橿原日記 平成18年1月29日

戌(いぬ)年に因んだ橿考研付属博物館の特別陳列

オオカミが人間に飼われてイヌとなった

の散歩で、イヌを連れたご婦人と結構すれ違う。大抵は室内で飼っているイヌのようで、本人よりもイヌの健康維持のために散歩させているのだろう。手入れが行き届いて毛並みも良い。早朝の散歩に気遣ってか、防寒チョッキなどを着せた愛犬も見かける。筆者も以前、イヌを飼ったことがある。何処にでもいる雑種だが、成犬を譲り受けた。前の飼い主が一日三回散歩させていたようで、朝と夕方と夜9時に散歩に連れ出さないと、いつまでも鳴き声をあげて催促し、ほとほと弱った。

や日本の社会の核家族化が進んで、子供たちは結婚すると親元を離れて行く。老夫婦たちは子供のいない寂しさを、イヌやネコをペットとして飼うことで紛らしている。特にイヌは、ペット以上の存在になっているようだ。家族の一員として扱われ、強い精神交流を通わす対象として、すでにコンパニオンアニマルになりつつある。このことは、さらに新しい進化をイヌ族にもたらすかもしれない。

オオカミ
オオカミ
間とイヌとの間には長いつきあいの歴史がある。犬の起源をたどると、オオカミに行き着くと言われている。今から3万年前の旧石器時代に、中央アジアでイヌが誕生した。人が食べ残したものを求めて寄ってきたオオカミを、捕まえて育ててみたら、狩猟に役立つことに気づいたそうだ。そこで、おだやかで人なつこい性格のオオカミを、何代にもわたって飼い慣らし家畜化していった。

うして、オオカミがイヌに変化したという。イヌのDNAで近縁関係を調べてみると、非常にイヌとオオカミは近いそうだ。日本犬などアジアのイヌは、アジアのオオカミの遺伝子が混じっているとも言われている。

畜化されてイヌになったオオカミは、自ら移動することはなくなり、人間と一緒に住むようになった。西アジアでは1万2千年前の遺跡から、人と一緒に埋葬された子犬の骨が発見されているという。その頃には、完全にイヌとして飼い慣らされて、猟犬や番犬として重宝がられたのであろう。



橿考研附属博物館の特別陳列「いぬ・イヌ・犬」

縄文時代のイヌ
縄文時代のイヌの復元(*)
弥生時代のイヌ
弥生時代のイヌの復元(*)
橿原考古学研究所の附属博物館は、戌(いぬ)年に因んで特別陳列「いぬ・イヌ・犬」を本日まで催してきた。最終日だったので、資料収集に立ち寄ったついでに覗いてみると、近隣の古墳から出土した犬型埴輪や犬の骨、狩りで捕らえられた動物の骨などが、陳列室に並んでいる。

本でも、縄文時代のはじめころ(1万年前)すでに家畜としてイヌが飼われていた。人の墓に混じってイヌの墓も作られていて、イヌが人間にとって特別なものだったことを示している。

物館近くの橿原遺跡で見つかったイヌ型の小さな土製品が展示されていた。紐を通す孔がついている。現代の女子学生が胸に下げているペンダントほどの大きさである。また、橿原市の坪井遺跡は弥生時代の集落跡だが、出土したイヌの骨に、肉を切って解体したときの痕跡や骨を切断した部分が見つかっている。当時の人々がイヌを食用としていたものと推察されている。

白かったのは、出土したイヌの骨の観察から、縄文時代のイヌと弥生時代のイヌの違いが分かるそうだ。縄文犬は小型で脚が短く、細長いキツネ顔をしている。これに対して、弥生犬はやや大型で脚も長く、彫りの深い顔つきだった。縄文犬が進化して弥生犬になったのではなくて、弥生文化と一緒に中国大陸または朝鮮半島から連れてこられたと推測されている。

生時代に作られた銅鐸(どうたく)には、弓矢を持ってイノシシを追いかける狩人と一緒に、イノシシを取り囲んでいるイヌが描かれたものがある。弥生人にとっても、イヌは猟犬として、また番犬として重宝がられていたのだろう。

墳時代にはイヌの埴輪が作られ、形象埴輪の一つとして古墳の墳丘に並べられた。墓を守る番犬として飾られたにちがいない。

狩りの場面 犬型埴輪
銅鐸に描かれた狩りの場面<(*) 橿原市四条古墳から出土した犬型埴輪(*)



十二支に加えられたイヌ、神になったイヌ

十二支の配列
十二支が示す方位と時刻(*)
月日や時刻、方位を表すのに「十二支」が古くから使われてきた。十二支はもともと古代中国で生まれたもので、順序を表す記号だった。最初は、殷(いん)の時代に十干と組み合わせて日付を記録するに利用された。戦国時代以降になって、日付だけでなく、年・月・時刻・方位を記述するのにも利用されるようになったという。我が国には、仏教の伝来と同じ頃伝えられた。

二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされ、動物の名前とは何の関係もなかった。十二支と身近な十二の動物(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)が組み合わされたのは、人々が暦を覚えやすくするためだったとされている。

二の動物は、中国の後漢時代の思想家・王充(AD27 - 100?)が著した論文「論衡」の中に記されている。しかし、王充がこれらの動物を決めたのではなく、それ以前に当たり前のこととして中国では知られていたようだ。秦の時代の墓から出土した竹簡にも、十二の動物が示されているという。しかし、現代のものとは違っていて、現在の十二の動物は漢の時代に決められたものらしい。

十二支神像の拓本
金庚信将軍墓外護列石の拓本(*)
二支の中の十一番目の文字・戌(じゅつ)はイヌのことである。月でいえば9月、時刻でいえば2時、方角でいえば北西微南を表す。

良県明日香村にあるキトラ古墳は、700年代の初めに築造された古墳である。その石槨の4面の壁には、玄武、青龍などの四神像だけでなく、2001年のデジタルカメラによる調査で獣頭人身の十二支神像も描かれていることがわかった。現在までに確認されているのは、北壁の三体(亥・子・丑)と東壁北辺の1体(寅)だけである。十二支神像はいずれも武器を持っている。棺に納められた遺体を守護する辟邪(へきじゃ)の意味をもっていると考えられている。

一新羅時代の王陵には、その墳丘裾に十二支神像を浮彫りした古墳が見られる。新羅が半島統一を成し遂げた7世紀ころ活躍した新羅の英雄・金庚信(キム・ユシン)将軍の墓は最も古い例で、その外護列石に十二支神像が刻まれている。その中にはイヌの顔をした像もある。獣頭人身の神となったイヌの姿である。

(*)特別陳列説明文よりコピー



return