![]() |
| 初瀬谷から桜井市の市街地を望む。金剛山頂付近は雨に霞む (2005/12/11 撮影) |
|
この「歩く会」が『万葉集』に配された歌の順に万葉の故地を巡るとすれば、さしずめ初瀬街道は最初に巡るべき場所だったに違いない。325回を迎えた会では、過去に何回もこの地を訪れたはずだが、筆者にとっては初めての参加である。すでに、紅葉の季節は過ぎ、曇天の空の下を、冷たい北風が初瀬谷に吹き込む時期を迎えていた。 【コース】 JR/近鉄桜井駅北口 --(バス) →初瀬山口神社 → 与喜天満神社 → 長谷寺 → 出雲十二柱神社 → 白山比盗_社 → 脇本遺跡 → 玉列神社 → 近鉄朝倉駅 (徒歩約8キロ) |
太古より大山祇神
|
![]() |
| 長谷山口神社の拝殿 |
初瀬の集落に入ったバスは、長谷寺方面へは向かわず、そのまま国道165号線を進み、坂道の途中で止まった。そこから徒歩で集落の裏山に分け入り、最初の訪問地である長谷山口神社へ向かった。神社は与喜山(よきさん、天神山とも言う)の西南の尾根の端に鎮座している。
![]() |
| 初瀬川に架かる神河橋 |
長谷山口神社の境内はそれほど広くない。120人ほどの参加者が集えば、それだけで一杯になる。境内に掲げられた巨大に由緒書きによれば、この神社は、古来より長谷山の鎮(しずめ)の神として大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀っていた。垂仁天皇の時代に、倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大神(あまてらすおおみかみ)を伊勢に遷す旅の途中で、この地で8年間滞在した。その折に、天照大神の随神として、天手力雄神(あめのてじからおのかみ)をこの地に、また豊秋津姫命(とよあきつひめのみこと)を北の山中に祀ったという。したがって、長谷寺縁起その他の古文書では、この地域は三神の里とされている。
![]() |
| 長谷山口神社の由緒記 |
園田教授は、マイクを持つ手を寒さで震わせながら、本日の万葉講座の第一声を神社の境内で上げられた。最初は「初瀬」の語源の説明だった。『万葉集』では「初瀬」を「泊瀬」と書いて、”はつせ”と読んでいる。このため、大和川を川舟でさかのぼって泊(は)てるところと言う意味で”はつせ”という地名が生まれたとする説があるという。ちなみに、「泊つ(はつ)」は「泊まる」という意味の古語である。「瀬」は「淵(渕)」の反対で川の浅い部分を指す。
「長谷」と書いて、昔は”はつせ”と読んだとされている。現代の読みは”はつせ”が”はっせ”に転じ、さらに”はせ”になったのでは、と一般に言われている。だが、教授は面白い説を紹介された。アスカを飛鳥と書くのは、「飛ぶ鳥の明日香」の枕言葉の部分がいつしか明日香に代用されるようになったとされている。同じように、泊瀬は長い渓谷の中にあるため、あるいは「ながたにの泊瀬」といった枕詞的表現の”ながたに”が長谷に転じたのでは・・・というのである。しかし、”長谷の(泊瀬)”といった枕詞が『万葉集』で使われているのかどうか、管見にして筆者は知らない。
![]() |
| 初瀬山口神社の本殿 |
●こもりくの 泊瀬の山は 色づきぬ しぐれの雨は 降りにけらしも (巻8-1593)
【大意】初瀬の山はすっかり色づいたことだ。しぐれの雨が降ったに違いない
●こもりくの 泊瀬の山の 山の際(ま)に いざよふ雲は 妹(いも)にかもあらむ 柿本人麻呂 (巻3-428)
【大意】泊瀬の山の山のあたりに去りもやらずにいる雲は妹だろうか
与喜山の中腹に菅原道真を祀る与喜天満神社
|
![]() |
| 与喜天満神社の参道 |
長谷寺商店街に出て、中を抜ける県道38号線を長谷寺に向かって進むと、途中のT字路に標識が出ている。長谷寺はこの交差点から250mほどのところにあるらしい。左手の山腹に、寺の堂宇の一部が木々の間から顔をのぞかせているのが見える。5月のボタンが咲く頃は、商店街も参拝客で賑わう。師走を迎えた今頃は閑散としている。
![]() |
| 与喜寺跡 |
背後の山は、現在は天神山と呼ばれているが、もともとは与喜山が本来の呼称だった。その中腹の標高455mの所に、鎌倉時代の初め菅原道真を祀る天神社が創祀された。その言われとして、次のような話が長谷寺霊験記に残されている。天慶9年(946)、天満天神の化身である殿太夫武麿が 長谷の滝蔵社・観音堂などに参詣した。そのとき滝蔵権現が現れ、こう言った。「伽藍の守護を天満天神に譲る。 東の峯は断惑修善に良き地なので、天満天神はその峯に住みなさい」。そこで、天満天神は雷神となって降臨し、与喜大明神と称した。以来、山の呼称は天神山に変わったという。
![]() |
| 与喜天満神社 |
与喜寺跡の空き地の端に立つと、泊瀬川に沿って長々と続いている泊瀬町の集落を見下ろすことができる。「長谷(ながたに)の泊瀬(はつせ)」が単なる語呂合わせでないことが実感できる。視線をあげれば、泊瀬川の対岸の山の中腹に長谷寺の堂宇が甍(いらか)を並べている。
与喜天満神社の社殿は、この空き地からさらに急な階段の参道の上りきった上にある。明治初めの神仏分離令で、長谷寺の境内に祀られていた滝倉三社権現などがこの神社に遷座させられたという。神社には、正元元年(1259)の銘がある怒天神が神像として安置されているとのことだ。
四季おりおり観音を荘厳して咲く花の寺・長谷寺
|
![]() |
| 連歌橋付近から長谷寺を望む |
長谷寺の創起は古い。朱鳥元年(686)、道明上人(どうみょうしょうにん)が天武天皇の悩みを平癒するために西の岡に精舎を建立して千仏多宝塔銅盤(国宝)を鋳造して祀ったのが、この寺の始まりとされている。現在、その場所に本長谷寺という小さな堂が建っている。その後、神亀4年(727)に聖武天皇の勅命を受けて、徳道上人(とくどうしょうにん)が東の岡に後長谷寺を建立して十一面観音菩薩像を安置した。これが現在の観音霊場・長谷寺の原点になっている。徳道上人は西国三十三所巡拝の開祖とされている人物であり、それが機縁で長谷寺は三十三所の根本道場になっている。
![]() |
| 長谷寺の仁王門 |
したがって、万葉の故地を訪ねる「歩く会」の趣旨からすれば、長谷寺参詣はいわば通りすがりの付録のようなものだ。目的は、本堂から下ってきたところにある御茶所での食事休憩である。しかし、せっかく訪れた以上はゆっくりと見学しない手はない。春には桜に始まってボタン、アジサイと様々な花々で寺が荘厳に飾られ、秋には全山が紅葉する景勝地も、師走ともなれば思いの他寂しい。これで雪でも降れば、また違った趣を楽しむことができるのだが、残念である。
![]() |
![]() |
![]() |
| 本堂への登廊 | 二本の杉 | 藤原俊成・定家塚 |
「二本の杉」は『源氏物語』に登場する玉鬘(たまかつら)にゆかりの杉とされている。玉鬘は、光源氏に愛されて契りながら、生霊の取り憑かれて死んだ夕顔の娘である。故あって筑紫に身を隠すが、母に会いたい一心で筑紫から舟で大和にやってきた。そして、旅の途中の海柘榴市(つばいち)の宿で、偶然にも、かって夕顔の侍女で今は源氏に仕えている右近と巡り会い、ともに長谷寺に参籠し母の死を知ったという。玉鬘との奇遇を喜んだ右近は、次の歌を詠んだとされている。
●二(ふた)もとの 杉のたちどを 尋ねずは ふる河のべに君を見ましや
この歌に出てくる「二本の杉」が、仁王門の東方斜面に今もそびえていている。謡曲「玉鬘」は源氏物語の玉鬘の巻に依ったものとされている。
![]() |
| 長谷寺の本堂〔国宝) |
再び登廊に戻って上を目指すと、手水屋の前で登廊は右に折れ、蔵王堂の前で再び左に折れて本堂横の鐘楼へと続いている。本堂は山の中腹にグイと張り出した懸造り(かけづくり)の大きな建物で、正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)を一つにしている。徳川幕府による大規模な造営として代表的な寺院本堂で、平成16年(2004)12月、国宝の指定を受けた。
![]() |
| 本尊・十一面観音菩薩立像 (長谷寺のパンフより転載) |
野見宿禰の五輪塔がある出雲十二柱神社
|
![]() |
| 十二柱神社の社殿 |
伝承によると、古代の出雲集落は、三輪山の東方1700mの峰の上の「ダンノダイラ」という所にあった(現在でもその付近は桜井市出雲地域に含まれている)。まだ神殿がなかった古代、村の人々はダンノダイラにあった磐座(いわくら)を拝んでいた。そこが十二柱神社の鎮座地だった。明治の初め頃になっても、出雲村総出で年に一度はダンノダイラへ登って、先祖を祀り偲ぶ習慣があった。その日は一日中相撲を取ったり、食べたりして楽しんだとされている。
![]() |
| 野見宿禰の五輪塔 |
野見宿禰は出雲の国の出身で、相撲の開祖として、また埴輪の開祖として古くから知られている。『日本書紀』は第11代・垂仁天皇7年の事として、次のような話を載せている。当麻村に当麻蹶速(たいまのけはや)という剛の者がいて、自分は天下無双と豪語していた。これを聞いた、垂仁天皇は蹶速にかなう者を物色させたところ、出雲に野見宿禰という勇士がいることが分かった。さっそく野見宿禰を呼び寄せて、カタヤケシという地(穴師にある兵主神社の参道のそば)で、我が国初の天覧相撲を行わせた。試合では、野見宿禰が蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて、蹶速を殺してしまった。そこで、一般には野見宿禰が相撲の元祖とされている。
![]() |
| 十二柱神社の石段の左右に狛犬 |
野見宿禰は、殉死の悪習を廃止して、その代わりに古墳に埴輪を立てることを献策した人物としても知られている。垂仁天皇28年、天皇の母弟(いろど)倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなって身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか、築坂)に埋葬された。従来の風習で、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めたという。しかし、数日たっても彼らは死なず、昼夜泣き呻めいた。天皇はその呻き声を聞いて心を痛め、以後殉死を禁じた。
それから、4年後、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった。殉死に代わる対策を下問したところ、野見宿禰が出雲の国から土師部(はじべ)100人を呼んで、埴土(はにつち)で人や馬の形を作り、今後は生きた人間に代えて墓に立てることを進言したという。こうして埴土で作られた品は埴輪(はにわ)と呼ばれ、最初の埴輪が日葉酢媛命の墓に立てられたとされている。その墓は、奈良市の佐紀盾列古墳群の中にある。
![]() |
| 狛犬の台座 |
出雲村は出雲人形で知られる土地柄である。明治の初め頃、出雲村の戸数は110軒だった。そのうち、窯元が10軒、売店が30軒あったという。地場産業として、村は大いに賑わったが、そのうち廃れた。明治の後期になって、水野徳造という人物が、もみがら焼き製法で埴輪説話と結びつけて水野家流の出雲人形を考案し、その後継者が現在活躍している。ただし、出雲人形という呼称は昭和になってからのもので、それ以前は出雲村の土人形と呼んでいた。
![]() |
| 泊瀬列城宮趾の標石 |
出雲十二柱神の境内で、地元の郷土史家で今年83歳の家永氏から面白い話を聞かされた。そのいくつかを付記しておこう。
この古老は、今まで50年近くこの地方の伝説を掘り起こしてきた結果として、『日本書紀』などに野見宿禰は出雲の国の出身であると書かれているのはどうも間違いのようだ、と言われる。現在の桜井市の出雲は初瀬谷の中の一集落にすぎないが、かっては20平方キロから34平方キロの広大な地域で、現在の桜井市域の1/3ほどを占めていたという。出雲といえば、すぐに島根県と結びつけられるが、初瀬谷の何処にいても山の稜線から雲が湧くのが見え、出雲と呼ぶにふさわしい。したがって、野見宿禰は島根県からの土師部を引き連れて移住してきた集団のボスではなく、最初からこの大和出雲の人間だった可能性が高いとのことだ。
次に、現在の泊瀬川は川幅がせいぜい20mほどだが、万葉の時代には350mから400mの川幅だったと思われるとのことだ。その証拠に、村内で家を建てるために何処を掘っても川石や川砂、あるいは貝殻が出るという。また小字には川原や中之島、〜崎といった地名も残っている。おそらくは谷一杯に広がった、水量豊富な河川ではなかったか、というのが家永氏の推測である。
その他にも、昔は村民が三諸山(みもろやま)の約485mの等高線上にある山上へウナギを取りに行ったとのことだ。山にウナギがいたとも思えないが、家永氏の話では、三諸山の向こうは高原となっていて、高原に降った雨が伏流水となって地下を流れ、三諸山のあちこちから湧き出して池を作っていたとのことだ。その水温は14度程度に一定しており、さらに水辺には枯葉が積もってウナギの住みかとして最適らしい。そのため、谷をさかのぼったウナギたちが山に住むことになったとのことだ。
万葉集発燿讃仰碑
|
![]() |
| この丘で雄略天皇が乙女に語りかけた? |
まるで一幅の絵を見るような場所で、家永氏が立ち止まり、若菜摘みをしている乙女たちに雄略天皇が語りかけたのは、この辺りの丘に違いないと説明した。言われてみれば、そのような気がしてくるから不思議なものである。
『万葉集』の冒頭は、第21代・雄略天皇が春の野で若菜を摘んでいる乙女に呼びかけた次の歌で始まっている。
● 籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串もち この岳(おか)に 菜摘(なつ)ます児(こ)
家聞かな 告(の)らさね そらみつ 大和の國は おしなべて
われこそ 居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われにこそは 告(の)らめ 家も名も (巻1−1)
【大意】籠もよい籠をもち、掘串もよい串を持って、この岡で菜をお摘みの娘さん。あなたの家は何処か聞きたい。言いなさいな。大和の国は私こそすべてを従えて一面に治めているのだが、私にこそ教えてくれるでしょうね。あなたの家も名をも。
乙女に求愛する非常にナイーブな気持ちを表した歌とされているが、後に述べるように、『日本書紀』では雄略天皇は別の顔を持つ人物として描かれていて、この歌から受ける人物像とはギャップは大きい。
![]() |
| 白山比盗_社の正面 |
「歩く会」がこの神社に立ち寄る理由は、境内の端に記念碑の「万葉集発燿讃仰碑(はつようさんぎょうひ)」が建っているためだろう。その後ろには、上記の万葉歌を刻んだ歌碑がある。いずれも地元出身の評論家の保田與重郎(やすだよじゅうろう)氏(1910 - 1981)の揮毫によるものである。
![]() |
| 保田與重郎氏揮毫の記念碑 |
![]() |
| 保田與重郎氏揮毫の万葉歌碑 |
泊瀬朝倉宮跡
|
![]() |
| 朝倉遺跡の上に建つ体育館 |
![]() |
| 春日神社の社殿 |
だが、昭和56年(1981)の発掘で、春日神社を中心とした脇本遺跡から石積みの溝とその底から土器が出土した。その土器の調査によってこの遺跡は6世紀前半のものと判明した。現在は朝倉小学校の体育館の下に埋めて保存されている。
昭和59年からは朝倉小学校の西南方、国道165号線の北側の田んぼとなっている灯明田地区、およびその東側の苗田地区に発掘調査の範囲が拡大された。灯明田地区では、下層から5世紀後半の大型建物が、上層からは7世紀後半のやはり大型建物の遺構が検出された。さらに苗田地区の発掘でも、全域に5世紀後半の広場のような整地された層が見つかった。
こうした発掘調査の結果を総合的に判断して、脇本遺跡の5世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物の可能性が非常に高いと見なされた。だが、私有地のため完全な調査ができないまま埋めもどされた。
玉椿大明神とも云われ、境内にヤブ椿が群生する玉列神社
|
![]() |
| 「阿弥陀寺のケヤキ」 |
![]() |
| 慈恩寺の「阿弥陀堂」 |
慈恩寺境内入口の石段の横に県指定「欅の巨木」がある。推定樹齢800年の老木で、ほとんど下半身しか残っていない彫像のようだが、「阿弥陀寺のケヤキ」と呼ばれている。「阿弥陀堂」には市指定の本尊「阿弥陀如来坐像」が安置されている。高さ87cmの桧の寄木造りで、平安時代後期の作とされている。脇侍の観世音菩薩と大勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像である。
慈恩寺「阿弥陀堂」の隣にある玉列(たまつら)神社は、古くは玉椿(たまつばき)大明神とも云われ、境内にはヤブ椿が群生している。延喜式神名帳にも見える初瀬谷(はせだに)での最古社の1つである。大正10年に大神(おおみわ)神社の境外摂社とされ、大物主神の子の玉列王子(たまつらノみこ)を祭神として祀っている。玉列とは、魂貫の意味だそうだ。
![]() | ![]() |
| 玉列神社の参道 | 玉列神社の本殿 |
玉列神社を最期に、本日の泊瀬街道のウオーキングは無事に終了した。泊瀬谷に吹き込んでくる寒風は冬将軍の到来を予告している。その北風を避けるように、最寄りの近鉄「朝倉駅」に向かった。
「歩く会」に参加して、万葉の故地で講師の話を傾聴しながらいつも思うのは、日本語のすばらしさである。飛鳥時代や奈良時代に作られた歌が、そのままストレートに現代の我々の琴線に触れてくる。作者の思いが直接現代の我々に伝わってくる。そもそも、そんな古い時代に作られた歌を、現代の我々が何の抵抗もなく読めること自体、奇跡である。そんな言語が他の国にあるだろうか。そして、いつも思う、『万葉集』は国民の財産であると。
【注】このレポートに収録した万葉歌の現代語訳は、岩波書店発行の日本古典文学大系の『万葉集』に示されたものである。