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| 青野ダムに堰き止められた千丈寺湖(2005/11/23 撮影) |
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大阪に、朝鮮古代史と古代日朝関係史を中心に勉強する市民サークル「日韓古代文化研究会」がある。毎月第一日曜日、森ノ宮にあるアピオ大阪で、その道の専門家を講師に招いて学習会を開いている。去る10月の学習会は「むくげの会」の寺岡 洋氏を招き、「三田盆地と篠山盆地の渡来関連遺跡」について講演いただいた。筆者は私用で参加できなかったが、常連のK.S女史から特別に送って貰ったレジメを見ると、かなり内容の濃い講演だったようだ。 研究会は、その講義で話題になった主な渡来関連史跡遺跡を、寺山氏ご自身の案内で見学するバスツアーを企画した。実施日は勤労感謝の日、つまり本日に設定されていた。今月の学習会で参加申込みを受け付けたが、その学習会にも参加できなかった。締め切り期限はとっくに過ぎていたが、特別に申し込んで参加させてもらうことにした。
見学会の案内には、午前9時に神戸三宮の東急インホテル前集合とある。アパートがある橿原市からだと、指定された時間までに三宮に着くには、かなり早い時間に出発しなければならない。時刻表を確認し、少し時間の余裕を見込んで畝傍御陵前駅を6時42分発に出る電車に乗った。 天気予報によると、本日は全国的に高気圧に覆われて風もなく晴れ渡って、絶好の行楽日和だそうだ。この時期、奈良盆地の夜明けは遅い。午前6時を過ぎて、ようやく東の空がうっすらを赤みを帯びてくる。駅のホームから眺める飛鳥の山々の稜線からは、まだ朝の太陽は顔をのぞかせない。休日のせいか、ホームにはまだ人影はなかった。鶴橋駅、大阪駅で列車を乗り継いで、三宮駅近くの集合場所に到着したときは、時計の針は8時半を過ぎていた。 【コース】三宮(出発) → (三田盆地)奈良山古墳群 → 青野ダム記念館 → (篠山盆地)大師山・宮田古墳群 → → 石くど古墳 → 雲部車塚古墳 → 櫛岩窓神社 → 稲荷山古墳 → 洞中1・2号墳 → 三宮(解散) |
奈良山
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所在地:兵庫県三田市けやき台 ウッディタウン中央公園 |
参加者を乗せた小形バスは、予定より20分遅れて東急インホテル前を出発した。まもなく、自動車用のトンネルとしては日本でも指おりの長い新神戸トンネル有料道路に入る。六甲山系を貫通する新神戸トンネルは、2本ある。昭和51年(1976)に開通した北行きのトンネルは、全長6910m、昭和63年(1988)に開通した第二トンネルは全長7175mとのことである。これらのトンネルの開通で、神戸市の北区へのアクセスはずいぶん楽になった。
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| むくげ(無窮花) |
新神戸トンネルを抜けると、バスは北神戸線に入り、六甲山の裏側の山麓を走る。車窓を流れる山々がすっかり紅葉し、澄み切った青空の下で鮮やかな彩りを見せている。山の木々を眺めていると、史跡見学に来たというより、むしろ紅葉狩りに来たような気分になった。
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| 中央公園の中の緑の広場 この奥に古墳群への階段が築かれている |
神戸三田ICで高速道路を下りたバスは、大規模な住宅地を通り、ウッディタウン(Woody Town)と呼ばれる地区にある中央公園前で止まった。最初の見学地である奈良山古墳群は多目的公園と整備された中央公園の中の小高い丘陵に築かれている。
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| 奈良山古墳群の古墳分布 |
14基のうち、1号墳・5号墳・7号墳・12号墳・14号墳の5つの古墳について発掘調査が行われた。1号墳は古墳時代前期の円墳で、埋葬施設として礫槨(れきかく)が用いられていた。5号墳・7号墳・14号墳は古墳時代後期の円墳である。埋葬施設は、流出したものも含めて木棺を直接埋葬していた。12号墳は、終末期の(飛鳥時代)の円墳で、埋葬施設は整美な板石を用いた横口式石棺だった。これらの古墳のうち、7号墳と12号墳の2基だけが復元されている。
ウッディタウン中央公園の入口に管理事務所兼会議室の平屋があり、その前から広がっている「みどりの広場」の芝生が青空の下でまぶしい。古墳群がある丘陵へ登り口は「みどりの広場」の外れに近い場所にある。見事に紅葉した木々の間を抜け、その先のかなり急な階段の散策路を登り切ると、丘陵の尾根に出る。尾根伝いに右に進むと、奈良山7号墳の前に出る。
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”奈良山7号墳 6世紀中頃から後半(約1、450年前)に造られた直径16.5m、高さ3.5mの円墳で、3カ所から木棺(もっかん)を直接に埋めた墓が見つかった。
墓の中から直刀、鉄鏃(てつぞく)、刀子(とうす)、外から馬具と多量の須恵器が蓋杯(ふたつき)、高坏(たかつき)、堤瓶(ていへい)の各グループに分けられて納めてあった。堤瓶グループのなかに土の玉3個を入れたハソウと呼ぶ土器があり、左右に振るとカラ、カラと音がする。古墳時代の人々も鳴らしていたのだろうか。”
奈良山7号墳は、丘陵に繁茂ずる雑木を切り払って復元されている。直径16.5mの円墳など、これが古墳だと言われなければ気づかないほど小さいマウンドである。周囲の木々が吹き散らかした枯葉が散乱する古墳の上で、寺岡氏は奈良山古墳群の概要を説明された。その話はまことに興味深かった。
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| 奈良山7号墳の標識 |
6世紀中頃から後半という時期には思い当たることがある。6世紀に入ると、朝鮮半島の南部にあった加耶諸国の混乱を巧みに利用して新羅が勢力を広げ、532年には金海加耶などを、562年には高霊加耶を中心とする残余の勢力を併合してしまった。当時の戦乱を避けて、加耶南部から日本列島に移り住んだ人々は多かったはずである。奈良山7号墳の被葬者はそうした渡来集団のボスではなかったか。
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| 奈良山7号墳 |
金銅製冠は朝鮮の三国時代、王権のシンボルとして使われていた点を考慮すれば、半島から渡来してきた支配者層の人物だった可能性がある。あるいは、大和からこの地域の開発のため派遣されてきた豪族が、当時の最先端の衣装をまとって埋葬されたのかもしれない。いずれにしても、奈良山7号墳の被葬者は、西山6号墳の被葬者に何らかの形で臣従していた人物とみたい。
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| 奈良山12号墳 |
奈良山12号墳にも物知り博士の石造が置かれている。ただし、こちらの博士は空を見上げて、なにかを思索している風情である。手元には次のような案内板が置かれているが、その内容になにか不審なことでも書かれているのだろうか。
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案内板にあるように、この12号墳は終末期の円墳である。ところが、もっぱら木棺直葬という埋葬形式を採用してきた奈良山古墳群の中で、この古墳が当時の最先端の横口式石棺に類似の石棺を採用している。一般的な常識では、石棺とか木棺のたぐいは、天井部分が開いている。ところが、この古墳の石棺は木口に開口部が造られ、しかも開口部に置かれた閉塞石にはのぞき窓のような空間が空けられていたという。
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| 奈良山12号墳 |
青野ダム記念館 − 特殊扁壺と展示している記念館
三田市の北部を流れて武庫川に注ぐ青野川と黒川は、過去幾度となく氾濫を繰り返してきた。こうした自然災害を未然に防ぎ、急増するニュータウン人口の水確保のために造られたのが、青野ダムである。ダムによって堰き止められた青野川は千丈寺湖という人造湖を造った。なだらかな稜線を描く山々に囲まれた湖である。 その湖畔に青野ダム記念館がある。鉄筋2階建ての瀟洒な建物は、この地区で出土した須恵器などの埋蔵文化財と、ダムの模型などダム建設の資料を1階に展示している。2階には平成16年(2006)4月から民俗資料室がオープンした。 須恵器は還元焔焼成(かんげんえんしょうせい)される硬質の土器で、摂氏1000度以上の高温が得られる専用の登窯(のぼりがま)で作られた。登窯は、丘陵の斜面に沿ってU字溝を掘り、側面を整え、竹や木で天井を作りワラを混ぜた粘土を貼り付けた半地下形式のものが一般的だった。
寺岡氏が一行を青野ダム記念館に案内したのには理由があった。この地区で出土した須恵器などの埋蔵文化財を展示している資料室にある特殊扁壺(とくしゅへんこ)と呼ばれる奇妙な形の須恵器を、一行に説明したかったためである。特殊扁壺とは、少し押しつぶした水筒のような扁平な壺だが、壺の一部を切り落として開口部を作り、水筒の口としている。全国での出土例は16例と少ないが、近畿・四国で出土した特殊扁壺は筒状の柄を付けたり、あるいは柄を取り付ける小さな小孔が穿かれているが、関東地方出土するものは柄がないのが特徴である。
特殊扁壺の用途はよく分かっていないが、柄杓(ひしゃく)ではないかと推測されている。韓国慶州の金冠塚や飾履塚から青銅製の柄杓が見つかっている。そのため、祖形は朝鮮半島に求められている。寺岡氏は日本列島のきわめて限られた集団が、祭祀に際して使用した柄杓ではないかと想定しておられる。 |
大師山・宮田
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所在地:兵庫県 篠山市 宮田 |
青野ダム記念館を出発したバスは、しばらく千丈寺湖の湖岸道路を走り、やがて国道176号線に合流した。車窓を流れる山々の雑木がすっかり色づいて、紺碧の空の下で映えている。
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三田盆地は、古代には摂津(せっつ)の国に属していた。次の訪問先は篠山盆地にある大師山・宮田古墳群であるが、篠山盆地は古代の丹波(たんば)の国の入口に位置している。三田盆地から篠山盆地へ向かうには、途中で摂津と丹波の国境だった日出坂峠(ひでざかとうげ)を越える。しかし、国道176号線を走るバスでは、比高差がまったく感じられず、いつ峠を越えたのか気づかない。寺岡氏は、川の流れる方向の違いで日出坂峠を過ぎたことを判別しているという。
JR福知山線に沿って篠山盆地を北に向かっていたバスは、やがて篠山市に入った。篠山市は、平成11年(1999)4月1日に兵庫県多紀郡の篠山町、丹南町、西紀町、今田町の4町が合併して新しく誕生した市である。篠山市の西北部は武庫川の支流・宮田川が形成した狭い河谷平野となっていて、その周辺には舞鶴若狭自動車道(以下、舞鶴道)の建設によって、鉄ていや金属釧路、耳杯、特殊扁壺、ミニチュア農耕具など特異な遺物を出土した古墳群がいくつか見つかっている。大師山・宮田古墳群はそうした古墳群の一つである。
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| 大師山・宮田古墳群 |
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| 古墳群の登り口にある天神神社のヒメコマツ |
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| 丘陵の尾根伝いに続く遊歩道 |
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| 宮田1号墳 |
国道176号線の「丹南橋」交差点で県道97号線へ分岐して宮田町に入った。健康センター前でバスを下りると、近くの天神神社に向かった。境内に「天神の松」の名で呼ばれているヒメコマツの見事な古木が枝を延ばしていた。幹周りが4mもある名木で、丹波森協会の選定樹木に指定されている。
大師山遊歩道へ続く階段は、神社の社殿の横にあった。相当傾斜角がきつい階段を登り切って丘陵の尾根に出ると、遊歩道は比較的平坦である。落ち葉が散乱している雑木林の中の路は、紅葉を楽しむには格好の散策路だ。だが、本日の目的は史跡探訪である。配付資料によると、遊歩道に沿って古墳が列をなして築かれているようだが、雑木が生い茂る小さなマウンドなど、台地のコブなのか古墳の墳土なのかさっぱり見分けがつかない。
寺岡氏が、遊歩道の途中で立ち止まった。氏が立っている場所が、6世紀前葉に築かれた宮田1号墳であるという。墳丘の規模は10mx13mの楕円形とのことだが、標識もなにもなく、落ち葉に覆われた単なるマウンドにしか見えない。この古墳は遊歩道建設の際に半壊の被害を被ったという。
発掘調査したところ、箱式木棺を直葬(ちょくそう)した古墳であることが分かった。以下の遺品が出土したという。
耳杯(じはい)1、金製耳環2、銅釧1、小型倣製鏡(ぼうせいきょう)1、紡錘車(ぼうすいしゃ)1、玉類。
寺岡氏は、これらの出土品の中で、特に耳杯(じはい)に注目されている。角杯(かくはい)と同じく儀式に用いられた酒器の一種と推測されているが、極めて珍しい形をした須恵器で、現在までのところ他の出土例はないとのことだ。また、この古墳から出土した耳飾りは純金製である点にも注目されている。こうした装身具は金銅製が多い時代に、純金製の耳飾りを着けていた人物は、渡来系の人物だった可能性が高いとの持論を展開された。
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| 大師山古墳群の中の展望台 |
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| 大師山6号墳 |
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| 大師山・宮田古墳群の案内 |
箱塚古墳群の中の4号墳は6世紀中葉の築造で、装飾付須恵器(台付子持壺)、特殊扁壺、大型高坏などが見つかっている。一方、沢の背古墳群の中の2号墳は7世紀初頭に築かれた古墳で、ここからは装飾大刀、鉄製の釧(くしろ)などが出土し、追葬されたと思われる陶棺も見つかっている。
食事の後、大師山6号墳を目指して、遊歩道を先へ進んだ。大師山古墳群の古墳も遊歩道に沿って築かれているはずだが、さっぱり見当が付かない。寺岡氏に聞いてみると、古びたベンチが一つ置かれているのが目安だという。確かに、勾配のある坂道を登り切った場所にベンチが一つ置かれていた。
大師山6号墳は、自然の地形を利用して作られた円墳で、築造時期は5世紀中葉から後半と推定されている。埋葬施設は上下二段の墓壙(ぼこう)で構成され、下段に長さ4mの割竹形木棺が直葬されていた。出土遺物は、鉄てい約10、鉄斧2、鉄鏃3、鉄鎌2など鉄器類と、鉄釧2、珠文鏡1、それに勾玉などの装飾品類だったという。
寺岡氏は、この古墳から出土した鉄ていに注目される。兵庫県下で鉄ていを出土した古墳は4例しかない。当時は、朝鮮半島から鉄ていの形で鉄の素材を輸入し、それを鋳造して様々な鉄製品を作っていた。鉄ていは同時に交易のための貨幣としても使用された。従って、被葬者は鉄ていを容易に入手できる立場にあった人物と推測できる。この付近にも渡来系氏族が盤踞したとする説をお持ちの寺岡氏は、当然朝鮮半島南部と何らかの交易ルートを持っていた氏族の長が被葬者であると見なしておられる。
同氏によれば、リング状の装身具・鉄釧(くしろ)は渡来系集団と関連する遺物である。また、同時に出土した10cm前後のミニチュア化した鉄斧や韓国でサルボと呼ばれる農具をミニチュア化さた遺物も出土しており、儀器として用いられた可能性が高い。こうした出土品から推測する限り、この古墳群も渡来系氏族の奥津城だったと見ざるをえないとのことだ。
6号墳の先にも古墳が続いている。紅葉した雑木を愛でながら尾根伝いの遊歩道を進んでゆくと、途中に、雑草に隠れるようにして大師山・宮田古墳群の案内が立っていた。1号墳のあったあたりには、古びた祠が建っていた。
新宮
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所在地:篠山市郡家字宮の東 |
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| 神社の後ろの森が新宮古墳 |
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| 周囲に巡らされた周濠の跡 |
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| 新宮古墳の陪塚・碁石塚 |
道の左側に神社があり、その後ろにこんもりとした森が見える。森の手前に古い民家が一軒建っているが、その背後に円墳があるらしい。新宮古墳は、篠山盆地随一の円墳で、この付近に散在する郡家古墳群の盟主的存在である。昭和44年(1969)、当時の多紀郡教育事務教育委員会が範囲確認調査を実施した。その結果、墳丘は2段で築成されていて、直径は52.5m、高さは約7.0mであることが判明した。神社の境内から墳頂に登ってみたが、直径17.5mもあるという頂きは、雑木が生い茂るだけで何もなかった。
しかし、墳丘からは円筒埴輪を出土しており、5世紀後半の築造と推定されている。さらに、この円墳は周濠を巡らしていた。現在でもその跡が同心円を描く水田の畦によってはっきりと分かる。周濠を巡らした円墳は径87.5mとのことだ。篠山盆地随一の円墳と言われる所以である。貞享4年(1687)に編纂された『篠山領地誌』によれば、竪穴式石室内に甲冑や鉄刀などの武具が埋葬されていたとのことである。
バスが停車した道路の反対側に、小さな塚があった。新宮古墳の南に位置する陪塚と考えられていて、その名を碁石塚という。この塚にも約6mの周濠があったことが分かっている。
石くど古墳 − 篠山盆地にもあった石舞台古墳
石室の外側の高さは約3m、長さは約4mで、東南方向に約5mの羨道跡が残っている。石室の上には2枚の天井石が乗っているが、石室自体は当初の形が完全に残っているわけではなく、石の組み合わせにゆがみが生じている。そのため、石室内には立ち入らないように、との警告板が掲げてある。 「石くど」とはどういう意味か判然としないが、案内板によると、この付近では火雨が降ったときの隠れ場であるという伝説が残っていて、「石くど」と呼んでいるそうだ。何はともあれ、飛鳥の石舞台古墳と似た古墳がこの地に存在するとは夢にも思わなかった。 |
雲部車塚
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| 前方部斜め前から見た雲部車塚古墳(2005/11/23 撮影) |
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所在地:篠山市東本荘 |
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| 陪塚−1 |
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| 陪塚−2 |
明治29年(1896)に地元民が発掘し、主体部から5枚の天井石を持つ竪穴式石室の内部に組み合わせ式長持形石棺が安置されているのを発見した。ただ、石室が後円部中心よりやや南側に位置しているため、もう一つの主体部の存在も推定されている。
石棺内の副葬品は未掘のため不明のままだが、側壁と石棺の間から鉄刀、鉄剣、鉄鉾(全長2.09m)、小札鋲留衝角付冑、三角板変形衝角付冑、横矧板皮綴短甲、馬具類などが出土している。
一般には、崇神天皇とき派遣された四道将軍の一人・丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)が被葬者として想定されている。しかし異説もあり、仲哀天皇の五世の孫にあたる倭彦王(やまとひこのおおきみ)を想定する説もある(春本一夫著「兵庫史の謎」)。武烈天皇亡き後に、大伴金村が倭彦王を後嗣に推薦し、巨勢男人(こせのおひと)と物部麁鹿火 ( もののべのあらかい )が軍を率いて迎えに来たが、そのとき軍勢に驚いて山谷を逃げ回り行方をくらましたという伝承が残っている。
櫛岩窓
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所在地:篠山市篠山市福井 |
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| 杉並木が続く参道 |
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| 参道の奥にある鳥居 |
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| 櫛岩窓神社の拝殿 |
一の鳥居から二の鳥居にかけての参道の両側には、美しい杉木立が並ぶ。二の鳥居をくぐると、前方に拝殿が見えてくる。しかし、かっては大芋荘など48か村の総社として栄えた神社の社殿も現在はさびれている。
現在の社殿の後方に宮山と呼ばれている高さ30mほどの丘がある。宮山は神奈備で、その頂上付近に3個の巨岩がある。古代信仰で言うところの神が鎮座する磐座である。したがって、この神社の原初的な形は、大小の自然石を霊岩(みたまいわ)として祀る巨岩信仰だった。
案内板によれば、現在は櫛岩窓命(くしいわまどのみこと)と豊岩窓命(とよいわまどのみこと)、大宮比売命(おおみやひめのみこと)を祭神として祀っている。『古事記』の天孫降臨の段には、ニニギノ命の従者として天岩戸別神の名が見える。この神が櫛岩窓神と豊岩窓神という御門の神であり、後には皇城の四方八方の御門を守護する神とされた。大宮比売命はこれら二人の神に仕えた女官神である。男神・櫛岩窓命座像、女神・豊岩窓命座像、および女神・大宮比売命座像の一木掘りが社宝となっており、国の重文の指定を受けている。
平安京の頃の篠山は、ちょうど都からみて西の位置にあたる。西から災いなどが入ってこないように皇城を守護する神として、朝廷から厚い崇敬を受けていた。元慶元年(877)には、陽成天皇の勅使が参拝している。応仁の乱以後はしばしば戦火にあい、天正年間(1573-92)には明智光秀の兵火を受けて全焼した。現在の社殿は寛文3年(1663)に再建されたものである。
稲荷山
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所在地:篠山市篠山市小田中 |
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| 清五郎稲荷神社 |
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| 稲荷山古墳へのアクセス |
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| 玄室から羨道を見る |
この地方の力士は代々弱かったそうである。ところが、今から文政年間に江戸両国の回向院広場で、将軍上覧大相撲が催されたとき、篠山から来たという小田中清五郎をはじめとする8名の力士が現れて、全員が勝ち続けた。これにより、時の老中・篠山藩青山忠裕公は大いに面目をほどこすことができ、力士達に褒賞を与えようと探したが見つけることができなかった。後に、力士達がお稲荷さんの化身だったことがわかり大変感謝したという。拝殿に8名の力士の絵馬が奉納されている。
その稲荷神社の裏山の頂上に、町の史跡に指定されている稲荷山古墳がある。6世紀代に築造された前方後円墳と考えられ、墳丘は全長30m、後円部径20m、高さ5.6mである。埋葬設備は横穴式石室で、東に開口している。石室の全長は6.35mで羨道部は奥行き3.85m、幅1m、玄室部が奥行き2.5m、幅3.7mである。
この石室はちょっと変わった構造をしている。すなわち平面の形が横に長い玄室に細長い羨道がつくT字型をしているのだ。こうした構造は篠山盆地の古墳では、他に見かけない。石室の石材はほとんどが自然石を利用しているが、玄室の天井部がアーチ状に積み上げられていて、大陸からの影響が伺えるという。
洞中
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所在地:篠山市篠山市曽地洞中 |
篠山市の曽地洞中には、谷間に築かれた6基の古墳で構成される洞中古墳群がある。それぞれの古墳は、1号墳〜4号墳と、洞中山古墳、洞の坪古墳と名付けられている。今回の史跡探訪で最期の見学地となった洞中古墳群では、1号墳と2号墳を見学した。いずれも篠山市の史跡に指定されている古墳である。すでに午後の4時を過ぎた山間では、すでに夕暮れが迫っていた。
洞中1号墳は径30m、高さ4mの円墳で、丹波地方最大の巨石を用いた両袖式石室を持つことで知られている。石室の全長は15m以上である。一方、洞中2号墳は、全長30m、後円部径17m、前方部幅15mの前方後円墳で、全長約10.7mの両袖形横穴式石室が築かれている。これらの古墳は、古墳時代中期から後期への過渡期に築造されたものと推定されているが、1号墳は2号墳より新しい。谷間に築かれていることから、在地豪族の墳墓と考えられている。
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| 洞中1号墳 | 洞中2号墳 |