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埴輪は人物埴輪だけでなく、さまざまな形のものがある。埴輪の起源について、『日本書紀』は垂仁天皇の皇后・日葉酸媛(ひばすひめ)が亡くなったとき、野見宿弥(のみのすくね)の発案で古来の習慣による殉死の悲惨さを避けるために、土で作った人馬や家を陵墓に立てたことが始まりと伝えている。 考古学的には、古墳時代が始まった3世紀の中頃から埴輪が墳墓に並べられるようになったとされている。だが、最初は円筒形埴輪や壺形・朝顔形埴輪などしか見られなかった。それが、4世紀前半になると、家形埴輪のほかに、蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪をはじめとする器財埴輪、鶏形埴輪などの形象埴輪が現れた。さらに、5世紀の中ごろになると、巫女などの人物埴輪や馬や犬などの動物埴輪が登場した。こうした考古学的知見は、必ずしも野見宿禰の伝承を裏書きするものではない。
しかし、古墳に継承された円筒埴輪は、墳丘や重要な区画を囲い込むように並べられていて、聖域を区画するためのものだったと考えられている。家形埴輪については、2つの説がある。死者の霊が生活するための依代(よりしろ)という説と、死者が生前に居住していた居館を表したものという説である。
今城塚古墳の第五次と第六次発掘調査で、大量の埴輪が見つかった。これらの埴輪は内堤の北側部分(外濠に接した部分)に築かれた幅約6m、長さ東西約62mにわたる場所で発見された。何かの祭祀を表しているものと思われ、その場所は埴輪祭祀場と呼ばれている。
復元された埴輪群というものに興味を抱いた。一度我が目で確認しておきたくなって、今にも泣き出しそうな曇り空の下を、気付くとマイカーのハンドルを握っていた。見学したのは、下記の古墳である。 |
保渡田古墳群の中にある八幡塚古墳
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| 復元された保渡田八幡塚古墳(2006/01/13 撮影) |
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所在地:群馬県群馬郡群馬町保渡田1956
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群馬県の群馬町は榛名山の東南に位置している。目指す古墳は、群馬町の「上毛野(かみつけの)はにわの里公園」の中にある。関越自動車道路の「前橋IC」で高速道路を降りて一般国道17号線へ出た。料金所で群馬町方面への道を聞くと、17号線を高崎方面へ進んだほうが近いと教えてくれた。
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| 八幡塚古墳遠望 |
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| 内堤の上に配置された埴輪群 |
まず、第一病院という大きな病院が角にある「下小鳥町」交差点を右折して、国道17号線から別名”渋川街道”と呼ばれるに県道28号線に入る。次いで「三ツ寺」交差点で左折して県道10号線に入る。さらに「井出」交差点を右折して県道123号線に入る、そうすれば、「上毛野はにわの里公園」の前に出る。北へ向かう上越新幹線の高架に近い。
はにわの里公園は整備中の歴史公園である。公園内には、保渡田古墳群、かみつけの里博物館、土屋文明記念文学館などがある。保渡田古墳群は八幡塚古墳、師塚古墳、二子山古墳という3つの前方後円墳で構成されている(いずれも国史跡に指定)。その中で物の見事に復元されているのが八幡塚古墳である。
近畿各地で王陵を見てきた筆者には、全長85mの前方後円墳は驚くほどの規模ではない。だが、車窓からこの八幡塚古墳を目にしたとき、まったく驚いてしまった。墳丘がすべて川原石で葺かれ、墳丘の上段、中段、下段はおろか、中堤の上にもびっしりと円筒埴輪で飾られている。正直なところ、少しやりすぎでないのか、という印象を持った。だが、築造された当時の古墳は、このような建造物のような様相を呈していたのかもしれない。
八幡塚古墳は、昭和4年(1929)に最初に調査された。そのとき円筒埴輪を並べた区画(約11m×5m)が中堤の上で見つかり、54体近くの武人・鷹匠・巫女・農夫・馬などの形象埴輪が一定の順序で配置されていた。そのことが八幡塚古墳を一躍有名にした。だが、その後、出土した埴輪の約半分は失われてしまった。現在復元されている埴輪群は、現存資料や記録類、新たな出土資料を検討した上で、想定復元したものだそうだ。
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| 武人たち | 酒を捧げる巫女 |
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| 馬 | 雄鳥 |
曇天の下を上州名物の空っ風が吹きすさぶ中で、これらの模造埴輪たちはいかにも寒そうにたたずんでいる。彼らは一体何を表しているのだろうか。よく見ると、椅子に座った人々のグループがある。立ち姿の武人のグループがある。狩りをする人と動物のグループがある。どうやら、様々な儀礼の様子をいくつかの場面で表しているようだ。
大室公園の中にある大室古墳群
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| 総合公園「大室公園」 |
「上毛野(かみつけの)はにわの里公園」から再び国道17号線に戻り、来たときとは逆に東に向かって車を走らせ前橋市に入った。前橋市内で国道50号線に分岐し、相変わらず東に向かって車を進めると、東大室町に入る。交差点の角に立てられた標識に従って道路を左折すると、やがて前方にこんもりとした丘が見えてくる。そこが、大室公園である。
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| 中二子古墳の中堤に並べられた埴輪列(2006/01/13 撮影) |
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●大室古墳群の所在地:前橋市西大室町2545番地
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総合公園「大室公園」がある緩やかな丘陵地帯は、この地方に盤踞した古代氏族の奥津城だったのだろう。6世紀前半から後半にかけて、100m前後の前方後円墳が3基も造り続けられてきた。これらの古墳は便宜上、南から順に前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳と名付けられている。さらに、一回り小さい小二子古墳などもあり、全体では大小10基以上の古墳が点在している。故に、大室古墳群と総称されている。
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| 復元された小二子古墳 |
これらの古墳のうち、特に巨大な3基の前方後円墳は、『日本書紀』に記された豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)をはじめ、その子供たちの墓だという伝承がある。そのため、古くから周囲の人々によって大事にされてきた。駐車場の前に築かれた水時計のオブジェとカスケードのある「時の広場」から右手に進むと、すっかり落葉した林の中でゆったりと獅子が寝そべっているような墳丘が行く手を遮る。前二子古墳である。しかし、最初に目につくのは、その古墳のさらに右手に築かれた小二子古墳(こにここふん)だ。遠目にも墳丘上に様々な形の埴輪が並んでいるのが見える。
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| 前方部墳丘上の埴輪たち | 後円部墳丘上の埴輪たち |
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| 前中子古墳の周辺に配列された埴輪 |
前二子古墳の反対側に回ると、横口式石室の入口の左右に円筒埴輪が並べてあった。墳丘の周囲に総数で約1340本ほどあったと推定されているが、復元されているのはその一部だけである。
大室古墳群の中では、中二子古墳は盟主的存在である。墳丘長は111mだが、中堤などを含めた全長は170mにも達する。埴輪は中堤や基壇テラスの平坦面、墳頂部に並べてあった。その一部が墳丘側面の中堤の端に再現されている。よく見ると、円筒埴輪に混じって一定間隔で盾形埴輪と人物埴輪を合わせたような形象埴輪が立っている。一般に、盾や甲冑などの武具や武器形の埴輪は、その防御や攻撃といった役割から、悪霊や災いの侵入を防ぐ役割を持つとされている。円筒埴輪の間に立てられた埴輪にも、おそらく悪霊や災いが侵入するのを妨げる破邪の願いが込められているのだろう。近寄ってみると、その顔立ちはキリリと引き締まっている。
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| 中二子古墳に巡らされた埴輪の列 | 左の埴輪列の拡大 |
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| 落葉した木々に囲まれた後二子古墳 |
大室古墳群はすべて、クヌギやコナラの落葉に埋まっている。墳丘だけではない、公園の中を縫う遊歩道もすべて枯葉で埋まっている。ここでは、上州名物の空っ風がたたき落とした落ち葉とすっかり身ぐるみを剥がれた木々だけの世界だ。奈良で見る王陵などの古墳はたいてい常緑樹で覆われた丘というイメージが強いが、ここではまったく違う。むしろ、往古の墳墓のイメージが直接伝わってくるようで、新鮮だ。
田園風景の中で寒風に曝された塚廻り
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| 塚廻り古墳群第4号古墳の全景(2006/01/13 撮影) |
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所在地:群馬県太田市大字龍舞字塚廻り3089
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| 発掘当時の写真 |
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| 円丘部に配された模造埴輪群 |
古墳というからには、たとえ低くてもマウンドがあって、そこに樹木ぐらい生えているだろうという先入観が邪魔をした。周囲を見回してもそれらしき所が見あたらない。何のことはない、稲刈りが終わって荒涼とした水田地帯の中に、たった一カ所まだ刈り入れが終わっていないような場所があった。そこが国の史跡に指定されている「塚廻り古墳群第4号古墳」だった。
塚廻り古墳群は、龍舞町がある台地の東方に広がる低地に形づくられていた。昭和51年(1976)度に行われた太田市東部地区土地改良事業の際に、洪水で埋もれた古墳が7基以上も水田の下から見つかった。特に3基(1・3・4号墳)は良好な状況で確認された。そのため、これらの古墳は塚廻り古墳群と命名された。
史跡に指定された第4号古墳の周囲は、低い鉄柵が巡らしてある。中に入ると、案内板に発掘当時の写真が示してあった。写真は埴輪が配列されていた様子を見事に写していた。古墳の築造時期は6世紀中頃と推定されているが、この時期に帆立貝式古墳とは珍しい。
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| 造出部の埴輪の列−1 | 造出部の埴輪の列−2 |
案内板の説明によれば、発掘時には、造出部(つくりだしぶ)に、祭人たちを率いる”太刀を持つ女”や、その後ろに”踊る仕草の女子”、神に供える食物を持つ”内膳の女子”、神主と推定される“跪坐(きざ)する男子”、“椅子に座る正装の男子”、”捧げ持つ男子”、”太刀を持つ男子”などが並び、さらにその後に“馬飼い人”や“馬”が配されて、「祭り」の情景をリアルに表していたという。
これらの埴輪は、三つの場面を表現していると考えられている。祭りを仕切る巫女(みこ)と宴席を盛り上げる女子たちを表した場面、誄(しのびごと)を奏上しながら、ひざまづく男子とその後ろにひかえる男子たちによる祭式を表した場面、そして、2体の馬と2体の男子からみられる馬飼いという職業集団を表した場面だそうだ。 このように、埴輪群の配列の様子が明らかにできる例は、非常に珍しい。当時の葬送儀礼の様子や生活風習などがよくうかがい知ることができ、6世紀中頃の小古墳の埴輪祭祀の考える上で、好個の資料を提供している。
継体天皇陵と目されている今城塚古墳は、本来の形に復元して史跡公園として保存整備するため、平成16年(2004)から7カ年計画で整備工事が行われている。平成23年(2011)の春には、全体の整備を終え、壮大な歴史空間が史跡公園としてよみがえる。そのとき、内堤の北側部分で見つかった埴輪祭祀場は、200体近い模造埴輪で復元されるに違いない。
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| 今城塚古墳から出土した 魚と鳥の絵を飾る高床の家の埴輪 |
ところで、継体天皇は西暦531年に崩御したと言われている。もし今城塚古墳が寿陵であるならば、6世紀の前半に築造され、膨大な円筒埴輪などで墳丘は荘厳されていたと思われる。だが、彼の後を継いだとされる欽明天皇の墓には、埴輪で飾った形跡が見あたらない。欽明天皇陵を飾ったのは猿石などの石造物だったかもしれない。そうであれば、継体天皇陵は埴輪が並べられた最期の王陵ということになる。
近畿地方で埴輪の終焉を迎えた時期、関東地方ではまだ盛んに埴輪が作られ続けた。上にみたように、それぞれの地域の権力者の奥津城は相変わらず、埴輪が並べられ、また祭祀の様子を後世に伝えるかのように墳丘を飾っていた。こうした埴輪たちは、おそらく古墳時代の祭祀観や生死観を今に伝えているのであろう。