鹿島神宮
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| 霞ヶ浦に架かる霞ヶ浦大橋 |
大橋を渡り切ったところで、国道355号線を霞ヶ浦の湖岸に沿って進んだ。行方(なめかた)市を通り抜け、潮来(いたこ)市に入り、11時30分頃に湖尻で国道51号線との交差点に出る。後は鹿島市まで12kmの道のりであるが、さすがに水戸市へ向かう国道は交通量が多い。北浦に架かる神宮橋をわたると、鹿島市である。鹿島神宮は、JR鹿島線の「鹿島神宮」駅の近くに鎮座している。11時50分、神宮前の駐車場に車を入れた。途中、霞ヶ浦の湖岸で10分ほど休憩したが、その時間を含めて自宅から約2時間20分のドライブだった。
鹿島神宮の大鳥居へ続く参道の両脇は、多くの出店が設営の最中だった。今晩の夜半から繰り出してくる初詣客を狙った、たこ焼き、焼きそばといったおなじみの店が軒を並べはじめている。
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| 鹿島神宮で神の使として親しまれている日本鹿 (2005/12/31 撮影) |
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鹿島神宮の大鳥居 |
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朱塗りの楼門 |
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白木造りの拝殿 |
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色鮮やかな本殿 |
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祭神を一時的に遷した仮殿 |
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神の使いを飼っている鹿園 |
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家康が奉納した本殿を移した奥宮 |
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地震の守り神・要石(かなめいし) |
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| 鹿島神宮の宝物館 |
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| 国宝「直刀・金銅黒漆塗平文拵・附刀唐櫃」(*) |
長たらしい名前の国宝だが、要するに刀身2.25m(7尺3寸8分)の直刀と、全長2.71m(8尺9寸4分)の金銅製の黒漆塗り鞘、それにこれらを納めておく唐櫃(からびつ)の3点がまとめて国宝の指定を受けていると言いたいのだ。奈良時代から平安時代の作とされているが、実年代は確定されていない。
この直刀は、現存する日本刀の中では最古の作品の一つであり、また最大の作品とされている。現物を前にすると、その長さが実感できる。これほどの長大な刀身を作るには、途中でつなぎ合わさなければならない。刀身をつなぐのは極めて珍しい手法であり、技術的にも貴重な存在であるという。
当神宮では、この直刀を「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」または「平国剣(ことむけのつるぎ)」と呼んでいる。しかし、布都御魂剣そのものではない。いわば2代目である。2代目の神剣を作り奉安してきたいきさつを、由緒書きは次のように記している。
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| 鹿島神宮の境内(*) |
神剣の布都御魂剣は、皇城鎮護の神として久しく宮中に祀られていたが、崇神天皇の時代に石上(いそのかみ)に社殿を建て、石上神宮の祭神として祀ることになった。そのため鹿島神宮に祀られたタケミカヅチの元に二度と戻ってくることはなかった。そこで、布都御魂剣の2代目として直刀を鹿沼の地で制作し、本殿の奥深く奉安してきたという。『常陸国風土記』には慶雲元年(704) 鹿島の砂鉄で剣を作ったという記録がある。
香取神宮
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フツヌシを祭神として祀る香取神社は、JR成田線の「香取」駅から南2Kmほどの所に鎮座している。東関東自動車道を使って車でアクセスする場合は、佐原香取ICを下りて北1Kmの場所にある。鹿島神宮から香取神宮へ車で移動するには、いくつかのルートがある。
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| 霞ヶ浦 |
午後1時35分、東関東自動車道に入った。常陸利根川を渡ると千葉県である。続いて利根川を渡ると、「佐原香取」ICは近い。結局7分くらいの走行で高速道路を下り、T字路を左折して2分ほどで香取神宮の駐車場に着いた。鹿島神宮と同じように、この神宮の参道も両側で出店の設営が盛んに行われていた。出店の屋台は拝殿の前まで続いていた。
祭神のフツヌシと鹿島神宮のタケミカヅチは、いずれも天孫降臨に先だって高天原から葦原の中つ国へ派遣された軍神とされている。しかし、古書によって、その伝承には違いがある。
『古事記』では、乱暴な国つ神が大勢いる葦原の中つ国を平定するために、まず天菩比神(アメノホヒノカミ)が派遣され、次いで天若日子(アメノワカヒコ)を派遣したが、いずれも失敗した。そこで、アマテラスは次に派遣すべき神を大勢の神に諮問したところ、神々は新たな使者としてタケミカヅチを推挙した。そこで、アマテラスは天鳥船神(アメノトリフネノカミ)をタケミカヅチに添えて葦原の中つ国に遣わした、と記述されている。
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| 香取神宮境内案内図(**) |
こうした混乱があるため、フツヌシとタケミカヅチは同じ神であるとする説もあるくらいだ。いずれにせよ、香取神宮と鹿島神宮は兄弟のような関係で理解されていた神社である。
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参道正面に建つ朱塗の二の鳥居 | |
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石造りの三の鳥居 |
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朱塗りの総門 | |
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鮮やかな朱の楼門 |
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朱の楼門と鮮やかな対比をなす黒色の拝殿 |
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三間社流造の本殿 |
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地震を起こす鯰を抑えた要石 |
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粗末な造りの奥宮 |
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東路
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| 国譲りの舞台となった 稲佐が浜 |
だが、『常陸国風土記』は、タケミカヅチの別の業績を記している。この風土記は「播磨」、「出雲」、「肥前」、「豊後」の風土記とともに現在まで残った数少ない貴重な史料である。和銅6年(713)に各国の名を好字2字で表し、産物や土地の名の由来を記した「風土記」を選進するよう詔(みことのり)が出された。それに基づき養老7年(723)に常陸の国守であった藤原宇合(うまかい)が、『常陸国風土記』を編纂したと伝えられる。
『常陸国風土記』では、タケミカヅチは香島(鹿島)大神とのみ呼ばれているにすぎない。そして、この神は八百万の神が高天の原に集まったとき、諸祖神に命じられて天降って来て関東の開拓と鎮撫に当たり、鹿島の地に鎮まったとされている。一方、香取神宮には、祭神のフツヌシについて、次のような伝承が伝わっているとされている。すなわち、フツヌシはアマテラスの神意を奉じて、タケミカヅキと共に出雲国の大国主命と交渉して、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめた。その後、国内を巡回して荒振る神々を平定して日本建国の基を築き、また東国開拓の大業を完遂したという。
神話の世界の話はともかくとして、古代の霞ヶ浦付近の地形は現在とはかなり違っていて、現在両神宮が鎮座する付近は「香取の海」と呼ばれた霞ヶ浦を両側から扼する要害の地だったとされている。東国支配を進める大和朝廷の視点にたてば、鹿島と香取はおそらく東国進出の拠点であり、同時に北の蝦夷に対する備えとして、最高の軍事拠点だったに違いない。
もともと鹿島や香取には、土着神が海上交通の神として信仰されていたと思われる。香取の古名は「楫取」と書き、一般には舵取りの意味と考えられている。だが、東国進出の拠点となり、また北に対する備えと位置づけた大和朝廷は、軍神をこの地に配して北の守りとした。鹿島にタケミカヅチを祀り、香取にフツヌシを祀った背景には、そうした事情があったように思う。
藤原氏の祖とされる中臣鎌足が鹿島出身であるという説は、『大鏡』に記載されている。筆者はその部分を読んでいないので、根拠は分からない。しかし、鹿島誕生説は『大鏡』だけに記載されているに過ぎないという。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(=恵美押勝、えみのおしかつ)が天平宝字4年(760)執筆した『藤氏家伝』など中臣鎌足に関するほとんどの史料は、誕生地を藤原の第(明日香村小原)としている。
中臣鎌足は、中臣御食子(みけこ)と大伴囓子(おおとものくいこ)の娘である大伴夫人との間の子として、上記の地で推古22年(614)に出生したとされている。藤原仲麻呂は中臣鎌足の直系の曾孫にあたる。常識的には、自分の”ひいおじいさん”の出生地を偽って記述する理由は見つからない。
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| 春日大社の中門と御廊 |
中臣鎌足から藤原不比等、藤原仲麻呂と、飛鳥時代から奈良時代にかけて藤原氏が栄えるに連れて、祖先の地が重用視され、地方の土着神を祀っていたにすぎない神社に軍神が祀られ、皇祖神を祀る伊勢神宮と同じ重きをなすようになったのかもしれない。
奈良の春日大社は、和銅3年(710)の平城遷都の際に藤原不比等が藤原氏の氏神のタケミカヅチを祀ったのが起こりとされている。しかし、別の説もある。神護景雲2年(768)に藤原永手が、常陸の国の鹿島神宮からタケミカヅチを、下総国の香取神宮からフツヌシを、河内国の枚岡神社から天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と比売神(ヒメカミ)の4神をそれぞれ勧請して祀り、氏社としたのが春日大社だとも言われている。そうであれば、現在の奈良公園を闊歩する日本鹿は、はるばる鹿島からタケミカヅチの分霊を運んだ神の使の子孫たちかもしれない。