橿原日記 平成18年1月26日

遣唐留学生・井真成(せいしんせい)の本名は井真成(いのまなり)か?!


竹内遺跡付近のマップ
竹内遺跡付近のマップ
代、横大路と呼ばれる官道が大和盆地の南部を東西に走っていた。その西の端は、現在の葛城市當麻町の長尾神社あたりである。そこから更に西の難波(大阪)に向かうには、二つの峠越えのルートがあった。二上山の南側に位置する竹内(たけのうち)峠を越えて、磯長谷(しながだに、南河内の太子町)に出る竹内街道と、二上山の北側の穴虫(あなむし)峠を越えて行く長尾街道である。

内街道は、推古天皇21年(613)に設けられた難波より京に至る「大道」のこととされている。藤原京が完成し横大路と接続されると、竹内街道は「古代の国道1号線」となった。その竹内街道の大和側出口付近に「竹内遺跡(たけのうちいせき)」がある。遺跡を南北に貫く道路建設に伴う調査が平成元年(1989)に実施され、平城京に都がおかれていた頃の土器を含む多数の遺物が見つかった。

葛城市歴史博物館
葛城市歴史博物館
「井部」と墨書された土器
「井部」と墨書された土器
城市歴史博物館は、所蔵するこれらの土器の整理を進めていた。昨年末、橿考研で赤外線撮影をしたところ、8世紀前半の土器の中に3点の墨書土器が含まれていることが判明した。去る1月23日、博物館はそのことをマスコミに公表した。一部の新聞はこれらの土器を話題にした。その中の一つに「井部」と読める墨書があったからである。

成16年(2004)の10月、唐の都長安で客死した中国名井真成(せいしんせい)という遣唐留学生の墓誌が西安郊外で発見されて大きな話題になった。日中交流史の新しい地平を切り開くものとして、昨年は日中合同シンポジウムが開かれた。墓誌は愛・地球博にも出品され、その後は東京国立博物館と奈良国立博物館でも一般公開された。だが、この留学生が何者かは、まだ解明されていない。中国名の「井」から推して、渡来系氏族である「葛井(ふじい)」氏または「井上」氏の出身者ではないかと推察されているが、断定的ではない。

こへ「井部」という氏族名または集団の名称の出現である。しかし、「井部」という名称は、文献上には例がない。文献に登場しない氏族名など存在するのか。仮に存在するとしたら、井真成との関係はどうなるのか。日本の氏族名を中国風の一字に簡略化したのではなく、最初から井真成は日本名ではなかったのか・・・など、さまざまな興味が湧いてくる。葛城市歴史博物館は本日から出土した墨書土器を展示するというので、出かけてきた。



「井」氏の存在の可能性を示唆する墨書土器

城市歴史博物館は、以前は「新庄町歴史民俗資料館」と呼ばれていた。平成16年(2004)10月、新庄町と當麻町が合併し「葛城市」が誕生したのを機に、「葛城市歴史博物館」と名称を変更した。建物は近鉄御所線の「忍海(おしみ)」駅を降りてすぐの所にある。博物館の背後に葛城山が屏風のようにたちはだかっている。その山肌を下ってくる葛城降ろしの風が身を切るように冷たい。
竹内遺跡出土の土器類
竹内遺跡出土の土器類
「井部」と墨書された土器
「井刀」と墨書された土師器の皿の裏

設展示の一時並び替えのために、博物館は昨日まで1週間ばかり臨時休館だった。おそらく墨書土器の展示のためだったのだろう。この博物館には、葛城地方の巨大な航空写真が常設展示室の手前にある円形のフロアに貼り付けてある。鳥が上空から俯瞰するように、それぞれの遺跡の位置が確認できるように配慮されていて、興味深く面白い。

内出土の土器類は常設展示室の一番奥のガラスケースの中に並べられていた。だが、墨書土器(ぼくしょどき)だけは、その手前に小さなガラスケースを置き、その中に並べてあった。どこかのテレビ局が墨書土器の撮影にきていたが、それ以外に見学者はいない。

レビのクルーたちが引き上げた後、ゆっくりと墨書土器を見ることができた。ガラスケースの中央に、直径16.5cmの土師器(はじき)の完形の皿が置かれ、その左右には器の破片が並べてある。中央の皿の裏側には、ほぼ中央に「井刀」と墨で書かれた文字がうっすらと見え、そばに赤外線撮影したときの写真が添えてある。左側の土器片には「」の字の一部が、右側の土器片には「山■」の字が書いてあるというのだが、素人には判読できない。

「井」と墨書された土器片 「山」の字が墨書された土器片
「井」と墨書された土器片 「山■」と墨書された土器片

はり視線は手のひらの大きさほどしかない中央の皿に引きつけられてしまう。墨で書かれた文字は「井刀」としか読めない。これをどうして「井部」と読むのか分からなかったが、説明資料によると、古代では「部」は右側の作り部分だけを簡略化して書くことが多いそうだ。したがって、墨書は「井部」と書かれていると理解するのが妥当であるとのことだ。

部と読めたとして、では、そうした名で呼ばれた職業集団あるいは氏族が、古代に存在したのだろうか。歴史学者の談話では、古文献には「井部」という名称は見あたらないという。だが、井部と墨書された皿は、この一枚だけではない。左に並べられた土器片にも「井」の字の一部が読み取れる。これらの土器は、「井」の字を持つ氏族集団の存在を新たに示唆するものであり、博物館は、解釈によっては「井」氏が存在した可能性を示しているという。



井真成の魂が帰る故郷は藤井寺、それとも葛城?

真成の墓誌は「肉体はすでに異国の土に埋もれたけれども、霊魂は故郷に帰ることを願うものである」と結んでいる。井真成の出身氏族は、現在までのところ、大阪府藤井寺付近に本拠を置く渡来系氏族の「葛井」氏または「井上」氏ではなかったかとされている。この場合、彼の霊魂が帰るべき故郷は藤井寺市となろう。だが、これらの墨書土器は、彼が葛城市の竹内界隈を本拠地とした氏族の出だった可能性も示唆することになった。

氏と称する氏族が存在したと仮定して、その氏族が遣唐留学生を輩出するほどの文化的素地があったのだろうか。井真成と一緒に第9次遣唐使に同行して唐に渡った留学生として、阿倍仲麻呂や吉備真備、玄ムなど、そうそうたる人物の名が知られている。彼らが留学生に選抜されたのは、若くしてすでに卓越した学識を備えていたからに他ならない。

三ツ塚古墳出土の皮袋
三ツ塚古墳出土の漆塗り皮袋と複製品
氏出身の井真成は、どこでそうした学識を身につけたのだろうか。井氏と大陸文化を結びつける接点はあるのだろうか。この点に関して、博物館は実にユニークな資料を用意していた。舶来品のポシェットを写したと思われる一枚の写真パネルが墨書土器の隣に置かれている。

明資料によると、それは中国大陸産あるいはその影響を受けたとされる漆塗りの革袋で、唐代の衣服規定にある「ばん嚢(のう)」と呼ばれるものに相当するらしい。この革袋は、竹内遺跡から竹内街道を1.2kmほど西に行ったところにある三ツ塚古墳群から出土した。ちょうど竹内街道と平石峠へ向かう旧街道が分岐する地点にある古墳群である。この古墳群では、6世紀末から7世紀末にかけての古墳が13基、さらに8世紀前半の火葬墓、9世紀前半以降の木棺墓、火葬墓などが出土していて、断絶しながらも墓地として営まれてきたことが判明している。したがって、三ツ塚古墳群を造営していた集団が竹内付近にいて、対外交渉に関わる人物を輩出していたことを示す資料として、博物館はこの革袋を注目しているというわけだ。


竹内集落から奈良盆地を見る
竹内集落から奈良盆地を見る
氏の存在を検証するのは、歴史学の専門家のこれからの仕事である。それにしても、考古学とは不思議な分野だと、墨書土器を前にして痛感した。たった一枚の、しかも手のひらサイズに過ぎない素焼きの皿が、過去に実在した一人の人物への思いを馳せるきっかけになる。中国名を井真成と言ったその人物は、19歳の若さで希望に胸を膨らませながら東シナ海の波濤を越えた。そして華やかな国際都市・長安で16年の長きに渡って勉学に励みながら、不運にも病に倒れ異国の土と化した。墓誌が発見されなければ、その存在すら知られることのなかった人物である。

みじくも、墓誌の最後の文言が示しているように、死に際して彼の脳裏に去来したのは、生まれ育った故郷の山河だっただろう。現在も、竹内集落は奈良盆地へ下ってくる山麓の高みに位置し、盆地を一望できる。井真成が竹内の出身だったならば、彼が思い描いた故郷は、大和三山が浮島のように配された、霞たなびく盆地の美しい風景だったにちがいない。



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