橿原日記 平成17年12月8日

我が国最初の女帝(?)の奥津城・北花内(きたはなうち)大塚古墳

あああ
北花内大塚古墳を遠望(2005/12/08 撮影)

「文久の修陵」で墳丘が変えられていた北花内大塚古墳


泉首相の私的諮問機関「皇室典範に関する有識者会議」は、皇位継承資格は男女を問わない「第一子優先」とする案を最終報告書にまとめた。これを受けて政府は12月1日、内閣官房に「皇室典範改正準備室」を設置し、女性天皇を容認する皇室典範改正案を来年度の通常国会に提出することにした。皇位継承資格を女性・女系皇族に拡大することは、日本の歴史的なアイデンティティに関わる重大問題である。

北花内大塚古墳
北花内大塚古墳
子内親王はまだ4歳の誕生を迎えられたばかりではないか。皇太子にこれから嫡子誕生の可能性が無くなったわけではなかろう。なぜ、それほどまでして事を急がなければならないのか、小生には政府の思惑が理解できない。皇室典範が改正されれば、現皇太子にこれから嫡子が誕生しても、皇位継承権はない。嫡子が誕生せずこのまま愛子内親王が皇位を継承するとしても、まだ何十年も先の話だ。現皇太子が即位してから、次の後継者を決めても決して遅くはない。

ころで、神武天皇以来125代の天皇のうち8人10代が女性天皇、すなわち女帝であり、最初の女帝は第33代推古天皇だったという話が、女性天皇論の話題になるたびに語られる。だが、小生はこうした話に疑問を感じている。『古事記』や『日本書紀』の記述から、もう一人、女帝だったと思われる人物が存在することは、歴史愛好家なら常識だ。

発掘現場の説明
古墳の発掘現場(asahi.comより)
古事記』や『日本書紀』の中で、その女性はさまざまな名で記述されている。曰く、飯豊皇女(いいとよのひめみこ)、飯豊女王、飯豊郎女、飯豊王、青海皇女、青海郎女、飯豊青皇女、忍海部女王、忍海郎女、忍海飯豊青尊(おしぬみのいいとよのあおのみこと)などである。本項では、彼女を飯豊皇女(いいとよのひめみこ)と呼ぶことにする。飯豊皇女は5世紀の後半に実在した人物で、第33代推古天皇より100年も前に、第22代清寧天皇の後に在位した(と思われている)。

豊皇女を埋葬したとされる御陵が、奈良県葛城市新庄町の北花内(きたはなうち)にある。考古学では「北花内大塚古墳」、宮内庁では「葛城埴口丘陵(かつらきのはにくちのおかのみささぎ)」と呼んでいる前方後円墳である。今年の12月の初め、この古墳がマスコミの話題になった。現在この古墳を発掘調査中の宮内庁が、報道関係者と歴史系学会の代表に初めて同古墳を公開した。

あああ
北花内大塚古墳の形状(asahi.comより)
の北花内大塚古墳は、周囲に濠を巡らした前方後円墳で、現状の墳丘は全長90m、幅は前方部70m、後円部40mとされている。だが、現状は前方後円墳に特有の鍵穴の形ではなく、三角おにぎりに似ている。徳川幕府が、幕末の尊皇攘夷運動の高まりを受けて、文久2年〜慶応元年(1862〜1865)にかけて全国の陵墓が大改修を行った。「文久の修陵」と呼ばれる事業で、天皇陵あるいは陵墓参考地とされている古墳の多くは、このとき形を大きく変えられたとされている。北花内大塚古墳もその例外ではなかった。

内庁は、墳丘の護岸工事を前に、墳丘のすそに沿って12カ所、計約150平米を調査した結果、墳丘の周囲から後世に手を加えた跡が見つかり、築造当時のすそ部は江戸前期の溝でほとんど破壊され、前方部と後円部の継ぎ目部分で、すそ部に土が高さ最大約2m盛られていたことが判明した。つまり、「文久の修陵」によって、三角おにぎりに墳丘が変えられたというのである。築造当時の全長は100m弱、後円部の直径は現在よりやや拡大し、前方部の幅は縮まると推定されている。



天皇陵として宮内庁の管轄下にある北花内大塚古墳


北花内大塚古墳の看板
北花内大塚古墳の看板
在の『皇統譜』には、飯豊皇女は天皇として記されておらず、公式には天皇の扱いを受けていない。だが、北花内大塚古墳は天皇陵として宮内庁の管轄下にある。遙拝所への入口に宮内庁が建てた陵の看板には、「飯豊天皇 埴口丘陵」と大書してある。遙拝所に建てられた石碑にも同様な陵名が記されている。

もそも皇統譜なるものの実態は、歴史的事実と照合してみれば、ずいぶん曖昧な箇所がある。例えば、壬申の乱で敗れた天智天皇の大友皇子は皇位を継承したかどうか不明である。それにもかかわらず、明治3年(1870年)に弘文天皇の諡号(しごう)を与えられ、第39代天皇として皇統譜に加えられている。その点では、『日本書紀』には、飯豊皇女は第22代清寧天皇崩御の後、短期間ではあったが”臨朝秉政(りんちょうへいせい)したまう”と明記してある。臨朝秉政とは、天皇のいない間、代わって政務を執り行うという意味だそうだ。

碑
「飯豊天皇 埴口丘陵」の碑
の後に、『日本書紀』は飯豊皇女は自らを「忍海飯豊青尊(おしぬみのいいとよのあおのみこと)」と名のり、忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)で政治を行ったと記す。そして、当時の人が詠んだとされる次の歌を載せている。
●日本邊也(やまとべに)見欲物也(見まほしものは)忍海の この高城(たかき)名は 角刺の宮
【意味】大和の辺りで見たいものは、忍海の地のこの高城にある、立派な角刺の宮である

ら大王に許された「尊(みこと)」を名乗り、清寧天皇崩御から次の顕宗天皇の即位までのおよそ10ヶ月、当時の人々が注目した立派な宮殿の角刺宮で政務を執り行い、死後は陵(みささぎ)と呼ばれた葛城埴口丘陵(はにくちのおかのみささぎ)に葬られた女性−それが飯豊皇女だった。しかも、皇統譜には組み込まれないのに、飯豊天皇と呼ばれているこの女性に興味が湧き、どんな御陵に眠っているのか知りたくなって、本日葛城市まで出かけてきた。



角刺の宮跡の角刺神社から北花内大塚古墳へ


北花内大塚古墳付近
北花内大塚古墳付近
鉄南大阪線の「尺度」駅で御所線に乗り換え、2つ目の「忍海」駅で下車すると、西側に葛城山が間近にそびえている。その山頂がうっすらと雪化粧していた。ここ数日、冬将軍の到来で奈良盆地は冷え込んだ。その証しである。

海駅の横にある踏切を渡り、安位(あに)川に沿って葛城山の山麓方面へ歩を進めると、すぐのところに、葛城の歴史や伝統、文化を紹介する「葛城市歴史博物館」がある。博物館の駐車場の先にこんもりとした小さな森が見える。その森のある所が、かって角刺(つのさし)の宮があったと伝承されている旧村社「角刺神社」である。住宅街の狭い道を入っていくと、角刺神社の正面に出る。参道の鳥居の奥に見えるのが神社の拝殿かと思ったが、その建物は角刺寺で、神社の社殿は境内を入って左手に横向きに立っていた。寺と神社が同じ境内に同居している不思議な場所である。

角刺神社の拝殿角刺神社の鏡池
角刺神社の拝殿 角刺神社の鏡池
社の境内と博物館の駐車場との間にフェンスに囲まれた古池がある。飯豊皇女の忍海角刺宮が当地にあった頃、彼女がこの池の水面を鏡の代わりに利用したという故事から「鏡池(かがみのいけ)」と呼ばれているという。また、時代が下って奈良時代に當麻寺にいた中将姫が、蓮糸の曼荼羅を織るために探し求めた蓮がこの池には沢山生えていたという。中将姫は願いがかなったお礼に池のほとりに松を植えた。それが「袖の松」であるとのことだ。どれが袖の松かは分からなかった。

雪を戴いた葛城山
雪を戴いた葛城山
城市歴史博物館の前を通る道を、近鉄電車の線路に沿って北へ進むと、旧新庄町の大字北花内に入る。まもなく、左手に水田に囲まれた一画が見え、その中心に小さな丘がある。それが、考古学では「北花内大塚古墳」、宮内庁では「葛城埴口丘陵(かつらきのはにくちのをかのみささぎ)」と呼んでいる前方後円墳である。

丘の護岸工事を行なうために、濠の水が抜かれ、裾周りの木々が伐採されている。そのため、他の古墳とは違って、イタズラ坊主の頭をすそ刈りしたように、意外とすっきりした古墳に見えた。

北花内大塚古墳の遙拝所護岸工事中の作業現場
北花内大塚古墳の遙拝所 護岸工事中の作業現場
とより、この古墳が飯豊皇女を埋葬した墓である確固たる証拠はない。唯一根拠とされているのは、『日本書紀』清寧天皇5年の冬11月の条に、飯豊青尊が崩御され、葛城の埴口丘陵に葬ったという記述だけである。彼女が死んだのは西暦485年頃のようだ。一方、古墳の築造時期は6世紀の初め頃と推定されている。時期的には近い。だが、江戸時代の終わりには、この丘が古墳なのか、単なる丘なのか判別がつかなったはずである。似たような場所は、付近に幾つもあっただろう。宮内庁が公費で陵墓として管理するならば、墳丘の発掘調査によって記紀の記述を正しいことを証明すきであろう。



飯豊皇女の系譜

飯豊皇女関連系図
飯豊皇女関連系図
になって、『古事記』と『日本書紀』の中で、飯豊皇女がどのように書き記されているのか調べてみた。上述のように様々な名前で呼ばれていた皇女であるが、不思議なことに彼女の系図や天皇不在のため臨朝秉政を行った事情が、2つの史書の間で異なっている。

日本書紀』は、顕宗天皇前紀の中で飯豊皇女は市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)と葛城蟻臣(かつらぎのありのおみ)の娘・ハエ媛との間に生まれた3男2女の第4子で、彼女の兄に第2子の億計王(おけのみこ)、第3子の弘計王(おけのみこ)がいるとしている。ただし、同じ箇所で別伝を載せていて、それによれば、飯豊皇女は億計王と弘計王の兄弟の姉となっている。

の市辺押磐皇子は、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ、即位前の雄略天皇)に近江の来田綿(くたわた)の蚊屋野(かやの)での巻狩りに招待され、そこで、鹿と見間違えて誤射したように見せかけて殺された。その経緯は、2004年9月24日付け橿原日記で述べた。父が殺されたと聞いて、億計・弘計の兄弟は播磨の国に逃れ、身を隠した。

21代雄略天皇が治世23年で崩御すると、雄略天皇と葛城円大臣(かつらぎのつぶらのおおおみ)の娘・韓媛(からひめ)との間に生まれた皇子が、第22代清寧天皇として即位した。清寧天皇は世継ぎの子がなかったが、播磨の国に隠れていた億計・弘計の所在が判明したため、二人を呼び戻し兄の億計王を皇太子に、弟の弘計王を皇子にした。その2年後の清寧5年1月に天皇が崩御する。だが、億計王と弘計王は互いに皇位を譲り合ったため、天皇が決まらなかった。そこで、二人の姉である飯豊皇女が、忍海(おしみ)の角刺宮(つのさしのみや)で、仮に政治を臨朝し、自らを忍海飯豊青尊と名乗ったという。しかし、その年の11月、飯豊皇女が崩御されたので、葛城の埴口丘陵(現在の葛城氏北花内)に埋葬した。

の年の12月、兄の億計王は天皇の御璽を弟の弘計王の前に置いて登極を要請し、弘計王が第23代顕宗天皇として皇位についた。以上は、『日本書紀』の顕宗紀に記された一部である。兄弟が皇位を譲り合う話はいかにも儒教的美談で胡散臭いが、『日本書紀』は最初は飯豊皇女を兄弟の妹としながら、後の部分では兄弟の姉として記述し、矛盾がある。

北花内大塚古墳の周濠ー1
北花内大塚古墳の周濠(前方部左側)
北花内大塚古墳の周濠ー2
北花内大塚古墳の周濠(遙拝所前)
かし、わずか10ヶ月の短い期間ではあっても、飯豊皇女が忍海飯豊青尊と名乗っても政に臨んだことは隠していない。天皇としての業を遂行されたことを認めながら、しかし、『日本書紀』の編纂の上では第23代天皇とは認めていない。

方、『古事記』はこのあたりの皇位継承をどのように記述しているのか見てみよう。 『古事記』でも、第22代清寧天皇は、皇后が居らず、皇子もいなかったとしている。したがって、清寧天皇が崩御したとき、皇位継承者がいなかった。誰を天皇に推戴しようかと尋ね求めたところ、市辺忍歯皇子の妹の飯豊青皇女が葛城の忍海の角刺宮にいることがわかった。このように、『古事記』では、飯豊青皇女は市辺忍歯皇子の妹としていて、『日本書紀』とは系譜が異なり、億計・弘計の兄弟から見れば、叔母にあたる。

だし、『古事記』は記述の文脈が切れていて、清寧天皇亡き後飯豊青皇女が忍海角刺宮で登極したかどうかは明言していない。その後、山部連小楯(やまべのむらじ・こたて)という者が播磨の国の宰(みこともち)として赴任し、億計・弘計の兄弟を見つけ出し、朝廷に報告した。飯豊青皇女はこのことを聞いて大いに喜び、二人を角刺宮に呼び寄せて、皇位を継がせたという。したがって、億計・弘計の兄弟が播磨で見つかり、角刺宮に呼び戻され、弟の弘計王が顕宗天皇として即位するまで、飯豊青皇女が政務を執っていた様子を隠していない。


安時代末期に成立した歴史書の「扶桑略記」では、「飯豊天皇、廿四代女帝」として、彼女を「飯豊天皇」と記述しているという。また、応永33年(1426)に後小松天皇洞院満季(とういんみつすえ)に命じて編ませた『本朝皇胤紹運録』には「飯豊天皇、忍海部女王是也」と書かれているという。しかし、勅撰歴史書である『日本書紀』には飯豊天皇という巻が設けられていない。このため、天皇、皇族にとっての戸籍簿である『皇統譜』では、天皇として認められていない。

考までに、宮内庁は去る11月16日、結婚で皇族を離れた黒田清子さん(36)について、皇統譜からの「除籍」手続きを行った。皇室典範に基づくもので、紀宮さまの欄に「皇族ノ身分ヲ離ル」と書き込まれ、羽毛田信吾同庁長官と田林均書陵部長が署名したという。



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