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気象庁の天気予報は最近よく当たる。本日だけは外れて欲しいと願って昨晩床に入った。その願いが通じたのか、朝の空は曇っていたが雪になりそうな気配はなかった。比較的風もなく時折薄日も射す穏やかな天気だったので、現地見学会に出かけた。 |
石舞台古墳の規模に匹敵あるいは超える塚穴古墳
この上面幅10mの外堤は東西方向に100m延び、南北の規模も同じだったと見られ、四角形に方墳を囲んでいたらしい。奈良県の明日香村にある蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳の墳丘は約50m四方で、その周りを一辺90mの外堤が囲んでいる。上記のように塚穴古墳の墳丘も約50m四方であるが、今回の発掘で外堤を含めた規模はなんと石舞台古墳よりも大きいことが判明した。 通説では、前方後円墳の築造は近畿地方では6世紀後半には終わり、7世紀初頭の前後からは大王や有力者の墓として大型の方墳や円墳が築かれるようになる。ちなみに、塚穴古墳の築造時期と前後する主な方墳/円墳の墳丘の規模を、次の表に示そう。表からも分かる通り、塚穴古墳は当時の大王や最有力者の墳墓に匹敵する規模を持つ。来目皇子の墓とされているのも、故なしとしない。
トレンチ部分の側壁を見ると、差し渡し30cm前後で厚さ15cm前後の幾分白っぽい土塊が盛土の中に含まれている。つまり、古い地表面の堅い部分を切り取り、小判状に整形して並べ、その間隙に土砂を埋めながら盛土しているとのことだ。 筆者には初めて知る土木工法だったが、大阪府の鉢伏山西峰古墳や奈良県の石のカラト古墳など7世紀墳丘にしばしば見られるという。 |
塚穴古墳の外堤発見は来目皇子墓説を補強
ところで、古墳の被葬者とされている来目皇子について述べた詳しい史料はない。『日本書紀』がわずかな経歴を伝えているばかりである。それによれば、来目皇子は聖徳太子の実弟であり、推古天皇10年(602)2月に、新羅を撃つ征新羅将軍に任じられ、2万5千の兵を授けられた。その年の4月に筑紫に至ったが、6月に病に伏し、翌年の推古天皇11年(603)2月に死んでしまう。その年、摂政の要職にあった聖徳太子は数え年の30歳だったから、まだ20代の若い皇族将軍だったことになる。 来目皇子の遺体は周防の娑婆(現在の山口県防府市付近)に移され、その地で殯宮が営まれた。そのために土師連猪手(はじのむらじいて)が派遣された。その後、皇子の亡骸は埴生山に埋葬されたと記されている。その埴生が、遺存地名から現在の羽曳野丘陵に比定され、明治8年に塚穴古墳が来目皇子の墓に比定された。 塚穴古墳がその後に築かれる石舞台古墳に匹敵するか、あるいはそれ以上の規模を有することは、従来の来目皇子の墓説を補強する有力な証拠となる。埋葬施設の実態が明らかでないため、断言はできないが、来目皇子も石舞台なみの墓を造営できる権限や財力を持っていた証となるだろう。このことは、大山誠一氏の聖徳太子虚像論に対する強烈な反証となるに違いない。皇族将軍として新羅遠征軍を指揮し、逝去して大臣蘇我馬子なみの墓を築ける実弟が存在したとなれば、聖徳太子が虚像であるはずがない。 |