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今年は少し事情が違った。元旦の初詣にも出かけなかった。大晦日に鹿島神宮と香取神宮に参拝してきたためである(平成17年12月31日付け橿原日記参照)。参拝がせいぜい半日早かっただけで、神様も早い初詣と見なしてくれるだろうと思い、いわばズルをしたわけだ(あるいは、そのために今年は筆者にとって良からぬ年になるかもしれない)。
また、この遺跡は縄文時代中期から晩期の集落跡で、全国的にも珍しい「環状盛土遺構(かんじょうもりどいこう)」が築かれていることが判明している。環状盛土遺構とは、窪地の周囲に土を盛った小さな丘を環状に作り、その上に竪穴式住居を並べた遺構をいう。こうした集落遺構は関東地方特有のもので、全国的にも10例ほどしか発見されていないとのことだ。
この小室山は、代々この土地を守ってこられた武笠家のものだったが、遺産相続で物納され国有地となった。そのとき、遺跡を発掘調査してきた旧浦和市は、遺跡の重要性に鑑みて小室山の東半分を買い取って市有地とした。ところが、小室山の西半分は、財務省関東財務局によって競売に付されることになった。競売の噂を聞いた地元の有志は、さいたま市に対して、西側の国有地を買い取り、小室山全体を遺跡と残すよう要請する署名運動を行なった。 平成15年8月、4600人の署名とともに、さいたま市に対して「買い取りなどを含む保全策」の要望書が提出され、関東財務局にも「競売の中止」を求める署名簿が提出された。しかし、地元の願いは届かず、その月の末に、競売が実施され、小室山の西側は建売業者に払い下げられてしまった。宅地造成に先立って、市教委は発掘調査を建売業者に依頼し、平成16年(2004)6月末からから9月にかけて調査が行われた。
こうしたいきさつがあって、競売された土地の発掘調査を完結することはできなかったが、せめてもの救いは、遺跡の東半分の市有地が、平成17年(2005)3月29日付けでさいたま市の文化財に指定されたことである。 その後、市民ボランティアは馬場小室山遺跡研究会を発足させ、この遺跡を中心とした見沼文化の解明と、市民に開かれたいわゆるパブリック・アーケオロジー(public archeology)の実践を目指して、早大文化遺産デジタル・アーカイブ研究所顧問の鈴木正博氏の指導のもとに活躍中である。昨年は、馬場小室山遺跡の発掘調査の強制終了から1周年となる10月2日には、「馬場小室山遺跡に学ぶ市民フォーラム」を開催した。小生も自宅にいるときは、極力この研究会に参加するよう心がけている。 その遺跡研究会から、第19回ワークショップ開催の案内状を、昨年の12月に受け取った。案内状によれば、馬場小室山遺跡のある三室(みむろ)台地と見沼(みぬま)の地形、小室山の屋敷林を伝えてきた武笠家(むかさけ)、古代から地域に伝わる信仰、それらの歴史や地理を歩いて知るためのフィールドワークを企画したという。 企画では、先ず、新春を寿ぎ氷川女体神社(ひかわにょたいじんじゃ)に初詣した後、三室の史跡散歩を行ない、その後に三室公民館でワークショップを行なうことになっている。近くに住みながら、今まで氷川女体神社に参詣したことがない。新しい年の史跡巡りを氷川女体神社から始めるのも悪くないと思い、参加を申し込んでおいた。 今日はその当日である。集合場所はJR武蔵野線の「東浦和駅」。我が家から徒歩15分の距離にある。当初の予定では、史跡巡りは徒歩で行なうことになっていたが、主催者側から昨晩メールが入り、車による探訪に切り替えられた。天気予報でこの冬一番の寒さが関東地方を襲うため、徒歩による探訪は無理との判断によるものだった。指定された時間に東浦和駅に集合した参加者たちは、数台の自家用車に分乗して、氷川女体神社に向かった。はからずも、本日はその神社で初詣の正式参拝をおこなうことになった。 |
かって埼玉県の東南部には、見沼(みぬま)と呼ばれる広大な沼沢地が広がっていた。縄文時代、海進によって奥東京湾の海水が進入し大宮台地の縁を洗っていた。しかし縄文時代の終わり頃になると、海退によって海岸線が後退し、古荒川から流れ込んだ土砂が湾の出口を塞いだ。そのため、大きな真水(まみず)の沼沢地が出現した。沼沢地は水沼(みずぬま)と呼ばれていたが、いつしかミヌマに転嫁し、「見沼」と表記されるようになったと言われている。 氷川女体神社は、大宮台地から舌状に延びた岬の先端に鎮座している。その鎮座地は広大な見沼を見渡す景勝の地で、付近は原始林で覆われていた。現在も神社の境内にはクス、シラカシ、モチ、ヒサカキなど多くの常緑広葉樹が枝を張り、社叢は暖地性植物の群生地として市の天然記念物に指定されている。なお、神社の周囲の見沼は、古くは神社の御手洗瀬とされてきた。そのため、見沼は「御沼」と呼ばれ、ミヌマの語源となったとする説もある。
江戸時代の初め、大沼沢だった見沼を灌漑用の池に造成することを考えた男がいた。関東郡代の伊奈忠治である。彼は、寛永6年(1629)に最も狭い木曽呂村と付島村の間に八丁(約900m)の堤を築いて、上流から流れてくる水や周辺の余を貯めて、周囲10余里の溜井(ためい)を作った。そしてこの溜井の水を灌漑用に利用して、堤の南の地域に新田を開発した。その後、8代将軍吉宗の時代に、幕府は財政再建のために溜井になっている地域も新田化することにした。まず八丁堤を切り裂き、溜井の水を排して現在の芝川を作った。排水が完了した見沼は、新田に変えられた。享保12年(1727)年のことである。
三室台地の縁を見沼代用水に沿って川上へ向かうと、右手に「見沼氷川公園」があり、左手に鬱蒼と樹木が生い茂った丘がある。その丘全体を覆っているのが氷川女体神社社叢で、「ふるさとの森」の名で親しまれている。丘の麓を流れる用水には朱塗りの神橋が架かっている。その正面に神社の境内へ続く参道が急な石段で築かれている。見上げると、石段の上に朱塗りの鳥居が立ちはだかり、「武蔵国一宮 氷川女体神社」と書かれた金色の扁額が掲げてある。 石段を上りきると、かなり老朽化した権現作りの社殿が正面に見えてくる。現在の建物は徳川時代の寛文7年(1667)に再興され、その後吉宗の時代に大岡越前守忠相(ただすけ)によって修復された。現状はその当時のままで、市の有形文化財に指定されている。この社殿を文化財として後世に残すには新たな修復が必要で、神社は奉賛を求めている。 由緒書きによれば、この神社は、崇神天皇の時代に出雲の杵築大社(きずきのおおやしろ、出雲大社の前身)を勧請(かんじょう)し、現在の地に鎮座したのが始まりだとされている。主祭神として祀られているのは奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)で、大己貴命(オオナムチノミコト)と三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を配祀している。
実は、さいたま市には武蔵の国一の宮とされている神社が他にもある。大宮区高鼻に鎮座する大宮氷川神社である。この神社は、須佐之男命(スサノオノミコト)と稲田姫命(イナダヒメノミコト)、大己貴命(オオナムチノミコト)の三柱を祭神として祀っている。以前に、 なぜ武蔵の国一の宮に出雲の神々が祀られているのか興味があり、少し調べたことがある。
この「男体−王子−女体」という極めて人間臭い関係をもつ神社の鎮座位置を地図上にプロットしてみると、見沼を中心にしてほぼ一本の直線上に位置している。なぜ直線上に並ぶのか。単なる偶然なのか、それとも何かの意図に基づいて配置されたのかは、興味深いテーマである。 正月三が日が過ぎた境内は、初詣客もまばらである。鬱蒼と茂る古木に覆われて、木陰では朝の澄んだ空気は思いの外冷たい。だが、風がない境内には所々に日だまりを作っていた。参加者が順番に拝殿の前で参拝するのを、日だまりで暖を取りながら待っていると、主催者から声がかかった。これから、一同で初詣の正式参拝を行なうという。
どうするのかと興味を持って見ていると、女性の神主が正装姿で現れ、一同を拝殿への昇殿を促した。拝殿は狭く、しかも老朽化している。10人ほどの床几(しょうぎ)が用意されていたが、参加者全員の昇殿は無理である。残りの人たちは拝殿正面に並んだ。10人も昇殿すれば、拝殿の床はミシミシ音がする。「皆さん、なるべく体重をかけないようにしてください。床が抜けてしまいますから」と、神主は笑いながら声をかけた。 神主が豪快に太鼓をたたいて正式参拝の儀式が始まった。一同を起立させると、祝詞を読み上げた。 そのあと頭を垂れた一同に幣(ぬさ)で祓い清めた。最後に二拝二拍手一拝して参拝は終わった。わずか数分間の儀式だったが、拝殿の前で単に二拝二拍手一拝するのとは、さすがに趣が違った。 その後、あずま屋の休憩所で、神主の吉田さんから神社の沿革を聞いた。吉田さんは旧宮司の武笠家から宮司を引き継いだ吉田家の三代目だそうだ。無料の神社略記を配布した後、女性らしくはきはきした物言いで、「みこ人形」の紹介から説明を始めた。神社の受付で売っているみこ人形は、願い事を叶えてくれる人形だそうだ。願い事が叶ったら着物を着せて神社に奉納するのが慣わしだという。
その後、見沼の由来と神社の縁起を説明された。氷川女体神社出の最も重要な神事は、後述の御船祭(みふねまつり)だという。話を聞きながら、御船祭で祀られているのは見沼の主の竜神とのことだが、あるいはこの神社の社名から推測されるように女神だったようにも思えてきた。弥生時代に見沼の沼沢の一部で水田耕作が行われており、すでに農業あるいは水を司る女神が信仰されていたのではないか。出雲の神々が勧請される前に、この場所には見沼の神を祀る古社があったに違いない。現在祀られている3柱の中の三穂津姫命は、高天原から稲穂を持ち降り耕作を導いた農業と子孫繁栄の守り神である。故なしとは言えない。 氷川女体神社は、古くから時々の権力者に崇拝されてきた。鎌倉時代の執権・北条泰時が奉納したと伝えられる三鱗文兵庫鎖太刀(みつうろこもんひょうごくさりたち)をはじめとして、鎌倉から室町時代にかけて奉納された文化財が多いとのことだ。また、天正19年(1591)には、徳川家康から50石の社領の寄進をうけており、歴代将軍からも継目安堵の朱印状を受けているという。 |
付記: 中山神社
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| 中山神社の社殿 |
由緒書きによれば、中山神社はかつて中氷川神社と呼ばれ、中川の鎮守だった。創建は崇神天皇の2年と伝えられている。明治40年7月、山(ちめい)の山村神社などを合祀して社名を現在の中山神社に改められたが、今でも通称は「中氷川神社」で通っている。「中氷川」という神号の由来は、見沼に面した高鼻・三室・中川の地に氷川社があり、各々、男体宮、女体宮、簸王子(ひおうじ)宮を祀り、当社が高鼻(男体)、三室(女体)の中間に位置したところから付けられたという。
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| 中山神社の社殿 |
この付近の地名が中氷川が中川に変わった由縁について、案内板に面白い説明がされていた。鎮火祭の火によって「中氷川」の氷が溶けてしまい、「中川」となったというのだ。真偽のほどは定かではない。
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| 旧社殿(市指定文化財)の覆い屋 |