橿原日記 平成17年12月3日

飛鳥で初めて発見された磚積式石室(せんづみしきせきしつ)のカヅマヤマ古墳



明日香村教育委員会の記者発表の要旨(2005/12/01)
磚積(せんづみ)式石室の出土状況
磚積(せんづみ)式石室の出土状況

所在: 奈良県明日香村真弓
墳形: 異なる土層を交互に突き固める版築工法で墳丘を2段以上に築いた一辺約24mの方墳。天智・天武朝(661〜686年)では最大級の方墳。
築造時期:出土した土器から7世紀後半(665〜685年)頃の築造と推定
石室:長さ50〜60cm、幅20〜30cm、厚さ5cm前後の板石に加工した吉野川産の緑色結晶片岩をレンガ状に積み上げた磚積(せんづみ)式石室。壁面に漆喰を塗布。全長5m以上、そのうち玄室の推定値は幅1.8m、奥行き2.6mで、高さは2m以上。
床面:結晶片岩と小石を敷き詰め、棺台(長さ約2m、幅1.2m)が置かれていた
: 麻の繊維が付着した漆の断片が出土しており、高位の人物にのみ許可された漆塗り木棺、または布を漆で固めた夾紵(きょうちょ)棺と推定
被葬者:「日本書紀」に登場する皇族や渡来系王族などが可能性大。被葬者のものと思われる大腿骨や頭骨の破片が出土(片山一道・京都大教授(人類学)は30歳〜50歳代の体格の良い男性のものと鑑定)
その他:墳丘から石室の南半分がおよそ2mにわたって地滑りしていた(1361年8月の「正平の南海地震」の影響の可能性が強い)


カヅマヤマ古墳を訪れるには・・・

ルート図
日香村教育委員会は、村の西の端にあたる大字・地の窪で、新しい古墳の発掘調査を行っている。地の窪とは言い得て妙な地名である。明日香巡りの玄関にあたる近鉄吉野線の「飛鳥」駅前で、前を通る国道169号線から分岐して高取川沿いに南に延びる細い道がある。今でこそ国道ができたためすっかり寂れてしまったが、これでもかっては紀路 ( 巨勢路 ) と呼ばれ、紀州と飛鳥を結ぶ幹線道路だった。地の窪は、紀路から別れて西に入った谷の地名であり、7世紀後半に築造されたマルコ山古墳がある。

掘中の古墳は、現地の地名をとってカヅマヤマ古墳と命名された。古墳の存在はずいぶん前から知られていたようだ。だが、学術調査のための発掘が開始されたのは、今年の春からである。先月の中頃の時点では、見学には不便な場所なので現地説明会は行わず、12月4日に明日香村中央公民館で予定されている年次調査報告会で明らかにするとのことだった。だが、「カヅマヤマ古墳」の所在地を知りたかったので、先月の21日発掘現場を訪れた。
「ぢのくぼ橋」
高取川にかかる「ぢのくぼばし」
大字・地の窪の集落
谷の奥にある大字・地の窪の集落

鳥駅前から高取川に沿って昔の紀路を南に下ると、高取川に架かる真弓橋があり、さらに南に進むとぢのくぼばし(地の窪橋)がある。その橋を渡り、近鉄の踏切を渡ると、谷の奥へ続く村道がある。左手の台地の上に建つ高取高等学校を見ながら谷の奥へ入っていくと、地の窪集落の入口に「マルコ山古墳」の標識が立っている。右手の丘陵の中腹に現在は史跡公園として整備された円墳が民家の屋根越しに見える。それがマルコ山古墳である。

元の人に何回か道を聞いてようやく現場にたどり着くことができた。マルコ山古墳の標識から地の窪の集落に分け入り、2つ目の路地を右に入ると、坂道の突き当たりに竹藪がある。その竹藪の中で「カヅマヤマ古墳」の発掘が行われていた。公開前ということで、遠くから作業状況を眺めるだけで、写真撮影も許されなかった。

り道で、現場近くの民家の奥さんと立ち話をした。彼女の話によれば、「マルコ山古墳」と「カヅマヤマ古墳」付近の山の持ち主は同じだそうだ。言われてみれば、両古墳は直線距離で100mほどしか離れていない。さらに、この辺りの山には隠れた古墳があちこちにあるらしい。奥さんの家の持ち山にも石室が開いた所があるそうだが、皆には内緒にしていると言う。発掘されて有名になったら困るというのだ。見学用の道路を敷設するために土地を取り上げられたり、見学者がひっきりなしに訪れるようになると、今までの落ち着いた生活が乱されるというのが理由だ。


うやら、その奥さんの不安が的中するかもしれない事件が起きた。明日香村教育委員会は、去る12月1日、「カヅマヤマ古墳」の発掘状況をメディアに公表し、12月3日の10時から現地見学会を行うことを明らかにした。当初から発掘調査報告会は12月4日に予定されている。その前日に見学会を開くことになったのは、やはり明日香で初めて見つかった磚積(せんづみ)石室墳の実態を考古学ファンに知っておいて貰いたかったからだろう。



現地見学会の朝

日の飛鳥地方は寒々とした冬空の下で朝を迎えた。上空を冬の季節風が吹き抜けているのだろう。重そうに垂れ込めた雨雲が北西から南東方向に流れていく。現地見学会は午前10時から午後3時までとのことだったが、少し早めにアパートを出た。

アクセス階段
前9時半に「飛鳥」駅前を自転車で通ったが、驚いたことに、すでに見学を終えて戻ってくる人たちに何人か出会った。ぢのくぼばしまで来たら、現場方面への車両進入禁止の看板が立っている。自転車は通行可能ということで、そのまま先へ進んだ。ところが、「マルコ山古墳」の看板があるところで、自転車の進入も禁止された。「マルコ山古墳」の墳丘の下の空き地に臨時の駐輪場が設けられているという。

月に一度現地を訪れているので、集落の中の道は分かっている。しかし、本日は往路と復路が別々に設定してあり、前回とは一つ手前の路地を矢印に従って進んだ。現地の竹藪の下に受付のデスクが置かれていて、明日香村教育委員会が本日のために作成した資料「カヅマヤマ古墳」を係員から受け取った。しかし、そこで少し順番待ちをさせられた。前方を見ると、前回来たときはなかった階段が竹林の中に鉄パイプで組まれている。その階段が交互通行になっている上に、現場を見学している人数が減らないと、整備員が階段を上らせてくれない。

パイプで組まれた階段は発掘現場へのアクセスだけではなかった。現場の周囲全てに鉄パイプが組まれ、アルミ製の階段が敷設してある。まるでビルの工事現場に来たと錯覚するほど窮屈な見学通路が一日で築かれたようだ。したがって一度の大勢の見学者を入れることができない。それだけの強度はないのだ。そのため前を行くグループが次の場所へ移動するまで、何度も札止めを食った。
見学者の列見学者の列
順番を待つ見学者の列 鉄パイプで作られた階段を上る見学者
墳頂から石室を見る−1墳頂から石室を見る−2
墳頂から石室を見る−1 墳頂から石室を見る−1の反対側




地震による地滑りで破壊された磚積石室墳

南側から見た磚積式石室
南側から見た磚積式石室
東側から見た磚積式石室
東側から見た磚積石室
滑り落ちて羨道部分
滑り落ちて羨道部分
北側のトレンチ
版築の後がはっきり分かる北側のトレンチ
布された資料によると、大正時代にすでにこの古墳の存在が知られ、当時はカヅマ塚と呼ばれていたという。墳丘の東側に盗掘坑が存在して、その周囲に結晶片岩の破片が多く散乱していた。そうした破片の中には板状のものや漆喰が付着しているものがあったことから、埋葬施設は磚積石室(せんづみせきしつ)であることは想定されていた。

日香に散在する古墳からは、まだ磚積石室が発見されていない。そこで、明日香村教育委員会は、約150m平米を調査面積に設定し、今年の1月から範囲確認調査を実施してきた。それにしては、ずいぶん時間がかかったと思って聞いてみると、やはり予算の関係で多くの人数を投入できず、しかも平均年齢60の年寄りだけで発掘してきたとのことだ(どうもご苦労さんでした)。

調査の結果、古墳を築造するのに、先ず東西に延びる旧領の南側斜面を選び、東西100m以上、南北60m、高さ8〜10mにわたって大規模な造成工事を行ったことが判明した。その後、平坦になった場所に版築で盛り土を行い、一辺約24mの方墳を見かけの高さが10m以上になるように二段あるいはそれ以上で築造した。

に開口する石室を作るのに、吉野川流域で採れる結晶片岩が用いられている。ちなみに、結晶片岩とは吉野川流域で採れる緑泥石片岩や石墨片岩、点紋片岩などの総称で、全体的に緑がかった色をしていて、板状に加工しやすい特徴がある。吉野川流域で採掘し「紀路」を介してはるばる運搬されてきたものと推察されている。石室は磚(せん)の形に加工した結晶片岩を小口積みして作られ、玄室の中央に棺台が設けられていた。

室の規模については、上記の通りである。実際には地滑りによって玄室部分のほぼ中央から南半分が、最大で約2m滑り落ちていて、正確な数値は得られないとのことだ。玄室内の床面以外は、すべての壁面と棺台に漆喰が塗布されていた。天井については、石の残存状態から、平天井ではなく、持ち送り構造だったと推測されている。

学通路から見下ろす石室の様子は、天井石を取り除いた状態を想像すれば良いのだろうが、結晶片岩が乱雑に配置されているようで良く分からない。それぞれの場所に置かれた標識で、どこが壁の部分で、どれが棺台がかろうじて分かる程度である。西暦1361年8月3日午前4時頃に発生した正平の南海地震で地滑りがあり、石室の半分(羨道部分)は破壊されてしまったようだ。

造時期に関しては、版築の土の中から飛鳥V〜W期の土器が出土していることから、7世紀後半(665〜685年)と推定されている。石室内からは大腿骨や頭骨などの破片も出土している。人類学の片山一道・京都大教授の鑑定では、30歳代から50歳代のがっちりした体格の男性ではないかという。


がこの墓で永久の眠りについたのであろうか。石室からは麻の繊維が付着した漆の断片が出土したとのことだ。このため被葬者は高位の人物にのみ許可された漆塗り木棺、または布を漆で固めた夾紵(きょうちょ)棺に入れられて埋葬されたと想定してよいとのことだ。しかも、古墳の築造時期は、本当に665〜685頃と限定でき、遺骨から30歳〜50歳代の体格の良い男性となれば、かなり人物の範囲が絞られるものと思われる。

た、近くには、やはり7世紀後半の築造とされる「マルコ山古墳」があり、付近の真弓(まゆみ)あるいは檜隈(ひのくま)という地域は、天武天皇に関係した王族の奥津城であると同時に、かって東倭氏(やまとのあやうじが盤踞した地域でもある。石室が磚積式であったということも大きなヒントになるだろう。

積石室墳あるいは磚槨墳と呼ばれる古墳は、大和では宇陀から桜井にかけていくつか見つかっている。宇陀郡榛原の奥ノ芝1号墳奥ノ芝2号墳、桜井市栗原の花山西塚古墳舞谷二号墳などである。だが、これらの古墳は流紋岩質溶結凝灰岩、いわゆる榛原石を使用している。結晶片岩を使用した例は、カヅマヤマ古墳が最初とのことだ。

日の午後、明日香村中央公民館でこの古墳の発掘調査報告会が開かれる。明日香村教育委員会の方から、何か新しい知見が紹介されるかもしれない。それを楽しみに、明日も明日香に出かけることにする。

2005/12/03 記す


追記 (2005/12/04) 


日午後1時から、明日香村中央公民館大ホールで「明日香村発掘調査報告会2005」が開催された。その中で、明日香村教育委員会の西光慎治氏が「カヅマヤマ古墳の調査」と題してこの古墳の発掘経過を説明された。発掘当初からのスライドを多様した内容は非常に分かりやすかった。見学会では、発掘された石室を上から眺めるだけだったため、その構造や地震による破壊がよく分からない点があった。しかし、さまざまな角度から撮影したスライドのおかげで、石室の全体像がやっと掴めた。西光氏の説明で興味深かった点をいくつか付記しておこう。

床面に開けられた盗掘坑
床面に開けられた盗掘坑
場には直径2mほどの盗掘坑の表示がされていた。盗掘とは墓荒らしが石器室内に入り込んで棺の中や周囲に埋葬された副葬品を盗み出すために掘削した穴だとばかり思っていた。だが、カヅマヤマ古墳の場合、事情は少し違っていた。盗掘によって副葬品が盗まれていた点は他の古墳と変わらない。だが、盗掘にはもう一つ目的があった。石室を作り上げている結晶片岩の磚(せん)そのものの持ち出しである。

室は2000〜3000枚の磚を積んで構築されていたと思われる。だが、残っていたのは石室の壁面の下部と床面部分だけであり、壁面の上部や天井部分の磚は盗掘によって運びだされていた。

西光氏は、カヅマヤマ古墳の特徴として棺台(かんだい)の存在を指摘された。現場では地震によって棺台が二つに割れていたが、幅1.8m、奥行き2.6mと推定される玄室には、全面を漆喰で塗布した棺台が敷き詰めた床石の上に置かれていた。飛鳥地域でも今までに棺台を有する古墳として野口王墓牽牛子塚古墳が見つかっている。その材質は、前者が金銅製、後者が凝灰岩だった。磚積の棺台は、高槻市の阿武山古墳や茨木市の初田2号墳に例があるが、飛鳥地域では初めてである。

口王墓や牽牛子塚古墳の場合、棺台の上に漆棺が置かれていた。カヅマヤマ古墳の場合も同様である。出土した遺物から、外側が黒塗り、内側が赤の漆を塗った木棺だったと思われるとのことだ。さらに、石室内には、50点ほどの人骨が散乱していた。その中には、大腿骨や頭蓋骨、および6本の歯が含まれる。これらの骨の鑑定結果、被葬者は壮年から熟年の男性だったことがわかった。

盗掘坑埋
盗掘坑と地滑り跡
墳丘の中央部から南側にかけて最大で約2mの地滑りの跡が見つかった。埋葬設備も玄室部分のほぼ中央から南側部分が崩落している。出土遺物から盗掘は12〜13世紀頃行われたと推測されるが、盗掘坑も地滑りによって分断されていた。このため、地滑りを誘発した地震は1361年8月3日に発生した正平の南海地震の可能性が大であるとのことだ。

年開かれる発掘調査報告会では、明日香村文化財顧問の関西大学名誉教授・網干善教氏の記念講演が恒例になっているようだ。今年は、「高松塚・キトラ古墳に描かれた壁画」と題する講演で、網干氏はアジアにおける思想史的、文化史的背景から見た両壁画の構成を、例の網干節で分かりやすく解説された。

演の最後に、網干氏はカヅマヤマ古墳について触れられ、磚積古墳というと、話題がすぐ渡来人とか朝鮮半島にむすび付けられるが、類似の古墳は和歌山市の東方にある岩瀬千塚古墳群でもいくつか見つかっている点を指摘し、吉野川・紀ノ川沿いとの交流についても配慮する必要があるとされた。




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