橿原日記 平成18年1月18日

線刻壁画が冥界への旅(?)を語る高井田横穴群

高井田古墳群のある丘
大和川越しに望む高井田古墳群のある丘 (2006/01/18 撮影)

数多く点在する横穴墓の墓域を整備した史跡高井田横穴公園

史跡公園付近の略図
史跡公園付近の略図
瀬峡谷を通り抜けてようやく河内平野へ流れ出た大和川は、石川と合流する手前で大きく北へ蛇行する。その蛇行地点に近い北岸は、生駒山系の南端にあたる。鬱蒼と樹木が生い茂った丘陵が河岸近くまで張り出してきている。樹木を育てている土の表層を一枚まくれば、その下には凝灰岩(ぎょうかいがん)が横たわっている。今から1000万年以上も前に、二上山の噴火で降り注いだ火山灰が固まってできた岩盤だ。

灰岩は柔らかい。掘るのが簡単で、加工もしやすい。そうした性質を利用して、この地域に盤踞した古代氏族は、丘陵の斜面に多くの横穴を穿ち集団墓地を築いた。6世紀の中頃から7世紀の初めころのことで、ちょうど聖徳太子が生きた時代にあたる。現在までに確認されている横穴墓の数は162基、実際には200基以上はあると推測されているという。

高井田横穴群」と呼ばれているこれらの古墳群は、その一部がすでに大正11年(1922)3月に国の史跡に指定されいた。周辺に宅地開発の波が押し寄せた平成2年(1992)3月には、約3万5000平米の面積を国史跡として保存するため追加指定された。大阪府の柏原市はその全域を2年がかりで整備して、1992年に「史跡高井田横穴公園」としてオープンした。

JR大和路線「高井田」駅
JR大和路線「高井田」駅
史跡高井田横穴公園の入口
史跡高井田横穴公園の入口
の史跡公園を訪れるにはJR大和路線(関西本線)が便利である。「高井田」駅で下車して、北へ2分も歩けば公園の入口に着く。

者が住む埼玉県にも、高井田横穴群と同じ頃築かれた、吉見百穴という名で全国的に知られている史跡観光地がある。数年前に訪れた時の最初の印象は、まるで幼稚園の児童がクレヨンで描いた高層マンションの絵を見るようだった。灰色の壁に黒い四角の窓が整然と並んでいた。高井田横穴群についても、同じようなイメージを描いていたが、実際は違っていた。ここでは、凝灰岩に穿(うが)かれた横穴墓は、3万5000平米という広大な公園の中に点在している。

井田横穴群は、地形によって大きく4つのグループに分けられ、それぞれを第1支群〜第4支群と呼んでいる。このうち、第2支群から第4支群が国史跡に指定され、史跡公園として整備されている。この史跡を有名にしているのは、横穴墓が密集していることもさることながら、線刻壁画が描かれた古墳が27基も存在することだ。

画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまである。何を描いたのか理解できない線刻も多数あるという。27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳だろう。玄室(げんしつ)から入口を見た場合の蒼ケ(せんどう)の右側にあたる壁に、よく知られた複数の人物が描かれている。

真で見ただけの印象では、それらの人物像は、なぜか先日訪れた群馬県の古墳(平成18年1月13日付け「橿原日記」参照)に復元されて配列されていた人物埴輪に似ていた。そのことを確かめたくて、本日、JRのローカル線を乗り継いで高井田横穴公園まで出向いてきた。

見百穴と違って、史跡公園内の横穴はいずれも内部が一般公開されていない()。お目当ての横穴ばかりかすべての横穴の入口にフェンスが築かれ施錠されていて、見学者の立ち入りを禁止している。心ない見学者によって壁画に落書きされるのを未然に防ぐための措置だろう。そのことを知らなかった。そのため当初の目的は果たせなかったが、平日の昼下がりは訪れる見学者の姿はほとんどなく、おかげで史跡公園の中の散策を堪能することとなった。


() 後で知ったのだが、お目当ての横穴を含めていくつかの横穴が一般公開される日がある。5月と10月の第3土曜日の2日間だけだが、午前10時から午後3時まで見学できるとのことだ。



装飾古墳に描かれた壁画が語るもの

第3支群24号墳
公園入口に築かれた第3支群24号墳
施錠された横穴墓
施錠された横穴墓
史跡 高井田横穴公園」と書かれた看板が道路脇の公園入口に建っていて、その先に緩やかな勾配の遊歩道が続いている。驚いたことに、公園に一歩足を踏み入れた途端、右手に横穴が3つ並んでいた。第3支群の22号墳〜24号墳だ。フェンス越しに中を覗いて見たが、暗くて内部は何も見えなかった。こうした横穴の光景は、これから散策路に沿ってあちこちで見ることになる。

盤に洞窟を掘って墓にした横穴墓は、5世紀頃に北部九州で始まったとされている。それが瀬戸内海を経て、6世紀頃には近畿地方でも築造されるようになった。あるいは朝鮮半島からの渡来氏族がもたらした墓制かもしれない。だが、あちこちで築かれた訳ではない。大阪府では、高井田横穴群の他に安福寺横穴群が知られているだけだ。安福寺横穴群は大和川を挟んで対岸の丘陵地帯に所在する。いずれも柏原市の市域に含まれる墓制である。

っかく史跡探訪に来ても、お目当ての線刻壁画がお目にかかれないのは残念である。仕方がないので、開園10周年を記念して催された企画展の図録を「柏原市立歴史資料館」で入手して、線刻壁画の予備知識を得ることにした。

録の表紙は、第3支群5号横穴の羨道右壁に描かれた線刻画の写真で飾っている。この右壁には数体の人物が描かれているが、そのうち特に注目されているのは、次の3体だ。

第3支群5号横穴羨道右壁
図録の表紙に掲載された線刻壁画(*)
線刻壁画の線描
上の線刻壁画の線描(*)
番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれている。この人物は、左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っている。船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようだ。

の左には「正装の人物」が描かれている。船に乗る男と同じ服装をしているが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしている。その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいている。船に乗る男を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っている。

の線刻壁画に対して、さまざまな解説がなされている。たとえば、神武東征の場合のように、舟でやってきた人物を歓喜して迎える様子を描いているとする説、逆に、被葬者が任那遠征など朝鮮半島での戦争に関わった人物が出陣していく様子を描いているとする説、あるいは他界へ旅立つ男性の霊魂を天空に導いていく「太陽の舟」を描いたとする説などがある。

の解釈が妥当かを判断する能力は、筆者にはない。だが、石室などの埋葬施設に彩色壁画や線刻壁画が描かれた装飾古墳に対して、単純な疑問を抱いている。およそ絵画というものは、それを見る人間を意識で描かれるものであろう。しかし、遺体を埋葬し入口を閉じれば、石室の中は漆黒の闇である。その闇の中で、周囲の壁に描かれた絵画を見ることができる者がいるとすれば、それは黄泉の世界で生き返った死霊以外にない。

だ仏教が伝来して間がない当時の人々の死生観からすれば、死霊がこの世に迷い出て子孫たちに悪さをされては困るのだ。死霊は永遠に墓の中に留まっていて欲しい。そのためには、生前の重要な出来事の思い出に浸り、それだけで満足して貰いたかったに違いない。たとえば、秦の始皇帝陵には壮大な地下宮殿が築かれていた。建物だけではない、当時の宮殿に奉仕した官人や軍隊まで地下に再現されていた。死後も現世の延長であるとの死生観から、始皇帝自身が死後の世界でも帝王として君臨したかったのだろう。だが、稀代の暴君の霊を地下に閉じこめておきたいとする願いも、関係者にはあったのではないだろうか。
舟に乗る人物 正装の人物 袖を振る女性
舟に乗る人物(*) 正装の人物(*) 袖を振る女性(*)

鳥の高松塚古墳の被葬者は、石室よりさらに狭い石榔の中に埋葬されていた。凝灰岩の切石で築かれた石榔の内法は長さ2.055m、幅1.035m、高さ1.134mにすぎない。キトラ古墳の石榔の内法も長さ2.6m、幅1m、高さ1.3m であり、ほとんど変わらない。その狭い石榔の内壁や天井に漆喰を塗り、人物像や天体、四神像などが描かれている。被葬者の死霊はさぞ窮屈な思いをして、これらの華麗な絵画を見てきたであろう。

西南北の壁に描かれた四神像や十二支神像は、邪悪なものから死後の世界を守るという遺族たちの願いが、おそらく込められているのだろう。しかし、高松塚古墳に描かれた人物の群れは、あるいは被葬者にとって楽しかった思い出のシーンの一部を表しているのかもしれない。

録に収められた第3支群5号横穴の線刻画を見て筆者が思い描いた光景は、親しい友人や愛しい妻に別れを告げて、これから大和川を船で下って朝鮮半島の新羅との戦いに出向く戦士の姿だった。『日本書紀』によれば、推古天皇10年(602)2月1日、聖徳太子の実弟である来目皇子(くめのみこ)が、新羅攻略の将軍に任命され、軍兵1万5千を授けられた。その時、全国の多くの氏族に対して、兵士を速やかに筑紫に参集させるよう号令が下されたであろう。この付近に居住していた渡来氏族・船氏からも多くの氏人が出兵していったはずである。第5号墳の被葬者は、あるいはそうした出兵兵士の一人ではなかったか。


(*) 「史跡高井田横穴公園 開園10周年記念企画展」から転写



柏原市の歴史を物語る資料を展示した市立歴史資料館

>柏原市立歴史資料館
柏原市立歴史資料館
松岳山古墳出土の埴輪
松岳山古墳出土の埴輪
跡公園の中を、緩やかなスロープの遊歩道が弧を描きながら続いている。平日の午前中、公園を訪れる人影はない。薄い雲を通して落ちてくる冬の日差しが、風がないせいで幾分暖かみを感じさせる。ゆっくりした歩調でスロープを上っていくと、次から次へと横穴が遊歩道の脇に現れてくる。古代と現代の時間が交錯する、まことに豊饒な至福の時である。

原市内で庭石として使われていた大県廃寺(おおあがたはいじ、大里寺)の礎石を集めた野外展示広場を過ぎると、右手の下り斜面が竹林に変わる。眼下の竹の間から休憩所のあずま屋が建つ広場が見える。さらに進むと、分譲住宅地へ続く上り階段があった。その階段の脇に、公園に隣接して「市立歴史資料館」が建っている。

原市立歴史資料館の常設展示室は、この地域の古墳や古代寺院などの遺跡から発掘された考古資料と、寄贈された民族資料を展示している。展示室の入口には、大和川左岸の丘陵に築かれた松岳山(まつおかやま)古墳(4世紀後半に築造された前期前方後円墳、墳長130m)から出土した鰭(ひれ)付楕円形埴輪が2基置かれていた。

の資料館の古代展示品は高井田横穴群に特化したものではない。柏原市内の主な古墳からの出土品が並べられている。見回したところ、高井田横穴群から出土したものは意外とすくない。盗掘が激しかったせいで、見つかった副葬品は種類においても量においても、あまり顕著ではないとことだ。そんな中にあって、公園の中にある高井田山古墳から出土した青銅製の火熨斗(ひのし)と神人龍虎画像鏡が目についた。



5世紀の終わり頃築造された円墳の高井田山古墳

>高井田山古墳
高井田山古墳
透明な屋根が架けられた石室
透明な屋根が架けられた石室
出土した火熨斗と鏡
出土した火熨斗(ひのし)と鏡
立歴史資料館の玄関脇にある螺旋階段を下りて、再び公園の遊歩道に戻った。高井田山古墳へ続く「歴史の道」と名付けられた遊歩道である。しばらく散策を楽しんでいると、道はやがて小高い丘に向かっていく。木立の間から、いかにも円墳らしい古墳が見えてきた。

井田山古墳は、整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかった古墳で、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳である。埋葬の主体部は内部に薄い板石を積み上げた初期横穴式石室だった。近畿地方では最も古い横穴式石室とのことだ。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)があった。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品である。その他に、純金製やガラス玉製の耳飾り、剣、槍、矛などの武器類や甲冑(かっちゅう)、および神人龍虎画像鏡と呼ばれる銅鏡などが出土した。

井田山古墳は、石室の内部が上から俯瞰できるように、透明の屋根がかけてある。中を見下ろすと、副葬品のレプリカが石室内に配置されていて、出土時の様子を再現している。出土した副葬品から判断して、被葬者は朝鮮半島からの渡来した氏族の族長と推定されている。



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