橿原日記 平成18年1月21日

来目皇子の墓とされる塚穴古墳(つかあなこふん)の現地見学会に参加


 暦の上では、昨日は「大寒」の入りだった。この日から立春までは、一年で最も寒い時期が続く。昨日の時点で気象庁が予想した本日の近畿地方の天気は雪。平野部でもうっすらと雪化粧するかもしれないとのことだった。

あああ
塚穴古墳脇のマンションに咲いていたサザンカ
 困ったと思った。大阪府下の羽曳野市で聖徳太子の弟・来目皇子の墓とされる塚穴古墳で大規模な外堤が見つかった。その現地見学会が本日10時から行われる。聖徳太子の弟の墓となれば、何が何でも駆けつけねばならない。だが、雪では・・・

 気象庁の天気予報は最近よく当たる。本日だけは外れて欲しいと願って昨晩床に入った。その願いが通じたのか、朝の空は曇っていたが雪になりそうな気配はなかった。比較的風もなく時折薄日も射す穏やかな天気だったので、現地見学会に出かけた。



塚穴古墳の外堤(がいてい)が見つかった!!

塚穴古墳発掘調査現地見学会
塚穴古墳発掘調査現地見学会 (2006/01/21 撮影)


 羽曳野市にある塚穴古墳から大規模な外堤が発見されたと、新聞紙上で発表されたのは昨日の朝刊である。それなのに、本日はもう現地見学会を開催するという。朝の9時前にはアパートを出て、近鉄南大阪線の「古市」駅へ向かった。改札を出て、駅付近の案内図で塚穴古墳の所在を確かめていると、親切にも駅員が声をかけてくれた。
現地説明会案内地図
「塚穴古墳へ行かれるんでしょ。そうでしたら、この地図を参考にしてください」
 筆者の風体を見て判断したのか、まるで古墳見学に来た老人と決めてかかっているような口ぶりだ。そう言って、羽曳野市教育委員会が作成した案内地図を渡してくれた。さらに、こう付け加えた。
「ここからだと1.7キロあります。私の足でも30分はかかりますから、バスを利用されたほうがよいですよ。羽曳野病院前で降りればすぐです」
 駅員の親切なアドバイスには感謝したが、よほど遠方でもない限り、筆者は最寄りの駅から現地まで自分の足で歩いてみることにしている。古代の墓は、たいてい見晴らしの良い丘陵の先端を利用して築かれている。市街地を車で移動しても土地の高低はほとんどわからないが、歩くことで土地の傾きが実感できる。

現地見学会会場の標識あ
現地見学会会場の標識
 古市駅前から一直線に西に延びる通りを「白鳥通り」という。近くに築かれたヤマトタケルの白鳥陵に因んだ名である。大阪環状線を過ぎて「軽里一丁目」バス停付近までは道は平坦だ。だが、バス停の前に築かれた「峰ケ塚古墳」あたりから、道は登り傾斜に差しかかる。坂道を登り切って、「羽曳山住宅前」バス停がある交差点を左折すれば、すぐに現地見学会の会場だった。

 塚穴古墳は、羽曳野市はびきの3丁目に所在する大型の方墳である。見晴らしの良い羽曳野丘陵の上に築かれたこの古墳は、聖徳太子の実弟・来目皇子を7世紀の初めに埋葬した墓とされている。そのため、現在は来目皇子埴生崗上墓(くめのみこはにうおかのうえのはか)として宮内庁がが管理していて、発掘は到底望めない。

あああ
塚穴古墳の平面図と発掘調査箇所
 したがって、今回発掘調査が行われたのは、古墳そのものではない。古墳の南に隣接する宮内庁管轄外の民有地である。この場所に建築工事が予定されていたので、羽曳野市教育委員会が昨年12月から事前発掘調査を実施した。調査は古墳の南端から約14mはなれた3カ所に調査区を設定して行った。

 その結果、意外な事実が発見された。この塚穴古墳は1辺が約50m、高さが約10mの方墳で2段に築成されているらしいことが、すでに分かっている。また、北および東西の3面に幅約10mの堀割が廻してあることも知られていた。しかし、南側はそうした外周施設はなく、谷に向かって開いているものとばかり思われていた。ところがである。墳丘の南側にも大規模な盛土によって外堤が存在することが明らかになったのである。



石舞台古墳の規模に匹敵あるいは超える塚穴古墳

外堤の南面を見下ろす見学者たち
外堤の南面を見下ろす見学者たち
調査区1のトレンチ
調査区1のトレンチ
塚穴古墳のイメージ
塚穴古墳の全体イメージ
 現地見学会の資料によれば、調査区1で南側の外堤の南の縁と東南の隅が見つかった。外堤の北半分は調査区外であるが、それでも現在の地形を考慮すると、外堤の上幅は約10mはあったと推定できるという。また、高さは現状でも南面の堀底から2mあまりある。さらに、外堤の南側斜面は45度前後の傾斜で築かれており、墳丘の正面部分では途中に幅2mの平坦面を設けて上下二段になっていたと推測されている。

 この上面幅10mの外堤は東西方向に100m延び、南北の規模も同じだったと見られ、四角形に方墳を囲んでいたらしい。奈良県の明日香村にある蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳の墳丘は約50m四方で、その周りを一辺90mの外堤が囲んでいる。上記のように塚穴古墳の墳丘も約50m四方であるが、今回の発掘で外堤を含めた規模はなんと石舞台古墳よりも大きいことが判明した。

 通説では、前方後円墳の築造は近畿地方では6世紀後半には終わり、7世紀初頭の前後からは大王や有力者の墓として大型の方墳や円墳が築かれるようになる。ちなみに、塚穴古墳の築造時期と前後する主な方墳/円墳の墳丘の規模を、次の表に示そう。表からも分かる通り、塚穴古墳は当時の大王や最有力者の墳墓に匹敵する規模を持つ。来目皇子の墓とされているのも、故なしとしない。

古墳の名称墳形辺長or直径高さ
用明陵古墳方墳65m10m
推古陵古墳方墳60m11m
聖徳太子墓円墳54m7m
越前塚古墳(*)長方墳75m8m
牧野古墳円墳48m13m
赤坂天王寺山古墳方墳46m9m
石舞台古墳方墳50m約10m
岩屋山古墳方墳45m12m
塚穴古墳方墳50m約10m
(*) 越前塚(こしまえづか)古墳。葉室古墳ともいう。河内郡太子町葉室の葉室古墳公園に所在する。規模が大きいため敏達天皇陵に比定する説もある。


盛土の間に置かれた土塊
盛土の間に置かれた土塊
 説明員の話によると、古墳築造時は南の谷から枝わかれした東西幅約40m、深さ3m以上の支谷が墳丘の東半部に向かって延びていたそうだ。したがって、外堤を築くのに、この支谷の埋め立てを兼ねた盛土が行われた。ところが、その盛土の形状が面白い。厚さ10cm前後の単位で盛土作業が繰り返されているが、版築のように土を十分つき固めたような形跡が見られない。土質の異なる土を使い分けてサンドイッチ状に積み重ねているのだ。

 トレンチ部分の側壁を見ると、差し渡し30cm前後で厚さ15cm前後の幾分白っぽい土塊が盛土の中に含まれている。つまり、古い地表面の堅い部分を切り取り、小判状に整形して並べ、その間隙に土砂を埋めながら盛土しているとのことだ。

 筆者には初めて知る土木工法だったが、大阪府の鉢伏山西峰古墳や奈良県の石のカラト古墳など7世紀墳丘にしばしば見られるという。



塚穴古墳の外堤発見は来目皇子墓説を補強

発掘現場の後にそびえる塚穴古墳
発掘現場の後にそびえる塚穴古墳
塚穴古墳の遙拝所
塚穴古墳の遙拝所
 発掘現場の北側には、鬱蒼と木立が生い茂った塚穴古墳(=来目皇子埴生崗上墓)が聳えている。説明員の話で面白かったのは、塚穴古墳も風水思想や天子南面という外来思想に基づいて築造されているというのだ。つまり、見晴らしのよい丘陵の上に位置し、三方を外堤で丘のように囲み、南に谷が開ける地形は、風水に適うとされている。この古墳も南の谷から大規模な外堤の奥にそびえる墳丘を仰ぎ見ることを意識して造られているという。

 ところで、古墳の被葬者とされている来目皇子について述べた詳しい史料はない。『日本書紀』がわずかな経歴を伝えているばかりである。それによれば、来目皇子は聖徳太子の実弟であり、推古天皇10年(602)2月に、新羅を撃つ征新羅将軍に任じられ、2万5千の兵を授けられた。その年の4月に筑紫に至ったが、6月に病に伏し、翌年の推古天皇11年(603)2月に死んでしまう。その年、摂政の要職にあった聖徳太子は数え年の30歳だったから、まだ20代の若い皇族将軍だったことになる。

 来目皇子の遺体は周防の娑婆(現在の山口県防府市付近)に移され、その地で殯宮が営まれた。そのために土師連猪手(はじのむらじいて)が派遣された。その後、皇子の亡骸は埴生山に埋葬されたと記されている。その埴生が、遺存地名から現在の羽曳野丘陵に比定され、明治8年に塚穴古墳が来目皇子の墓に比定された。

 塚穴古墳がその後に築かれる石舞台古墳に匹敵するか、あるいはそれ以上の規模を有することは、従来の来目皇子の墓説を補強する有力な証拠となる。埋葬施設の実態が明らかでないため、断言はできないが、来目皇子も石舞台なみの墓を造営できる権限や財力を持っていた証となるだろう。このことは、大山誠一氏の聖徳太子虚像論に対する強烈な反証となるに違いない。皇族将軍として新羅遠征軍を指揮し、逝去して大臣蘇我馬子なみの墓を築ける実弟が存在したとなれば、聖徳太子が虚像であるはずがない。




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