特別史跡・百済寺跡
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| 百済寺跡遺構配置と百済王神社 |
百済寺跡は、天野川を見下ろす標高30mの台地の上に位置している。今でこそ、周囲に住宅やビルが建ち並び、見通しはそれほど効かないが、創建当時は眼下の天野川はもちろん、遙か彼方の淀川の先まで見通せた景勝地だったに違いない。その台地に、160メートル四方の広大な寺域を占める寺院が建立された。百済が滅亡した時の最期の国王・義慈王(ぎじおう)の直系で、日本に亡命して百済王氏という姓を賜った渡来系氏族の氏寺とされている。
建立したのは、義慈王から数えて4代目の百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)と伝えられている。しかし、これほどの寺院が一朝一夕に建立されたとも思えない。一般には、奈良時代中頃から建てはじめ、七堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられている。
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| 東塔跡 | 金堂跡 |
百済寺は、平安時代後期に焼失し、鎌倉時代に一度復興したが、再び焼失した。その後は、莫大な費用を要する再建は、政治的、経済的に不可能だったらしく廃寺となったが、礎石だけはそのまま残っていた。そこで、昭和7年(1932)の7月から11月にかけて礎石の位置を調査して、伽藍の平面的な位置の確認が行われた。非常に良好な状態で伽藍跡が残っていたため、昭和16年(1941)1月に国の史跡に指定された。さらに昭和27年(1952)3月には国の特別史跡に昇格した。
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| 講堂跡 | 食堂跡 |
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| 東回廊跡 |
昭和40年(1965)から40年を経て、三度目の発掘調査が昨年11月に着手された。過去に二度調査された史跡が、また発掘調査されるのは珍しい。その理由に興味がわいた。講演された上原真人教授によると、日韓交流のシンボルとして百済寺跡を再整備することになったが、過去の発掘成果に不明な点がいくつか判明した、そのため今一度発掘調査を行なって確認することになったとのことだ。
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| 百済王神社の正面 |
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| 百済王神社の拝殿 |
天平21年(749)、陸奥守だった百済王敬福は、任地の陸奥国(今の茨城県)から産出した黄金900両を大仏の鍍金のために献上し、聖武天皇をいたく喜ばせた。聖武天皇は、敬福の位階を渡来氏族としては最高の従三位に進ませ、河内守に任じた。これを機に、難波に居住していた百済王氏の一族が河内国交野郡中宮(なかみや)、すなわち現在の地に移住してきた。
おそらく淀川に近いため水利がよく、台地なので水害の心配もなく、さらに当時の都・平城京へ交通の便も良かったため、一族は中宮を本拠としたのだろう。そして、一族の先祖を祀ったのが、百済王祀廟と百済寺だったのだろう。
百済寺は鎌倉時代に焼失し廃寺となった。しかし、百済王神社は百済王氏の没落にもかかわらず中宮一円の氏神として地域住民の崇敬を集めて、現在まで存続してきた。現在の本殿は、江戸時代の文政10年(1828)、奈良春日神社の作り替えのとき、旧社の一棟を譲り受けて移設してきたものである。石の鳥居や、石灯籠、狛犬なども江戸時代中期以降のものだとされている。
百済王氏のルーツをたどる百済王敬福のルーツをたどると、西暦660年に新羅・唐連合軍によって滅亡させられた百済の第31代・義慈王(ぎじおう)に行き着く。唐は義慈王とその妻子を捕虜にして長安に送った。しかし、その年の10月、百済王族の佐平・鬼室福信(きしつふくしん)が、唐の捕虜百余人を倭国に献上して援軍を請い、あわせて百済の王子・豊璋(ほうしょう)の帰還を要請してきた。百済復興の支援を決意した倭国は、翌661年9月、豊璋に織冠を授け、5千の兵をつけて百済に帰還させた。
復興軍は周留城(漢山)を拠点としていたが、豊璋と福信の間に確執が生じ、663年6月には豊璋が福信を殺害してしまう。この機に復興軍を壊滅させようと、唐と新羅の連合軍は水陸から周留城に迫った。周留城の救援に向かった倭の水軍は、劉仁軌(りゅうじんき)の率いる唐の水軍と錦江の河口(白村江)で遭遇し、戦いを挑んだがその堅陣を破ることはできなかった。両軍は翌日再び戦火を交えた。8月27日と28日の二日間唐の軍船と戦ったが大敗してしまった。世にいう「白村江の大敗」である。 660年の百済滅亡前後に倭国に来朝してきた百済王子がいる。義慈王の子・禅広(ぜんこう、禅光、善光とも書く)である。一説には、禅広は豊璋の弟とされている。あるいは兄の帰国を促すための来朝だったかもしれない。しかし、白村江の大敗で百済復興の夢は消えた。禅広はやむなく帰国をあきらめ亡命を願い出た。朝廷は、難波に居住地を与えて、一族を上級官吏として重用した。持統天皇の時、禅広に百済王(くだらのこにきし)の姓を与え、死後は正広参の位を贈ったという。 禅広の子・昌成(しょうせい)は幼年の時父に従って来朝したが、父より先に死亡した。天武天皇は小紫の位を贈っている。奈良時代になって、昌成の子・郎虞(ろうぐ、? - 737)が従四位・摂津亮に任じられた。敬福(697 - 766)は郎虞の第三子である。その敬福が史書に登場するのは、天平10年(738)、41歳で陸奥介(むつのすけ)に任ぜられてからだ。当時の位は正六位上だった。その後の彼の経歴を『続日本紀』から拾えば、上の表の通りである。 敬福は天平15年(743)に陸奥守(むつのかみ)に任ぜられる以前から、聖武天皇の信任を得ていたようだ。それは、多分に彼の性格によるものだろう。酒好き女好きだったが、物事に執着せず、常に清貧に甘んじ、家に余財などなかったが、政務をこなすことにかけては人一倍だったという。東大寺大仏に鍍金用の金が不足していたとき、陸奥の国から産出した黄金900両を献じたことは、聖武天皇をいたく喜ばせ、渡来系貴族としては最高の従三位の位を贈呈している。従三位は、律令制度の官位では親王の第三の位である三品(さんぽん)に相当する。 中宮(なかみや)を本拠とする百済王氏は、奈良時代末期から平安時代にかけて繁栄を続けた。特に、百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫である高野新笠(たかののにいがさ)を母とする桓武天皇は、敬福の娘や孫にあたる百済王氏の女性を四人も妃にしている。またしばしば交野に行幸し、山野で狩りを楽んだという。天皇家と百済王家との深い結びつきが分かろうというものである。百済王氏一族は嵯峨天皇、仁明天皇とも婚姻関係を結び、平安時代中期まで中級貴族として存続した。 |
発掘調査が始まった百済寺跡公園
上記のように、百済寺跡は昭和16年(1941)1月に国史跡に指定され、さらに昭和27年(1952)3月には国の特別史跡に昇格した。指定の理由は、奈良時代創建の寺院の遺構が大変良く残っており、また建立氏族が百済王氏であることが判明していることによる。 昭和40年(1965)に行われた発掘の成果は、枚方市が作成した『特別史跡 百済寺跡公園』にまとめられている。この特別史跡は、いわば日韓交流のシンボルである。整備後40年近くが経過した現在、史跡の老朽化が進み、再整備する必要が生じた。ところが、昭和40年の発掘調査の成果にいくつか疑問が生じた。たとえば、講堂の左右に延びる遺構が見つかっているが、発掘は途中で中断している、東院跡の建物跡や築地跡の調査が完了していない、などの問題点が指摘されている。そうした疑問点を解消するために、再調査を決断したという。
追記:中宮の地名由来と装飾壁画古墳百済寺跡や百済王神社が所在する中宮(なかみや)という地名は、百済王一族の星辰信仰に関係があるという説がある。彼らは自分たちの住む場所が天空の真ん中、すなわち天の中宮にあると見なして、”中宮”と名付けたという。しかし、桓武天皇の生母の高野新笠が光仁天皇の”中宮(ちゅうぐう)だったことによるという説もある。 国際日本文化研究センターの千田稔教授(歴史地理学)は、飛鳥の高松塚古墳およびキトラ古墳の被葬者について、ユニークな説を立てておられる。百済王一族が星辰信仰を持っていたことに着目され、四神や星宿が描かれた壁画古墳は「宇宙王」の墓であり、倭国に渡来した百済王家の一族の墓こそふさわしいとされる。そして、百済王禅広を高松塚古墳、息子の昌成をキトラ古墳の被葬者と推定しておられる。 |