橿原日記 平成18年1月22日

前方部斜面に100mの葺石を敷き詰めた巣山古墳(すやまこふん)


説明会に訪れた考古学ファン
説明会に訪れた考古学ファン (2006/01/22 撮影)


良県の広陵町三吉(みつよし)には、昭和27年(1952)に国の特別史跡に指定された巣山古墳がある。奈良盆地西部の馬見(うまみ)古墳群では最大の前方後円墳で、全長が220m、4世紀末から5世紀初めころに築造された。古墳のある一帯は古代豪族の葛城氏の本拠地とされ、大和政権の大王に匹敵する実力をもった葛城氏の族長が眠る墓と推定されている。

の巣山古墳に関して、広陵町教育委員会は去る1月19日、前方部の裾部で長さ100m、幅約3mにわたって葺石がびっしりと敷き詰められているのが見つかったと発表した。その現場説明会を本日の午前11時から行うという。周濠の護岸整備に伴う調査で発見されたというから、普段は多分水中に没していたのだろう。

うやら近畿地方は現説の時期を迎えたようだ。これからは週末にはどこかで発掘調査の現地説明会が毎週開かれるにちがいない。昨日は羽曳野市の塚穴古墳の見学に出かけたばかりだが、本日は久しぶりに馬見丘陵を訪れることにした。巣山古墳は3年前にも夏の暑い盛りに訪れたことがある(巣山古墳を参照)。



第6次調査で見つかった良好な葺石遺構

上空から見た巣山古墳
上空から見た巣山古墳
今回の第6次発掘調査現場
第6次発掘調査が行われた区域
日の曇天の空が嘘のように、今日は朝から晴れ渡った。上空を北風が吹き荒れているのであろう。スモッグが吹き飛ばされて、大和盆地を囲む山々が、まるで絵はがきを見るようにくっきりと紺碧の空の下に横たわっている。

場説明会に参加するために、近鉄大阪線「大和高田」駅からのバスを利用した。バスは駅前から国道165号線に出ると、高田川にぶつかるまで一路西に向かって走るので、フロントグラス一杯に二上山のあでやかな姿が眺められた。その後は、バスは高田川に沿って北上して終着駅の「竹取公園東」に向かう。およそ15分のバスの旅である。

までは、竹取公園のフェンス越しに巣山古墳を眺めてきた。だが、今回は公園の手前で、右に入る砂利道が築かれていた。枯れたカヤなどの雑草の間を進むと、説明会の受付があった。そこで、広陵町教育委員会が用意した資料を渡された。

に述べたように、巣山古墳は奈良盆地西部に出現した最大級の前方後円墳で、馬見古墳群の盟主的存在である。大王陵にも匹敵する巨大規模であるため、昭和27年(1952)3月にその墳丘と周濠が国の特別史跡に指定された。

墳の周濠は古くから農業用ため池として利用されてきた。そのため、墳丘や外堤の裾が大きく削られ元の形が失われてしまっている。そこで、広陵町は平成12年(2000)度から環境整備と発掘調査を継続して実施してきた。

1次調査でまず実施したのは、墳丘の規模の確認だった。その結果、墳丘の全長は220m、後円部の径約130m、高さ約19m、前方部先端の幅約112m、高さ約16.5mであることがあきらかになった。

れ以後、毎年行われる発掘調査でさまざまな発見があり、考古学ファンを喜ばせてきた。例えば、平成14年(2002)3月には、これまで例のない装飾性豊かな靫(ゆぎ=矢を入れる筒)を模したとみられる形の木製品が出土し、平成15年(2003)10月には前方部西側から周濠に張り出した出島の遺構が見つり、そこから34点を超える形象埴輪が出土した。

して、今回の第6次調査では、護岸工事に先立って前方部の前面に幅約5m、長さ約100mの調査区を設けて発掘したところ、良好な葺石面が検出した。



東と西で大きく異なる葺石の様相

葺石の西端部
前方部前面の西端部。根石が多い
葺石の中央部分
墳丘の中軸付近<の葺石/font>
葺石の東端方向
前方部前面の東端方向
石(ふきいし)とは、墳丘の斜面を装飾、あるいは保護する目的で貼り付けられた石のことである。第6次調査によって、前方部の裾の部分に長さ100m、幅約3mにわたって葺石が敷き詰められているのが発見された。葺石がこれだけまとまって発掘された例は珍しいとのことだ。

石に用いられている石の大きさは3種類あるようだ。長径30〜40cmの石は、後に述べる基底石外護石に用いられ、それより一回り小さい長径20前後の石は縦目地横目地に、そしてこれらの目地で区切られた区画にはこぶし大の石が用いられている。いずれも近くの二上山から採取した安山岩だそうだ。

明員の話だと、この古墳が築かれている大地は水平ではなく、墳丘の西から東にむかって少し傾斜している。そのため、前方部の基底部が、墳丘の中心軸を基準にした場合、東の端は25m低く、西の端は逆に70cm高い。つまり、前方部の前面は東端と西端で約1mの比高差がある。

らに面白いことに、葺石の様相が中心軸の東と西で大きく異なっていることも判明した。東側では人頭大の石を基底石として横方向にならべ、さらにその下部に基底石が崩れるのを防ぐための外護列石が平行して置かれている。ところが、中心軸から西側は、外護列石は取り払われ、代わりに根石が置かれている。根石の幅は西へ行くほど大きい。

の違いについて、説明員は前方部の葺石工事を施工した後に計画変更が生じた可能性を指摘した。墳丘の基底部は、上記のように東と西で約1mの比高差があるが、当初は地形に合わせて前方部の葺石を敷き詰めた。ところが、途中で計画変更の必要が生じ、前方部の主軸付近から西側の周濠の底を再度掘りこんで根石を置いたというのである。

更の理由として、前方部の前面に第一段の葺石工事を行った後に、前方部西側の周濠の中に出島を付設することになった可能性が想定されている。そのため、墳丘西側から前方部の中軸付近までの周濠の底を掘り下げた結果、基底石列の下側に根石を施すことになったとの推測である。



葺石の作業工程を示す列石と目地

基底石列を支える外護列席
基底石列を支える外護列席
縦目地
縦目地の石の並び
横目地
横目地の石列
石工事には所定の手順があるようだ。広範囲に良好な状態で葺石が残っていたため、その手順が分かるという。まず墳丘の裾に人頭大の基底石を横に並べる。さらに基底石の列が崩れないように、その下部に外護列石の並びを作る。

の後、基底石列の上側に葺石を施すための作業単位である縦目地を築く。縦目地は長径20cm前後の石を縦に積み上げたものだ。縦目地相互間の間隔は場所によって異なるが、全部で54条の目地が築かれていたという。

うして区切られた縦目地の間にこぶし大の石を敷き詰めていく。葺石面の中位に達すると、黒色の粘質の土を埋め込み、その上にこぶし大の石を横に並べて横目地を作る。基底石列から横目地までの石幅は、東端では約170cm、主軸付近では約130cmと狭くなり、西橋では基底石列に接していたという。

目地が築かれると、また同じように縦目地つくり、それぞれの区画に石を敷き詰めていく。こうした作業を繰り返すことで、墳丘全体を石で覆うことができる。

日、群馬県の保渡田(ほとだ)古墳群の中にある八幡塚古墳が、全体を葺石を敷いて復元されているのを見た。まるで幾何学的な建築物を見せつけられた思いで唖然としたが、いずれの古墳も築造当初はこのような姿を呈したのだろう(平成18年1月13日付け橿原日記参照)。だが、考えてみれば、馬見古墳群の中にも三吉石塚古墳ナガレ山古墳のように、復元されている古墳が身近にある。

掘現場の上の方に、石垣が積み上げられていた。調査の過程で出土した石を仮に積んでおいているだけだという。墳丘から崩落して周濠に埋まっていた葺石である。おそらく巣山古墳も全体がこうした葺石で覆われた墓だったはずである。4世紀末から5世紀初めころに築造された本来の姿に復元されるのは、何時のことだろうか。

 付記: 周濠から木棺が出土した?

りのバスを待っているとき、地元の老人から奇妙な話を聞いた。今回の調査では、葺石だけでなく、実は”モッカン”も見つかったという。てっきり「木簡」のことだと思ったが、木簡が出土するような場所ではない。確認すると、「木棺」であるという。しかも、二つに折れた状態で見つかった木の棺だと補足した。

濠に棺とは妙である。盗掘されたとき捨てられた棺なのだろうか。古墳時代が始まる3世紀後半から4世紀前半は、遺体は割竹形木棺や組合せ式木棺に納めて竪穴式石室に埋めたとされている。だが、4世紀後半ごろには割竹形石棺や舟形石棺が出現してくる。巣山古墳が築かれた4世紀末から5世紀初めの頃にも、木棺が用いられていたのだろうか。あるいは、後世に何かの理由で周濠に投げ込まれた木棺かもしれない。

ずれにしろ、現在は専門機関で木棺の年代を調査中であり、調査が終われば2月にも一般公開されることになるかもしれない、とのことだ。ただ、木棺出土の話は、地元の一部の人間にしか知らされていないようだ。



追記:死者を古墳に運んだと思われる木棺と船形木製品が出土

成18年(2006)2月23日、広陵町教育委員会は、巣山古墳の周濠から長持形の木棺の蓋や、舟形木製品、木偶(木の人形)などの木片約50点が見つかったことを明らかにした。先日地元の老人から聞いた話は本当だった。

巣山古墳周濠から出土した舟形木製品
巣山古墳周濠から出土した舟形木製品
土地点は巣山古墳の周濠の北東隅。古墳の整備事業として行われている第5次発掘調査で、周濠のコーナーの底で、重なるように木片が埋まっているのが見つかったという。写真撮影のために水洗いしたら”ほぞ穴”などが開けられていた。だが、当時はまだ出土品の重要性は分からなかった。調査してみると棺の蓋に当たる部分に、鏡と思われる丸い円やリリーフ状の装飾が施されていた。船の形をした板にもかなりの装飾が施されていた。これらを船に組み立てた部材や木製の人形(人形)の一部も見つかっている。

教委は、これらの遺物は木棺を舟に載せ、遺体を殯(もがり)の場から古墳まで運ぶのに使った葬具と推測している。しかし、これらの遺物はすべて人の手によって破壊された形跡がある。木製品を調査した町文化財保存センター所長の河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「殯の後、遺体を納めた木棺を舟に載せて古墳まで運び、遺体を古墳の石棺に移した後、葬具一式を破壊し、周濠(しゅうごう)に捨てたのだろう」と話されている。

棺の蓋はクスノキ製で、木片をつなぎ合わせて長さ約2.1m、幅78m分が復元できた。原型は長さ約4m、幅約1mで、両側に計4個の縄掛け突起があったようだ。。舟形木製品は杉製で、湾曲している。長さ約3.7m、幅約45cm分が残っていた。元の形は長さ約8.2mで、両端が反り上がった舟の側板だったとみられる。

長持ち形木棺の破片
長持ち形木棺の破片
に棺を載せたイメージは、天理市の東殿山古墳から出土した円筒埴輪にも描かれている。『隋書』倭国伝にも「及葬、置屍船上、陸地牽之(葬るときは遺体を船の上に置き、陸地は之を曳く」と記されている。殯があけて古墳に遺体を埋葬する際に、棺を木製の船に載せ、修羅(しゅら)で陸地を曳いていったのは、おそらく当時の風習であろう。通常の古墳発掘では、埋葬後の様子しか分からない。今回はその前段階の様子が解明できる貴重な発見となった。

は遺体を運ぶための乗り物であった。では何故古代人は来世への旅たちに船を利用したのだろうか。同志社大学の辰巳和弘教授は次のように推測されている。
「来世は遠い所にあると想定され、はるかに遠い来世に無事にたどり着けるかどうか不安だった。無事にたどり着くには一番長い乗り物が必要だったが、当時はそれが船だった。そこで人々は霊魂を運ぶ乗り物、すなわちこの世と来世を結ぶ乗り物として船を考えたのだろう」

棺の蓋の文様のイメージと修羅で運んだ船のイメージ
棺の蓋の文様のイメージと修羅で運んだ船のイメージ(*)
製品にはさまざまな文様がリリーフで描かれている。その理由についても、辰巳教授は当時の死生観も垣間見ることができるとし、次のように話されている。
「高貴な人が死ぬと殯が行われる。しかし、遺体を埋葬する墓が築かれるまで殯がどれだけ長期にわたるか分からない。殯の期間中、遺体は完全に死んだわけではない、といって蘇るわけでもない。死者の霊魂はいわば中途半場な状態にある。棺に刻まれた文様は殯の場所で彼の霊魂を邪霊から守るためのものだったと考えられる」

製品は人の手で完全に破壊されていた。葬送の儀礼に使用されたこれらの遺物は、すべて死者の所有物であり、埋葬後は二度と使われないために壊されたものと推測されている。3月4、5日の二日間、出土遺物は広陵町南郷の町役場敷地内町文化財保存センターで一般公開された。

(*)見学会資料より転記



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