橿原日記 平成17年12月10日

2年ぶりに訪れた史跡・今城塚古墳(いましろづかこふん)

現地説明会の様子
現地説明会の様子遠望 (2005/12/10 撮影)

第9次調査で 内濠(ないごう)内堤(ないてい)の北西部の状況を初めて確認

今城塚古墳付近の地図
今城塚古墳付近の地図
前10時20分、JR摂津富田(せっつとんだ)駅に久しぶりに降りたった。実に2年ぶりである。一昨年の12月23日、やはり本日と同じように今城塚古墳(いましろづかこふん)を見たくて、この駅に降り立った(継体天皇を埋葬する2つの古墳を見学するを参照)。駅から古墳までは、歩いて歩けない距離ではないが、道に迷わないようにバスを利用した。そのときの記憶があるから、駅前から少し商店街の中に入った高槻市営バスの@番乗り場に向かった。奈佐原行きのバスに乗り、「福祉センター」停留所で下車すればよい。せいぜい10分少々の距離である。

に思い立って高槻市まで来たのは、今城塚古墳の現地説明会に参加するためだ。一昨日の夜、インターネットで配信された古代史ニュースで、現地説明会が本日午前10時から行われると知った。高槻市では、この古墳の保存整備に向けた大規模な確認調査を、平成9年(1998)から毎年行なっている。今年は第9次調査の年にあたり、前方部の南西部の墳丘やテラスの状況が判明したため8月に現地説明会を開いたばかりである。

の後も古墳の北西部を中心に内堤(ないてい)や周濠(しゅうごう)の調査を進めててきて、内堤の隅部分から護岸列石や、隅に沿って曲がった2列の円筒埴輪を発掘した。内堤の北西の隅の状況が初めて確認できた重要な発見だった。そのため、市教育委員会は急きょ現地説明会を開催することになった。

今城塚古墳
今城塚古墳で今回調査した箇所
城塚古墳の現地説明会には、毎回大勢の考古学ファンや古代史ファンが押しかける。それには理由がある。考古学会では今城塚古墳が継体天皇陵であることがほぼ定説化していて、発掘調査が行われている唯一の天皇陵であるからだ。

は、宮内庁書陵部が継体天皇陵として管理している古墳が、直線距離で1.5kmも離れていない所にある。太田茶臼山古墳という。しかし、墳丘の形状や出土埴輪などから、考古学的には5世紀中頃の築造とされている。第26代継体天皇の没年は531年ということになっているから、時代が合わない。

回もさぞかし大勢のファンが見学に押しかけるものと思っていた。バス会社もそうだったのだろう。臨時バスを運行している。10時30分に駅前を出る臨時バスに乗ったが、乗客はわずかに9人。ほとんどは途中下車し、「福祉センター」バス停で下車したのは、筆者を含めてわずか4名だった。


継体天皇像
福井市足羽山山頂の継体天皇像
者が継体天皇に惹かれるのには、いくつか理由がある。先ず、継体天皇は幼くして父である近江の豪族・彦主人王(ひこぬしのおおきみ)に死別し、母親の振姫(ふるひめ)の故郷である越前三国で育った大王であることだ。越前は筆者の生まれ故郷でもある。次に、越前三国に盤踞した地方豪族にしては、近江や尾張の豪族と婚姻関係を通じて連合し、あたかも近畿の大和政権を包囲するような勢力圏を築きあげていたことだ。たまたま第25代武烈天皇が崩御した後皇位継承者がいなかったので、大和朝廷に天皇として迎え入れられたが、その僥倖がなかったら武力で大和政権に刃向かったかもしれない。ちょうど九州で磐井が反乱を起こしたように。

らに、興味深いのは、大和の豪族たちの要請を受け、507年に越前三国を出て河内の樟葉(くすは、現大阪府枚方市楠葉)で即位しながら、大和の磐余の玉穂(いわれのたまほ、奈良県桜井市池之内の辺り)に宮を築くのに、それから20年も要したことだ。その間、樟葉、筒城(つつき、山城国綴喜郡)、弟国(おとくに、山城国乙訓郡)と点々と宮を変えている。彼を快く大和に迎え入れない勢力が存在したことをうかがわせる。

も興味があるのは、彼の崩御年に2つの説があることである。治世28年に崩御したとする説と治世25年の2月崩御とする説である。前者は西暦534年、後者は531年にあたる。『日本書紀』は"25年春2月7日、継体天皇が磐余の玉穂宮で崩御、時に82歳"と記している。しかも、『百済本記』という史書を引用して、「25年3月、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」としているのだ。もし、これが事実なら容易ならない事態が発生したことになる。しかも『日本書紀』の編者は、『百済本記』に示された崩御年を本文で採用し、後世の歴史家が事実を明らかにせよと、真相究明の下駄を預けている。

現地説明会場の入口
現地説明会場の入口
城塚古墳は全長190m、後円部径100m、高さ12m以上、前方部幅140m、高さ15m、周囲を一巡する二重の濠と堤を含めると総長は約350mに達するという。同時期の古墳の規模としては、我が国最大である。だが、高槻市のようなところに、ポツンと存在するのは、どう見ても異常である。そのことは、上に示したような継体天皇に関わるさまざまな異常と関係しているものと、筆者は推測している。



三カ所で行われた今回の発掘調査

あああ
今回の調査区略図
福祉センター」でバスを降り、近くの交差点を横切って今城塚古墳に向かった。この古墳は前方部を北東方向に向けて築かれている。交差点から最も近い北西の角の空き地に受付があった。「史跡今城塚古墳の第9次調査(その2)」と題する現地説明会資料を受付で受け取り、標識に従って説明会の会場に向かった。資料には調査区の概略図がトレンチの名前で記されている。N1〜N3と表示された3つのトレンチ箇所で、それぞれ別々に説明が行われていた。


初に案内されたのは、護岸列石が出土したN3トレンチである。掘削箇所の周りにロープを張っただけの見学箇所には、一度に大勢の見学者を入れることはできないので、その手前で人数整理が行われている。先行グループがN2トレンチの方へ移動して、やっと50人ほどがアクセスを許可される

護岸列石出土状況
N3トレンチの護岸列石出土状況
3トレンチは内濠(ないごう)すなわち城で言うなら内堀の遺存状態を探るために、北西の隅に設けられた調査区である。内濠は古墳が築造された時から徐々に泥土が堆積し、戦国時代にはかなり浅くなっていた。さらに文禄5年(1596)に発生した伏見地震では、地滑りで古墳の墳丘が崩れ、内濠の7割が埋没したとされている。埋没した部分は水田として利用されてきたが、埋まらなかった部分は用水池として維持・管理されてきた。

調査区は「ゆり池」という用水池があった箇所で、泥状の湿地だった。泥土を除去したところ、内堤側の護岸列石が出土した。内濠は約27度の斜面角で造られていたが、護岸列石の上の方では傾斜面が緩やかになり、ほぼ12度になっていたとのことだ。

内堤の角
内堤の北西のコーナ
れらの護岸列石には丸みをもった石が用いられているが、今までに確認されているものより大ぶりらしい。長辺が20〜60cm、短辺が10〜30cmと細長い形のものが多い。コーナー部分では1辺30cm前後の平らな石が3個直列に並べ、斜面の谷折れラインにそって階段状に据えられている。内濠の角を一直線に上に伸ばしたところに、内堤(ないてい)内側に並べられた円筒埴輪列のコーナーがあり、さらに延長すれば、内堤外側に並べられた円筒埴輪列のコーナーと一致するという。

に、外側と内側の埴輪列の角を結んだ延長線に、古墳の前方部の北西の隅が位置している。こうしたことから、当初から墳丘、内堤、埴輪列の位置をきちんと決めた上で、墳丘が構築され、内濠が掘られ、埴輪の配列が行われたと推定されている。

方後円墳では、墳丘の周りに巡らした堤は馬蹄形をしていて、ほぼ直角に曲がる角は2カ所しかない。今回発掘調査された場所は、まさにそうした角の一つであり、形が崩れた墳丘を復元するのに重要な箇所であると、説明員が話していた。


N2トレンチ箇所で見つかった埴輪列
N2トレンチ箇所で見つかった埴輪列
2トレンチは内堤の内側に設定された。この場所では、内堤内側の北側に約13mに渡って配列された円筒埴輪の並びと隅角部が見つかった。それぞれの埴輪は地中に埋めた部分しか残っていなかった。埴輪の大きさは、底の直径が30〜35cmの中・小規模の円筒形であり、約5cmほどの間隔を置いて密に配列してあった。いずれも約0・8〜1mの高さだったと推定されている。

輪の列は一直線というわけではなく、5〜6本ごとのまとまりがわずかに蛇行して続いている。このことから、埴輪設置の作業単位がわかるという。埴輪列の角は80度の角度で曲がっていて、角の尖端の埴輪は目印のように朝顔形埴輪が据えられていた。直径約28cmの小ぶりな朝顔形埴輪だったようだ。朝顔形を示す破片が、なぜか一つ置いた横の埴輪の底部に残っていた。


N1トレンチ箇所で見つかった埴輪列
N1トレンチ箇所で見つかった埴輪列
1トレンチは内堤の外側に設定された。耕地化や配水管の埋設などで裾の部分がほとんど削られていたが、かろうじて埴輪列が残っている状態だった。こちらで発見された埴輪の列は約7mで、並べてあった埴輪はN2トレンチで出土したものより大きく、底の直径は40cmのものが多くを占めていた。コーナー部分は削り取られていたが、北辺と西辺の埴輪列を復元することで、内堤の北西の隅の位置が特定できたとのことだ。

の古墳の内堤の幅は約18mとされている。その内外の側縁部で埴輪列が出土したことから、高槻市の教育委員会は、2001年の内堤北部の調査時に見つかった埴輪列と合わせ、内堤に2列の埴輪がびっしりと並び、外側には延長約950メートルに約1900本、内側には約800メートルに約1800本あったと推計している。

れらの埴輪は、近くのハニワ工場公園として保存されている新池埴輪製作所遺跡で焼かれた。だが、こうした埴輪列の目的は何なのか。堤の土留めとは考えにくい。墳丘を荘厳に飾るための装飾としては、もの凄い労力をかけて焼き上げたことになる。念のために、説明員の女性に聞いてみた。神社の結界石と同じように考えられていたのではないか、という答えが返ってきた。



平成23年に史跡公園としてよみがえる壮大な歴史空間

史跡公園の完成イメージ
史跡公園の完成イメージ
埴輪祭祀場に復元された埴輪列
埴輪祭祀場に復元された埴輪列
城塚という名称は、墳丘や濠を利用して戦国時代に城砦が築かれたという伝承に由来する。これを裏付けるように火縄銃の弾丸が出土したことがあるが、城砦の痕跡は今までのところ確認されていない。上に述べた伏見地震で大規模な地滑りと崩落の被害を被ったため、現在の墳丘は築造当時のものとはかなり違っている。

城塚古墳は、昭和33年(1958)2月に史跡の指定を受けた。その面積は84,230平米に達する。高槻市では、この古墳を本来の形に復元して史跡公園として保存整備するため、平成16年(2004)から7カ年計画で整備工事を行っている。平成23年(2011)の春には、全体の整備を終え、壮大な歴史空間が史跡公園としてよみがえることになっている。

堤の埴輪祭祀場として復元を予定されている地域は、すでに円筒埴輪の列が堤の両側に並べられている。これだけの埴輪が一列に並ぶと壮観である。円筒埴輪列の間に、家や人物、動物などの形象埴輪が136点以上が配置されていたらしい。この祭祀場は亡き天皇との別れを惜しみ、新たな天皇が皇位を継承したことを表明した場所だったとされている。

は体を表すという。皇統譜は神武天皇以来万世一系とされているが、継体という奇妙な漢風諡号(かんぷうしごう)は、皇統が武烈天皇で途絶え、継体天皇がその皇統を継いで新しい王朝を開いたと、奈良時代の人々が認識していたことを示しているようだ。

が、継体天皇亡き後に皇位を継いだのは誰か。その後継者にも謎がある。継体天皇が越前にいる時尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子媛(めこひめ)を娶って生んだ勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)、すなわち安閑天皇であるとする説と、即位の条件として皇后に迎えた第24代仁賢天皇の娘・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間に生まれた欽明天皇であるとする説がある。後の南北朝時代のように、両方の天皇が並び立ったとする説もある。果たして、真相はどうであろうか。



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