「井」氏の存在の可能性を示唆する墨書土器葛城市歴史博物館は、以前は「新庄町歴史民俗資料館」と呼ばれていた。平成16年(2004)10月、新庄町と當麻町が合併し「葛城市」が誕生したのを機に、「葛城市歴史博物館」と名称を変更した。建物は近鉄御所線の「忍海(おしみ)」駅を降りてすぐの所にある。博物館の背後に葛城山が屏風のようにたちはだかっている。その山肌を下ってくる葛城降ろしの風が身を切るように冷たい。
常設展示の一時並び替えのために、博物館は昨日まで1週間ばかり臨時休館だった。おそらく墨書土器の展示のためだったのだろう。この博物館には、葛城地方の巨大な航空写真が常設展示室の手前にある円形のフロアに貼り付けてある。鳥が上空から俯瞰するように、それぞれの遺跡の位置が確認できるように配慮されていて、興味深く面白い。 竹内出土の土器類は常設展示室の一番奥のガラスケースの中に並べられていた。だが、墨書土器(ぼくしょどき)だけは、その手前に小さなガラスケースを置き、その中に並べてあった。どこかのテレビ局が墨書土器の撮影にきていたが、それ以外に見学者はいない。 テレビのクルーたちが引き上げた後、ゆっくりと墨書土器を見ることができた。ガラスケースの中央に、直径16.5cmの土師器(はじき)の完形の皿が置かれ、その左右には器の破片が並べてある。中央の皿の裏側には、ほぼ中央に「井刀」と墨で書かれた文字がうっすらと見え、そばに赤外線撮影したときの写真が添えてある。左側の土器片には「井」の字の一部が、右側の土器片には「山■」の字が書いてあるというのだが、素人には判読できない。
やはり視線は手のひらの大きさほどしかない中央の皿に引きつけられてしまう。墨で書かれた文字は「井刀」としか読めない。これをどうして「井部」と読むのか分からなかったが、説明資料によると、古代では「部」は右側の作り部分だけを簡略化して書くことが多いそうだ。したがって、墨書は「井部」と書かれていると理解するのが妥当であるとのことだ。 井部と読めたとして、では、そうした名で呼ばれた職業集団あるいは氏族が、古代に存在したのだろうか。歴史学者の談話では、古文献には「井部」という名称は見あたらないという。だが、井部と墨書された皿は、この一枚だけではない。左に並べられた土器片にも「井」の字の一部が読み取れる。これらの土器は、「井」の字を持つ氏族集団の存在を新たに示唆するものであり、博物館は、解釈によっては「井」氏が存在した可能性を示しているという。 |
井真成の魂が帰る故郷は藤井寺、それとも葛城?井真成の墓誌は「肉体はすでに異国の土に埋もれたけれども、霊魂は故郷に帰ることを願うものである」と結んでいる。井真成の出身氏族は、現在までのところ、大阪府藤井寺付近に本拠を置く渡来系氏族の「葛井」氏または「井上」氏ではなかったかとされている。この場合、彼の霊魂が帰るべき故郷は藤井寺市となろう。だが、これらの墨書土器は、彼が葛城市の竹内界隈を本拠地とした氏族の出だった可能性も示唆することになった。 井氏と称する氏族が存在したと仮定して、その氏族が遣唐留学生を輩出するほどの文化的素地があったのだろうか。井真成と一緒に第9次遣唐使に同行して唐に渡った留学生として、阿倍仲麻呂や吉備真備、玄ムなど、そうそうたる人物の名が知られている。彼らが留学生に選抜されたのは、若くしてすでに卓越した学識を備えていたからに他ならない。
説明資料によると、それは中国大陸産あるいはその影響を受けたとされる漆塗りの革袋で、唐代の衣服規定にある「ばん嚢(のう)」と呼ばれるものに相当するらしい。この革袋は、竹内遺跡から竹内街道を1.2kmほど西に行ったところにある三ツ塚古墳群から出土した。ちょうど竹内街道と平石峠へ向かう旧街道が分岐する地点にある古墳群である。この古墳群では、6世紀末から7世紀末にかけての古墳が13基、さらに8世紀前半の火葬墓、9世紀前半以降の木棺墓、火葬墓などが出土していて、断絶しながらも墓地として営まれてきたことが判明している。したがって、三ツ塚古墳群を造営していた集団が竹内付近にいて、対外交渉に関わる人物を輩出していたことを示す資料として、博物館はこの革袋を注目しているというわけだ。
いみじくも、墓誌の最後の文言が示しているように、死に際して彼の脳裏に去来したのは、生まれ育った故郷の山河だっただろう。現在も、竹内集落は奈良盆地へ下ってくる山麓の高みに位置し、盆地を一望できる。井真成が竹内の出身だったならば、彼が思い描いた故郷は、大和三山が浮島のように配された、霞たなびく盆地の美しい風景だったにちがいない。
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