橿原日記 平成17年12月1日

大和古道の一つ大和長寿道(やまとちょうじゅみち)を歩く


あああ
大和長寿道約(5km)


  若桜神社 → 艸墓古墳 → 土舞台 → 阿倍文殊院 → 吉備池と春日神社 → 藤原京跡 → おふさ観音



近は、我ながら物忘れがひどくなってきたと思う。いよいよ老人ボケが始まったらしい(笑)。ボケ封じに寺参りする時期になったかな、といささか気にしていたら、面白いチラシに出会った。見出しに「ボケ封じに長寿の道を歩いてみませんか」という文字が踊っている。

阿倍文殊院
別格本山・阿倍文殊院
あああ
高野山真言宗別格本山・おふさ観音
者がアパートを借りている橿原市の東は桜井市である。桜井市の阿部には三大文殊の第一霊場として知られる別格本山阿倍文殊院(あべもんじゅいん)がある。一方、橿原市小房には高野山真言宗別格本山・観音寺、通称おふさ観音がある。いずれも大和ぼけ封じ霊場として知られている。

来より、「安倍の文殊は金剛界、おふさ観音は胎蔵界、どちら欠けても片まいり」と巷(ちまた)では言われてきた。知恵の文殊と身体病気守護のおふさ観音の両仏のご加護があって、はじめて老人ぼけが防止できるらしい。また、藤原に都がおかれた頃、「陽出る東に向かって一日の叡知燃えるを祈り、陽入る西に向かって、一日の長寿延命を祈る」習わしがあったという。そのため、藤原宮の大極殿を真ん中にして、東西に位置する安倍文殊院とおふさ観音を結ぶルートは、長寿延命祈願の道であり、「大和長寿道」と呼ばれている。

井市が出している観光パンフレットでは、「大和長寿道」はJR/近鉄桜井駅からJR畝傍駅までの区間およそ5キロになっている。両霊場を参拝しただけでぼけ封じができるとも思われないが、12月に入って最初の本日、久しぶり風のないおだやかな一日となった。こんな日はアパートの部屋に燻ぶっているはモッタイナイ。まず、近鉄の大和八木駅から桜井駅まで行き、そこから史跡探訪も兼ねて長寿道を歩いて戻ることにした。



若桜神社(わかざくらじんじゃ): 谷集落の西方の丘の上に鎮座する神社

JR桜井駅南口
JR桜井駅南口
R桜井駅の南口の駅前広場に、時節柄、クリスマスツリーをイメージしたイルミネーションが飾られている。夜には青い無数の電球が点灯して、嫌がおうでも駅前を行き交う人々に年の瀬を感じさせるに違いない。その駅前広場から、一直線に南へ道路が延びている。観光パンフレットでは、飛鳥の石舞台まで行く「磐余(いわれ)の道」とある。安倍文殊院までは同じ道を辿ることになる。午前10時、まぶしい朝日を浴びて、その駅前道路の歩道を歩き出した。

前通りの両側で、街路樹のポプラの葉がすっかり色づいて、朝日の中で鮮やかに黄色に輝いている。美しい並木だと感心しながら歩いていくと、前方で市の職員がポプラの枝を伐採している。切り取られた後は、丸裸にされた幹だけの味気ない並木が続く。それでも、来春になれば、また若々しい枝を伸ばして、大きな葉を付けるのだろう。

若桜神社の正面
若桜神社の正面
川に架かる橋を渡ると、すぐに国道165号線との交差点に出る。陸橋を登り、後ろを振り返ると、ビルの間から朝日を受けた三輪山が見えた。前方に視線を投げると、正面右手に樹木が茂った丘があった。若桜神社の森である。陸橋を渡りきると、車道を走る車の数が急に少なくなる。若桜神社の鳥居は、その静かな車道に面して立っていた。

虔な参拝者がいるようだ。朝日を受けて白く輝く鳥居の前に、バイクが一台止まっている。鳥居の奥には石の階段の参道が続いている。階段の左脇に、まだ木の香りがすると思われるほど新しい神社の社記を記した案内が建っている。参道の石段を踏みしめて上りながら、何故か最近似たような経験をした気がする。頭の中で最近訪れた史跡に思いを巡らして、やっと思い当たった。10月に吉備地方の歴史探訪をしたとき、巨大古墳の墳丘を登った時の感じになんとなく似ている。そう言えば、若桜神社が鎮座しているこの丘は、前方後円墳だったと聞いたことがある。石段を上り詰めたところに、広い神域があった。だが、人影がない。参拝者のバイクだと思ったのは、思い違いだったのだろうか。

若桜神社記
所在地:桜井市谷344番地
祭神:東殿 伊波俄加利命(いはかがりのみこと)、西殿 大彦命(おおひこのみこと)
社格:東殿 延喜式 式内社、西殿 延喜式 式内大社
例祭日:10月5日
神徳:国家安泰 商売繁盛 家内安全 入学安全

や檜の大木に囲まれた神域は広々としているが、日の光は地表には届いていない。ヒンヤリとした感触の大地は、珍しく落ち葉が散乱していない。境内の奥に民家の納屋を思わせる古びた拝殿があった。拝殿の奥は、白壁を巡らした塀になっていて、本殿は見えない。東殿と西殿が並んで建っているはずだが・・・と思って、拝殿に近づくと、突然、本殿の方から女性の声がした。どうやら、氏子が朝の掃除に来ているらしい。バイクは彼女が乗ってきたものだろう。

殿に祀られている祭神の伊波俄加利命(いはかがりのみこと)は若桜部朝臣(わかざくらべのあそん)や阿部朝臣(あべのあそん)の遠祖とされている人物である。西殿に祀られている大彦命(おおひこのみこと)の名は『日本書紀』にも記されている。崇神天皇のとき地方平定に派遣された四道将軍の一人で、安倍氏の祖神とされている人物である。

若桜神社の拝殿
若桜神社の拝殿
倍氏は、古代の著名氏族で、歴史に名前を残した人物は多い。例えば、大化の改新で左大臣に任ぜられた安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、遣唐留学生で唐で出世した安倍仲麻呂(あべのなかまろ)、古代水軍の将で蝦夷を平定した安倍比羅夫(あべのひらぶ)、平安時代の陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)、陸奥の豪族だった安倍貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)兄弟など。ひょっとすると、次期総理の噂が高い安倍晋三氏も、安倍氏の末裔かもしれない。

井市には、もう一カ所ワカザクラ神社がある。市内の西にある池之内集落の小高い丘に鎮座している稚桜神社(わかざくらじんじゃ)である。物部氏の始祖・饒速日尊(にぎはやひのみこと)の3世の子孫にあたる出雲色男命(いずもしこおのみこと)を祭神として祀っている。



艸墓古墳(くさはかこふん): 別名「カラト古墳」とも呼ばれている方墳

交差点
桜井商業高校グランド角の交差点
標識
民家の生け垣に隠れるように立つ標識
桜神社前の道を南に進むこと数分、今まで2車線だった車道が一車線と細くなり、住宅街の中を緩やかに上っていく。右手の丘陵の上に桜井小学校の校舎が見える。道はやがて直角に右折し、小学校の校門の前に出て、そのまま南に延びている。若桜神社からおよそ6〜7分ほど歩くと、桜井商業高校のグランドの角にある交差点にぶつかる。

差点の角に「磐余道」の石碑が立っている。すぐ近くに歴史街道の標識があり、それによると艸墓古墳(くさはかこふん)は近い。交差点を右折して坂道を上っていけば、安倍文殊院へ行くことができる。よく見ると、右折してすぐのところに、「艸墓古墳」が立っている。しかし、標識が示す道は丘陵の中腹に並ぶ民家の私道のようだ。アスファルトに舗装されたその道は、行き止まりに見える。だが民家の裏側にこんもりとした森が見える。ともかくその私道を上っていくことにした。

ると、坂道の途中の民家の生け垣のそばに、一本の緑色のポールが隠れるように立っていて、「艸墓古墳」と書かれている。だが、古墳へ続く道が見あたらない。よく見ると、生け垣とその隣に民家のブロック塀の間にわずかばかりの狭い空間があり、それが奥へ続いている。駄目もとの積もりでその狭い路地へ入っていくと、思いがけずポッカリと口を開けた古墳の前に出た。このあたり一帯は谷集落の中のカラトと呼ばれる字(あざ)であるところから、別名をカラト古墳と呼ばれている艸墓古墳である。

艸墓古墳のメモ
●所在地: 桜井市谷字カラト
●墳丘: 北西面と東南面がやや長く、長辺約27m、短辺約21mの方墳
●石室: 南東に開口する全長13.3mの両袖式横穴式石室。玄室: 長さ4.5m、幅2.8m、高さ2m。
羨道: 長さ8.8m、幅2m、高さ1.5m。壁: 石の間に漆喰が詰められている。
●石棺: 凝灰岩を用いた刳抜式家形石棺。身の部分:長辺2.4m、短辺1.5m、高さ1m、蓋: 縄掛突起が長辺(2.4m)に2、短辺(1.5m)に1の計6個。厚さ0.6m。上部平坦面は長辺1.8m、短辺0.8m。
●副葬品: 盗掘のため不明
●築造時期: 石室の構造から7世紀後半と推定

口に設けられた3段の階段を下りると、巨大な天井石の下に、長さ8.8m、幅2mの羨道が続いている。その奥に、巨岩を積んで築かれた両袖式の横穴式石室が薄明かりの中にぼんやりと浮かび上がっている。圧巻はそこに置かれた刳抜(くりぬき)式の家形石棺だった。

棺の幅は、羨道の横幅に比べて少し狭いだけである。そのため、石室の構築が先か、石棺の安置が先かで問題になったことがある。石室完成後に石棺を運んだのではなく、まず石棺を安置してから、石室を築いたと言われている。それにしても、古墳巡りをして、巨石で築かれた石室の中の巨大な石棺をみるたびに、疑問に思うことがある。古代の人々は、本当に死者の霊を敬って埋葬したのだろうか、と。むしろ、死霊の復活を阻止するために、重い石棺を造り再び現世に迷い出てこないことを祈ったのではなかろうか、と。
艸墓古墳の開口部 刳抜式家形石棺
艸墓古墳の開口部 玄室に置かれた刳抜式家形石棺



土舞台(つちぶたい): 聖徳太子が国立の演劇研究所を置いたところ?

丘陵の頂きにある土舞台
丘陵の頂きにある土舞台
井市に、我が国の”芸能発祥の地”として顕彰されている場所がある。桜井小学校の裏山の頂上付近にある平坦地で、「土舞台」の名で知られている。その根拠を調べてみると『日本書紀』の推古紀に行き着く。そこには、こう記されている。”推古天皇20年(612)、百済人の味摩之(みまし)が我が国に帰化して、「呉の国に学び、伎楽(くれがく)の舞ができます」と言った。そこで、桜井に住まわせて、少年を集め伎楽の舞を習わせた。真野首弟子(まののおびとでし)と新漢済文(いまきのあやひとさいもん)の2人が、その舞を伝えた。これが今の大市首(おおちのおびと)、辟田首(へきたのおびと)らの先祖である"。

楽とは、古代チベットやインドの仮面劇のことであり、西域を経て中国に伝わった。当時の我が国には「神楽」があっただろうが、宮廷に伎楽が加わったことで、日本の芸能が幅広い豊かなものとなったとされている。だが、『日本書紀』の記述を読む限り、真野首弟子と新漢済文の二人が味摩之について伎楽の舞を習ったのが、土舞台の地であるとも、聖徳太子が我が国で初めての国立の演劇研究所をこの地に置いたとも記載されていない。実は、桜井市が土舞台を史跡として顕彰するようになったには、比較的新しい。

土舞台の広場の脇に立つ案内板
土舞台の広場の脇に立つ案内板
後、桜井市出身の評論家の保田與重郎氏が、江戸時代の「大和名所図絵」に土舞台が描かれているのを知り、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと、有志を募って「土舞台」と刻した標石を立てた。そして、唱和47年(1962)11月、その標石の前で市が後援する盛大な顕彰式典が挙行された。それ以来、土舞台顕彰会主催の顕彰式典を毎年行なって、土舞台が我が国演劇史上の大切な史蹟地であることを喧伝している。

ぜ国立の演劇研究所が不便な丘陵の上にあるのか疑問だったが、とにかく伝承は伝承として、その場所を訪れることにした。艸墓古墳から交差点に戻り、安倍文殊院方面の坂道を上っていくと、坂を登り切ったところに「土舞台」方向への標識が立っている。標識に従って分譲住宅街の中に入り、丘陵の登り口から階段を進むと、桜井小学校の校庭を見下ろす場所に出た。土舞台の碑が建つ広場は、その先にあった。このあたりは桜井公園として整備されているが、広場の隅に顕彰碑と案内板が立つだけで、枯れ落ちた木の葉が散乱しているばかりの広場だった。

安倍山城跡の広場
安倍山城跡の広場
の横からフェンスに沿って遊歩道が築かれているので、先へ進んでみた。すると、土舞台の北側に、また小さな空き地があり、桜井市教育委員会が立てた案内板があった。それによると、この付近は、かって安倍山城があった跡である。暦応4年(1341)、南朝形の西阿が籠もる戒重(かいじゅう)城を攻めるため、北朝方の細川顕が陣を構えた。その後、永禄8年(1565)には、松永久秀が布陣したと伝えられている。現在、小規模な曲輪の跡が残っている。



阿倍文殊院(あべのもんじゅいん): 日本三文殊の第一霊場、学芸成就の祈願所

碑
形県・奥州亀岡の大聖寺、および京都府・天の橋立切戸の智恩寺と並んで、日本三文殊霊場の一つに数えられる安倍山崇敬寺文殊院、通称安倍の文殊院は、さきほどの土舞台方面への標識から南に下った坂下にある。山陰の坂道を下っていくと、途中に東門の標識があり、巨大な石碑が立っていて、そこから車道が第一駐車場に続いている。駐車場に入ると、正面に文殊池があり、金閣浮御堂が池の上に浮かんでいた。

文殊池に浮かぶ金閣浮御堂
文殊池に浮かぶ金閣浮御堂
るい冬に日差しが、珍しく澄み切った空から降りそそぎ、昭和60年(1985)に建てられた六角形の浮御堂が、その影を文殊池に落としている。浮御堂は安倍仲麻呂を祀るために建立されたもので、仲麻呂堂ともいう。堂内には仲麻呂像をはじめ、本尊の弁天像、厄除け守護神九曜星、方位守護の秘仏12天が安置されている。風がない昼下がりのひとときは、水面が鏡のように鎮まりかえり、数羽の鴨が水面で静かに羽を休めている。池の縁にベンチがあった。腰を下ろして一休みしていると、周りの景色は、すべてこの世はことも無しと言った風情である。


史跡公園「安倍寺跡」
史跡公園「安倍寺跡」(左、金堂跡、右、塔跡)
東大寺要録』によると、孝徳天皇元年(645)に始まる大化改新で左大臣の要職にあった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が、安倍氏の氏寺として創建した安倍山崇敬寺が創起と伝えられるている。ただし、当初から現在の場所に建立されたのではない。現在の寺の南西300mのところに、国指定の史跡公園「安倍寺跡」がある。創建時の寺は、そこに建てられた法隆寺伽藍様式の寺だった。

安後期にに、暹覚(せんがく)という僧侶が崇敬寺に移り住み、寺の東北に別所を創建した。そして、鎌倉時代に入ると、文暦元年(1234)に、旧地からこの地へ伽藍が移して再建された。移転後も、大和15大寺の一つとして栄えたが、永禄6年(1563)2月、松永弾正の兵火にあい現在の本堂(文殊堂)と礼堂(能楽舞台)が再建され、現在に至っているという。

阿倍文殊院の本堂
阿倍文殊院の本堂
在の本堂は、入母屋造りで本瓦葺きの7間4面の豪壮な建物で、前に礼堂を従えている。本堂には本尊の木造の文殊師利菩薩(文殊菩薩)と脇侍像4体が祀られている。文殊菩薩は極彩色の騎獅像で、高さは日本最大の7mに達する。右手に降魔の利剣をもち、右手に蓮華を持った形をしている。永禄6年に火災にあったとき、体内から発見された造立願文によって、承久2年(1220)4月12日に快慶(かいけい)によって作られたことが判明している。ただし、台座の獅子は安土桃山時代の作とされる。本尊の周りに配された脇侍像も快慶の作で、いずれも国の重要文化財に指定されている。

本尊の木造文殊師利菩薩"
本尊の木造文殊師利菩薩
(「安倍文殊略記」よりコピー)
殊菩薩は、インドの舎衛国のバラモンの子で、智慧力の高さで知られた菩薩である。「三人集れば文殊の智慧」ということわざがあるように、知恵を授け学業を成就してくれるということで、受験生に人気が高い。本堂の前には、受験の合格を祈願した絵馬が数多く吊してある。

付所で700円の拝観料を払って玄関を上がると、玄関脇の部屋で濃茶とラクガンの接待を受ける。その後礼堂を見て一段高い本堂へ回ると、天井がずいぶん高い。7mの騎獅像を安置するには、高い天井を必要とするのだろう。しばらく正面に座って本尊を眺めた。本来ならボケ封じにお参りしたのだから、加持祈祷でもお願いしなければならないのだろうが、そんなことはすっかり忘れて、本尊の質量感に圧倒されてしまった。しかし、尊顔はなんとなく親しみやすい。




あああ
朱塗りの社殿も鮮やかな白山堂
閣浮御堂から左手(東)へ進むと、白山堂に突き当たる。この神社は加賀の霊峰・白山を神体として祀る白山神社の末社でである。朱塗りのあでやかな社殿は室町時代の創建で、国の重要文化財の指定を受けている。案内板によると、生きとし生けるものすべての祖神と言われる白山比淘蜷_(はくさんひめのおおかみ)、すなわち白山菊理姫(きくりひめ)を祀っているという。

理姫はイザナギノミコトとイザナミノミコトを縁を取りもった神とされ、このため恋愛成就、良縁成就、縁結びの大神としてされている。境内には、「年下の優しい人に巡り会えますように」、「娘(息子)に良い人が見つかりますように」、「世界で一番好きな人と付き合って宇宙一幸せになれますように」といった願い事を書いたハート形の札が多数奉納されていた。


晴明堂
安倍晴明を祀る晴明堂
山堂の横から安倍晴明(あべのせいめい)を祀る晴明堂へ続く坂がある。坂の両脇には永代献灯籠が並ぶ。日付を見ると比較的新しい。永代奉納料50万円を納めると、寺で灯をともし続けてくれるとのことだ。坂を上りきると、見晴らしの良い展望台に出る。この場所は、平安時代の陰陽師・安倍晴明が天文観測を行い、吉凶を占った地として、古くから伝承されてきた。

倍晴明は、延喜21年(921)、摂津の国阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)で、竹取物語に登場する右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)の直径の子孫として生まれた。陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授された。当時としては最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ち。花山天皇や一条天皇、藤原道長らの信頼を受けた。晴明一代の間に安倍氏は賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となった。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)は、晴明を祖としている。

来年の干支
パンジー約8000株で描かれた来年の干支
和盆地を見下ろす展望台に古くから晴明堂があり、安倍晴明を祀ってきたが廃絶した。3年前の2004年に、晴明の1千回忌を迎えるにあたり、200年ぶりに晴明堂が再建された。その正面には、「如意宝珠(にょいほうじゅ)」の玉石が据えられている。この玉を手でなでると、魔よけ、方位除けの大きな加護が受けられるという。

晴台の端に立つと、桜井市街の先に大和三山(天の香具山、耳成山、畝傍山)を臨むことができる。真っ正面に、これから歩くことになる「長寿道」がはるかに霞む二上山に向かって一直線に延びている。視線を下に移すと、文殊池の手前にパンジー約8000株で干支の絵馬が描かれている。すでに来年の干支である戌(いぬ)の絵馬が描かれていた。毎年描かれてきたジャンボ絵馬は、安倍文殊院のホームページで見ることができる。


ウオーナー博士の報恩供養塔
ウオーナー博士の報恩供養塔
晴台の片隅に、外人を祀った報恩供養塔がある。その名はラングドン・ウオーナー博士。アメリカの東洋美術史家だが、第二次世界大戦中、奈良、京都の古美術を戦火から守る運動をアメリカで起こした人物として知られている。奈良や京都が米軍の空爆を受けなかったのは、ウオーナー博士のおかげであると言われている。

士の功績に感動した桜井市の一市民・中川伊太郎氏は、日本人の博士に対する感謝の気持ちを永遠に残そうと自費でこの供養塔を建てた。ちなみに、中川氏は当時日雇い労働者という貧しい境遇にあったが、こつこつと貯めた全財産の10万円出して昭和34年(1959)に建立を申し出たという。その話に感動した当山は、この場所を提供し、博士の命日である6月9日には供養を行っている。


文殊院西古墳
文殊院西古墳
倍文殊院の境内には、2つの古墳がある。西古墳と東古墳である。文殊院西古墳は金閣浮御堂の前にある。我が国の横穴式石室としては最も精巧な切石造りの石室を持つ古墳として有名であり、国の特別史跡に指定されている。自由に内部を見学できる。玄室には「願掛け不動」がまつられている。羨道は長さ8m、幅2.3m、高さ1.8m、玄室は長さ5.1m、幅3m、高さ2.6mとのことである。

室の中へ一歩入ってみれば、良質の花崗岩を入念に加工した切石造りには驚かされる。さらに、玄室の天井は一枚の巨石でできていて、その中央の薄く削り上げて窮隆状に仕上げた見事さには圧倒される。大化5年(649)に死亡した左大臣・安倍倉梯麻呂を埋葬した墓であるとする説がある。

文殊院東古墳
文殊院東古墳
西古墳の東50mのところに、県の史跡に指定されている文殊院東古墳がある。丘陵の端の地形を利用して造られた横穴式石室を持つ古墳で、石室の構造から7世紀初頭の築造と推測されている。墳丘の形状は不明だが、方墳であった可能性が高い。記録によれば、すでに室町時代に南に開口していたとのことである。そのため棺や副葬品については全く不明とされている。

室の規模は全長で13m。玄室は長さが4.69m、高さは2.6mだが、幅は奥壁の部分で2.29m、手前の玄門部で2.69mと、遠近感を強調するように入口より奥を狭くしている。羨道も同様である。羨道の長さは8.31mだが、幅は玄門部で1.75m、羨門部で2.04mを計測する。

西古墳と同様に、石室は花崗岩を用いて作られている。しかし、羨道は切石だが、玄室は自然石をそのまま用いている。石の積み方も西古墳に比べると雑である。この古墳は閼伽井(あかい)古墳とも呼ばれている。羨道中程で昔から枯れることなくコンコンとわき出る泉があるからである。


万葉歌碑
万葉歌碑
倍文殊院の境内には、万葉歌碑も建っている。小さい碑などでつい見逃してしまいがちだが、第一駐車場から境内に入る石段の右側に、植え込みの中に隠れるように建っている。くりこみ理論の手法を発明して量子電気力学の発展に寄与した功績によってノーベル物理学賞を受賞した物理学者の朝永振一郎(ともなが しんいちろう)氏の揮毫による、春日蔵首老(かすがのくらおびとおゆ)の万葉歌である。
●つのさはふ 磐余もすぎず 泊瀬山 何時かも越えむ 夜は 更けつつ (巻3-282)
【意味】磐余さえ通り過ぎないのに、泊瀬の山は何時越えることができるのだろう、夜は次第に更けて行くが。



吉備池と春日神社: 古代には満々と水をたたえていた磐余池があった付近 

安倍文殊院の山門
安倍文殊院の山門
2時30分、安倍文殊院の山門を出る。ここから、西に向かって一直線に延びているのが「大和長寿道」である。山門の南西方向300mほどの所にある史跡公園「安倍寺跡」に立ち寄っって、長寿道をひたすら歩き「おふさ観音」を目指すことにする。

殊院の山門前から少し歩いただけで、すぐに県道15号線との交差点がある。交差点を左折すれば、山田寺跡の前を通って明日香村へ行く道である。交差点の角に、おふさ観音まで3.8kmの標識が出ている。この交差点付近は製材所が多い。昔から吉野の山から切り出した木材が、この地で挽かれてきた。現在でも、このあたりの地名は安倍木材団地である。道路に面した製材所の空き地には、丸木のまま巨大な材木が山積みされている。

倍木材団地を過ぎると、刈り入れが終わった水田が道路の両脇に並ぶ民家の間のところどころに顔を出す。まっすぐ延びた道の前方には、二上山から葛城山へ続く金剛山系が薄く霞んでいる。いつもの習慣で、現代の風景を見ながら現代の道路を歩くとき、古代の景観はどうであったかをつい想像してしまう。

吉備池
吉備池
吉備春日神社
吉備春日神社
世紀の初めごろ、このあたり一帯は、履中天皇の時代に潅漑として築かれた巨大な磐余(いわれ)池の底だったはずである。その池の堤には、当時は槻(つき)の木と呼ばれ霊樹とされてきたケヤキの木が生え揃っていた。聖徳太子の父君である用明天皇は、即位すると磐余池の畔に新しい宮を造営した。宮の近くにどこからも目に付くとりわけ巨大な二本のケヤキがあったため、磐余池辺双槻宮(いわれいけのべのふたつきのみや)と名付けられたという。

神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑
神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑
槻宮が所在した場所は特定されていない。だが、推定地はある。その一つに磐余池の北側に鎮座する吉備春日神社付近とする説がある。春日神社は大津皇子を主祭神として祀る神社である。神社の近くに「神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑」と大書された巨大な碑が建っている。『日本書紀』には、神武天皇の東征の最期に、磯城の八十梟帥(やそたける)と戦い、大いに打ち負かした戦場が磐余邑と呼ばれるこの地だったので、神武天皇の聖蹟を顕彰するために皇紀2600年(昭和15年)にこの碑を建てたとのことだ。




在は磐余池は無くなっている。だが、その面影を彷彿とさせてくれる灌漑用の池が、桜井市吉備にある。その名を吉備池といい。長寿道の右側にその堤が望見できる。

大伯皇女の万葉歌碑 大津皇子万葉歌碑
大伯皇女の万葉歌碑 大津皇子の万葉歌碑
備池の堤に立つと、西の方角に二上山の姿がくっきりと見える。そのためかどうか知らないが、吉備池の堤には、万葉歌を刻んだ歌碑が二つ置かれている。一つは、686年10月3日、大津皇子が大逆罪の罪を得て自頸(じけい)を強いられる直前に詠んだとされる辞世の歌である。
●百伝(もも)伝ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻3-416)
【意味】磐余の池で鳴く鴨を見ることも今日を限りとして、私は死んでいくのであろうか
『万葉集』には、大津皇子が死罪と決められた時、磐余の池の堤で、泣く泣く作った歌である、との詞書がついている。揮毫は歌人の中河幹子

う一つの歌碑には、伊勢神宮の斎宮であった実の姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が、弟の死を悼んで詠んだ歌が刻まれている。大津皇子の事件で任を解かれて都の飛鳥浄御原に戻された後の歌とされている。揮毫は日本画家の小倉遊亀(おぐら ゆき)。
●うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を弟世(いろせ)と 我が見む (巻2-165)
【意味】この世の人である私は、明日からはこの二上山を弟と思って眺めることとしよう。


吉備池廃寺
吉備池廃寺跡(奈文研現説資料より)
備池に関しては、是非とも触れておきたい考古学的発見がある。平成9年(1998)2月、農業用地である吉備池を調査していた奈文研と桜井教育委は、池の東南隅で東西36m、南北27mもある巨大な基壇の跡を発掘した。7世紀前半に建立された寺院の金堂跡と判明し、吉備池廃寺と命名された、3月には、その南で一辺が約30m、高さが2.1m以上もある塔の基壇が見つかり、翌年の10月には、金堂や塔の周囲を囲む回廊の跡が見つかった。ところが、この地に巨大寺院が建立されたという記述は史書には、いっさい登場しない。

のため、吉備寺廃寺は、実は舒明天皇11年(639)に舒明天皇が造営した「百済大寺」ではないかという説が浮上した。百済大寺は百済川のほとりに建てられたとされ、現在の広陵町百済にある「百済寺」がその跡とされてきた。しかし、この寺の近辺からは飛鳥時代の遺跡や瓦が見つからないため、百済寺=百済大寺説は疑問とされてきた。現在では、吉備池廃寺=百済大寺説が有力になってきている。



藤原京跡: たった16年の皇城の跡

後1時半、磐余池から再び長寿道に戻り、西に向かって歩き始めた。すぐに米川に架かる笹穂橋をわたり、橿原市に入る。この付近では米川が桜井市と橿原市の境になっているようだ。もし吉備池で発掘された寺院跡が百済大寺のものならば、7世紀にはこの米川が百済川と呼ばれていたのかもしれない。

耳成山
大和三山の一つ耳成山
西に向かって歩いていると、吉備真備が建立したという御厨子観音への標識が道路の東に立っていた。この辺りの長寿道は2車線で車幅も広く、両側に歩道もある。数年前までは、舗装もされていない砂利道だった。しかし、まもなく道幅が狭くなり、歩道はなくなり、形ばかりの路側帯を表す白線が引かれた道に変わる。対向車とすれ違うとき、思わず車と接触るのでは・・・と思うほど、歩行者にとっては危険な道である。

寿道は、天の香具山の北端を横切って西に延びている。その箇所を過ぎると、左手前方に畝傍山が見えてくる。途中に、藤原宮まで1.3kmの標識があった。ぐっと南に下がった香具山の山麓を見ると、「ふる池」の堤が目に入った。そこから小さな丘陵を挟んで西側の山麓に集落があった。南浦町という字なのだろう。その集落に向かって、一本の道路がまっすぐ南に延びていた。その交差点の角に、香具山まで600mの標識が立っている。

藤原宮の大極殿跡
藤原宮の大極殿跡
発掘調査
発掘調査が行われている道路脇
藤原宮の大極殿跡
醍醐池の縁に建つ万葉歌碑
申の乱が勃発した西暦672年6月29日の朝、大伴連吹負(おおとものむらじ・ふけい)がその口火を切って、数十騎を率いて飛鳥古京を襲撃したとされている。吹負の家は香具山の西北に位置する百済にあったという。ひょっとしたら、山陰の南浦町あたりで息を潜めて時節の到来を待っていたのかもしれない。

行方向右手には、橿原市街の住宅の屋根越しに耳成山が円錐形の整った形を見せている。この付近まで来ると、大和三山を望むことができ、すでにかっての藤原宮に近い。わずか16年の短命な王城にすぎなかった藤原京については、平成17年10月16日の橿原日記でも触れているので、ここでは説明を省略する。

だ、藤原宮跡に近づくにつれて、道路の両脇で工事を行っていて、工事用のフェンスが並べられ、車の片側交互通行が行われているのが目に入った。近づいて整備員に聞いてみると、道路工事ではなく、道路拡張工事に伴う発掘調査だった。調査を担当しているのは奈良文化財研究所(奈文研)である。通りすがりに、発掘現場をのぞき込むと、すでに表土を剥がされた調査区域でいくつかの川原石の並びが出土していた。

統天皇の次の歌を刻んだ歌碑が醍醐池の堤に立っている。
●春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 (春すぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山) (巻1-28)
【意味】春が過ぎて夏がやってくるらしい。(青葉の中に)真っ白な衣が乾かしている、天の香具山は。

0月に訪れたときは豊かな実りの稲穂を垂れた水田が借景にあったが、今は発掘調査のムキだしの無粋な景観がそこにあった。



おふさ観音: 境内を花で埋めた花マンダラの世界

おふさ観音の山門
おふさ観音の山門
おふさ観音の本堂
おふさ観音の本堂
円空庭
本堂の裏手にある円空庭
イングリッシュ・ローズの造花
「茶房おふさ」の入口に置かれていた
イングリッシュ・ローズの造花
醐池を過ぎるころは、すでに午後の2時を過ぎていた。安倍文殊院の山門を出たのが12時30分だから、2時間近く歩いたことになる。さすがに足に痛みを感ずるようになり、腰が重くなってきた。だが、すぐ目の前に国道169号線の縄手交差点がある。交差点を渡れば、住宅街の中の一方通行の生活道路が続いているが、おふさ観音は近い。2時22分、ようやくおふさ観音の山門の前に到着した。

ふさ観音は、この寺の通称である。江戸時代に土地の娘「おふさ」がこの地で観音を奉ったのが始まりで、後に寺に発展したことに由来するという。空海作と言われている十一面観音像を本尊として祀るこの寺は、正式名を高野山真言宗別格本山・観音寺といい、単に観音寺ともいう。十一面観音は身体の健康を授けてくれる仏とされ、長寿と老人病封じを願う人が多く訪れる寺として親しまれている。ちなみに、ボケ封じの祈祷料は安倍文殊院と二ケ寺合わせて5千円だそうだ。

門を入ると、お百度参りの石畳が正面の本堂まで続いているが、驚いたことに、その両側は境内一杯にバラの鉢が置かれている。この寺では、皆が花好きということもあって、副住職を中心に自分たちでバラやハーブを育てているということだ。バラは1000種、ハーブは400種にも達するという。特に、イングリッシュ・ローズは年を追うごとに増え、その繊細な色や形、香りに魅了され、多くの参拝者が訪れる。ただ、境内で催しが行われるたびに、花を移動させねばならないので、地植えではなく鉢植えにしているとのことだ。

堂に参拝して奥へ進むと、本堂の後ろにも花壇がある。すでに秋のバラ祭りは終わったが、それでも所々で鮮やかな花をつけているバラの木が目だった。花壇を抜けると、静かなたたずまいを見せる日本庭園がある。大きな錦鯉が泳ぐ池を中心に配した「円空庭」である。さらに、奥に歩を進めると、「茶房おふさ」がある。広い和室に座って、円空庭を見ながらゆったりした時間を過ごすことができるという。一人で来たため、中へ入るのは遠慮したが、別の機会に気心の知れた友人を連れ立って立ち寄って見たい場所である。


和の古道「長寿道」歩きを完結するには、おふさ観音からJR畝傍駅まで歩を進めなければならないのかもしれない。このルートは古い町並みが残る落ち着いた商店街である。だが、いつも通い慣れた道なので、おふさ観音で今回の散策に終止符を打つことにした。



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