーデター計画のような「有馬皇子の変」を『日本書紀』は次のように伝えている。
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| 雑賀紀光画伯が 描いた有馬皇子 |
その夜、赤兄は兵をもって皇子の家を囲み,皇子とその同調者を捕らえた。そして、ただちに天皇のいるの牟婁の湯に護送した。11月9日、皇太子中大兄皇子(なかのおおえのみこ、後の天智天皇)は護送されてきた囚人たちを尋問した。
「なぜ謀叛など起こす気になったのか?」という中大兄皇子の問いに対して、有馬皇子は次のように答えたという。
「私は何も知らない。だが、天と赤兄だけはその訳を知っている」
そして11月11日、大和に護送される途中で藤白坂で処刑された。この謀叛騒動は、一般に中大兄皇子らの謀略によるものと考えられている。
牟婁の湯に連行される途中、有馬皇子は岩代(現在のみなべ町)で、後世、人々の人口を膾炙する次の歌を詠んでいる。
● 磐代の 浜松が枝を 引き結び 眞幸くあらば またかへり見む (巻2-141)
● 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (巻2-142)
おそらく、牟婁(むろ)湯へは海路によったものと思われる。岩代で一時停泊したとき、浜辺で読んだ歌であろう。謀叛の疑惑が晴れ、ふたたび大和へ戻れることを願っていた19歳の青年の心情が読み取れる歌である。だが、大和への護送はどうやら陸路だったようだ。大和に戻ることになったが、それは囚人としてであり、願いを込めて引き結んだ浜松の枝を再び見ることはなかった。
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| 「御所の芝」からの見下ろした海南港・冷水浦 |
牟婁の湯で処刑されずに、大和に連行されて衆人環視のもとに刑が執行されることになったのを、皇子は内心安堵していたかもしれない。少なくとも飛鳥までの命は保証されたことになる。飛鳥に着けば、皇子に心寄せている氏族の若者たちが、あるいは非常手段で我が身を救出してくれるかもしれない。そうした一縷の望みを思い描いて、皇子の表情が少し和らいだ。
だが、皇子は少し離れた場所から彼を眺める視線に気づかなかった。隊長の国襲の視線である。国襲は牟婁の湯を出発するとき、中大兄皇子から密命を受けていた。謀叛の罪で死罪を言い渡した者たちを護送の途中で処断せよ、という命令だった。国襲がその場所として選んだのが、藤白坂の麓である。有馬皇子がクスノキに縄を吊し絞首刑に処せられる運命の時はすぐに迫っていた。国襲の視線はそのことを皇子に告げていたのかもしれない。
藤白坂
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| 竹藪を縫って続く下り坂 |
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| 丁石地蔵 |
小雨が時折パラつく今日のような日に、藤白坂を越えた万葉人もいたのであろう。『万葉集』の巻9−1675には、詠み人知らずの次の歌が載っている。
● 藤白の み坂を越ゆと 白たへの 我が衣手は 濡れにけるかも
あるいは、有馬皇子の処刑の地を通り過ぎたとき、数え年わずか19歳で散った若い命に思いを馳せて、流れ落ちる涙で衣を濡らした旅人だったかもしれない。
坂道の傍らの所々に「丁石地蔵(ちょうせきじぞう)」が置かれている。藤白坂の距離を明確にすると共に、道中の安全を祈願して、270年余り前に専念寺の全長上人が1丁(約109メートル)ごとに石仏を置いた。それが丁石地蔵である。しかし、年月を重ねるうちに、石像は谷に落ちたり、地に埋もれたりして昭和56年の時点では、現存するものは僅か4体だけになっていた。そこで、新しく17体の地蔵を復元して設置した。
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| 筆捨松遺跡 |
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| 遺跡「硯石)すずりいし)」 |
藤白坂の途中に、筆捨松遺跡(ふですてまついせき)があり、その前に巨大な硯石(すずりいし)が置かれている。伝承によると、舒明天皇が熊野に行幸した折に、この地で法王の隆盛を祈念して、小松を谷底に投げた。帰路にこの地を通ったら、小松が根付いていたので吉兆であるとして、以来その松は「投げ松」と呼ばれるようになったという。現在は、若い松の木が数本竹囲いの中に植えてある。
熊野詣は、「本地垂迹説」によって、神と仏を同体と見て一緒に祀る信仰が奈良時代から始まった後のことであり、平安時代末期から鎌倉時代の初めにかけて盛んになる。舒明天皇は7世紀前半の天皇であり、その頃はまだ熊野信仰のかけらも存在していない。
この「投げ松」が「筆捨松」と呼ばれるようになるのは、以下のような由来による。平安初期の仁和(885)のころ、絵師の巨勢金岡(こせのかなおか)が熊野詣の途中、この地で童子と出会い競画をすることになったという。金岡は松にウグイスを、童子は松にカラスの絵を描いた。次に、金岡は童子の絵のカラスを、童子は金岡の絵のウグイスを、手を打って追うと、両方とも飛んでいった。
今度は、童子がカラスを呼ぶと、どこからか飛んできて絵の中に収まった。しかし、金岡のウグイスはついに帰らなかった。童子との絵の書きくらべに負けた悔しさに、金岡は筆を投げ捨てたところ、筆は「投げ松」のところへ落ちた。そのため、投げ松が筆捨て松と呼ばれるようになったという。なお、童子は熊野権現の化身であったとされている。
筆捨松の前に置かれた「硯石」は、紀州徳川家初代藩主・頼宣(よりのぶ)の命によって、自然の大石に硯の形を彫らせたものである。説明版によれば、かってこの石は筆捨松の根元に置かれていた。しかし、昭和58年の水害で土砂とともに押し流されてしまった。うつぶせに埋まっていたのをこの場所で見つけて、元の形に復元したのが現在の遺跡であるという。
今を去ること約1400年昔の斉明天皇4年(658)の旧暦11月11日、19歳の若き皇子は罪人として後ろ手を縛られてこの坂道を下っていった。そう思うと、時空を越えて、その若者に同情を禁じ得ない。だが、『日本書紀』が伝えるように、時の権力者・中大兄皇子の謀略に荷担した蘇我赤兄に勧められて謀叛を決意し、土壇場で裏切られて悲運な最期を遂げたというのは事実だろうか。私はこの事件を以下のように推理している。
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| 難波長柄豊碕宮の大極殿跡 |
『日本書紀』に記されたこうした一連の血の粛清事件を並べ立ててみると、確かに中大兄皇子という人物を血も涙もない冷血漢のイメージで捕らえてしまう。だが、忘れてならないのは、『日本書紀』の編纂を命じたのは、壬申の乱で近江朝廷に勝利した天武天皇である点だ。壬申の乱はいわば正当な王朝を軍事力で転覆した内乱であり、天武天皇は皇位の簒奪者である。天武天皇が史書の編纂を命じた真の意図の一つは、皇位簒奪者という汚名を後世に残さないことだった。当然のことながら、敵対した兄の中大兄皇子の事績を顕彰するわけにはいかない。最も効果的なのは、冷徹な帝王のイメージを後世に与えることだっただろう。
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| 乙巳(いっし)の変を描いた多武峯縁起絵巻 |
有馬皇子の変も、中大兄皇子や蘇我赤兄の背後に中臣鎌足がいた可能性が高い。いやしくも皇子は先帝の皇子であり、有力な皇位継承資格者である。この皇子の登極に密かに期待する氏族も少なからずいたはずである。しかも、皇子は若いながら聡明であった。皇位継承者であるが故に身の危険を感じ取って、気が狂った振りまでして、病気治療と称して牟婁の湯まで赴いている。
有馬皇子は、5年前の白雉4年(653)、父の孝徳天皇の願いを無視して、皇極上皇や間人皇后、大海人皇子らを率いて大和の飛鳥河辺行宮に移ってしまった中大兄皇子に対して、共に天を戴くことをできないものを感じたに違いない。まして、間人皇后と密通し、難波の都から連れ去った中大兄皇子に対して、激しい敵意を抱いたであろう。『日本書紀』はそのとき孝徳天皇が間人皇后に次の歌を送ったという。
● 鉗(かなき)着け 吾(あ)が飼ふ駒は 引出(ひきで)せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
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| 「飛鳥河辺行宮」の跡と推定されている飛鳥稲淵宮殿跡 |
60歳をとっくに過ぎた斉明女帝の治世はそう長くない。次の天皇に中大兄皇子の登極を期待する中臣鎌足にとって、有馬皇子は是非とも除かなければならない皇位継承資格者だった。しかも、斉明天皇の圧政を口実に、その影の実力者である中大兄皇子や中臣鎌足の排除をねらっている。布石はすでに1年前から敷かれていた。皇子は病気治療に行った牟婁の湯の効用をさかんに喧伝していた。8歳の皇孫・建王(たけるのみこ)を亡くした天皇は、精神的にすっかり落ち込んだ。しかし、有馬皇子の話を聞き、中大兄皇子、大海人皇子、額田王など主だった親族を連れて、牟婁の湯へ行幸することを決意した。
それは、有馬皇子が密かに狙っていた機会であった。天皇の行幸中に留守となった後飛鳥岡本宮(のちのあすかおかもとのみや)を占拠し、行幸中の一行に兵を差し向けることで、クーデターは簡単に成功する。そのために必要なことは、飛鳥の留守を任された蘇我赤兄を見方につけることだ。皇子は赤兄に近づいて、斉明天皇や中大兄皇子の3つの失政を指摘し、赤兄を見方に引き入れようとした。失政を指摘して謀叛をそそのかしたのは赤兄ではなく、有馬皇子だったであろう。
だが、このことは飛鳥京に残っていた鎌足の知るところとなった。鎌足は鎌足で、有馬皇子一派を除く好機到来と取ったようだ。赤兄に策を授けて、謀叛に荷担するように装わせ、皇子一派を油断させて一網打尽に逮捕させた・・・・。おそらく事件の真相とはこのようなことではなかっただろうか。有馬皇子は無実の罪で殺されたのではあるまい。用意周到に計画を練りながら、その仕上げの段階で計画が綻んだにちがいない。
有馬皇子墓
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| 有馬皇子の墓 |
藤白坂を下って来て集落にかかる手前に有馬皇子の墓碑が建っている。墓碑は貧弱だが、その横に建つ万葉歌碑は立派だ。佐々木信綱博士の筆になる全国有数の万葉歌碑である。万葉仮名で刻まれているのは、有馬皇子が岩代で詠んだ次の歌である。
● 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (巻2-142)
実は、一昨年の夏、世界の文化遺産に登録された熊野三山の探訪に、知人が運転する車で出かけた。そのとき、途中でこの地を訪れている(紀伊路・中辺路参照)。夏の暑い盛りで、墓地は夏草が生い茂り、かなり荒れた印象を受けた。しかし、本日訪れた境内は、冬のせいか伸びた雑草も見あたらずすっきりしていた。
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| 有馬皇子の墓の横に建つ万葉歌碑 |
有馬皇子の墓の近くに、藤白神社があり、その境内にはクスノキの巨木が生えている。当時もこの地には多くのクスノキがあり、縛り首の刑を執行するには適地だったのかも知れない。2キロの山道を下ってきた一行に対して、護送隊長の国襲は停止を命じた。木の根本に腰を下ろして休息をとる囚人たちを横目に身ながら、国襲は兵士たちに縛り首の準備を命じた。そして、有馬皇子に向かってこう言った。
「皇子よ、貴公の護送はここまである。大和までお連れしたいのはやまやまだが、この地で処刑しろというのが中大兄皇子様のご命令だ。この地が貴公の終焉の地と覚悟なされよ」
舎人(とねり)の新田部米麻呂(にったべのこめまろ)がにじり寄って有馬皇子を背後にかばうと、悲痛な声を張り上げて皇子の助命を国襲に懇願した。しかし、全てはこれまで、と悟った皇子は米麻呂を制して立ち上がると、国襲に向かってこう言った。
「任務ご苦労であった。すでに覚悟はできている。早々と任務を遂行されたい」
この日、有馬皇子が絞首刑に処せられた後、米麻呂と塩屋連■魚(しおやのむらじ・このしろ)が首をはねられた。守君大石(もりのきみおおいわ)と坂合部連薬(さかいべのむらじ・くすり)は飛鳥まで連行され、大石は上毛野国に、薬は尾張国にそれぞれ配流となった。
守君大石には後日談がある。いつ流罪の罪を解かれて大和に戻ったのかは不明だが、白村江の海戦で大敗北を喫した2年後の665年、唐の使いとして来朝した郭務宗(かくむそう)を本国に送り返す遣唐使(第5次遣唐使)として唐に遣わされた。
藤白王子・藤白神社
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| 藤白神社の拝殿 |
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| 藤白王子権現の正面< |
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| 藤白王子権現の内部 |
藤白神社は熊野九十九王子の中で最も格式の高い五体王子の一つで、歴代上皇らが熊野御幸のときに必ず宿泊したという藤代若一王子の跡に建てられている。海南ICからほど近い万葉の故地「藤白のみ坂」の入り口付近に位置し、物部氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀っている。
なぜ、饒速日命を祀っているのか不思議だったが、由緒書によると、饒速日命は藤白鈴木氏の氏神だそうだ。熊野八荘司の鈴木氏が平安時代末期に熊野を出てこの地に居を構え、祖先の饒速日を奉祀したと伝えられている。なお藤白鈴木氏は全国鈴木姓のルーツで、神社の近くにその屋敷跡がある。そこの曲水泉と呼ばれる平安様式の庭園は、県の指定史跡になっている。
藤白神社の歴史は古く、景行天皇5年の鎮座に始まるという。その後、斉明天皇が牟婁の湯に行幸された時、神祠を創建したと伝えられている。そうした縁で、神社の南にはこの地で散った悲運の貴公子有間皇子を祭る社がある。藤原定家の「後鳥羽院熊野御幸記」には、後鳥羽上皇の熊野御幸の際に、この地で大規模な歌会を催したことが記されている。
往時の藤白王子は戦国時代まで神宮寺として残っていたらしいが、戦国の戦乱で消失してしまった。しかし、紀州徳川家初代藩主・頼宣(南龍公)によってその故地に三間社流造の社殿が建てられた。それが現在の藤白神社で、県指定の文化財となっている。ただし、現在の社殿は、藤白王子権現として立て直され、2003年11月にこけら落としが行われた。堂内には秘仏の薬師如来坐像や阿弥陀如来坐像と千手観音坐像を安置している。
境内の楠の大木は子守楠神社として祭られ、子が生まれた人はここに祈願して楠・藤・熊の字の名を付ければ、その子は長生き、出世すると言われている。博物学者であり、民俗学者であり、動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ粘菌の研究で知られる細菌学者でもあった南方熊楠(みなみかたくまぐす)も、そうして命名された一人である。