橿原日記 平成18年2月18日

植山古墳と「保存科学の眼」から見た出土遺物

植山古墳の現状
植山古墳の現状 (2006/02/18 撮影)

植山古墳にも副葬品はあった!

発掘当時の植山古墳
発掘当時の植山古墳(手前の丘)
平成12年8月、現説に訪れたファンたち
平成12年8月、現説に訪れたファンたち
橿原市五条野町の新興住宅街の中に、取り残された孤島のような小高い丘がある。その頂きに古墳が築かれていた。植山古墳である。橿原市教育委員会は平成12年(2000)の6月19日から翌年の7月31日まで、およそ1年をかけて発掘調査し、その結果を平成13年8月17日に公表した。

容は、1つの墳丘に横穴式石室2基を有する長方形の形をした古墳時代終末期の双室墳(=長方形墳)であり、「推古天皇とその息子竹田皇子(生没年不詳)の最初の墓と推定」されるというものだった。翌日の全国紙は、推古天皇・竹田皇子合葬陵の発見とセンセーショナルな見出しでこの発表を報道した。

地説明会は、それから1カ月後の8月26日と27日の2日間行われた。多くの考古学ファンや古代史ファンが、この新しい発掘現場を一目見ようと詰めかけた。その中に私もいた。真夏の太陽がジリジリと照りつける暑い日だった。近くの畝傍東小学校の校庭で発掘の概要の説明を受け、長蛇の列を作って現場を一巡したことを昨日ことのように覚えている。

年、「飛鳥保存財団」が主催する「あすか塾」開催の案内を入手したとき、あっと思ったことがある。今月に予定されている第141回あすか塾は、橿原市教育委員会の技師・横関明世女史を招いて、『古墳の出土品を科学する』というタイトルで講演していただくことになっている。タイトルだけでは具体的な話の内容は想像できなかったが、そのサブタイトルに「植山古墳の副葬品を中心にして」とある。植山古墳の副葬品? そんなものあったっけ? と、まず疑問が頭をかすめた。

歩揺付き飾金具(かざりかなぐ)の取り付け位置
歩揺付き飾金具(かざりかなぐ)の
取り付け位置
になって、現地説明会の際に配布された資料を引っ張り出して読み返してみた(配布資料は現在はインターネットでも公開されている。植山古墳現地説明会資料参照)。その中には副葬品のことなど一言も触れていなかった。出土品があれば、現地説明会の資料にも明記してあるはずなのに、当日のフィーバに圧倒されて、出土品の有無を説明員に確認することすら忘れてしまった。

が、出土品はあった。そのことが明らかになったのは、それから1年後のことである。新たに古墳の北側を区切る柵跡が発見されたため、平成13年(2001)の7月22日に二回目の現地説明会が行われた。その際、東石室の石棺内部の土を取り除いて調査しても、副葬品・遺骨などはまったく発見できなかったと報告された。しかし、石室からは次のような金属製遺物が出土していた。
・金銅製・・・歩揺付飾金具33点、帯先金具8点、責(せめ)金具8点、ホ具(かこ)1点
・鉄製・・・・鋲付金具、シオデ金具、鉄鏃
・鉄地金銅張り・・・鋲付金具など破片多数
これらの遺物の多くは馬具の飾りとして用いられたもので、石室の床に設けられた排水溝の石の下から見つかったという。一方、西石室からは須恵器、土師器が発見されたとのことだ。

念なことに、当日は埼玉の自宅にいて、現地説明会に参加できなかった。そのため、遺品があったことなどすっかり忘れていた。その存在を知ったのは、平成15年(2003)になってからである。その年の5月14日、東側石室から見つかった金銅製の歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)は33個だったことを新聞紙上で読んだ。また、橿原市の教育委員会が飾り金具の断面に電子線を当てて調べたところ、台座などの表面に金と銀を重ねた部分があったことも報道された。



植山古墳の被葬者は本当に推古天皇と竹田皇子か?

植山古墳の現状
発掘時時の東西石室

は、植山古墳の被葬者については、以前から疑問を感じている。この古墳は東西方向約40m、南北方向約30mの長方形の形をしており、一つの墳丘に横穴式石室が2基築かれている「双室墳」である。こうした形態の墳墓は、推古朝前後に限られた独特の墓制だそうだ。しかも、石室や出土遺物から、東側の石室は6世紀末ごろ、西側の石室は7世紀前半ごろの築造と推定される。そこで、多くの専門家は、東側が竹田皇子、西側が推古天皇の墓と推定している。

東側石室の石棺
東側石室の石棺
『日本書紀』は、推古天皇の嫡子・竹田皇子が西暦587年の丁未の変(ていびのへん)(蘇我−物部戦争 )に参戦したことを記している。だが、その後の消息は伝えていない。本来なら崇峻天皇亡き後、竹田皇子の即位が予定されていたはずだが、即位していないところも見ると、推古女帝が即位した593年前後に即位できない事情があったか、すでに死亡したと推定されている。その点では、東側の石室が6世紀末ごろに造られたとする考古学上の知見は、史実に合っている。

題は西側の石室である。『日本書紀』によれば、推古天皇が崩御したのは、西暦628年の旧暦3月7日である。享年75歳だった。朝廷の庭に殯宮が設けられ、9月20日に葬礼が行われ、そして9月24日に竹田皇子の陵に埋葬された。したがって、7世紀前半ごろの築造との考古学上の推定に合うように見える。だが、その推定に、『日本書紀』の記述が影響していないのだろうか。竹田皇子の死と推古上帝の死にはおよそ40年の開きがある。その違いが考古学的に説明できるのだろうか。

うした疑問を抱く根拠は、実は『日本書紀』の記述にある。崩御する直前に、推古女帝は群臣たちに次のように遺言したとされている。
この頃五穀がみのらず、百姓は大いに飢えている。私のために陵を建てて、厚く葬ってはならぬ。ただ竹田皇子の陵に葬ればよろしい
この遺言が本当に女帝の口から出たものであるという保証はない。しかし、なにがしかの真実を含んでいるとすれば、民が窮乏している現状では、新たな陵を造ることなく、竹田皇子が眠る陵に合葬してくれるだけでよい、と遺言したことになる。

まり、見瀬丸山古墳聖徳太子廟がそうであるように、竹田皇子の棺が納められている石室に私の棺も一緒に納めてくれ、私は最愛の息子と共に永久の眠りにつきいたい、と希望したと想像できる。皇子が埋葬されている石室の隣に、別の石室を造ってそこに埋葬してくれ、とは言っていないようだ。そのように理解すると、植山古墳が推古・竹田親子の合葬陵と見なすことができなくなる。

闘石(しきいいし)
玄室の前の闘石
山古墳は「双室墳」である。発掘調査段階では、古墳築造当初から長方形墳であったか、あるいは西石室の築造に併せて墳丘が拡張されたものかは判明していないとのことだった。だが、東石室が東寄りに作られていること、さらには墳丘を拡大して別の石室を追加工事した証が現在まで見つかっていない点などを総合すると、植山古墳は当初から2つの石室を持つ墓として計画され造られたことになる。つまり、竹田皇子を埋葬した墓は、当初から二人の人間を埋葬することを前提に計画されていたことになる。このことは上に示した推古女帝の遺言と矛盾する。

れなのに、東側石室と西側石室の築造時期にズレがあるという。築造方法にそのズレを証明するものがあるのだろうか。西側石室からは須恵器や土師器が見つかったとのことだが、これらは遺骸の埋葬時に副葬されたと考えることも可能である。石室が造られた時期の証明になならない。石棺については、東の石室には、熊本県宇土半島産の阿蘇ピンク石(阿蘇溶結凝灰岩)で作られた家形石棺がほぼ完形で残っていた。西側の玄室に石棺はなかったが、阿蘇ピンク石の破片が数点残っていたという。おそらく東石室と同じ石棺が収められていたようである。

一つ分からないことがある。推古女帝を埋葬したと想定される西側石室には、玄室の前に扉の闘石(しきいいし)が置かれていた。闘石は玄室に出入りする入り口の扉の下部を支える石である。この石の存在は、西側石室は追葬を前提として築かれたことを意味し、最初から複数の棺を埋納することを想定していたことを示している。

念ながら、発掘調査はまだこうした疑問に答えてくれていない。もっとも、推古女帝の遺言が『日本書紀』編者の創作と考えるならば、疑問の一部は氷塊する。また、西側の石室に推古女帝を埋葬したとして、その時点では仮埋葬であり、後日別の陵墓を造って改葬することが予定されていたなら、玄室の前に闘石を設けた理由も納得できる。しかし、西側石室の築造が7世紀前半ごろとする推定は納得できない。

磯長山田陵(=推古天皇陵)
太子町の磯長山田陵(=推古天皇陵)
『古事記』は「御陵は大野岡の上に在りしを、後に科長の大陵に遷しき」と、推古女帝の遺骸を改葬したことを記述している。そこで、大野岡にあった御陵が植山古墳で、科長に築かれた大陵は、現在太子町にある磯長山田陵とされている。この磯長山田陵は盗掘されていて、さまざまな資料から主体部の様子が推定されている。それによれば、主体部は南に開口する横穴式石室で、大きな切石を使い、玄室の長さはおよそ4.5m、中に石棺が2つ安置されているという。さらに、1989年に宮内庁が行なった調査で、新たなことが分かった。2つの横穴式石室が近接して築かれていて、東の石室に2棺があり、さらに西にも埋葬された棺があったとのことだ。  

長山田陵は東西61m、南北55m、高さ12mの方墳で、確かに規模は植山古墳よりも大きい。だが、2つの石室の位置関係が逆になっている。植山古墳の場合は、西側石室が複数の棺を納める設計になっていたのに、磯長山田陵で2つの棺が納められているのは東側石室である。これが推古女帝と竹田皇子の棺だったと仮定すれば、西の石室にある棺はだれのものなのか。



文化財の調査や修理のために活躍する保存科学

日の「あすか塾」の講師として招かれたのは、橿原市教育委員会の技師・横関明世女史だった。植山古墳の発掘調査にも携わった女性である。スライドを用いて、実に歯切れがよい説明をされる方で、聞いていて楽しかった。その彼女が最初に口にした言葉が「保存科学」だった。初めて聞く名前だった。

走査型電子顕微鏡
走査型電子顕微鏡
関女史の話を要約するならば、「保存科学」とは文化財を後世に伝えていくために、自然科学的手法(分析)を応用して、文化財の調査や修理を行なう研究分野ということになる。文化財というからには、何も地下から掘り出される埋蔵文化財には限定されないが、特に長い間土の中に眠っていた木製や金属製の遺物は、掘り出されて現代の空気にふれるとあっという間に朽ちてしまうものが多い。そうした劣化を防ぎ、後世に伝えるために実施する保存処理は、保存科学の重要な分野である。

のために、さまざまな先端技術が応用されている。横関女史はそうした技術を「科学の眼」と表現された。たとえば、X線写真撮影は遺物の見えない部分を見るために、実体顕微鏡走査型電子顕微鏡(SEM: Scanning Electron Microscope)は遺物を拡大して調査するために、蛍光X線分析電子線プローブ・マイクロアナライザー(EPMA:Electron Probe Micro-Analysis)は遺物を分析を行なうために、それぞれ応用されている科学の眼である。


歩揺付き飾り金具
歩揺付飾金具
側石室から出土した金銅製遺物のうち、歩揺付飾金具(ほようつきかざりかなぐ)と鋲付金具(びょうつき)について、横関女史は保存処理と科学調査から分かった構造や細部の特徴をスライドを使って解説された。その詳細は省略するが、私が興味を持ったのは歩揺付飾金具の鍍金技術(ときんぎじゅつ)である。

揺付飾金具とは馬具の尻繋(しりがい)の革帯上に取り付けられた装身具のこと。その構成は、吊手の役目を果たしている心棒、吊手に下がる歩揺、心棒を包む筒金、台座、台座内の詰め物を固定する革、革帯に固定するための円形座金の6つの部品からできている。

回の分析には、電子線プローブ・マイクロアナライザー(EPMA)が用いられたそうだ。この装置は、細く絞った電子線を試料に照射して、その部分から発生する特性X線(物質を構成する元素に固有な波長をもつX線)を検出し、元素の種類と分布状態、濃度を調べる装置である。

歩揺付き飾り金具
藤ノ木古墳出土の
歩揺付飾金具
析調査によって、まず鍍金された層が非常に薄いことが分かったという。これまでの調査で分かっている古代の鍍金層の厚みは10〜20μmとアルミホイルほどの厚さが多い。ところが、歩揺付飾金具では3〜5μm程度だった。

に、金の部分に水銀を伴っていたことから、水銀を用いて行なう金アマルガム法が用いられたことが判明した。金アマルガムとは、金を細かくして水銀に溶かしこんだ合金のことである。金アマルガム法では、こうしてペースト状になった金アマルガムを銅板に均一に塗りつけた後、加熱して過剰な水銀を蒸気にして除去する。すると、金色の表面が得られるが、この段階ではまだ鈍い山吹色をしていて、金色の光輝く光沢はない。光り輝く光沢を出すには、ヘラ磨きという最終工程を経なければならない。ヘラ磨きによって、金アマルガムの粒子がつぶされ、表面が平らになって光沢が益す。

糸が巻かれている部分
歩揺付飾金具に糸が巻かれている部分
ころで、歩揺付飾金具を一つ一つ見ていくと、銀色に近い発色をするタイプがある。調べてみると金鍍金層の表面にきわめて薄い銀の層が形成されていることが判明した。しかし、銀の部分は水銀を伴わないため、銀アマルガムを用いた鍍金ではない。しかも、金の部分と銀の部分が層になって分かれていることから金と銀を混ぜた合金を使用したものではない。鍍金層の上にきわめて薄い銀箔を貼ったか、あるいは粒子状の銀を塗布したものと推定される、という。

属製の遺物は、土の中にあって劣化してもその形を残しているが、糸や布などの有機物は長い間に分解され完全な形で発掘されることはほとんどない。ところが、今回出土した歩揺付飾金具では、心棒を束ねるために使われていた糸がサビに覆われることなく残っていた。分析調査したところ、糸の材質は麻の一種である苧麻(ちょま)で、繊維をS撚りに強く撚ってあったとのことだ。


藤木古墳出土の金銅製飾履(かざりぐつ)のレプリカ
藤木古墳出土の金銅製飾履(かざりぐつ)のレプリカ
が歩揺付飾金具の鍍金技術に興味を抱いた理由は、橿原考古学研究所付属の博物館で藤ノ木古墳の出土品の光り輝くレプリカをたびたび見てきたためである。博物館のエントランスホールには、藤ノ木古墳出土の金銅製飾履(かざりぐつ)のレプリカが置かれている。第二展示室には藤ノ木古墳から出土した飾り太刀や剣、鞍などの出土品とともにそのレプリカが展示してあり、まばゆいばかりの金色の光沢を放っている。古墳から出土した副葬品も製作された当時はこのように光輝いていたに違いないと思うと、当時の鍍金技術の水準の高さに感動してしまう。

藤木古墳出土の金銅装透彫鞍金具(後輪)
藤木古墳出土の金銅装透彫鞍金具(後輪)
ノ木古墳の被葬者は特定されていないが、築造時期は6世紀の後半とされている。植山古墳の東石室とほぼ同時期である。当時の大和には、こうした馬具をはじめとする金銅製品の製作集団がすでに存在していた。彼らは高度な鍍金技術を有して、当時の支配階級の要求に応じて金色の装身具を作り続けた。そして、そうした技術集団の中に鞍作止利(くらつくりのとり)が率いる鞍作工房があったにちがいないと想像している。鞍作止利は金銅製の鞍の制作で習得した鍍金技術を生かして、後に我が国最初の金銅仏を制作したに違いない。その制作地は現在の明日香村の中にあったとすれば、先年発掘された飛鳥池工房跡がもっともふさわしい。


(2006/02/28 記す)
参考・引用文献:第141回あすか塾講演のレジメ


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