若桜神社 → 艸墓古墳 → 土舞台 → 阿倍文殊院 → 吉備池と春日神社 → 藤原京跡 → おふさ観音 |
若桜神社
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| JR桜井駅南口 |
駅前通りの両側で、街路樹のポプラの葉がすっかり色づいて、朝日の中で鮮やかに黄色に輝いている。美しい並木だと感心しながら歩いていくと、前方で市の職員がポプラの枝を伐採している。切り取られた後は、丸裸にされた幹だけの味気ない並木が続く。それでも、来春になれば、また若々しい枝を伸ばして、大きな葉を付けるのだろう。
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| 若桜神社の正面 |
敬虔な参拝者がいるようだ。朝日を受けて白く輝く鳥居の前に、バイクが一台止まっている。鳥居の奥には石の階段の参道が続いている。階段の左脇に、まだ木の香りがすると思われるほど新しい神社の社記を記した案内が建っている。参道の石段を踏みしめて上りながら、何故か最近似たような経験をした気がする。頭の中で最近訪れた史跡に思いを巡らして、やっと思い当たった。10月に吉備地方の歴史探訪をしたとき、巨大古墳の墳丘を登った時の感じになんとなく似ている。そう言えば、若桜神社が鎮座しているこの丘は、前方後円墳だったと聞いたことがある。石段を上り詰めたところに、広い神域があった。だが、人影がない。参拝者のバイクだと思ったのは、思い違いだったのだろうか。
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若桜神社記 |
杉や檜の大木に囲まれた神域は広々としているが、日の光は地表には届いていない。ヒンヤリとした感触の大地は、珍しく落ち葉が散乱していない。境内の奥に民家の納屋を思わせる古びた拝殿があった。拝殿の奥は、白壁を巡らした塀になっていて、本殿は見えない。東殿と西殿が並んで建っているはずだが・・・と思って、拝殿に近づくと、突然、本殿の方から女性の声がした。どうやら、氏子が朝の掃除に来ているらしい。バイクは彼女が乗ってきたものだろう。
東殿に祀られている祭神の伊波俄加利命(いはかがりのみこと)は若桜部朝臣(わかざくらべのあそん)や阿部朝臣(あべのあそん)の遠祖とされている人物である。西殿に祀られている大彦命(おおひこのみこと)の名は『日本書紀』にも記されている。崇神天皇のとき地方平定に派遣された四道将軍の一人で、安倍氏の祖神とされている人物である。
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| 若桜神社の拝殿 |
桜井市には、もう一カ所ワカザクラ神社がある。市内の西にある池之内集落の小高い丘に鎮座している稚桜神社(わかざくらじんじゃ)である。物部氏の始祖・饒速日尊(にぎはやひのみこと)の3世の子孫にあたる出雲色男命(いずもしこおのみこと)を祭神として祀っている。
艸墓古墳
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| 桜井商業高校グランド角の交差点 |
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| 民家の生け垣に隠れるように立つ標識 |
交差点の角に「磐余道」の石碑が立っている。すぐ近くに歴史街道の標識があり、それによると艸墓古墳(くさはかこふん)は近い。交差点を右折して坂道を上っていけば、安倍文殊院へ行くことができる。よく見ると、右折してすぐのところに、「艸墓古墳」が立っている。しかし、標識が示す道は丘陵の中腹に並ぶ民家の私道のようだ。アスファルトに舗装されたその道は、行き止まりに見える。だが民家の裏側にこんもりとした森が見える。ともかくその私道を上っていくことにした。
すると、坂道の途中の民家の生け垣のそばに、一本の緑色のポールが隠れるように立っていて、「艸墓古墳」と書かれている。だが、古墳へ続く道が見あたらない。よく見ると、生け垣とその隣に民家のブロック塀の間にわずかばかりの狭い空間があり、それが奥へ続いている。駄目もとの積もりでその狭い路地へ入っていくと、思いがけずポッカリと口を開けた古墳の前に出た。このあたり一帯は谷集落の中のカラトと呼ばれる字(あざ)であるところから、別名をカラト古墳と呼ばれている艸墓古墳である。
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艸墓古墳のメモ
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入口に設けられた3段の階段を下りると、巨大な天井石の下に、長さ8.8m、幅2mの羨道が続いている。その奥に、巨岩を積んで築かれた両袖式の横穴式石室が薄明かりの中にぼんやりと浮かび上がっている。圧巻はそこに置かれた刳抜(くりぬき)式の家形石棺だった。
石棺の幅は、羨道の横幅に比べて少し狭いだけである。そのため、石室の構築が先か、石棺の安置が先かで問題になったことがある。石室完成後に石棺を運んだのではなく、まず石棺を安置してから、石室を築いたと言われている。それにしても、古墳巡りをして、巨石で築かれた石室の中の巨大な石棺をみるたびに、疑問に思うことがある。古代の人々は、本当に死者の霊を敬って埋葬したのだろうか、と。むしろ、死霊の復活を阻止するために、重い石棺を造り再び現世に迷い出てこないことを祈ったのではなかろうか、と。
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| 艸墓古墳の開口部 | 玄室に置かれた刳抜式家形石棺 |
土舞台
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| 丘陵の頂きにある土舞台 |
伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇のことであり、西域を経て中国に伝わった。当時の我が国には「神楽」があっただろうが、宮廷に伎楽が加わったことで、日本の芸能が幅広い豊かなものとなったとされている。だが、『日本書紀』の記述を読む限り、真野首弟子と新漢済文の二人が味摩之について伎楽の舞を習ったのが、土舞台の地であるとも、聖徳太子が我が国で初めての国立の演劇研究所をこの地に置いたとも記載されていない。実は、桜井市が土舞台を史跡として顕彰するようになったには、比較的新しい。
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| 土舞台の広場の脇に立つ案内板 |
なぜ国立の演劇研究所が不便な丘陵の上にあるのか疑問だったが、とにかく伝承は伝承として、その場所を訪れることにした。艸墓古墳から交差点に戻り、安倍文殊院方面の坂道を上っていくと、坂を登り切ったところに「土舞台」方向への標識が立っている。標識に従って分譲住宅街の中に入り、丘陵の登り口から階段を進むと、桜井小学校の校庭を見下ろす場所に出た。土舞台の碑が建つ広場は、その先にあった。このあたりは桜井公園として整備されているが、広場の隅に顕彰碑と案内板が立つだけで、枯れ落ちた木の葉が散乱しているばかりの広場だった。
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| 安倍山城跡の広場 |
阿倍文殊院
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| 文殊池に浮かぶ金閣浮御堂 |
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| 史跡公園「安倍寺跡」(左、金堂跡、右、塔跡) |
平安後期にに、暹覚(せんがく)という僧侶が崇敬寺に移り住み、寺の東北に別所を創建した。そして、鎌倉時代に入ると、文暦元年(1234)に、旧地からこの地へ伽藍が移して再建された。移転後も、大和15大寺の一つとして栄えたが、永禄6年(1563)2月、松永弾正の兵火にあい現在の本堂(文殊堂)と礼堂(能楽舞台)が再建され、現在に至っているという。
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| 阿倍文殊院の本堂 |
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| 本尊の木造文殊師利菩薩 (「安倍文殊略記」よりコピー) |
受付所で700円の拝観料を払って玄関を上がると、玄関脇の部屋で濃茶とラクガンの接待を受ける。その後礼堂を見て一段高い本堂へ回ると、天井がずいぶん高い。7mの騎獅像を安置するには、高い天井を必要とするのだろう。しばらく正面に座って本尊を眺めた。本来ならボケ封じにお参りしたのだから、加持祈祷でもお願いしなければならないのだろうが、そんなことはすっかり忘れて、本尊の質量感に圧倒されてしまった。しかし、尊顔はなんとなく親しみやすい。
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| 朱塗りの社殿も鮮やかな白山堂 |
菊理姫はイザナギノミコトとイザナミノミコトを縁を取りもった神とされ、このため恋愛成就、良縁成就、縁結びの大神としてされている。境内には、「年下の優しい人に巡り会えますように」、「娘(息子)に良い人が見つかりますように」、「世界で一番好きな人と付き合って宇宙一幸せになれますように」といった願い事を書いたハート形の札が多数奉納されていた。
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| 安倍晴明を祀る晴明堂 |
安倍晴明は、延喜21年(921)、摂津の国阿倍野(現在の大阪市阿倍野区)で、竹取物語に登場する右大臣・阿倍御主人(あべのみうし)の直径の子孫として生まれた。陰陽師賀茂忠行・保憲父子に陰陽道を学び、天文道を伝授された。当時としては最先端の呪術・科学であった「天文道」や占いなどの陰陽道の技術に関して卓越した知識を持ち。花山天皇や一条天皇、藤原道長らの信頼を受けた。晴明一代の間に安倍氏は賀茂氏と並ぶ陰陽道の家となった。鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)は、晴明を祖としている。
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| パンジー約8000株で描かれた来年の干支 |
見晴台の端に立つと、桜井市街の先に大和三山(天の香具山、耳成山、畝傍山)を臨むことができる。真っ正面に、これから歩くことになる「長寿道」がはるかに霞む二上山に向かって一直線に延びている。視線を下に移すと、文殊池の手前にパンジー約8000株で干支の絵馬が描かれている。すでに来年の干支である戌(いぬ)の絵馬が描かれていた。毎年描かれてきたジャンボ絵馬は、安倍文殊院のホームページで見ることができる。
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| ウオーナー博士の報恩供養塔 |
博士の功績に感動した桜井市の一市民・中川伊太郎氏は、日本人の博士に対する感謝の気持ちを永遠に残そうと自費でこの供養塔を建てた。ちなみに、中川氏は当時日雇い労働者という貧しい境遇にあったが、こつこつと貯めた全財産の10万円出して昭和34年(1959)に建立を申し出たという。その話に感動した当山は、この場所を提供し、博士の命日である6月9日には供養を行っている。
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| 文殊院西古墳 |
石室の中へ一歩入ってみれば、良質の花崗岩を入念に加工した切石造りには驚かされる。さらに、玄室の天井は一枚の巨石でできていて、その中央の薄く削り上げて窮隆状に仕上げた見事さには圧倒される。大化5年(649)に死亡した左大臣・安倍倉梯麻呂を埋葬した墓であるとする説がある。
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| 文殊院東古墳 |
石室の規模は全長で13m。玄室は長さが4.69m、高さは2.6mだが、幅は奥壁の部分で2.29m、手前の玄門部で2.69mと、遠近感を強調するように入口より奥を狭くしている。羨道も同様である。羨道の長さは8.31mだが、幅は玄門部で1.75m、羨門部で2.04mを計測する。
西古墳と同様に、石室は花崗岩を用いて作られている。しかし、羨道は切石だが、玄室は自然石をそのまま用いている。石の積み方も西古墳に比べると雑である。この古墳は閼伽井(あかい)古墳とも呼ばれている。羨道中程で昔から枯れることなくコンコンとわき出る泉があるからである。
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| 万葉歌碑 |
吉備池と春日神社: 古代には満々と水をたたえていた磐余池があった付近
文殊院の山門前から少し歩いただけで、すぐに県道15号線との交差点がある。交差点を左折すれば、山田寺跡の前を通って明日香村へ行く道である。交差点の角に、おふさ観音まで3.8kmの標識が出ている。この交差点付近は製材所が多い。昔から吉野の山から切り出した木材が、この地で挽かれてきた。現在でも、このあたりの地名は安倍木材団地である。道路に面した製材所の空き地には、丸木のまま巨大な材木が山積みされている。 安倍木材団地を過ぎると、刈り入れが終わった水田が道路の両脇に並ぶ民家の間のところどころに顔を出す。まっすぐ延びた道の前方には、二上山から葛城山へ続く金剛山系が薄く霞んでいる。いつもの習慣で、現代の風景を見ながら現代の道路を歩くとき、古代の景観はどうであったかをつい想像してしまう。
現在は磐余池は無くなっている。だが、その面影を彷彿とさせてくれる灌漑用の池が、桜井市吉備にある。その名を吉備池といい。長寿道の右側にその堤が望見できる。
●百伝(もも)伝ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ (巻3-416) 【意味】磐余の池で鳴く鴨を見ることも今日を限りとして、私は死んでいくのであろうか 『万葉集』には、大津皇子が死罪と決められた時、磐余の池の堤で、泣く泣く作った歌である、との詞書がついている。揮毫は歌人の中河幹子。
もう一つの歌碑には、伊勢神宮の斎宮であった実の姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が、弟の死を悼んで詠んだ歌が刻まれている。大津皇子の事件で任を解かれて都の飛鳥浄御原に戻された後の歌とされている。揮毫は日本画家の小倉遊亀(おぐら ゆき)。
そのため、吉備寺廃寺は、実は舒明天皇11年(639)に舒明天皇が造営した「百済大寺」ではないかという説が浮上した。百済大寺は百済川のほとりに建てられたとされ、現在の広陵町百済にある「百済寺」がその跡とされてきた。しかし、この寺の近辺からは飛鳥時代の遺跡や瓦が見つからないため、百済寺=百済大寺説は疑問とされてきた。現在では、吉備池廃寺=百済大寺説が有力になってきている。 |
藤原京跡: たった16年の皇城の跡午後1時半、磐余池から再び長寿道に戻り、西に向かって歩き始めた。すぐに米川に架かる笹穂橋をわたり、橿原市に入る。この付近では米川が桜井市と橿原市の境になっているようだ。もし吉備池で発掘された寺院跡が百済大寺のものならば、7世紀にはこの米川が百済川と呼ばれていたのかもしれない。
長寿道は、天の香具山の北端を横切って西に延びている。その箇所を過ぎると、左手前方に畝傍山が見えてくる。途中に、藤原宮まで1.3kmの標識があった。ぐっと南に下がった香具山の山麓を見ると、「ふる池」の堤が目に入った。そこから小さな丘陵を挟んで西側の山麓に集落があった。南浦町という字なのだろう。その集落に向かって、一本の道路がまっすぐ南に延びていた。その交差点の角に、香具山まで600mの標識が立っている。
進行方向右手には、橿原市街の住宅の屋根越しに耳成山が円錐形の整った形を見せている。この付近まで来ると、大和三山を望むことができ、すでにかっての藤原宮に近い。わずか16年の短命な王城にすぎなかった藤原京については、平成17年10月16日の橿原日記でも触れているので、ここでは説明を省略する。 ただ、藤原宮跡に近づくにつれて、道路の両脇で工事を行っていて、工事用のフェンスが並べられ、車の片側交互通行が行われているのが目に入った。近づいて整備員に聞いてみると、道路工事ではなく、道路拡張工事に伴う発掘調査だった。調査を担当しているのは奈良文化財研究所(奈文研)である。通りすがりに、発掘現場をのぞき込むと、すでに表土を剥がされた調査区域でいくつかの川原石の並びが出土していた。
持統天皇の次の歌を刻んだ歌碑が醍醐池の堤に立っている。 10月に訪れたときは豊かな実りの稲穂を垂れた水田が借景にあったが、今は発掘調査のムキだしの無粋な景観がそこにあった。
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おふさ観音: 境内を花で埋めた花マンダラの世界
おふさ観音は、この寺の通称である。江戸時代に土地の娘「おふさ」がこの地で観音を奉ったのが始まりで、後に寺に発展したことに由来するという。空海作と言われている十一面観音像を本尊として祀るこの寺は、正式名を高野山真言宗別格本山・観音寺といい、単に観音寺ともいう。十一面観音は身体の健康を授けてくれる仏とされ、長寿と老人病封じを願う人が多く訪れる寺として親しまれている。ちなみに、ボケ封じの祈祷料は安倍文殊院と二ケ寺合わせて5千円だそうだ。 山門を入ると、お百度参りの石畳が正面の本堂まで続いているが、驚いたことに、その両側は境内一杯にバラの鉢が置かれている。この寺では、皆が花好きということもあって、副住職を中心に自分たちでバラやハーブを育てているということだ。バラは1000種、ハーブは400種にも達するという。特に、イングリッシュ・ローズは年を追うごとに増え、その繊細な色や形、香りに魅了され、多くの参拝者が訪れる。ただ、境内で催しが行われるたびに、花を移動させねばならないので、地植えではなく鉢植えにしているとのことだ。 本堂に参拝して奥へ進むと、本堂の後ろにも花壇がある。すでに秋のバラ祭りは終わったが、それでも所々で鮮やかな花をつけているバラの木が目だった。花壇を抜けると、静かなたたずまいを見せる日本庭園がある。大きな錦鯉が泳ぐ池を中心に配した「円空庭」である。さらに、奥に歩を進めると、「茶房おふさ」がある。広い和室に座って、円空庭を見ながらゆったりした時間を過ごすことができるという。一人で来たため、中へ入るのは遠慮したが、別の機会に気心の知れた友人を連れ立って立ち寄って見たい場所である。 大和の古道「長寿道」歩きを完結するには、おふさ観音からJR畝傍駅まで歩を進めなければならないのかもしれない。このルートは古い町並みが残る落ち着いた商店街である。だが、いつも通い慣れた道なので、おふさ観音で今回の散策に終止符を打つことにした。 |