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| 現地説明会の様子遠望 (2005/12/10 撮影) |
第9次調査で
内濠
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| 今城塚古墳付近の地図 |
急に思い立って高槻市まで来たのは、今城塚古墳の現地説明会に参加するためだ。一昨日の夜、インターネットで配信された古代史ニュースで、現地説明会が本日午前10時から行われると知った。高槻市では、この古墳の保存整備に向けた大規模な確認調査を、平成9年(1998)から毎年行なっている。今年は第9次調査の年にあたり、前方部の南西部の墳丘やテラスの状況が判明したため8月に現地説明会を開いたばかりである。
その後も古墳の北西部を中心に内堤(ないてい)や周濠(しゅうごう)の調査を進めててきて、内堤の隅部分から護岸列石や、隅に沿って曲がった2列の円筒埴輪を発掘した。内堤の北西の隅の状況が初めて確認できた重要な発見だった。そのため、市教育委員会は急きょ現地説明会を開催することになった。
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| 今城塚古墳で今回調査した箇所 |
実は、宮内庁書陵部が継体天皇陵として管理している古墳が、直線距離で1.5kmも離れていない所にある。太田茶臼山古墳という。しかし、墳丘の形状や出土埴輪などから、考古学的には5世紀中頃の築造とされている。第26代継体天皇の没年は531年ということになっているから、時代が合わない。
今回もさぞかし大勢のファンが見学に押しかけるものと思っていた。バス会社もそうだったのだろう。臨時バスを運行している。10時30分に駅前を出る臨時バスに乗ったが、乗客はわずかに9人。ほとんどは途中下車し、「福祉センター」バス停で下車したのは、筆者を含めてわずか4名だった。
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| 福井市足羽山山頂の継体天皇像 |
さらに、興味深いのは、大和の豪族たちの要請を受け、507年に越前三国を出て河内の樟葉(くすは、現大阪府枚方市楠葉)で即位しながら、大和の磐余の玉穂(いわれのたまほ、奈良県桜井市池之内の辺り)に宮を築くのに、それから20年も要したことだ。その間、樟葉、筒城(つつき、山城国綴喜郡)、弟国(おとくに、山城国乙訓郡)と点々と宮を変えている。彼を快く大和に迎え入れない勢力が存在したことをうかがわせる。
最も興味があるのは、彼の崩御年に2つの説があることである。治世28年に崩御したとする説と治世25年の2月崩御とする説である。前者は西暦534年、後者は531年にあたる。『日本書紀』は"25年春2月7日、継体天皇が磐余の玉穂宮で崩御、時に82歳"と記している。しかも、『百済本記』という史書を引用して、「25年3月、日本の天皇および皇太子・皇子皆死んでしまった」としているのだ。もし、これが事実なら容易ならない事態が発生したことになる。しかも『日本書紀』の編者は、『百済本記』に示された崩御年を本文で採用し、後世の歴史家が事実を明らかにせよと、真相究明の下駄を預けている。
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| 現地説明会場の入口 |
平成23年に史跡公園としてよみがえる壮大な歴史空間
今城塚古墳は、昭和33年(1958)2月に史跡の指定を受けた。その面積は84,230平米に達する。高槻市では、この古墳を本来の形に復元して史跡公園として保存整備するため、平成16年(2004)から7カ年計画で整備工事を行っている。平成23年(2011)の春には、全体の整備を終え、壮大な歴史空間が史跡公園としてよみがえることになっている。 内堤の埴輪祭祀場として復元を予定されている地域は、すでに円筒埴輪の列が堤の両側に並べられている。これだけの埴輪が一列に並ぶと壮観である。円筒埴輪列の間に、家や人物、動物などの形象埴輪が136点以上が配置されていたらしい。この祭祀場は亡き天皇との別れを惜しみ、新たな天皇が皇位を継承したことを表明した場所だったとされている。 名は体を表すという。皇統譜は神武天皇以来万世一系とされているが、継体という奇妙な漢風諡号(かんぷうしごう)は、皇統が武烈天皇で途絶え、継体天皇がその皇統を継いで新しい王朝を開いたと、奈良時代の人々が認識していたことを示しているようだ。 だが、継体天皇亡き後に皇位を継いだのは誰か。その後継者にも謎がある。継体天皇が越前にいる時尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子媛(めこひめ)を娶って生んだ勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)、すなわち安閑天皇であるとする説と、即位の条件として皇后に迎えた第24代仁賢天皇の娘・手白香皇女(たしらかのひめみこ)との間に生まれた欽明天皇であるとする説がある。後の南北朝時代のように、両方の天皇が並び立ったとする説もある。果たして、真相はどうであろうか。 |