橿原日記 平成18年1月25日

小墾田宮跡(おはりだのみやあと)の伝承地の一つ三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)

自宅での朝の散歩道はフラワーロード
三十八柱神社の鳥居と拝殿 (2006/01/25 撮影)


井市の西の端に大福(だいふく)という集落がある。非常に耳障りの良い地名のせいか、一度聞いただけですぐに覚えてしまった。近鉄大阪線の「大和八木」駅から東へ2つ目は、最寄りの駅「大福」である。その大福に、『延喜式』神名帳にも記された三十八柱神社(みそやはしらじんじゃ)が鎮座している。宮中三十六座の神と、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪奈美(いざなみ)の造化二神を合わせて祀る旧指定村社である。

和56年(1981)に出版された梅原猛氏の著作『聖徳太子U 憲法十七条』で、大福という地名とこの神社の名を知った。梅原氏は同書の中で、推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)がこの神社付近にあったとする三十八柱神社の宮司・石井繁男氏の小墾田=大福説を紹介し、この説に賛成する立場を表明されていた。

古宮土壇
明日香村にある古宮土壇
説では、以前は小墾田宮跡は明日香村の水田の中にある古宮土壇とされてきた、だが、昭和62年(1987)年に雷丘東方遺跡から「小治田」と書かれた土器などが発見され、古宮土壇=小墾田宮跡という図式は、今では崩れつつある。

原氏の執筆時点では、こうした発見はまだ行われていない。たとえ発見されていたとしても、氏は小墾田=大福説を支持されたにちがいない。その理由を、現地を訪れて確かめてみたいと思いながら、いつしか四半世紀が過ぎてしまった。

近になって、その「大福」の名前を久しぶりに耳にした。桜井市立埋蔵文化財センターで2005年冬季企画展示 「大福遺跡の再検討」を開催しているというのだ。大福遺跡の発掘が小墾田=大福説に何か手がかりを与えてくれるものと期待して、本日の昼前からわざわざ出かけてきた。



三十八柱神社の近辺は大福池遺跡の範囲に含まれ、まだ未調査

季企画展示 「大福遺跡の再検討」が催されている桜井市立埋蔵文化財センターは、桜井市芝58−2に位置している。その前を国道169号線が走り、すぐ近くに大神神社 (おおみわじんじゃ) の大鳥居が聳えている。JR桜井線の「三輪」駅から徒歩10分ほどの距離だ。

桜井市立埋蔵文化財センター
桜井市立埋蔵文化財センター
大福遺跡ガイドマップ
大福遺跡ガイドマップ
桜井市立埋蔵文化財センターの展示室
桜井市立埋蔵文化財センターの展示室
「大福遺跡」から出土した銅鐸
「大福遺跡」から出土した銅鐸
福遺跡とは、桜井市大字大福で発見された弥生時代後期を中心とする集落遺跡である。大規模な分譲住宅地の造成に先立って、昭和48・49年(1973-74)に橿原考古学研究所が行った第一次調査でその存在が確認された。昭和56年(1981)には、大福小学校の建て替えに伴う第二次調査調査が桜井教育委員会によって行われ、弥生時代後期の遺構や遺物が多量に確認された。

日の午前中だったので、埋蔵文化財センターを訪れた見学者は筆者以外に誰もいない。受付で資料を受け取りながら、小墾田=大福説について聞いてみた。筆者も不勉強で「大福」の名を冠した遺跡なら、三十八柱神社付近の調査も行われたに違いないと思いこんでいた。だが、これがとんでもない誤解だった。

大福」という名の付く遺跡は付近に複数ある。見学資料として貰った「大福遺跡ガイドマップ」を見てみると、「大福遺跡」の東に「大福池遺跡」、西に「坪井・大福遺跡」と、大福の名が付く遺跡が3つも並んでいる。三十八柱神社がある一帯は大福池遺跡の範囲に含まれている。この遺跡では桜井西中学校の南側で何カ所か調査が行われてきた。だが、中学校に西に位置する三十八柱神社付近は、まだ調査が行われていないとのことだった。

うして当初の期待は裏切られた。しかし、せっかく訪れた埋蔵文化財センターなので、特別展示をじっくりと見学して帰ることにした。

示されている出土遺物とその説明を見ていくと、弥生時代前期から中期にかけての遺構は、大福遺跡からほとんど出土せず、後期になってやっと遺構が出現してくるとのことだ。これに対して、大福遺跡の西側にある坪井・大福遺跡では、弥生時代前期から遺構群が確認されている。そして、その遺構群は弥生時代中期にピークを迎え、後期には減少していくという。

かし、弥生後期の段階でも坪井・大福遺跡には環濠帯が存在したことが確認されている。そのため、環濠の中に居住していた弥生人たちが、後期になると大福遺跡に進出していったものと推測されている。つまり、坪井・大福遺跡は大和における拠点集落、大福遺跡はその周囲に展開した小規模集落の一つとしてとらえることができるという。

福遺跡を有名にしたのは、おそらく昭和60年(1985)の第三次調査で出土した大福銅鐸だろう。この銅鐸は弥生時代後期末〜纒向1式期に作られたと考えられる方形周溝墓の溝の中の埋納坑に埋められていた。近畿地方では初めての発掘調査時の出土品として知られている。突線紐形式の銅鐸で、表面に袈裟襷(けさだすき)文が描かれている。銅鐸の身の高さは32.5cm、総高さは45cmである。



三十八柱神社の宮司・石井繁男氏の小墾田=大福説

三十八柱神社付近
三十八柱神社付近
十八柱(みそやはしら)神社に参拝するには、近鉄大阪線の「大福」駅を利用するとよい。駅前から真っすぐ北へ延びる商店街を抜けていけば、寺川にぶつかる手前に神社が鎮座している。徒歩で10分ほどの距離である。市立桜井西中学校を目標にするとよい。寺川に流れ込む銭川放水路を挟んで中学校の校庭の反対側に神社の境内がある。

古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)があったのは三十八柱神社付近だったとする説を提唱されたのは、上に述べたようにこの神社の宮司・石井繁男氏だった。小墾田=大福説を主張される根拠として、石井氏は次のような点を上げておられる。

●神社の由緒記によれば、「奉迂宮小治田宮(をはりだのみや)五穀成就村中安全、享保三戊戌年八月二十三日、祭主大神朝臣富房、代勤土屋左近」と書かれた棟札が本殿に張ってある
●社伝でも、この神社は古くから小治田神社と呼ばれ、小墾田宮のあったところと伝えられている
●大福は昔から大仏供(だいふく)と言われているが、享保6年(1721)に刊行された貝原益軒(1630-1714)の『大和廻(やまとめぐり 』の中に、「大仏供村はおおいなる村なり。推古天皇の都・小墾田の宮の所なり」とある。
●神社に伝わっている『聖徳太子伝暦』(享保12年写し畢(をわ)る)の注に「小墾田宮は敏達の宮所磐余訳語田宮(いわれのおさたのみや)の近所」、さらに「小治田宮は大仏供なり」と書かれている。

三十八柱神社
三十八柱神社
境内に建てられた万葉歌碑
境内に建てられた万葉歌碑
梅原猛氏揮毫の碑
梅原猛氏揮毫の碑
のようなことから、小墾田の地は大福の地に違いないと考えた石井氏は、定年で教職を辞されたのち、小墾田に関する多くの文献を読み、足で歩いて確かめて、「小墾田の宮とその大福説について」と題する論文を発表された。そして、この論文が聖徳太子の伝記を執筆中の梅原氏の目にとまった。

原氏は論文を読み、石井氏を訪れ、あちこち現地を共に歩きながら石井氏の説明を受け、帰ってからもいろいろ推考を重ねた末に、小墾田=大福説が最も可能性が高い仮説であるとの結論に達したという。

十八柱神社は人通りの絶えた静かな集落の中に鎮座している。古びた鳥居をくぐると、石畳の参道が一直線に延び、その先に切妻造、瓦葺の拝殿がある。境内の右手には、ケヤキの巨木が何本か聳えている。葉を落としたケヤキの幹に隠れるように犬飼孝氏揮毫の万葉歌碑が建っている。碑には大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の次の歌が万葉仮名で刻まれている。
●こもりくの はつせの山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも (巻8-1591)

の場所になぜ大伴坂上郎女の歌を刻んだ碑があるのか分からない。あるいは、この地から東の方にある初瀬谷を見やったときの景観が、この歌の情景に合っているためだろうか。左手を見ると、万葉歌碑とは対照的に、「小墾田宮伝承之地」と書かれた堂々たる碑が建っている。昭和57年(1982)4月に建てられた、梅原猛氏揮毫の碑である。


浦寺跡とされている現在の向原寺の北の田園の中に、ポツンと取り残された古宮土塁がある。この土壇付近が昭和45年(1970)と昭和48年(1973)に発掘調査され、掘立柱建物跡や池、石敷きなどが発見された。そのため、通説では小墾田宮跡とされてきた。だが、梅原氏はこの小墾田=豊浦説に疑問を持たれた。

古宮土壇の発掘調査
古宮土壇発掘調査当時の写真
地を訪ねてみれば一目瞭然だが、現在の向原寺と古宮土塁は目と鼻の先の距離にある。古宮土塁の地に新しい宮を建ててそこへ引っ越しただけならば、『日本書紀』は「豊浦に、さらに宮地を定む」と記すはずだが、そう記述していない。梅原猛氏は、ユニークな推論で、小墾田=豊浦説とされてきた根拠を否定された。その論旨は、氏の著作『聖徳太子U 憲法十七条』に詳しいので、ここでは省略する。

原氏は、真の意味の聖徳太子の政治が始まるのは推古11年(603)で、それ以前は政治の主導権は蘇我馬子にあり、太子にとっては政治の見習い期間にすぎなかった、と見なされる。たしかに、『日本書紀』の記述を信用すれば、推古11年12月に冠位十二階が制定され、翌年の正月にはこの官位が実施されている。その年の四月には憲法十七条が制定され、新しい日本の政治がはじまったとも言える。

『聖徳太子U 憲法十七条』
梅原氏の著作『聖徳太子U 憲法十七条』
原氏は、こうした画期的とも言える太子政治が始まる前提として、推古11年10月の”小墾田宮遷都”に着目される。「新しい酒は新しい革袋にもるべし」の喩えもある。梅原氏は、この遷都を主導したのは聖徳太子であるとされる。太子が目指したのは、仏教に基づく理想主義的な政治である。太子の立場にたって新しい政治の舞台として何処がよいのか考えた場合、仏教の聖地が舞台として選ばれるべきである。そこはどこか? 

教の聖地は、蘇我稲目(そんがのいなめ)が欽明天皇から仏像を譲り受けて最初に安置した小墾田の家があった地こそふさわしい。では、小墾田の家はどこにあったのか。そう思索しているとき、氏は石井氏の論文を紹介された。大福の地が飛鳥時代の小墾田だったら、いろんな出来事に納得がいく説明がつくとされる。

えば、欽明天皇の寵臣だった蘇我稲目は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)の近くに自分の家を持ったはずである。大福の地は金刺宮の西2kmに位置し、金刺宮に出仕するのに都合の良い距離である。豊浦にあったとすれば、金刺宮まで、直線距離でも北東へ5km、途中に山があるので迂回すれば8kmほどになり遠すぎる。

三十八柱神社の本殿
三十八柱神社の本殿
らに言えば、推古朝以前の大和盆地の主な交通には川船が利用された。河川交通の利便性を考慮した場合も、大福は適地だったとされる。推古16年(608)に小野妹子が連れてきた裴世清の一行は大和川を遡り、海柘榴市(つばいち)で上陸している。推古18年(610)に来朝した新羅と任那の使者は寺川をさかのぼり阿斗(あと)(現在の田原元町阪手)で上陸している。海柘榴市は大福の東方2km、阿斗は北西約5kmである。飛鳥では、この倍ほどの距離になる。

の地への遷都は、推古天皇も賛成したと思われる。夫・敏達天皇が宮居として訳語田幸玉宮(をさたのさきたまのみや)は東へ500mの地にある。父・欽明天皇の宮も磯城嶋金刺宮は東へ2kmにすぎない。蘇我馬子にとっても、父・稲目の居宅があった土地である。聖徳太子にとっても、父・用明天皇の宮だった磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)に近い。

うして、三者の考えが合致し、小墾田と当時呼ばれていた大福の地への遷都がなされた、と梅原氏は推論された。だが、現時点では小墾田=大福説は仮説にすぎない。仮説が証明されるためには、発掘調査の結果を待たなければならない。


小墾田=大福説は成立するか?

十八柱神社を見学した後、周囲を少し散策してみた。神社の東側に銭川放水路が築かれている。放水路を挟んで、市立桜井中学校の広い校庭が金網越しに広がっている。ちょうど昼休みだったのか、校庭一杯に響き渡る音楽がスピーカから流れていた。それが、なぜかラテン音楽の定番の曲だった。

水路に沿って北へ進むと、すぐに寺川の堤防に出る。堤防に立って東を見れば三輪山が、西を見れば耳成山がすぐ近くに見えた。今は冬場なので、寺川の水流はほとんどない。だが、飛鳥時代の寺川はどうだったか。センターで貰った「大福遺跡ガイドマップ」では、現在より何倍も広い寺川の流れが想定されている。おそらく古代には寺川も暴れ川だったのだろう。果たして水害の危険に晒されたこのような場所に宮を築いたのだろうか。それが疑問の第一だった。

小墾田宮想定図
小墾田宮想定図
墾田宮があったと想定される三十八柱付近は発掘されていないため、なんとも言えない。だが、隣接する「大福遺跡」からは弥生時代後期の遺構や遺物の他に、古墳時代や藤原京期の遺構や遺物出土している。しかし、飛鳥時代のものが出土したとは聞かない。なにもない原野または水田の真ん中に宮殿を築いたとしても、その周囲に関連施設や豪族たちの館が建てられなかったということはあるまい。なぜそうした建物の遺構が隣接する大福遺跡から見つからないのか。それが第二の疑問だった。

に述べたように、昭和62年(1987)年に雷丘東方遺跡から「小治田」と書かれた土器などが発見された。最近は、この付近に小墾田宮があったのではと推測されている。梅宮氏が太子の伝記を書かれたのは、この発見の6年前である。だが、仮に知っていたとしても、小墾田=大福説を支持されたかもしれない。

原氏は、豊浦宮から小墾田へ宮を遷したことを、「遷都」のイメージでとらえられている。だが、『日本書紀』には「小墾田宮に遷る」と記されているにすぎない。したがって、「遷都」ではなく、「遷宮」のイメージでとらえるべきなのではないだろうか。伊勢神宮では20年に一度、遷宮が行われる。しかし、神殿を新しく遠方の地に遷すのではなく、わずかに隣接地に新しく作り直すにすぎない。

うしたことを考えていると、小墾田宮跡を大福まで持って行かなくて、雷丘近辺に設定しても良いような気がする。雷丘東方遺跡の本格的な発掘調査が待たれる。



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