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奈良県の広陵町三吉(みつよし)には、昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定された巣山古墳がある。奈良盆地西部の馬見(うまみ)古墳群では最大の前方後円墳で、全長が220m、4世紀末から5世紀初めころに築造された。古墳のある一帯は古代豪族の葛城氏の本拠地とされ、大和政権の大王に匹敵する実力をもった葛城氏の族長が眠る墓と推定されている。 その巣山古墳に関して、広陵町教育委員会は去る1月19日、前方部の裾部で長さ100m、幅約3mにわたって葺石がびっしりと敷き詰められているのが見つかったと発表した。その現場説明会を本日の午前11時から行うという。周濠の護岸整備に伴う調査で発見されたというから、普段は多分水中に没していたのだろう。 どうやら近畿地方は現説の時期を迎えたようだ。これからは週末にはどこかで発掘調査の現地説明会が毎週開かれるにちがいない。昨日は羽曳野市の塚穴古墳の見学に出かけたばかりだが、本日は久しぶりに馬見丘陵を訪れることにした。巣山古墳は3年前にも夏の暑い盛りに訪れたことがある(巣山古墳を参照)。 |
東と西で大きく異なる葺石の様相
葺石に用いられている石の大きさは3種類あるようだ。長径30〜40cmの石は、後に述べる基底石や外護石に用いられ、それより一回り小さい長径20前後の石は縦目地と横目地に、そしてこれらの目地で区切られた区画にはこぶし大の石が用いられている。いずれも近くの二上山から採取した安山岩だそうだ。 説明員の話だと、この古墳が築かれている大地は水平ではなく、墳丘の西から東にむかって少し傾斜している。そのため、前方部の基底部が、墳丘の中心軸を基準にした場合、東の端は25m低く、西の端は逆に70cm高い。つまり、前方部の前面は東端と西端で約1mの比高差がある。 さらに面白いことに、葺石の様相が中心軸の東と西で大きく異なっていることも判明した。東側では人頭大の石を基底石として横方向にならべ、さらにその下部に基底石が崩れるのを防ぐための外護列石が平行して置かれている。ところが、中心軸から西側は、外護列石は取り払われ、代わりに根石が置かれている。根石の幅は西へ行くほど大きい。 この違いについて、説明員は前方部の葺石工事を施工した後に計画変更が生じた可能性を指摘した。墳丘の基底部は、上記のように東と西で約1mの比高差があるが、当初は地形に合わせて前方部の葺石を敷き詰めた。ところが、途中で計画変更の必要が生じ、前方部の主軸付近から西側の周濠の底を再度掘りこんで根石を置いたというのである。 変更の理由として、前方部の前面に第一段の葺石工事を行った後に、前方部西側の周濠の中に出島を付設することになった可能性が想定されている。そのため、墳丘西側から前方部の中軸付近までの周濠の底を掘り下げた結果、基底石列の下側に根石を施すことになったとの推測である。 |
葺石の作業工程を示す列石と目地
その後、基底石列の上側に葺石を施すための作業単位である縦目地を築く。縦目地は長径20cm前後の石を縦に積み上げたものだ。縦目地相互間の間隔は場所によって異なるが、全部で54条の目地が築かれていたという。 こうして区切られた縦目地の間にこぶし大の石を敷き詰めていく。葺石面の中位に達すると、黒色の粘質の土を埋め込み、その上にこぶし大の石を横に並べて横目地を作る。基底石列から横目地までの石幅は、東端では約170cm、主軸付近では約130cmと狭くなり、西橋では基底石列に接していたという。 横目地が築かれると、また同じように縦目地つくり、それぞれの区画に石を敷き詰めていく。こうした作業を繰り返すことで、墳丘全体を石で覆うことができる。 先日、群馬県の保渡田(ほとだ)古墳群の中にある八幡塚古墳が、全体を葺石を敷いて復元されているのを見た。まるで幾何学的な建築物を見せつけられた思いで唖然としたが、いずれの古墳も築造当初はこのような姿を呈したのだろう(平成18年1月13日付け橿原日記参照)。だが、考えてみれば、馬見古墳群の中にも三吉石塚古墳やナガレ山古墳のように、復元されている古墳が身近にある。 発掘現場の上の方に、石垣が積み上げられていた。調査の過程で出土した石を仮に積んでおいているだけだという。墳丘から崩落して周濠に埋まっていた葺石である。おそらく巣山古墳も全体がこうした葺石で覆われた墓だったはずである。4世紀末から5世紀初めころに築造された本来の姿に復元されるのは、何時のことだろうか。
付記: 周濠から木棺が出土した?帰りのバスを待っているとき、地元の老人から奇妙な話を聞いた。今回の調査では、葺石だけでなく、実は”モッカン”も見つかったという。てっきり「木簡」のことだと思ったが、木簡が出土するような場所ではない。確認すると、「木棺」であるという。しかも、二つに折れた状態で見つかった木の棺だと補足した。 周濠に棺とは妙である。盗掘されたとき捨てられた棺なのだろうか。古墳時代が始まる3世紀後半から4世紀前半は、遺体は割竹形木棺や組合せ式木棺に納めて竪穴式石室に埋めたとされている。だが、4世紀後半ごろには割竹形石棺や舟形石棺が出現してくる。巣山古墳が築かれた4世紀末から5世紀初めの頃にも、木棺が用いられていたのだろうか。あるいは、後世に何かの理由で周濠に投げ込まれた木棺かもしれない。 いずれにしろ、現在は専門機関で木棺の年代を調査中であり、調査が終われば2月にも一般公開されることになるかもしれない、とのことだ。ただ、木棺出土の話は、地元の一部の人間にしか知らされていないようだ。 |
追記:死者を古墳に運んだと思われる木棺と船形木製品が出土平成18年(2006)2月23日、広陵町教育委員会は、巣山古墳の周濠から長持形の木棺の蓋や、舟形木製品、木偶(木の人形)などの木片約50点が見つかったことを明らかにした。先日地元の老人から聞いた話は本当だった。
町教委は、これらの遺物は木棺を舟に載せ、遺体を殯(もがり)の場から古墳まで運ぶのに使った葬具と推測している。しかし、これらの遺物はすべて人の手によって破壊された形跡がある。木製品を調査した町文化財保存センター所長の河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「殯の後、遺体を納めた木棺を舟に載せて古墳まで運び、遺体を古墳の石棺に移した後、葬具一式を破壊し、周濠(しゅうごう)に捨てたのだろう」と話されている。 木棺の蓋はクスノキ製で、木片をつなぎ合わせて長さ約2.1m、幅78m分が復元できた。原型は長さ約4m、幅約1mで、両側に計4個の縄掛け突起があったようだ。。舟形木製品は杉製で、湾曲している。長さ約3.7m、幅約45cm分が残っていた。元の形は長さ約8.2mで、両端が反り上がった舟の側板だったとみられる。
船は遺体を運ぶための乗り物であった。では何故古代人は来世への旅たちに船を利用したのだろうか。同志社大学の辰巳和弘教授は次のように推測されている。
「高貴な人が死ぬと殯が行われる。しかし、遺体を埋葬する墓が築かれるまで殯がどれだけ長期にわたるか分からない。殯の期間中、遺体は完全に死んだわけではない、といって蘇るわけでもない。死者の霊魂はいわば中途半場な状態にある。棺に刻まれた文様は殯の場所で彼の霊魂を邪霊から守るためのものだったと考えられる」 木製品は人の手で完全に破壊されていた。葬送の儀礼に使用されたこれらの遺物は、すべて死者の所有物であり、埋葬後は二度と使われないために壊されたものと推測されている。3月4、5日の二日間、出土遺物は広陵町南郷の町役場敷地内町文化財保存センターで一般公開された。 (*)見学会資料より転記 |