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| 三十八柱神社付近 |
三十八柱(みそやはしら)神社に参拝するには、近鉄大阪線の「大福」駅を利用するとよい。駅前から真っすぐ北へ延びる商店街を抜けていけば、寺川にぶつかる手前に神社が鎮座している。徒歩で10分ほどの距離である。市立桜井西中学校を目標にするとよい。寺川に流れ込む銭川放水路を挟んで中学校の校庭の反対側に神社の境内がある。
推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)があったのは三十八柱神社付近だったとする説を提唱されたのは、上に述べたようにこの神社の宮司・石井繁男氏だった。小墾田=大福説を主張される根拠として、石井氏は次のような点を上げておられる。
●神社の由緒記によれば、「奉迂宮小治田宮(をはりだのみや)五穀成就村中安全、享保三戊戌年八月二十三日、祭主大神朝臣富房、代勤土屋左近」と書かれた棟札が本殿に張ってある
●社伝でも、この神社は古くから小治田神社と呼ばれ、小墾田宮のあったところと伝えられている
●大福は昔から大仏供(だいふく)と言われているが、享保6年(1721)に刊行された貝原益軒(1630-1714)の『大和廻(やまとめぐり 』の中に、「大仏供村はおおいなる村なり。推古天皇の都・小墾田の宮の所なり」とある。
●神社に伝わっている『聖徳太子伝暦』(享保12年写し畢(をわ)る)の注に「小墾田宮は敏達の宮所磐余訳語田宮(いわれのおさたのみや)の近所」、さらに「小治田宮は大仏供なり」と書かれている。
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| 三十八柱神社 |
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| 境内に建てられた万葉歌碑 |
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| 梅原猛氏揮毫の碑 |
このようなことから、小墾田の地は大福の地に違いないと考えた石井氏は、定年で教職を辞されたのち、小墾田に関する多くの文献を読み、足で歩いて確かめて、「小墾田の宮とその大福説について」と題する論文を発表された。そして、この論文が聖徳太子の伝記を執筆中の梅原氏の目にとまった。
梅原氏は論文を読み、石井氏を訪れ、あちこち現地を共に歩きながら石井氏の説明を受け、帰ってからもいろいろ推考を重ねた末に、小墾田=大福説が最も可能性が高い仮説であるとの結論に達したという。
三十八柱神社は人通りの絶えた静かな集落の中に鎮座している。古びた鳥居をくぐると、石畳の参道が一直線に延び、その先に切妻造、瓦葺の拝殿がある。境内の右手には、ケヤキの巨木が何本か聳えている。葉を落としたケヤキの幹に隠れるように犬飼孝氏揮毫の万葉歌碑が建っている。碑には大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の次の歌が万葉仮名で刻まれている。
●こもりくの はつせの山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも (巻8-1591)
この場所になぜ大伴坂上郎女の歌を刻んだ碑があるのか分からない。あるいは、この地から東の方にある初瀬谷を見やったときの景観が、この歌の情景に合っているためだろうか。左手を見ると、万葉歌碑とは対照的に、「小墾田宮伝承之地」と書かれた堂々たる碑が建っている。昭和57年(1982)4月に建てられた、梅原猛氏揮毫の碑である。
豊浦寺跡とされている現在の向原寺の北の田園の中に、ポツンと取り残された古宮土塁がある。この土壇付近が昭和45年(1970)と昭和48年(1973)に発掘調査され、掘立柱建物跡や池、石敷きなどが発見された。そのため、通説では小墾田宮跡とされてきた。だが、梅原氏はこの小墾田=豊浦説に疑問を持たれた。
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| 古宮土壇発掘調査当時の写真 |
現地を訪ねてみれば一目瞭然だが、現在の向原寺と古宮土塁は目と鼻の先の距離にある。古宮土塁の地に新しい宮を建ててそこへ引っ越しただけならば、『日本書紀』は「豊浦に、さらに宮地を定む」と記すはずだが、そう記述していない。梅原猛氏は、ユニークな推論で、小墾田=豊浦説とされてきた根拠を否定された。その論旨は、氏の著作『聖徳太子U 憲法十七条』に詳しいので、ここでは省略する。
梅原氏は、真の意味の聖徳太子の政治が始まるのは推古11年(603)で、それ以前は政治の主導権は蘇我馬子にあり、太子にとっては政治の見習い期間にすぎなかった、と見なされる。たしかに、『日本書紀』の記述を信用すれば、推古11年12月に冠位十二階が制定され、翌年の正月にはこの官位が実施されている。その年の四月には憲法十七条が制定され、新しい日本の政治がはじまったとも言える。
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| 梅原氏の著作『聖徳太子U 憲法十七条』 |
梅原氏は、こうした画期的とも言える太子政治が始まる前提として、推古11年10月の”小墾田宮遷都”に着目される。「新しい酒は新しい革袋にもるべし」の喩えもある。梅原氏は、この遷都を主導したのは聖徳太子であるとされる。太子が目指したのは、仏教に基づく理想主義的な政治である。太子の立場にたって新しい政治の舞台として何処がよいのか考えた場合、仏教の聖地が舞台として選ばれるべきである。そこはどこか?
仏教の聖地は、蘇我稲目(そんがのいなめ)が欽明天皇から仏像を譲り受けて最初に安置した小墾田の家があった地こそふさわしい。では、小墾田の家はどこにあったのか。そう思索しているとき、氏は石井氏の論文を紹介された。大福の地が飛鳥時代の小墾田だったら、いろんな出来事に納得がいく説明がつくとされる。
例えば、欽明天皇の寵臣だった蘇我稲目は、欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)の近くに自分の家を持ったはずである。大福の地は金刺宮の西2kmに位置し、金刺宮に出仕するのに都合の良い距離である。豊浦にあったとすれば、金刺宮まで、直線距離でも北東へ5km、途中に山があるので迂回すれば8kmほどになり遠すぎる。
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| 三十八柱神社の本殿 |
さらに言えば、推古朝以前の大和盆地の主な交通には川船が利用された。河川交通の利便性を考慮した場合も、大福は適地だったとされる。推古16年(608)に小野妹子が連れてきた裴世清の一行は大和川を遡り、海柘榴市(つばいち)で上陸している。推古18年(610)に来朝した新羅と任那の使者は寺川をさかのぼり阿斗(あと)(現在の田原元町阪手)で上陸している。海柘榴市は大福の東方2km、阿斗は北西約5kmである。飛鳥では、この倍ほどの距離になる。
この地への遷都は、推古天皇も賛成したと思われる。夫・敏達天皇が宮居として訳語田幸玉宮(をさたのさきたまのみや)は東へ500mの地にある。父・欽明天皇の宮も磯城嶋金刺宮は東へ2kmにすぎない。蘇我馬子にとっても、父・稲目の居宅があった土地である。聖徳太子にとっても、父・用明天皇の宮だった磐余池辺雙槻宮(いわれいけべのなみつきのみや)に近い。
こうして、三者の考えが合致し、小墾田と当時呼ばれていた大福の地への遷都がなされた、と梅原氏は推論された。だが、現時点では小墾田=大福説は仮説にすぎない。仮説が証明されるためには、発掘調査の結果を待たなければならない。
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