橿原日記 平成17年12月31日

年の瀬に、常陸の国(ひたちのくに)下総の国(しもふさのくに)の一の宮を訪れる



両神宮の鎮座地
両神宮の鎮座地
安時代に作られた『延喜式』神名帳には、「神宮」の社号を持つ神社が3つ記載されている。その一つは言うまでもなく皇祖神を祀る伊勢神宮だ。残る2つはというと、なんと常陸の国の一の宮・鹿島神宮(かしまじんぐう)と下総の国の一の宮・香取神宮(かとりじんぐう)である。当時の畿内から見れば、常陸の国や下総の国は、まさに東路(あずまじ)の果てだった。なぜ、そのような辺境の地に、当時としては破格の神位を与えられた神社が鎮座しているのか。それが最初の関心事だった。

鹿島神宮と香取神宮には共通点がある。鹿島神宮は武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ、以下ではタケミカヅチと略称)を、香取神宮は経津主大神 (フツヌシノオオカミ、以下ではフツヌシと略称)を、それぞれ祭神として祀っている。これら2柱の神は、天孫降臨に先立って葦原の中つ国を平定するために、共に高天原から派遣され、出雲の稲佐の小汀(いなさのおはま)で十握剣(とつかのつるぎ)を逆さに突き立てて武威を示し、大己貴神(オオナムチノカミ、=大国主命)に国譲りを強要した武神である。

ああああ
御船祭(*)
れだけではない。面白いことに、鹿島神宮のタケミカヅチは、12年に1度の午(うま)年に、神輿(みこし)で陸路を北浦湖岸に運ばれ、そこから多くの船団を従えた御座船に乗せられて香取神宮のフツヌシに会いに行く。両祭神が水上で出会うこの大祭は、国内最大の規模を誇る水上の御船祭(おふなまつり)として知られている。

船祭は、応神天皇の時代に祭典化されたと伝えられている。 戦国の混乱で室町時代に大祭としては一度途絶えたが、明治3年(1870)に数隻の船によって御船祭は再興され、同20年(1887)に午年毎の式年大祭として定められた。なぜ板東太郎(利根川)を挟んだ両地に武神が、七夕の故事のように再会するように祀られているのか、それが第二の関心事だった。

神宮に共通するキーワードは「中臣氏(なかとみうじ)」である。太古、これらの神宮の宮司を務めたのは中臣氏だったという。さらに、藤原氏の基礎を築いた中臣鎌足(なかとみのかまたり)は鹿島の出であるという古くからの伝承もある。こうした伝承が生まれた背景についても、興味があった。したがって、古代史に関心を抱く筆者ならとっくに訪れていなければならない神社だが、不思議なことに今まで機会がなかった。

れの大掃除を済ませて、気づいたら大晦日の一日に空白の時間ができた。一夜明ければ、いずれの神宮も初詣客でごった返すに違いない。そう思うと、初詣ならぬ終わり詣でも良いから参詣したくなり、意を決して出かけることにした。幸いなことに、年の瀬にしては風が強くない、青空が広がる一日だった。



鹿島神宮(かしまじんぐう)・・・ 武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)を祭神に祀る常陸国の一の宮

東平野で唯一山らしい山は筑波山である。その雄姿を左手前方に見ながら、常磐自動車道を車で走り、午前10時20分、「土浦北IC」で一般国道125号線に下りた。すぐに国道6号線との交差点があり、左折して水戸方面へ向かう。「中貫工業団地入口」の交差点で右折して、県道197号線に入った。玉造・出島方面へ続くこの路は土浦市の郊外を貫いて東へ向かっているが、沿道に商店は少なく、あちこちに点在する杉林に区切られた平坦な田畑の風景が左右に展開するばかりである。

霞ヶ浦大橋
霞ヶ浦に架かる霞ヶ浦大橋
もなく国道354号線にぶつかった。交差点を左折してかすみがうら市に入り、霞ヶ浦の北岸を東に向かう。右を見ても左を見ても、相変わらず変化の乏しい景色の中をひたすら車を飛ばす。大晦日の昼下がりとあって、国道を走る車は少なく、渋滞に巻き込まれないのは助かった。丘を一つ越えたところで、やっと前方に霞ヶ浦の湖水を横切る橋が見えてきた。時計を見ると、10時50分をすぎている。昭和62年3月に完成したこの霞ヶ浦大橋は、長い間通行が有料だったが、先月1日から無料となった。

橋を渡り切ったところで、国道355号線を霞ヶ浦の湖岸に沿って進んだ。行方(なめかた)市を通り抜け、潮来(いたこ)市に入り、11時30分頃に湖尻で国道51号線との交差点に出る。後は鹿島市まで12kmの道のりであるが、さすがに水戸市へ向かう国道は交通量が多い。北浦に架かる神宮橋をわたると、鹿島市である。鹿島神宮は、JR鹿島線の「鹿島神宮」駅の近くに鎮座している。11時50分、神宮前の駐車場に車を入れた。途中、霞ヶ浦の湖岸で10分ほど休憩したが、その時間を含めて自宅から約2時間20分のドライブだった。

鹿島神宮の大鳥居へ続く参道の両脇は、多くの出店が設営の最中だった。今晩の夜半から繰り出してくる初詣客を狙った、たこ焼き、焼きそばといったおなじみの店が軒を並べはじめている。


神の使として親しまれている日本鹿
鹿島神宮で神の使として親しまれている日本鹿 (2005/12/31 撮影)


【鎮座地】茨城県鹿嶋市宮中2306−1
【創起】神武天皇元年、社殿を造立す(社例伝記による)
【祭神】武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)
【アクセス】JR東日本鹿島線「鹿島神宮」駅から徒歩10分。


鹿島神宮の大鳥居
 設営されたばかりの出店が両側に並ぶ石畳の道を進むと、その先に鹿島神宮の巨大な石の鳥居がそびえている。茨城県特産のみかげ石が用いられていて、高さは10m。鹿島神宮の初詣客は、例年三が日で55万人を越えるという。NHKの紅白歌合戦が終わり、除夜の鐘が鳴り響く頃、この参道は初詣の善男善女でごった返すにちがいない。

朱塗りの楼門
鹿島神宮の参道は、大鳥居から一直線に東へ延びている。掃き清められて落ち葉一つ見あたらない参道の両脇に樹齢何百年という杉の巨木が並んでいる。その先に先ず目に入るのが、重要文化財に指定されている楼門だ。総朱漆塗りの二階建ての楼門は、寛永11年(1634)に初代水戸藩主・徳川頼房が奉納したと伝えられている。

白木造りの拝殿
 楼門から境内に入ると、参道の右手に拝殿がある。拝殿の後方に本殿、御神木、鏡石と並ぶ。初詣のための巨大な賽銭箱がすでに正面設えられていた。この拝殿は、元和5年(1619)に江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠が寄進したものである。それ以前は、伊勢神宮と同じように、この神宮の社殿も20年ごとに造営されていたという。白木作りの簡素な意匠の建物だが、国の重要文化財に指定されている。

色鮮やかな本殿
 拝殿の横に回ると、拝殿とは対照的に朱塗りに極彩色の鮮やかな意匠で贅をこらした本殿を望むことができる。拝殿と同様 元和5年(619)に江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠によって寄進されたもので、国の重要文化財の指定を受けている。
 祭神のタケミカヅチを祀るこの本殿は北向きに建てられている。北に対する守りとしてこの神社が創始されたと言われるゆえんである。

祭神を一時的に遷した仮殿
 参道の左手にある仮殿は、祭神を一時的に遷すために建てられた社殿である。現在の建物は、元和4年(1618)に築造された。上記のように、当神宮では、伊勢神宮と同じように社殿を20年ごとに作り替えていた。その工事期間中、祭神はこの社殿に遷されていた。

神の使いを飼っている鹿園
  鹿島神宮では鹿が神の使いとされている。 現在、30数頭の日本鹿が鹿園で飼われている。奈良にある春日大社が神護景雲2年(768)に造営されたとき、白い神鹿が、背にタケミカヅチの分霊を乗せ、多くの鹿を引き連れて1年かけて奈良まで行ったとされている。
 鹿の枝角を英語でアントラー (antler) という。サッカーチーム「鹿島アントラーズ」の名称は鹿の角の英語名称に負う。

家康が奉納した本殿を移した奥宮
 本宮からまっすぐ奥に250mの奥参道が続いている。両側にそびえる巨樹古木は、古代の原生林を思わせるほど鬱蒼としている。奥参道の突き当たりの右手に奥宮(重要文化財)がある。慶長10年(1605)徳川家康が本殿として奉納した社殿である。元和5年(1619)の造替に伴い、場所を移し奥宮となった。

地震の守り神・要石(かなめいし)
 奥宮の右手奥へ進むと、途中に祭神が大鯰を抑えている石碑がある。さらに奥に進むと、地震の守り神として知られる要石が祀られている。要石は地震を起こす大鯰の頭を抑える杭と言われ、見た目は小さいが地中部分は大きく、決して抜くことはできないと言い伝えられている。現在も茨城県南部を震源とする地震が多いが、どうやら古代も同じように頻発していたようだ。


鹿島神宮の宝物館
国宝「直刀」
国宝「直刀・金銅黒漆塗平文拵・附刀唐櫃」(*)
神タケミカヅチを祀る神社にふさわしく、鹿島神宮の宝物館には、国宝「直刀・金銅黒漆塗平文拵・附刀唐櫃」(ちょくとう、こんどうくろうるしぬりへいもんこしらえ、かたなからびつつき)が展示してある。

たらしい名前の国宝だが、要するに刀身2.25m(7尺3寸8分)の直刀と、全長2.71m(8尺9寸4分)の金銅製の黒漆塗り鞘、それにこれらを納めておく唐櫃(からびつ)の3点がまとめて国宝の指定を受けていると言いたいのだ。奈良時代から平安時代の作とされているが、実年代は確定されていない。

の直刀は、現存する日本刀の中では最古の作品の一つであり、また最大の作品とされている。現物を前にすると、その長さが実感できる。これほどの長大な刀身を作るには、途中でつなぎ合わさなければならない。刀身をつなぐのは極めて珍しい手法であり、技術的にも貴重な存在であるという。

神宮では、この直刀を「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」または「平国剣(ことむけのつるぎ)」と呼んでいる。しかし、布都御魂剣そのものではない。いわば2代目である。2代目の神剣を作り奉安してきたいきさつを、由緒書きは次のように記している。

鹿島神宮の境内
鹿島神宮の境内(*)
ケミカヅチは出雲の稲佐の小汀(いなさのおはま)でオオナムチと交渉して国譲りをさせた後、葦原の中つ国を平定し、関東の開拓と鎮撫に当たり、当時水陸交通の要衝だった鹿島を本源としたという。そして、神武東征の折りには、国を平らげる神剣として、タケミカヅチは布都御魂剣を神武天皇に献じて東征を助けた。天皇は神恩に感謝して、即位の年に使を鹿島に遣わして武甕槌神を祀られたと伝えられている。

剣の布都御魂剣は、皇城鎮護の神として久しく宮中に祀られていたが、崇神天皇の時代に石上(いそのかみ)に社殿を建て、石上神宮の祭神として祀ることになった。そのため鹿島神宮に祀られたタケミカヅチの元に二度と戻ってくることはなかった。そこで、布都御魂剣の2代目として直刀を鹿沼の地で制作し、本殿の奥深く奉安してきたという。『常陸国風土記』には慶雲元年(704) 鹿島の砂鉄で剣を作ったという記録がある。



香取神宮(かとりじんぐう)・・・ 経津主大神(フツヌシノオオカミ)を祭神に祀る下総国の一の宮

香取神宮の拝殿
香取神宮の拝殿 (2005/12/31 撮影)


【鎮座地】千葉県佐原市香取1697
【創建】神武天皇18年と伝えられる
【祭神】経津主大神 (フツヌシノオオカミ、またの名は伊波比主命(イハイヌシノミコト))
【アクセス】(鉄道利用)JR成田線・佐原駅からバス又はタクシーで10分。JR成田線・香取駅から徒歩15分
(車利用)東関東自動車道「佐原香取」ICで高速道路を下りてすぐの信号を左折、ほぼ2分で香取神宮正面の駐車場。


ツヌシを祭神として祀る香取神社は、JR成田線の「香取」駅から南2Kmほどの所に鎮座している。東関東自動車道を使って車でアクセスする場合は、佐原香取ICを下りて北1Kmの場所にある。鹿島神宮から香取神宮へ車で移動するには、いくつかのルートがある。

霞ヶ浦
霞ヶ浦
者は最短ルートを選んだ。国道51号線を北浦に架かる神宮橋の所まで戻り、橋を渡ったところで県道101号線(潮来佐原線)に入った。この道は比較的最近作られた車道のようで、「道の駅いたこ」の前を通って、水郷道路に連結されている。水郷道路との交差点を左折すると、すぐの所に東関東自動車道の「潮来」ICがあった。

後1時35分、東関東自動車道に入った。常陸利根川を渡ると千葉県である。続いて利根川を渡ると、「佐原香取」ICは近い。結局7分くらいの走行で高速道路を下り、T字路を左折して2分ほどで香取神宮の駐車場に着いた。鹿島神宮と同じように、この神宮の参道も両側で出店の設営が盛んに行われていた。出店の屋台は拝殿の前まで続いていた。


神のフツヌシと鹿島神宮のタケミカヅチは、いずれも天孫降臨に先だって高天原から葦原の中つ国へ派遣された軍神とされている。しかし、古書によって、その伝承には違いがある。

古事記』では、乱暴な国つ神が大勢いる葦原の中つ国を平定するために、まず天菩比神(アメノホヒノカミ)が派遣され、次いで天若日子(アメノワカヒコ)を派遣したが、いずれも失敗した。そこで、アマテラスは次に派遣すべき神を大勢の神に諮問したところ、神々は新たな使者としてタケミカヅチを推挙した。そこで、アマテラスは天鳥船神(アメノトリフネノカミ)をタケミカヅチに添えて葦原の中つ国に遣わした、と記述されている。

香取神宮境内案内図
香取神宮境内案内図(**)
ころが、『日本書紀』の神代紀本文では、推薦されたのがフツヌシになっている。ところが、その人選に不服を唱えた神がいる。タケミカヅチである。そこで、フツヌシにタケミカヅチを添えて、葦原の中つ国に向かわせた、と記す。しかし、『日本書紀』の中の一書では、フツヌシとタケミカヅチは同等の立場で派遣されたことになっている。

うした混乱があるため、フツヌシとタケミカヅチは同じ神であるとする説もあるくらいだ。いずれにせよ、香取神宮と鹿島神宮は兄弟のような関係で理解されていた神社である。


参道正面に建つ朱塗の二の鳥居
 香取神宮の大駐車場から、土産物屋の間を歩いていくと、参道正面に朱色の二の鳥居がそびえている。背後には、3万7千坪の境内が広がり、老木が鬱蒼と生い茂っている。鳥居の朱色と周囲の老杉の緑とが良く調和して、いかにも神域の入口にふさわしい。この神社でも出店の屋台の設営で大わらわだった。なお、香取神宮の一の鳥居は、はるか離れた車道に建っている。

石造りの三の鳥居
 二之鳥居からは緩やかに左にカーブする玉砂利の参道が続く。鬱蒼と茂る杉の老樹の間に桜や楓が植えられている。桜の季節や紅葉の時期には、参拝者の目を和ませてくれる仕掛けが演出されているようだ。やがて、参道の左手に石の三の鳥居が見えてくる。出店は、ここまでの参道の両脇ばかりでなく、三の鳥居の奥でも設営が続いている。

朱塗りの総門
 三の鳥居をくぐると、左手に神池があり、正面には石段の上に総門がそびえている。左右に狛犬を配した朱塗りの建物は、石段の下から見上げると、いかにも威圧的だが、武神を祀る神社だけあって、威厳を感じさせる。

鮮やかな朱の楼門
 石段を昇り総門をくぐると、その先に手水舎がある。右に進むと、重層の楼門がそびえている。元禄13年(1700)に本殿と共に建造された建物だそうだ。その朱塗りの鮮やかさが、日の光を浴びてまぶしい。
 楼門に掲げられた扁額は、明治・大正期の海軍軍人・東郷平八郎の揮毫によるものである。右手に黄門桜とよばれる徳川光圀手植えの桜が茂っている。

朱の楼門と鮮やかな対比をなす黒色の拝殿
 朱の楼門をくぐると、正面に本殿、中殿、拝殿をそれぞれ連ねた権現造りの社殿が鎮座している。元禄13年(1700)に徳川第5代将軍・綱吉が奉納した建物である。昭和15年(1940)に国費で大修理が行われた。昭和52年(1977)に国の重要文化財に指定された。鮮やかな朱の楼門と黒社殿のコントラストが非常に美しい。
 拝殿の前に巨大な輪が置かれていた。年に2度、6月と12月に行われる大祓(おおはらえ)の神事のための茅(ち)の輪だそうだ。形代(かたしろ、紙の人形)に住所・氏名・年齢を記入して息を吹吹きかけ身体をぬぐって、半年の間に犯した罪や穢れを移してから、茅の輪を規定の方向にくぐる。その後、形代を川に流すことで、災いを祓うことができるそうだ。現在は、形代を川に流す代わりに、金500円と一緒に受付箱に入れて、神前に参拝する。

三間社流造の本殿
 社殿の横に回れば、元禄13年(1700)に、徳川5代将軍・綱吉が造営した三間社流造の本殿(重要文化財)を仰ぎ見ることができる。
 元禄13年といえば、江戸城松の廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に対して刃傷におよんだ前の年である。殿中での刃傷に将軍綱吉は激怒し、浅野内匠頭に即日切腹、赤穂浅野家に断絶を命じた。だが、吉良上野介にはなんの咎(とが)めもなかった。喧嘩両成敗の武家の定法にもとる裁定を不満とした赤穂浪士47人は、元禄15年(1702)12月15日未明、本所松阪の吉良上野介の屋敷に討ち入り、主君の仇を果たした。

地震を起こす鯰を抑えた要石
 二の鳥居のすぐ左手に、護国神社への参道がある。護国神社の社殿の横を抜けた所に「要石」がある。鹿島神宮の要石と対をなす霊石で、地震を起こす鯰(なまず)を抑えたものとされている。鹿島神宮の要石は凹形だが、香取陣軍の要石は凸形をしていて、深さは幾十尺あるとされ、地下で繋がっているとする説がある。
 貞享元年(1684)水戸光圀が当神宮参拝した折、要石を掘らせてみたが、根元を見ることが出来なかったという。

粗末な造りの奥宮
 楼門を出て、左手に進めば、石段の先は旧参道である。その参道の途中に、フツヌシの荒魂(あらたま)を祀る摂社奥宮が鎮座している。ちなみに、フツヌシの和魂(にぎたま)は本殿に祀られている。
 鹿島神宮の奥宮に比べると、いかにも貧弱な社殿という印象がぬぐえない。現在の社殿は、昭和48年(1973)の伊勢神宮御遷宮の折の古材を用いて建造されたものだそうだ。



東路(あずまじ)の果てに鎮座する軍神たちと中臣氏

取神社からの帰路は、佐原市から我孫子(あびこ)市方面に出る最短ルートを選んだ。利根川の右岸の堤に沿って延々と続く一般国道356号線である。利根水郷ラインとも呼ばれるこの車道は、途中にほとんど交差点がない。加えて、年の瀬で交通量も極端にすくない。

でに午後の3時を過ぎ、冬の太陽が広大な関東平野を西に傾き始めていた。その斜陽に向かって車を走らせながら、鹿島神宮と香取神宮が、当時の東路の果てに祀られている理由を考えてみた。


国譲りの舞台となった 稲佐が浜
国譲りの舞台となった 稲佐が浜
ず気になったのは、フツヌシもタケミカヅチも『古事記』や『日本書紀』で語られる神話の中の神である点だ。記紀神話では、2柱の神は天孫降臨に先立って葦原の中つ国に派遣され、大国主命に国譲りをさせたとされているが、その後の消息は何も伝えていない。わずかに『日本書紀』の神武前紀で、神武東征を手助けするために、タケミカヅチが神剣の「布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)」を天から下したとあるだけである。

が、『常陸国風土記』は、タケミカヅチの別の業績を記している。この風土記は「播磨」、「出雲」、「肥前」、「豊後」の風土記とともに現在まで残った数少ない貴重な史料である。和銅6年(713)に各国の名を好字2字で表し、産物や土地の名の由来を記した「風土記」を選進するよう詔(みことのり)が出された。それに基づき養老7年(723)に常陸の国守であった藤原宇合(うまかい)が、『常陸国風土記』を編纂したと伝えられる。

常陸国風土記』では、タケミカヅチは香島(鹿島)大神とのみ呼ばれているにすぎない。そして、この神は八百万の神が高天の原に集まったとき、諸祖神に命じられて天降って来て関東の開拓と鎮撫に当たり、鹿島の地に鎮まったとされている。一方、香取神宮には、祭神のフツヌシについて、次のような伝承が伝わっているとされている。すなわち、フツヌシはアマテラスの神意を奉じて、タケミカヅキと共に出雲国の大国主命と交渉して、円満裡に国土を皇孫に捧げ奉らしめた。その後、国内を巡回して荒振る神々を平定して日本建国の基を築き、また東国開拓の大業を完遂したという。


話の世界の話はともかくとして、古代の霞ヶ浦付近の地形は現在とはかなり違っていて、現在両神宮が鎮座する付近は「香取の海」と呼ばれた霞ヶ浦を両側から扼する要害の地だったとされている。東国支配を進める大和朝廷の視点にたてば、鹿島と香取はおそらく東国進出の拠点であり、同時に北の蝦夷に対する備えとして、最高の軍事拠点だったに違いない。

ともと鹿島や香取には、土着神が海上交通の神として信仰されていたと思われる。香取の古名は「楫取」と書き、一般には舵取りの意味と考えられている。だが、東国進出の拠点となり、また北に対する備えと位置づけた大和朝廷は、軍神をこの地に配して北の守りとした。鹿島にタケミカヅチを祀り、香取にフツヌシを祀った背景には、そうした事情があったように思う。

原氏の祖とされる中臣鎌足が鹿島出身であるという説は、『大鏡』に記載されている。筆者はその部分を読んでいないので、根拠は分からない。しかし、鹿島誕生説は『大鏡』だけに記載されているに過ぎないという。藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)(=恵美押勝、えみのおしかつ)が天平宝字4年(760)執筆した『藤氏家伝』など中臣鎌足に関するほとんどの史料は、誕生地を藤原の第(明日香村小原)としている。

臣鎌足は、中臣御食子(みけこ)と大伴囓子(おおとものくいこ)の娘である大伴夫人との間の子として、上記の地で推古22年(614)に出生したとされている。藤原仲麻呂は中臣鎌足の直系の曾孫にあたる。常識的には、自分の”ひいおじいさん”の出生地を偽って記述する理由は見つからない。

春日大社の中門と御廊
春日大社の中門と御廊
大鏡』の鹿島誕生説を敷衍して、中臣鎌足の父御食子が鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣された時に大伴夫人との間にできた子が鎌足だとする説があるようだ。実際は逆ではなかったかと思われる。『常陸風土記』では、鹿島の地は神郡と呼ばれ、中臣氏が管轄し、中臣部や卜部などが居住していたとされている。もとは鹿島神宮の祭祀者だった在地の中臣氏の御食子が大和に出てきて、大伴夫人との間に子をなしたと考えたほうが理解しやすい。

臣鎌足から藤原不比等、藤原仲麻呂と、飛鳥時代から奈良時代にかけて藤原氏が栄えるに連れて、祖先の地が重用視され、地方の土着神を祀っていたにすぎない神社に軍神が祀られ、皇祖神を祀る伊勢神宮と同じ重きをなすようになったのかもしれない。

良の春日大社は、和銅3年(710)の平城遷都の際に藤原不比等が藤原氏の氏神のタケミカヅチを祀ったのが起こりとされている。しかし、別の説もある。神護景雲2年(768)に藤原永手が、常陸の国の鹿島神宮からタケミカヅチを、下総国の香取神宮からフツヌシを、河内国の枚岡神社から天児屋根命(アメノコヤネノミコト)と比売神(ヒメカミ)の4神をそれぞれ勧請して祀り、氏社としたのが春日大社だとも言われている。そうであれば、現在の奈良公園を闊歩する日本鹿は、はるばる鹿島からタケミカヅチの分霊を運んだ神の使の子孫たちかもしれない。



(*)鹿島神宮参拝のしおりより転記
(**)香取神宮のHPより転記
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