橿原日記 平成17年12月11日

万葉の大和路を歩く会 「こもりくの初瀬・朝倉宮」に参加

初瀬谷から桜井市の市街地を望む
初瀬谷から桜井市の市街地を望む。金剛山頂付近は雨に霞む (2005/12/11 撮影)


325回の「万葉の大和路を歩く会」は、園田学園女子大学教授の影山尚之氏を講師に招いて、初瀬街道(はつせかいどう)を歩くことになった。初瀬街道とは、北に聳える三輪(みわ)山と南に聳える外鎌(とがま)山の間を流れる初瀬川に沿って、桜井市の東の初瀬谷に分け入る道である。平安時代、紫式部や清少納言たちは、平安京から南下してきて、海柘榴市(つばいち)で旅の疲れを癒したあと、この道を通って長谷寺(はせでら)へ参詣した。江戸時代になってお伊勢参りが盛んになると、山越えして伊勢へ出るための伊勢街道として世に知られるようになった。

あああ
園田学園女子大学の影山尚之教授
かし、初瀬谷を東へ延びるこの道は、大和から伊勢や伊賀、さらにはその向こうの東国へ続く道であり、古代から重要視されてきた。『万葉集』の冒頭に置かれた”籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち 〜”の歌は、第21代・雄略天皇の作とされている。雄略天皇は即位に当たって、初瀬谷の入口を扼する朝倉に泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)を営まれたのは故無しとしない。

の「歩く会」が『万葉集』に配された歌の順に万葉の故地を巡るとすれば、さしずめ初瀬街道は最初に巡るべき場所だったに違いない。325回を迎えた会では、過去に何回もこの地を訪れたはずだが、筆者にとっては初めての参加である。すでに、紅葉の季節は過ぎ、曇天の空の下を、冷たい北風が初瀬谷に吹き込む時期を迎えていた。

【コース】 JR/近鉄桜井駅北口 --(バス) →初瀬山口神社与喜天満神社長谷寺出雲十二柱神社白山比盗_社脇本遺跡玉列神社 → 近鉄朝倉駅 (徒歩約8キロ)

【関連地図】 第325回の「万葉の大和路を歩く会」探訪地図



太古より大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀ってきた延喜式内社・長谷山口神社(はせやまぐちじんじゃ)

回のウオーキング参加者はおよそ120名で、最初の訪問地へ向かうバスが3台、JR・近鉄桜井北口に用意されていた。曇天の空の下を、9時半過ぎに出発したバスは、茶臼山古墳の前を通る国道165号線を東に向かった。初瀬川を渡ると、いよいよ初瀬谷に入る。

初瀬山口神社の拝殿
長谷山口神社の拝殿
に聳える三輪山の山麓には、慈恩寺・脇本・黒崎・出雲といった集落が続いている。昔の初瀬街道はこれらの集落を縫うように築かれていた。車道として築かれた国道165号線も、場所によっては昔の初瀬街道と重なる部分がある。右手の車窓には、外鎌山の山麓を近鉄の電車が走り、その下を初瀬川が進行方向とは逆の西に向かって流れている。

瀬の集落に入ったバスは、長谷寺方面へは向かわず、そのまま国道165号線を進み、坂道の途中で止まった。そこから徒歩で集落の裏山に分け入り、最初の訪問地である長谷山口神社へ向かった。神社は与喜山(よきさん、天神山とも言う)の西南の尾根の端に鎮座している。

初瀬川に架かる神河橋
初瀬川に架かる神河橋
の中腹に鎮座するこの神社に参拝するには、本来なら、初瀬川左岸にかかる朱塗りの神河橋を渡って、長い階段を上って来なければならない。それを裏道を伝ってアクセスしていることになる。いわばズルをしたわけだ。

谷山口神社の境内はそれほど広くない。120人ほどの参加者が集えば、それだけで一杯になる。境内に掲げられた巨大に由緒書きによれば、この神社は、古来より長谷山の鎮(しずめ)の神として大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀っていた。垂仁天皇の時代に、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)を伊勢に遷す旅の途中で、この地で8年間滞在した。その折に、天照大神の随神として、天手力雄神(あめのてじからおのかみ)をこの地に、また豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)を北の山中に祀ったという。したがって、長谷寺縁起その他の古文書では、この地域は三神の里とされている。

由緒記
長谷山口神社の由緒記
山祇神と天手力雄神を主祭神とする当社は、長谷山口坐神社として『延喜式』神明帳に記載されている。天平2年(730)の大和大税帳にもその名が見えることから、相当昔から尊崇されてきた神社にちがいない。長谷寺縁起によれば、長谷寺の開山は、天手力雄神の霊現と功徳に与ったという。明治42年になって、初瀬平田に祀ってあった豊受神社の豊受姫神(とようけひめのかみ)を合祀した。なお、本殿は慶長18年(1613)の建築であることを証明する棟札が残っているとのことだ。

田教授は、マイクを持つ手を寒さで震わせながら、本日の万葉講座の第一声を神社の境内で上げられた。最初は「初瀬」の語源の説明だった。『万葉集』では「初瀬」を「泊瀬」と書いて、”はつせ”と読んでいる。このため、大和川を川舟でさかのぼって泊(は)てるところと言う意味で”はつせ”という地名が生まれたとする説があるという。ちなみに、「泊つ(はつ)」は「泊まる」という意味の古語である。「瀬」は「淵(渕)」の反対で川の浅い部分を指す。

長谷」と書いて、昔は”はつせ”と読んだとされている。現代の読みは”はつせ”が”はっせ”に転じ、さらに”はせ”になったのでは、と一般に言われている。だが、教授は面白い説を紹介された。アスカを飛鳥と書くのは、「飛ぶ鳥の明日香」の枕言葉の部分がいつしか明日香に代用されるようになったとされている。同じように、泊瀬は長い渓谷の中にあるため、あるいは「ながたにの泊瀬」といった枕詞的表現の”ながたに”が長谷に転じたのでは・・・というのである。しかし、”長谷の(泊瀬)”といった枕詞が『万葉集』で使われているのかどうか、管見にして筆者は知らない。

初瀬山口神社の本殿
初瀬山口神社の本殿
万葉集』では、泊瀬の枕詞は「こもりくの」が相場である。大和盆地の中央にあたる国中(くんなか)から見れば、泊瀬谷は山ふところ深く囲まれた所なので、”隠り国の(こもりくの)”という表現が多用されるようになったらしい。”こもりくの はつせ”と詠んだ歌は『万葉集』の中に19例もあるそうだ。例えば:

●こもりくの 泊瀬の山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも (巻8-1593)
【大意】初瀬の山はすっかり色づいたことだ。しぐれの雨が降ったに違いない
●こもりくの 泊瀬の山の 山の際(ま)に いざよふ雲は 妹(いも)にかもあらむ 柿本人麻呂 (巻3-428)
【大意】泊瀬の山の山のあたりに去りもやらずにいる雲は妹だろうか



与喜山の中腹に菅原道真を祀る与喜天満神社(よきてんまんじんじゃ)

与喜天満神社の参道
与喜天満神社の参道
の訪問地は、与喜山(天神山)の中腹に鎮座する旧郷社・与喜天満神社である。長谷山口神社の境内からは、急な傾斜の階段を下って初瀬川沿いに軒を並べる長谷寺門前町まで出なければならない。急な階段は下り坂だから助かった。逆の上りだったら、途中で悲鳴を上げた人も多かったであろう。

谷寺商店街に出て、中を抜ける県道38号線を長谷寺に向かって進むと、途中のT字路に標識が出ている。長谷寺はこの交差点から250mほどのところにあるらしい。左手の山腹に、寺の堂宇の一部が木々の間から顔をのぞかせているのが見える。5月のボタンが咲く頃は、商店街も参拝客で賑わう。師走を迎えた今頃は閑散としている。

与喜寺跡
与喜寺跡
喜天満神社の御旅所の前を通り過ぎて先へ進むと、やがて正面に石の階段が見えてくる。長い階段の途中に赤い鳥居が見え、その先が与喜天満神社の参道らしい。鳥居をくぐり、参道を上っていくと、階段の途中で左手に広場があり、小さな石碑が立っていた。「与喜寺跡」と書いてある。その寺跡で、園田教授は2回目の講義を始められた。ただし、話の中身は与喜天満神社の由来と、付近一帯が天然記念物の与喜山暖帯林になっていることの説明だった。

後の山は、現在は天神山と呼ばれているが、もともとは与喜山が本来の呼称だった。その中腹の標高455mの所に、鎌倉時代の初め菅原道真を祀る天神社が創祀された。その言われとして、次のような話が長谷寺霊験記に残されている。天慶9年(946)、天満天神の化身である殿太夫武麿が 長谷の滝蔵社・観音堂などに参詣した。そのとき滝蔵権現が現れ、こう言った。「伽藍の守護を天満天神に譲る。 東の峯は断惑修善に良き地なので、天満天神はその峯に住みなさい」。そこで、天満天神は雷神となって降臨し、与喜大明神と称した。以来、山の呼称は天神山に変わったという。

与喜天満神社
与喜天満神社
の付近の森林は古くから長谷寺の寺領として伐採を禁止されてきた。そのため、よく原生林の状態を残している。常緑広葉樹を主とする暖帯性植物のほかに、温帯性、寒地性のものも混じっていて、その数はおよそ950種にも及ぶという。我が国の暖帯北部における代表的な林の様相を示す貴重な原生林として、昭和32年12月8日、天然記念物の指定を受けた。

喜寺跡の空き地の端に立つと、泊瀬川に沿って長々と続いている泊瀬町の集落を見下ろすことができる。「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」が単なる語呂合わせでないことが実感できる。視線をあげれば、泊瀬川の対岸の山の中腹に長谷寺の堂宇が甍(いらか)を並べている。

喜天満神社の社殿は、この空き地からさらに急な階段の参道の上りきった上にある。明治初めの神仏分離令で、長谷寺の境内に祀られていた滝倉三社権現などがこの神社に遷座させられたという。神社には、正元元年(1259)の銘がある怒天神が神像として安置されているとのことだ。



四季おりおり観音を荘厳して咲く花の寺・長谷寺(はせでら)

長谷寺を望む
連歌橋付近から長谷寺を望む
喜天満神社の社殿前から長谷寺方面へ下る山道がある。その道を下ってきて、初瀬川に架かる連歌橋あたりで、前方を見上げると小初瀬山(こはつせやま)の中腹に立ち並ぶ長谷寺の堂宇が見える。

谷寺の創起は古い。朱鳥元年(686)、道明上人(どうみょうしょうにん)が天武天皇の悩みを平癒するために西の岡に精舎を建立して千仏多宝塔銅盤(国宝)を鋳造して祀ったのが、この寺の始まりとされている。現在、その場所に本長谷寺という小さな堂が建っている。その後、神亀4年(727)に聖武天皇の勅命を受けて、徳道上人(とくどうしょうにん)が東の岡に後長谷寺を建立して十一面観音菩薩像を安置した。これが現在の観音霊場・長谷寺の原点になっている。徳道上人は西国三十三所巡拝の開祖とされている人物であり、それが機縁で長谷寺は三十三所の根本道場になっている。

長谷寺の仁王門
長谷寺の仁王門
谷寺の十一面観音は朝野の篤い信仰の対象となり、『源氏物語』や『枕草子』などの平安文学でも度々登場する。しかし、考えてみれば、長谷寺が建立された時代は、万葉の歌人たちが活躍した時代である。こもりくの泊瀬を詠った歌が数多く『万葉集』に収録されている。しかし、万葉歌の中に長谷寺を詠んだ歌があるのかどうか、管見にして知らない。今回の歩く会で配布されたレジメにも、その類の歌は紹介されていない。

たがって、万葉の故地を訪ねる「歩く会」の趣旨からすれば、長谷寺参詣はいわば通りすがりの付録のようなものだ。目的は、本堂から下ってきたところにある御茶所での食事休憩である。しかし、せっかく訪れた以上はゆっくりと見学しない手はない。春には桜に始まってボタン、アジサイと様々な花々で寺が荘厳に飾られ、秋には全山が紅葉する景勝地も、師走ともなれば思いの他寂しい。これで雪でも降れば、また違った趣を楽しむことができるのだが、残念である。

本堂への登廊 二本の杉 藤原俊成・定家塚
本堂への登廊 二本の杉 藤原俊成・定家塚
王門から続く登廊の両脇は、今は剪定されたボタンの株だけが並んでいる。登廊の途中で「二本の杉」と「藤原俊成・定家塚」方面への表示が出ていたので、脇道へ折れてみた。

二本の杉」は『源氏物語』に登場する玉鬘(たまかつら)にゆかりの杉とされている。玉鬘は、光源氏に愛されて契りながら、生霊の取り憑かれて死んだ夕顔の娘である。故あって筑紫に身を隠すが、母に会いたい一心で筑紫から舟で大和にやってきた。そして、旅の途中の海柘榴市(つばいち)の宿で、偶然にも、かって夕顔の侍女で今は源氏に仕えている右近と巡り会い、ともに長谷寺に参籠し母の死を知ったという。玉鬘との奇遇を喜んだ右近は、次の歌を詠んだとされている。
●二(ふた)もとの 杉のたちどを 尋ねずは ふる河のべに君を見ましや
この歌に出てくる「二本の杉」が、仁王門の東方斜面に今もそびえていている。謡曲「玉鬘」は源氏物語の玉鬘の巻に依ったものとされている。

長谷寺の本堂
長谷寺の本堂〔国宝)
二本の杉」から更に先へ行くと、「俊成の碑」と「定家の塚」がある。藤原俊成は平安末期から鎌倉初期に活躍した歌人で、定家の父である。正三位皇太后宮大夫まで出世したので、五条三位と称された。定家は鎌倉時代の歌人で、父より出世し正二位権中納言まで進んだが、晩年出家して法名を明静と名乗った。「新古今和歌集」の選者の一人であり、「新勅撰和歌集」、「小倉百人一首」の撰者としても知られている。

び登廊に戻って上を目指すと、手水屋の前で登廊は右に折れ、蔵王堂の前で再び左に折れて本堂横の鐘楼へと続いている。本堂は山の中腹にグイと張り出した懸造り(かけづくり)の大きな建物で、正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)を一つにしている。徳川幕府による大規模な造営として代表的な寺院本堂で、平成16年(2004)12月、国宝の指定を受けた。

十一面観音菩薩立像
本尊・十一面観音菩薩立像
(長谷寺のパンフより転載)
堂と礼堂の間に石敷きの土間があり、そこから正堂に安置された本尊の十一面観音菩薩立像を拝むことができる。最初の十一面観音菩薩像は徳道上人によって安置された。しかし、その後幾度も火災で焼失して、現在の像は室町時代の天文7年(1538)仏師の運宗(うんしゅう)などによって造立されたものである。座高は10.18mもあり、我が国で最も巨大な木造仏とされている。この仏像は右手に錫杖、左手に水瓶を持っている。類例のない様式であり、長谷寺式十一面観音と呼ばれている。



野見宿禰の五輪塔がある出雲十二柱神社(いずもじゅうにはしらじんじゃ))

十二柱神社の社殿
十二柱神社の社殿
2時50分、昼食を終えた一行は隊列を組んで門前町商店街を通って、国道165号線に出た。しかし、国道には歩道はなく形ばかりの路側帯があるだけで、団体行動には不向きである。そこで、直ちにた旧伊勢街道に入り出雲集落を目指した。出雲集落の中程には、天神七代と地神五代の十二柱を祭神として祀る「出雲十二柱神社」がある。しかし、この神社は当初からこの地に鎮座していたのではない。

承によると、古代の出雲集落は、三輪山の東方1700mの峰の上の「ダンノダイラ」という所にあった(現在でもその付近は桜井市出雲地域に含まれている)。まだ神殿がなかった古代、村の人々はダンノダイラにあった磐座(いわくら)を拝んでいた。そこが十二柱神社の鎮座地だった。明治の初め頃になっても、出雲村総出で年に一度はダンノダイラへ登って、先祖を祀り偲ぶ習慣があった。その日は一日中相撲を取ったり、食べたりして楽しんだとされている。

野見宿禰の五輪
野見宿禰の五輪塔
二柱神社の境内には、宿禰墓と呼ばれている五輪塔がある。かって野見宿禰(のみのすくね)の古墳があったという場所に立つ高さ2.85mの巨大な五輪塔で、鎌倉時代に造られたという。四面に単独梵字仏(20体)と、地輪に1字1石経(23)が納められている全国でも珍しい古塔とされている。

見宿禰は出雲の国の出身で、相撲の開祖として、また埴輪の開祖として古くから知られている。『日本書紀』は第11代・垂仁天皇7年の事として、次のような話を載せている。当麻村に当麻蹶速(たいまのけはや)という剛の者がいて、自分は天下無双と豪語していた。これを聞いた、垂仁天皇は蹶速にかなう者を物色させたところ、出雲に野見宿禰という勇士がいることが分かった。さっそく野見宿禰を呼び寄せて、カタヤケシという地(穴師にある兵主神社の参道のそば)で、我が国初の天覧相撲を行わせた。試合では、野見宿禰が蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて、蹶速を殺してしまった。そこで、一般には野見宿禰が相撲の元祖とされている。

狛犬
十二柱神社の石段の左右に狛犬
雲十二柱神社の石段の左右に、狛犬の石造が向き合っている。その台座が相撲取りの人形になっている。八基ともそれぞれ形が違っているが、すべて相撲の技に叶っているという。一方、当麻の里には、史跡当麻蹶速の塚があり、こちらでも塚の傍らの案内板に”相撲の開祖・当麻蹶速”と書いてある。蹶速にあやかったのか、當麻町相撲館までが塚の横に建っている。

見宿禰は、殉死の悪習を廃止して、その代わりに古墳に埴輪を立てることを献策した人物としても知られている。垂仁天皇28年、天皇の母弟(いろど)倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなって身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂)に埋葬された。従来の風習で、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めたという。しかし、数日たっても彼らは死なず、昼夜泣き呻めいた。天皇はその呻き声を聞いて心を痛め、以後殉死を禁じた。

れから、4年後、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。殉死に代わる対策を下問したところ、野見宿禰が出雲の国から土師部(はじべ)100人を呼んで、埴土(はにつち)で人や馬の形を作り、今後は生きた人間に代えて墓に立てることを進言したという。こうして埴土で作られた品は埴輪(はにわ)と呼ばれ、最初の埴輪が日葉酢媛命の墓に立てられたとされている。その墓は、奈良市の佐紀盾列古墳群の中にある。

狛犬の台座
狛犬の台座
見宿禰が出雲の国から呼び寄せた土師部は、その後この地に住み着き、埴輪や土器の製作、葬礼・陵墓などを管理する伴造(とものみやつこ)として活躍した。当初は「連(むらじ)」の姓を与えられたが、天武13年の改姓では「宿禰(すくね)」を賜った。土師連は天皇葬送儀礼に与り、律令制度のもとでも諸陵司や喪儀司などの官人になった者が多い。しかし、大化の薄葬礼以後は土師氏の伝統的職掌が衰微していき、奈良時代後半になると、改姓を願い出て、菅原・秋篠・大枝などに別れていった。

雲村は出雲人形で知られる土地柄である。明治の初め頃、出雲村の戸数は110軒だった。そのうち、窯元が10軒、売店が30軒あったという。地場産業として、村は大いに賑わったが、そのうち廃れた。明治の後期になって、水野徳造という人物が、もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて水野家流の出雲人形を考案し、その後継者が現在活躍している。ただし、出雲人形という呼称は昭和になってからのもので、それ以前は出雲村の土人形と呼んでいた。

泊瀬列城宮趾の標石
泊瀬列城宮趾の標石
雲十二柱神社には、武烈天皇の泊瀬列城宮趾(はつせなみきのみや)の標石があり、伝承の地とされている。『日本書紀』の武烈天皇前紀には、大伴金村連(おおとものかなむらのむらじ)ら群臣の推戴を受けて、高御倉を泊瀬の列城(なみき)に設けて即位し、そこを宮と定めたと記されている。


雲十二柱神の境内で、地元の郷土史家で今年83歳の家永氏から面白い話を聞かされた。そのいくつかを付記しておこう。

の古老は、今まで50年近くこの地方の伝説を掘り起こしてきた結果として、『日本書紀』などに野見宿禰は出雲の国の出身であると書かれているのはどうも間違いのようだ、と言われる。現在の桜井市の出雲は初瀬谷の中の一集落にすぎないが、かっては20平方キロから34平方キロの広大な地域で、現在の桜井市域の1/3ほどを占めていたという。出雲といえば、すぐに島根県と結びつけられるが、初瀬谷の何処にいても山の稜線から雲が湧くのが見え、出雲と呼ぶにふさわしい。したがって、野見宿禰は島根県からの土師部を引き連れて移住してきた集団のボスではなく、最初からこの大和出雲の人間だった可能性が高いとのことだ。

に、現在の泊瀬川は川幅がせいぜい20mほどだが、万葉の時代には350mから400mの川幅だったと思われるとのことだ。その証拠に、村内で家を建てるために何処を掘っても川石や川砂、あるいは貝殻が出るという。また小字には川原や中之島、〜崎といった地名も残っている。おそらくは谷一杯に広がった、水量豊富な河川ではなかったか、というのが家永氏の推測である。

の他にも、昔は村民が三諸山(みもろやま)の約485mの等高線上にある山上へウナギを取りに行ったとのことだ。山にウナギがいたとも思えないが、家永氏の話では、三諸山の向こうは高原となっていて、高原に降った雨が伏流水となって地下を流れ、三諸山のあちこちから湧き出して池を作っていたとのことだ。その水温は14度程度に一定しており、さらに水辺には枯葉が積もってウナギの住みかとして最適らしい。そのため、谷をさかのぼったウナギたちが山に住むことになったとのことだ。



万葉集発燿讃仰碑(まんようしゅうはつようさんぎょうひ)が建っている白山比盗_社(はくさんひめじんじゃ)

この丘で雄略天皇が乙女に語りかけた?
この丘で雄略天皇が乙女に語りかけた?
雲十二柱神社を出発して次の白山比盗_社に向かう途中で、家永氏の案内ですこし寄り道した。『万葉集』の巻頭を飾る雄略天皇の歌の舞台となった土地を是非見ておいて貰いたいとのことだ。道は出雲集落の裏山に向かって上っていく。棚田や段々畑が広がる山麓を上るに従って、視界が広がっていく。谷を隔てて見事に紅葉した外鎌山が見え、そこから視線を西に転ずると、泊瀬谷の出口の先に大和盆地が広がっている。

るで一幅の絵を見るような場所で、家永氏が立ち止まり、若菜摘みをしている乙女たちに雄略天皇が語りかけたのは、この辺りの丘に違いないと説明した。言われてみれば、そのような気がしてくるから不思議なものである。

万葉集』の冒頭は、第21代・雄略天皇が春の野で若菜を摘んでいる乙女に呼びかけた次の歌で始まっている。
● 籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 
家聞かな 告(の)らさね そらみつ 大和の國は おしなべて
われこそ 居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家も名も
(巻1−1)
【大意】籠もよい籠をもち、掘串もよい串を持って、この岡で菜をお摘みの娘さん。あなたの家は何処か聞きたい。言いなさいな。大和の国は私こそすべてを従えて一面に治めているのだが、私にこそ教えてくれるでしょうね。あなたの家も名をも。

女に求愛する非常にナイーブな気持ちを表した歌とされているが、後に述べるように、『日本書紀』では雄略天皇は別の顔を持つ人物として描かれていて、この歌から受ける人物像とはギャップは大きい。


白山比盗_社の正面
白山比盗_社の正面
井市黒崎の集落の東はずれにある白山比盗_社(はくさんひめじんじゃ)は、白山比菅原道真を祭神とする旧指定村社である。国道165号線は、神社の参道をぶった切るように境内を横切っている。車の往来が激しい場所で、神社の正面にある鳥居をフレームに入れてカメラのシャッターを切ろうとしても、車がフレームの中に入ってくるのでなかなかタイミングがとりにくい。

歩く会」がこの神社に立ち寄る理由は、境内の端に記念碑の「万葉集発燿讃仰碑(はつようさんぎょうひ)」が建っているためだろう。その後ろには、上記の万葉歌を刻んだ歌碑がある。いずれも地元出身の評論家の保田與重郎(やすだよじゅうろう)氏(1910 - 1981)の揮毫によるものである。

保田與重郎氏揮毫の記念碑
保田與重郎氏揮毫の記念碑
治43年に桜井市に生まれた保田氏は、早くから万葉集に親しみ、畝傍中学、大阪高等学校を経て東京帝国大学に進んだ。卒業後は亀井勝一郎、中谷孝雄、芳賀檀らと「日本浪漫派」を創刊し、豊かな感受性と独特の文体で昭和初期を代表する批評家だった。戦時中は日本精神の再検討、復活を標榜していわゆる日本主義に走り、時代の立て役者となった。だが、戦後は公職追放を受け京都に隠棲した。それでも、「わが郷里桜井」を内外に示すため、桜井市のあちこちに顕彰碑を建てている。万葉集発耀の碑はその活動の一環である。

保田與重郎氏揮毫の万葉歌碑
保田與重郎氏揮毫の万葉歌碑



泊瀬朝倉宮跡(はつせあさくらのみやわきもといせき)の候補地の一つとされている脇本遺跡

万葉集』に乙女に求愛する非常にナイーブな気持ちを詠った歌を残した第21代雄略天皇を、『日本書紀』は別の顔を持つ人物として描かれている。

位する前はワカタケルと呼ばれていた雄略天皇は、その名の通り血気盛んな男だったようだ。即位前に、驚くべき血の粛清を行なっている。発端は、眉輪王(まよわのおおきみ)の変である。同母兄の第20代安康(あんこう)天皇が妃の連れ子の眉輪王に暗殺されるという事件が起きた。ワカタケルはまず、同母兄の八釣白彦(やつりのしろひこ)をこの事件に連座していると疑い殺害する。ついで、もう一人の同母兄の坂合黒彦(さかあいのくろひこ)皇子も、眉輪王とともに大臣(おおおみ)の葛城円(かつらぎのつぶら)の屋敷に逃げ込んだ。皇子は2人の引き渡しを葛城円に要求したが応じなかったので、屋敷に火を放って3人とも焼き殺してしまった。

らに、皇位継承者の有力候補だった従兄弟の市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)を、近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)での巻狩りに誘い、いかにも鹿と見間違えて誤射したように見せかけて殺してしまった。その上で、第21代天皇として即位したのである。まさに血塗られた手で玉座を手に入れた人物と言ってよい。

が、武断的な性格の天皇は、外交面ですばらしい成果を残した。身狭村主青(むさのすぐり・あお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかい・はかとこ)という2人の渡来人を重用し、朝鮮半島や大陸の宋との外交に当たらせた。多くの技術者を半島から呼び寄せ、飛鳥に住まわせたのは彼の時代である。

西暦475年、朝鮮半島の北にいた高句麗(こうくり)が南下して百済(くだら)の王都・漢城を包囲すると、火攻めで落城させ、逃亡する王を追撃して殺害した。こうして、実質的には百済はいったん滅亡した。雄略天皇はその再興に手を貸した。『日本書紀』には、「時の人はみな、”百済国は一族すでに亡んで、倉下(へすおと)にわずかに残っていたのを、天皇のご威光により、またその国を興(おこ)した”、と言った」と伝えている。さらに、当時の宗主国の宋に使節を派遣して順帝に上表文を送り、高句麗の無道ぶりを糾弾したことは有名である。それは昇明2年(478)のことであり、『宋書』には、漢文で書かれた全文が記載されている。


朝倉遺跡の上に建つ体育館
朝倉遺跡の上に建つ体育館
あああ
春日神社の社殿
の雄略天皇が営んだ宮が泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)である。だが、その宮跡は容易に見つからなかった。その候補地は幾つかある。その一つは、上に述べた白山比盗_社(はくさんひめじんじゃ)だった。

が、昭和56年(1981)の発掘で、春日神社を中心とした脇本遺跡から石積みの溝とその底から土器が出土した。その土器の調査によってこの遺跡は6世紀前半のものと判明した。現在は朝倉小学校の体育館の下に埋めて保存されている。

和59年からは朝倉小学校の西南方、国道165号線の北側の田んぼとなっている灯明田地区、およびその東側の苗田地区に発掘調査の範囲が拡大された。灯明田地区では、下層から5世紀後半の大型建物が、上層からは7世紀後半のやはり大型建物の遺構が検出された。さらに苗田地区の発掘でも、全域に5世紀後半の広場のような整地された層が見つかった。

うした発掘調査の結果を総合的に判断して、脇本遺跡の5世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物の可能性が非常に高いと見なされた。だが、私有地のため完全な調査ができないまま埋めもどされた。



玉椿大明神とも云われ、境内にヤブ椿が群生する玉列神社(たまつらじんじゃ)

「阿弥陀寺のケヤキ」
「阿弥陀寺のケヤキ」
慈恩寺の「阿弥陀堂」
慈恩寺の「阿弥陀堂」
日神社の前から西に向かう道が、国道165号線とは少し距離を置いて平行して続いている。かっての「初瀬街道」だが、現在は「東海自然歩道」として整備されている。この舗装された田舎道をしばらく歩くと、慈恩寺の集落に入り、集落の奥にある慈恩寺「阿弥陀堂」の前に出る。

恩寺境内入口の石段の横に県指定「欅の巨木」がある。推定樹齢800年の老木で、ほとんど下半身しか残っていない彫像のようだが、「阿弥陀寺のケヤキ」と呼ばれている。「阿弥陀堂」には市指定の本尊「阿弥陀如来坐像」が安置されている。高さ87cmの桧の寄木造りで、平安時代後期の作とされている。脇侍の観世音菩薩と大勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像である。

恩寺「阿弥陀堂」の隣にある玉列(たまつら)神社は、古くは玉椿(たまつばき)大明神とも云われ、境内にはヤブ椿が群生している。延喜式神名帳にも見える初瀬谷(はせだに)での最古社の1つである。大正10年に大神(おおみわ)神社の境外摂社とされ、大物主神の子の玉列王子(たまつらノみこ)を祭神として祀っている。玉列とは、魂貫の意味だそうだ。



玉列神社の参道玉列神社の本殿
玉列神社の参道 玉列神社の本殿


列神社を最期に、本日の泊瀬街道のウオーキングは無事に終了した。泊瀬谷に吹き込んでくる寒風は冬将軍の到来を予告している。その北風を避けるように、最寄りの近鉄「朝倉駅」に向かった。

歩く会」に参加して、万葉の故地で講師の話を傾聴しながらいつも思うのは、日本語のすばらしさである。飛鳥時代や奈良時代に作られた歌が、そのままストレートに現代の我々の琴線に触れてくる。作者の思いが直接現代の我々に伝わってくる。そもそも、そんな古い時代に作られた歌を、現代の我々が何の抵抗もなく読めること自体、奇跡である。そんな言語が他の国にあるだろうか。そして、いつも思う、『万葉集』は国民の財産であると。


【注】このレポートに収録した万葉歌の現代語訳は、岩波書店発行の日本古典文学大系の『万葉集』に示されたものである。


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