橿原日記 平成17年11月16日

甘樫丘東麓遺跡(あまかしのおかとうろくいせき)の発掘現場を見学する


甘樫丘と東麓遺跡発掘現場の位置関係
甘樫丘と東麓遺跡発掘現場の位置関係

”皇極天皇三年(西暦644年)冬十一月に、蘇我大臣蝦夷(そがのおおおみえみし)・子入鹿臣(いるかのおみ)、家を甘樫丘に雙(なら)べ起(た)つ。大臣の家を呼びて上の宮門(うえのみかど)という。入鹿が家をば谷の宮門(はざまのみかど)という。(中略) 
門の傍(ほとり)に兵庫(つわものぐら)を作る。門ごとに水盛るる舟一つ、木鈎(きかぎ)数十を置きて火の災いに備う。つねに力人(ちからひと)をして兵(つわもの)を持ちて家を守らしむ。”
−『日本書紀』第二十四巻より−



甘樫丘東麓遺跡で、蘇我入鹿の邸宅跡を発見か!?

発掘現場付近遠望
甘樫丘東麓の駐車場遠望。
発掘は駐車所の奥で行われている
焼土層から出土した遺物
1994年の調査で焼土層から出土した遺物(*)
日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の東縁に沿って、雷丘(いかずちのおか)方面から南に延びる県道がある。飛鳥川に架かる飛鳥橋を渡ると、県道は川原地区に入る。そのまま進めば、やがて県道155号線にぶつかるが、その交差点と飛鳥橋のほぼ中間点付近で右手を見れば、一段高くなった山麓の林の中にトイレ付きの駐車場がある。

994年、この駐車場を建設するために事前発掘調査が行われた。そして、7世紀後半から末にかけて大規模な土地の造成が行われたことや、7世紀中頃の焼土層が存在することがわかった。焼土層からは焼けた木材や土、土器などが出土し、乙巳の変(いっしのへん)で焼け落ちた蘇我入鹿の邸宅跡地ではないか、とマスコミで騒がれた。しかし、邸宅跡を確定するだけの資料は得られず、「甘樫丘東麓遺跡」と命名されたにすぎなかった。

回の発掘調査は、国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区の造園に伴う遺跡確認のために実施されている。発掘を担当しているのは、奈良文化財研究所(以下、奈文研と略称)である。奈文研は、遺跡の内容と広がりを確認するために、6000平米の平地のうち、幅5m、総延長145mの細長い調査区を設定して試掘を行った(調査面積は725平米)。

の結果、五棟の掘立柱建物跡と一列の塀跡が見つかり、去る11月13日、そのことをマスコミに公表した。なにせ以前に蘇我入鹿の邸宅跡ではないかと騒がれた場所から、ついに建物跡が見つかったのである。メディアは奈文研の発表を大きく取り上げ、まるで蘇我入鹿の邸宅跡が発見されたような見出し付で報道した。

発掘現場
発掘現場の中心部分(西→東)

が、奈文研の発表の内容を詳細に見れば、入鹿の邸宅跡とは断定していない。発掘を行なったのは、約725平米にすぎず、五棟の掘立柱建物跡と一列の塀跡を確認しただけである。しかも掘立柱建物のうち規模が確認できたのは1棟だけで、南北3.6m、東西10.5mと規模が小さく、邸宅跡と呼べる大きさではない。建物の規模が小さい上に、調査範囲も狭いため、奈文研はこの辺りに入鹿の邸宅があった可能性は否定できないが、結論は来年度以降の本格調査を待ちたいとしている。

にはともあれ、本日の午前10時から現地見学会があるというので、友人のT.M君と連れだって出かけてきた。飛鳥の歴史に関心を寄せる筆者にとっては、今回の発掘は詳しい説明を是非とも聞いておきたい”事件”である。



大勢の古代史・考古学ファンが押しかけた現地見学会

発掘調査の範囲と出土遺構(*)
発掘調査の範囲と出土遺構(*)
日の関西地方は、今年一番の寒さの朝を迎えた。最低気温が摂氏9度前後とようやく平年なみの寒さに戻り、日中の最高温度も13度と予想されている。それでも、大勢の考古学ファンや古代史ファンが発掘調査現場に陸続と押し寄せた。見学会は午前10時から予定されていたが、筆者たちが現場に到着した9時半には、すでに3カ所に分散して担当者がマイクを片手に説明を始めていた。

掘現場や周辺は、近年まで棚田や果樹園として利用されてきた。現在はケヤキなどの落葉樹が植林されているが、すでに枯葉をほとんど落としている。風がないので梢の間から差し込んでくる日差しがこころなしか暖かい。時折木々の梢を震わす轟音を立てて、上空を報道関係のヘリコプターが飛び回っている。本日は大勢の見学者を予想して、受付の女性によると、2000枚の説明資料を用意したととのことだ。だが、夕方の報道によれば4000数百人の見学者があったらしい。

場に到着すると、今までに見てきた発掘現場とは一風変わった光景がそこにあった。大地の二カ所が幅5mの十字架のように掘られ、離れてもう一カ所は長方形に掘削されているのだ。それぞれの掘削場所に説明員を配して、掘り出された建物跡やその他の出土遺物の説明を行っていた。


建物1
@建物跡1(東北→南西)
建物2
A建物跡2と塀跡(南西→東北)
建物3,4
B建物跡3,4(東北→南西)
建物5
C建物跡5(北西→南東)

文研は、7世紀の掘立柱建物5棟と塀1列を確認したことが、今回の発掘調査の最大の成果であるという。これらの建物の軸線は北で西に約10度から40度振れている。調査はまだ完了していていないため、5棟のうち規模が確認できたのは、建物1だけである。その規模は、桁行(けたゆき)5間 X 梁行(はりゆき)2間(柱間7尺=約2.1m)とのことだ。

物1の特徴として、両側に溝が掘られていた。これらの溝から、焼け土や炭、土器、壁土が出土した。柱穴から出土した土器の量が少ないので、7世紀代のいつ頃のものかは、現時点では分からない。したがって、建物の築造年代も特定できないという。

じ調査区の十字にクロスする場所で、建物2が見つかった。規模は3間 X 2間と想定されるが、断定はできないらしい。この場所の特徴として、建物の南西方向に小さな柱穴が等間隔に並んでいて(写真Aで手前に延びている青いテープの部分)、建物に付属する塀の跡ではないかと推測されている。建物2の柱穴でも若干の土器が見つかったが、量が少なく、7世紀のいつ頃のものかを特定するにはいたっていないとのことだ。

端の調査区では、建物3(青のテープ)と建物4(緑のテープ)の跡が見つかった。建物3はコーナーの柱穴が出土している。2間の庇を持った建物との想定も可能だが、現状では調査の範囲を広げないかぎり、なにも断定はできない。

物4に関しては、建物3に一部が重なるように配置された2つの柱穴が確認されている。したがって、建物3と建物4はそれぞれ別の時期に建てられたことが分かる。建物4の柱穴の掘り方は、出土した全遺構の中では一番大きく、かなり大きな建物だったと想定できる。ただ、2カ所の柱穴だけでは、規模の確定までは至らない。入鹿の邸宅跡の可能性も否定できないが、規模や時期が分からないと断定はできないとのことだ。

物5が見つかった調査区では、80cm四方の四角い柱穴が2つあるだけで、今後の発掘が進まないと、この建物の規模は確定できない。この調査区の十字路あたりで石組みが見つかり、江戸時代の土器が出土した。石組みはおそらく棚田または畑の境界を作るのに設けたものと思われる。本調査区には、斜め走っている溝もあるが、これも田畑の耕作用の溝と推定されている。また隅の方に小さな穴がいくつか見つかっているが、ここからは平安時代の土器が出ている。


物3と4が見つかった調査区では、地山の部分とそうでない部分に識別でき、地山でない部分は人工的に整地された谷が走っていた場所だと思われる。現在は平地になっているが、古代には一本の尾根が突き出ていて、その尾根の土を切り崩して谷を埋めたようだ。それだけ大規模な造成を行なう契機となったものとして、蘇我氏の邸宅築造を想定することも可能である。

スコミは蘇我入鹿の邸宅跡と報道しているが、柱穴から出土した土器が少ないため、土器の時代がまだ特定できていない。建物類の年代を決めるには、もっと広い範囲を発掘して土器類を採集することが先決だそうだ。今回の試掘では、谷の内側の平地(80mx75m=6000平米)のうち、725平米を調査したにすぎない。他の場所に現在の建物跡がどのような広がりを見せるか不明である。これらの建物以外に、現時点では大型の建物跡は見つかっていない。庇がついたような大きな建物跡が見つからないと、蘇我入鹿の邸宅跡とは断定できないとは、説明員の弁だ。

多くの考古学ファン
現地見学会に押し寄せた多くの考古学ファン



「谷の宮門」は本当にこの発掘現場に立地していたのか?

在の発掘現場の前面は、飛鳥歴史公園甘樫丘地区の駐車場である。11年前に発掘された遺跡がその下に埋まっている。この駐車場の前に、飛鳥時代には真神原(まがみはら)と呼ばれた飛鳥の盆地が広がっている。駐車場の端に立って盆地に視線を投げたとき、ふと違和感を感じた。前面の丘が北へ張り出していて、あまり視界が効かないのである。

甘樫丘豊浦展望台
秋たけなわの甘樫丘豊浦展望台
『日本書紀』は、西暦644年11月に蘇我蝦夷・入鹿親子が甘樫丘に邸宅を構えたと伝えている。この一節を読んだとき、真神原を見下ろすことができる丘の高みになぜ邸宅を築いたのか、その理由が気になっていた。そして、644年11月という時期に着目したとき、おぼろげながら彼ら親子に意図が見えてきた気がした。

ず、舒明天皇が崩御した後その皇后が皇極天皇として冊立されると、1年後の643年2月に新しく飛鳥板蓋宮を造営し、それまでの仮宮から板蓋宮に移り住んだ。その新女帝を陰で操っていたのは、当時権力の絶頂にあった蘇我蝦夷・入鹿父子であるとされている。

豊浦展望台から西を望む
豊浦展望台から西の畝傍山を望む
皇家をもしのぐ権力の絶頂にあった蘇我本宗家は、次々と傍若無人の振る舞いを行っている。皇極女帝が登極した642年には、蘇我家の祖廟を葛城の高倉に立てて、天皇だけに許されたヤツラの舞(64人の方形の群舞)を奉納している。また、同じ年、国中の豪族の私有民を徴発して、蝦夷・入鹿の寿陵である双墓(ならびのはか)を今来(いまき)の地に築造している。さらに、643年10月には、蘇我蝦夷が病気で登朝できなくなったので、独断で紫冠を子の入鹿に授け、大臣(おおおみ)の位に任命している。11月1日には、入鹿は兵を派遣して聖徳太子の遺児・山背大兄王(やましろのおおえのきみ)を斑鳩(いかるが)に襲撃させ、一族を死に追いやっている。

うした蘇我本宗家の振る舞いに、多くの皇族や他の豪族は恐怖を感じていたに違いない。特に、氏族制度のあり方に疑問を感じていた豪族の若き子弟たちは、反蘇我勢力を形成し始める。遣隋留学生として大陸に渡り、律令制による唐の繁栄を目の当たりにした僧旻(みん)はすでに推古16年(632)に帰国し、南淵請安も舒明12年(640)に帰国して、それぞれ私塾を開いて、唐の新制度を教えていた。その中に、後に乙巳の変の首謀者となる中大兄皇子中臣鎌足がいた。

豊浦展望台から北を望む
豊浦展望台から北の耳成山・天香具山を望む
極女帝を蘇我家の傀儡として操りながらも、蘇我氏への反発を加速させてきた世相に蝦夷・入鹿父子は一種の不安を感じ始めていたいに違いない。そうした不安を払拭するには、蘇我氏の絶対的な権力を常に意識させるのが一番だ。具体的には、飛鳥の甘南備と敬われてきた甘樫丘に、砦のように柵を巡らした大邸宅を建て、飛鳥の何処にいてもその威容を意識させればよい。まして、武装した大勢の私兵たちに門を守衛させておけば、父子を襲撃しようと心違いするものもおるまい。

衆に対する威圧を目的として飛鳥に居館を構えるとすれば、甘樫丘のどこでも良いという訳にはいかない。女帝や皇族たちに無言の圧力となり、皇居に参内する豪族たちに蘇我本宗家の圧倒的な権力を意識させるためには、新しい皇居・飛鳥板蓋宮を見下ろせる場所が最低の条件となる。したがって、父の蝦夷の居館である上の宮門(うえのみかど)は現在の豊浦展望台付近、入鹿の谷の宮門(はざまのみかど)はその南側の谷が最適地だろう。

豊浦展望台から東を望む
豊浦展望台から東の飛鳥集落を望む
が、考古学者の考えは違うようだ。焼けた木材や壁土を出土したために、甘樫丘東麓遺跡付近に入鹿の邸宅があったものと推測されているようである。しかし、この遺跡付近からは真神原全体を見渡すことはできない。特に、飛鳥板蓋宮跡とされている場所は、前方の丘に遮られて全く見えない。

れに加えて、現在の発掘場所を入鹿の邸宅跡とするには、いささか狭すぎるというのが実感である。現場は、発掘場所の端に沿うように川原展望台へ登る遊歩道が巡らしてある。したがって、谷の部分はこれらの遊歩道の下側に相当することになるが、駐車場の敷地を含めても、それほど広い敷地ではない。上に述べたように、643年10月に蘇我蝦夷は息子の入鹿に紫冠を授けて大臣になぞらえたという。その後に造営された入鹿の邸宅は、単なる生活空間ではない。時には重臣たちを招集して合議を行なう臨時の議場にもなりうる。当然それ相当の施設も敷地の中には築かれていたと考えるべきであろう。こうした施設を備えるには、現在の地形や広さは十分とは思えない。

豊浦展望台のある丘の南に広がる谷
豊浦展望台のある丘の南に広がる谷
回の発掘調査地域は、入鹿の邸宅跡の候補地の一つにすぎない。入鹿が邸宅を構えたと思われる場所は他にもある。上に述べたように、豊浦展望台の南に位置する谷の方がより適しているようにように思える。そこは、現在の発掘調査地から北側の尾根を越えた所に広がっている別の谷である。現在は段々畑や雑草が茂るに任せた荒れ地になっている。以前に谷の奥へ続く農道を歩いてみたが、筆者が蘇我入鹿だったら、絶対にこの谷に邸宅を構えたと思う。

の谷は、奥が深く、まるで親鳥が羽を広げてヒナをかばうように、谷の南北から丘陵の尾根が東へ延びている。しかも、前面にあたる東側は開け、蘇我氏の氏寺だった飛鳥寺も伝飛鳥板蓋宮も、しっかりと視界におさめることができる。残念ながら、この谷は国営公園の外にある民有地である。当分発掘する計画はないという。

入鹿の首塚
入鹿の首塚
我氏の邸宅に関して、今ひとつ疑問に感じていることがある。蘇我蝦夷・入鹿父子の邸宅が火災で焼失したように一般に理解されているが、その根拠は何なのだろうか。確かに『日本書紀』には、入鹿が誅殺された翌日の6月13日、蝦夷らは殺される前に、すべての天皇記・国記・珍宝を焼いたと記されている。蝦夷がこれらの史書を焼き、その後に自殺したのは事実だろう。

が、蝦夷が上の宮門と谷の宮門の焼却を命じたという記載は見あたらない。中大兄皇子側がこれらの邸宅に火を放ったという記述もない。中大兄皇子は蝦夷と入鹿の遺体を双墓(ならびのはか)に埋葬することを許している。蝦夷の遺体が焼失していないことは、両方の邸宅がこの時点では炎上しなかった可能性を示唆しているのではなかろうか。

巳の変は蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を構えてわずか7ヶ月後に起こった。まだ、新築同然の邸宅である。もし焼失しなかったのならば、次の孝徳天皇の難波宮の造営にその建築材が流用されたということもありうるのではないだろうか。


 追記:エベス谷 (2005/11/26)

1月22日付けの奈良新聞によると、甘樫丘の一角に「エベス谷」と呼ばれる場所があるという。「エミシ谷」がなまった地名とされ、蘇我入鹿(そがのいるか)の父、蝦夷(えみし)との関係が指摘されている。たいした広さを感じさせない谷だが、念のために、橿考研付属博物館の資料室にある「飛鳥条里制地図」で確認してみると、確かにその地名は記載されていた。豊浦展望台の真東にあたる山麓で、現在は民家が建っている。

望台付近は未調査のために何も分かっていないらしいが、蝦夷の邸宅が築かれていたとすれば、蝦夷に関係した地名が残っていても不思議はない。これまでも地名が大発見の鍵を秘めてきた明日香村だけに、研究者の熱い視線が注がれるかもしれない。しかし、上に述べたように蝦夷の邸宅が存在した期間は非常に短い。果たして地名として定着するほど強いインパクトがあっただろうか。関西では恵比寿のことをエベスと発音する。むしろ恵比寿信仰となにか関係があった地名ではないのか。



追記 (2007/02/01): 
甘樫丘東麓遺跡で大規模な石垣出土、入鹿の「谷の宮門」の一部か?

発見された大規模な石
発見された大規模な石垣
(時事通信配布)
良文化財研究所は、平成19年(2007)2月1日、甘樫丘東麓(あまかしのおか・とうろく)遺跡で、7世紀前半の大規模な石垣と塀の跡が見つかったと発表した。場所は一昨年秋に7世紀の建物群跡が出土した北側約900平米。

垣は南北15mに渡って、最大で50cmほどの大きさの花崗岩を6〜7段積み重ねており、その高さは最高1m。1段積むごとに土を埋めた丁寧な造りに仕上げていて、当時の渡来系の技法が使われたらしい。

垣の東側には建物跡(縦8m、横3・8m)1棟と塀(長さ4・8m)が、西側にも倉庫とみられる建物跡など2棟があり、石垣の内側に建物群が築かれていた。

なお、石垣や建物群跡は、7世紀半ばに再び大規模な造成によって埋められたことも判明した。造成された整地層からは建物跡4棟や大型の塀(長さ18m)、段差のある特異な石敷き広場も見つかった。


日本書紀』には、蘇我蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に城柵を巡らした邸宅を建て、入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門(みかど)」と呼んだことが記されている。マスメディアは発見された石垣が「谷の宮門」に関わるものと見ているが、東麓遺跡自体はそれほど大きな邸宅を構築するほどの空間ではない。また、一昨年秋に現地公開された発掘現場で見た建物跡は小さい。「谷の宮門」跡だったかどうかの結論は、付近一帯の広い範囲の調査を待って下すべきだろう。



秋の収穫が終って発掘の季節を迎えた飛鳥

鳥の遺跡はほとんどが民有地の水田の下に眠っている。したがって、秋の収穫が終わるのを待って、明日香村のあちこちでいっせいに発掘調査が開始される。今年もその時期を迎えた。

文研は、石神遺跡で第18次調査を10月17日に開始した。11月2日の時点では水田の土の直下にある床土(とこつち)をほぼ掘り終えたそうだ。今回の調査区は東西30mx南北21mで、面積は約630平米である。昨年までの発掘調査で沼状の遺構や7世紀後期の南北方向の溝が見つかっており、その北側の延長部分が今回も発見できるものと期待されている。これらの遺構から木簡が出土する可能性もある。

神遺跡では、調査区域が毎年北へ移動してきている。調査区の北側を東西に走る県道124号は、古代の幹線道路だった阿倍山田道の位置をほぼ踏襲している。推古天皇の小墾田宮はその阿倍山田道に面して築かれていたはずであり、その遺構を早く掘り出して欲しいものだ。
石神遺跡の調査区域と発掘現場
石神遺跡の調査区域と発掘現場


発掘調査中の雷丘
発掘調査中の雷丘
神遺跡に近い雷丘(いかずちのおか)の山頂でも、奈文研が発掘調査を実施してきた。

丘は、飛鳥川を挟んで甘樫丘の北側にある高さ10mほどの小さな丘である。名前の由来については、『日本霊異記』が面白い話を伝えている。雄略天皇7年、天皇の命を受けた小子部楢軽(ちいさこべのすがる)がこの丘の上で雷を捕えて天皇に奉ったため、それ以後この小さな丘を雷の丘と呼ぶようになったという。

らに、『日本霊異記』は栖軽が死んだ時、天皇が彼の忠信ぶりをしのび、雷の落ちた場所に栖軽の墓と作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した碑文の柱と立てさせたと伝えている。この伝承が史実を伝えているなら、雷丘には5世紀代の古墳が築かれていることになる。

方、『万葉集』には、天皇、雷岳に御遊しし時、柿本人麻呂の作る歌一首として、次の歌が収録されている。
●大君(おおきみ)は 神にしませば 天雲の 雷の上に 庵(いほ)りせるかも (巻3-325)
この歌の中の大王とは天武天皇を指し、史実を歌ったものならば、飛鳥時代に雷丘に庵が設けられたものと思われる。

雷丘の発掘現場
雷丘の発掘現場
風の被害で、雷丘の山頂では多くの樹木が倒されりたち立ち枯れして、そのままになっていた。今回、これらの樹木を取り払い新たに広葉樹などを植えて丘を公園化する計画が持ち上がった。上記のように『日本霊異記』や『万葉集』によるかぎり、雷丘の上には何らかの遺跡が残されている可能性が高い。そこで、明日香村は奈文研に事前調査を依頼していた。

掘調査の結果、雄略天皇と同時代の円筒埴輪(はにわ)の破片が多数見つかった。埴輪は、ここに古墳が築かれていた証拠である。しかし、古墳は発見できなかった。柿本人麻呂の歌が示す庵が8世紀に作られたとき、取り壊された可能性がある。雷丘には中世に城が築かれ、そのとき大々的な整地が行われたとされている。あるいは、その時の整地によって古墳も庵の跡も取り払われたかもしれない。奈文研の発掘調査では、中世の城跡の遺構は確認したそうだ。

元の人々に対する発掘調査の説明は数日前に行われたが、現場の一般公開は行わない。すでに埋め戻しの作業が始まっている。


橿考研が発掘調査中の飛鳥京
橿考研が発掘調査中の飛鳥京跡
昨年、昨年と飛鳥京跡の飛鳥正宮を学術調査してきた橿原考古学研究所(橿考研)も、昨年の調査区域に隣接した水田で土取作業を始めている。来年の3月には、また世間を驚かすような現地説明会が開かれるかもしれない。


日香村教育委員会でも、島庄遺跡の発掘調査を行っている。同教育委員会は地の窪にあるカヅマヤマ古墳の調査も行っているとのことだ。これらの遺跡の調査結果は、来る12月4日(日)に明日香村中央公民館で報告される。


(*)現地見学会配布資料より転記



2007/11/16作成by n_ohsei2004@yahoo.co.jp

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