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| 北花内大塚古墳を遠望(2005/12/08 撮影) |
天皇陵として宮内庁の管轄下にある北花内大塚古墳
そもそも皇統譜なるものの実態は、歴史的事実と照合してみれば、ずいぶん曖昧な箇所がある。例えば、壬申の乱で敗れた天智天皇の大友皇子は皇位を継承したかどうか不明である。それにもかかわらず、明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号(しごう)を与えられ、第39代天皇として皇統譜に加えられている。その点では、『日本書紀』には、飯豊皇女は第22代清寧天皇崩御の後、短期間ではあったが”臨朝秉政(りんちょうへいせい)したまう”と明記してある。臨朝秉政とは、天皇のいない間、代わって政務を執り行うという意味だそうだ。
●日本邊也(やまとべに)見欲物也(見まほしものは)忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮 【意味】大和の辺りで見たいものは、忍海の地のこの高城にある、立派な角刺の宮である 自ら大王に許された「尊(みこと)」を名乗り、清寧天皇崩御から次の顕宗天皇の即位までのおよそ10ヶ月、当時の人々が注目した立派な宮殿の角刺宮で政務を執り行い、死後は陵(みささぎ)と呼ばれた葛城埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)に葬られた女性−それが飯豊皇女だった。しかも、皇統譜には組み込まれないのに、飯豊天皇と呼ばれているこの女性に興味が湧き、どんな御陵に眠っているのか知りたくなって、本日葛城市まで出かけてきた。 |
角刺の宮跡の角刺神社から北花内大塚古墳へ
忍海駅の横にある踏切を渡り、安位(あに)川に沿って葛城山の山麓方面へ歩を進めると、すぐのところに、葛城の歴史や伝統、文化を紹介する「葛城市歴史博物館」がある。博物館の駐車場の先にこんもりとした小さな森が見える。その森のある所が、かって角刺(つのさし)の宮があったと伝承されている旧村社「角刺神社」である。住宅街の狭い道を入っていくと、角刺神社の正面に出る。参道の鳥居の奥に見えるのが神社の拝殿かと思ったが、その建物は角刺寺で、神社の社殿は境内を入って左手に横向きに立っていた。寺と神社が同じ境内に同居している不思議な場所である。
墳丘の護岸工事を行なうために、濠の水が抜かれ、裾周りの木々が伐採されている。そのため、他の古墳とは違って、イタズラ坊主の頭をすそ刈りしたように、意外とすっきりした古墳に見えた。
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飯豊皇女の系譜
『日本書紀』は、顕宗天皇前紀の中で飯豊皇女は市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)と葛城蟻臣(かつらぎのありのおみ)の娘・ハエ媛との間に生まれた3男2女の第4子で、彼女の兄に第2子の億計王(おけのみこ)、第3子の弘計王(おけのみこ)がいるとしている。ただし、同じ箇所で別伝を載せていて、それによれば、飯豊皇女は億計王と弘計王の兄弟の姉となっている。 父の市辺押磐皇子は、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ、即位前の雄略天皇)に近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)での巻狩りに招待され、そこで、鹿と見間違えて誤射したように見せかけて殺された。その経緯は、2004年9月24日付け橿原日記で述べた。父が殺されたと聞いて、億計・弘計の兄弟は播磨の国に逃れ、身を隠した。 第21代雄略天皇が治世23年で崩御すると、雄略天皇と葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の娘・韓媛(からひめ)との間に生まれた皇子が、第22代清寧天皇として即位した。清寧天皇は世継ぎの子がなかったが、播磨の国に隠れていた億計・弘計の所在が判明したため、二人を呼び戻し兄の億計王を皇太子に、弟の弘計王を皇子にした。その2年後の清寧5年1月に天皇が崩御する。だが、億計王と弘計王は互いに皇位を譲り合ったため、天皇が決まらなかった。そこで、二人の姉である飯豊皇女が、忍海(おしみ)の角刺宮(つのさしのみや)で、仮に政治を臨朝し、自らを忍海飯豊青尊と名乗ったという。しかし、その年の11月、飯豊皇女が崩御されたので、葛城の埴口丘陵(現在の葛城氏北花内)に埋葬した。 その年の12月、兄の億計王は天皇の御璽を弟の弘計王の前に置いて登極を要請し、弘計王が第23代顕宗天皇として皇位についた。以上は、『日本書紀』の顕宗紀に記された一部である。兄弟が皇位を譲り合う話はいかにも儒教的美談で胡散臭いが、『日本書紀』は最初は飯豊皇女を兄弟の妹としながら、後の部分では兄弟の姉として記述し、矛盾がある。
一方、『古事記』はこのあたりの皇位継承をどのように記述しているのか見てみよう。 『古事記』でも、第22代清寧天皇は、皇后が居らず、皇子もいなかったとしている。したがって、清寧天皇が崩御したとき、皇位継承者がいなかった。誰を天皇に推戴しようかと尋ね求めたところ、市辺忍歯皇子の妹の飯豊青皇女が葛城の忍海の角刺宮にいることがわかった。このように、『古事記』では、飯豊青皇女は市辺忍歯皇子の妹としていて、『日本書紀』とは系譜が異なり、億計・弘計の兄弟から見れば、叔母にあたる。 ただし、『古事記』は記述の文脈が切れていて、清寧天皇亡き後飯豊青皇女が忍海角刺宮で登極したかどうかは明言していない。その後、山部連小楯(やまべのむらじ・こたて)という者が播磨の国の宰(みこともち)として赴任し、億計・弘計の兄弟を見つけ出し、朝廷に報告した。飯豊青皇女はこのことを聞いて大いに喜び、二人を角刺宮に呼び寄せて、皇位を継がせたという。したがって、億計・弘計の兄弟が播磨で見つかり、角刺宮に呼び戻され、弟の弘計王が顕宗天皇として即位するまで、飯豊青皇女が政務を執っていた様子を隠していない。 平安時代末期に成立した歴史書の「扶桑略記」では、「飯豊天皇、廿四代女帝」として、彼女を「飯豊天皇」と記述しているという。また、応永33年(1426)に後小松天皇が洞院満季(とういんみつすえ)に命じて編ませた『本朝皇胤紹運録』には「飯豊天皇、忍海部女王是也」と書かれているという。しかし、勅撰歴史書である『日本書紀』には飯豊天皇という巻が設けられていない。このため、天皇、皇族にとっての戸籍簿である『皇統譜』では、天皇として認められていない。 参考までに、宮内庁は去る11月16日、結婚で皇族を離れた黒田清子さん(36)について、皇統譜からの「除籍」手続きを行った。皇室典範に基づくもので、紀宮さまの欄に「皇族ノ身分ヲ離ル」と書き込まれ、羽毛田信吾同庁長官と田林均書陵部長が署名したという。 |