”皇極天皇三年(西暦644年)冬十一月に、蘇我大臣蝦夷(そがのおおおみえみし)・子入鹿臣(いるかのおみ)、家を甘樫丘に雙(なら)べ起(た)つ。大臣の家を呼びて上の宮門(うえのみかど)という。入鹿が家をば谷の宮門(はざまのみかど)という。(中略) |
大勢の古代史・考古学ファンが押しかけた現地見学会
発掘現場や周辺は、近年まで棚田や果樹園として利用されてきた。現在はケヤキなどの落葉樹が植林されているが、すでに枯葉をほとんど落としている。風がないので梢の間から差し込んでくる日差しがこころなしか暖かい。時折木々の梢を震わす轟音を立てて、上空を報道関係のヘリコプターが飛び回っている。本日は大勢の見学者を予想して、受付の女性によると、2000枚の説明資料を用意したととのことだ。だが、夕方の報道によれば4000数百人の見学者があったらしい。 現場に到着すると、今までに見てきた発掘現場とは一風変わった光景がそこにあった。大地の二カ所が幅5mの十字架のように掘られ、離れてもう一カ所は長方形に掘削されているのだ。それぞれの掘削場所に説明員を配して、掘り出された建物跡やその他の出土遺物の説明を行っていた。
奈文研は、7世紀の掘立柱建物5棟と塀1列を確認したことが、今回の発掘調査の最大の成果であるという。これらの建物の軸線は北で西に約10度から40度振れている。調査はまだ完了していていないため、5棟のうち規模が確認できたのは、建物1だけである。その規模は、桁行(けたゆき)5間 X 梁行(はりゆき)2間(柱間7尺=約2.1m)とのことだ。 建物1の特徴として、両側に溝が掘られていた。これらの溝から、焼け土や炭、土器、壁土が出土した。柱穴から出土した土器の量が少ないので、7世紀代のいつ頃のものかは、現時点では分からない。したがって、建物の築造年代も特定できないという。 同じ調査区の十字にクロスする場所で、建物2が見つかった。規模は3間 X 2間と想定されるが、断定はできないらしい。この場所の特徴として、建物の南西方向に小さな柱穴が等間隔に並んでいて(写真Aで手前に延びている青いテープの部分)、建物に付属する塀の跡ではないかと推測されている。建物2の柱穴でも若干の土器が見つかったが、量が少なく、7世紀のいつ頃のものかを特定するにはいたっていないとのことだ。 北端の調査区では、建物3(青のテープ)と建物4(緑のテープ)の跡が見つかった。建物3はコーナーの柱穴が出土している。2間の庇を持った建物との想定も可能だが、現状では調査の範囲を広げないかぎり、なにも断定はできない。 建物4に関しては、建物3に一部が重なるように配置された2つの柱穴が確認されている。したがって、建物3と建物4はそれぞれ別の時期に建てられたことが分かる。建物4の柱穴の掘り方は、出土した全遺構の中では一番大きく、かなり大きな建物だったと想定できる。ただ、2カ所の柱穴だけでは、規模の確定までは至らない。入鹿の邸宅跡の可能性も否定できないが、規模や時期が分からないと断定はできないとのことだ。 建物5が見つかった調査区では、80cm四方の四角い柱穴が2つあるだけで、今後の発掘が進まないと、この建物の規模は確定できない。この調査区の十字路あたりで石組みが見つかり、江戸時代の土器が出土した。石組みはおそらく棚田または畑の境界を作るのに設けたものと思われる。本調査区には、斜め走っている溝もあるが、これも田畑の耕作用の溝と推定されている。また隅の方に小さな穴がいくつか見つかっているが、ここからは平安時代の土器が出ている。 建物3と4が見つかった調査区では、地山の部分とそうでない部分に識別でき、地山でない部分は人工的に整地された谷が走っていた場所だと思われる。現在は平地になっているが、古代には一本の尾根が突き出ていて、その尾根の土を切り崩して谷を埋めたようだ。それだけ大規模な造成を行なう契機となったものとして、蘇我氏の邸宅築造を想定することも可能である。
マスコミは蘇我入鹿の邸宅跡と報道しているが、柱穴から出土した土器が少ないため、土器の時代がまだ特定できていない。建物類の年代を決めるには、もっと広い範囲を発掘して土器類を採集することが先決だそうだ。今回の試掘では、谷の内側の平地(80mx75m=6000平米)のうち、725平米を調査したにすぎない。他の場所に現在の建物跡がどのような広がりを見せるか不明である。これらの建物以外に、現時点では大型の建物跡は見つかっていない。庇がついたような大きな建物跡が見つからないと、蘇我入鹿の邸宅跡とは断定できないとは、説明員の弁だ。
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「谷の宮門」は本当にこの発掘現場に立地していたのか?現在の発掘現場の前面は、飛鳥歴史公園甘樫丘地区の駐車場である。11年前に発掘された遺跡がその下に埋まっている。この駐車場の前に、飛鳥時代には真神原(まがみはら)と呼ばれた飛鳥の盆地が広がっている。駐車場の端に立って盆地に視線を投げたとき、ふと違和感を感じた。前面の丘が北へ張り出していて、あまり視界が効かないのである。
まず、舒明天皇が崩御した後その皇后が皇極天皇として冊立されると、1年後の643年2月に新しく飛鳥板蓋宮を造営し、それまでの仮宮から板蓋宮に移り住んだ。その新女帝を陰で操っていたのは、当時権力の絶頂にあった蘇我蝦夷・入鹿父子であるとされている。
こうした蘇我本宗家の振る舞いに、多くの皇族や他の豪族は恐怖を感じていたに違いない。特に、氏族制度のあり方に疑問を感じていた豪族の若き子弟たちは、反蘇我勢力を形成し始める。遣隋留学生として大陸に渡り、律令制による唐の繁栄を目の当たりにした僧旻(みん)はすでに推古16年(632)に帰国し、南淵請安も舒明12年(640)に帰国して、それぞれ私塾を開いて、唐の新制度を教えていた。その中に、後に乙巳の変の首謀者となる中大兄皇子や中臣鎌足がいた。
民衆に対する威圧を目的として飛鳥に居館を構えるとすれば、甘樫丘のどこでも良いという訳にはいかない。女帝や皇族たちに無言の圧力となり、皇居に参内する豪族たちに蘇我本宗家の圧倒的な権力を意識させるためには、新しい皇居・飛鳥板蓋宮を見下ろせる場所が最低の条件となる。したがって、父の蝦夷の居館である上の宮門(うえのみかど)は現在の豊浦展望台付近、入鹿の谷の宮門(はざまのみかど)はその南側の谷が最適地だろう。
それに加えて、現在の発掘場所を入鹿の邸宅跡とするには、いささか狭すぎるというのが実感である。現場は、発掘場所の端に沿うように川原展望台へ登る遊歩道が巡らしてある。したがって、谷の部分はこれらの遊歩道の下側に相当することになるが、駐車場の敷地を含めても、それほど広い敷地ではない。上に述べたように、643年10月に蘇我蝦夷は息子の入鹿に紫冠を授けて大臣になぞらえたという。その後に造営された入鹿の邸宅は、単なる生活空間ではない。時には重臣たちを招集して合議を行なう臨時の議場にもなりうる。当然それ相当の施設も敷地の中には築かれていたと考えるべきであろう。こうした施設を備えるには、現在の地形や広さは十分とは思えない。
この谷は、奥が深く、まるで親鳥が羽を広げてヒナをかばうように、谷の南北から丘陵の尾根が東へ延びている。しかも、前面にあたる東側は開け、蘇我氏の氏寺だった飛鳥寺も伝飛鳥板蓋宮も、しっかりと視界におさめることができる。残念ながら、この谷は国営公園の外にある民有地である。当分発掘する計画はないという。
だが、蝦夷が上の宮門と谷の宮門の焼却を命じたという記載は見あたらない。中大兄皇子側がこれらの邸宅に火を放ったという記述もない。中大兄皇子は蝦夷と入鹿の遺体を双墓(ならびのはか)に埋葬することを許している。蝦夷の遺体が焼失していないことは、両方の邸宅がこの時点では炎上しなかった可能性を示唆しているのではなかろうか。 乙巳の変は蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に邸宅を構えてわずか7ヶ月後に起こった。まだ、新築同然の邸宅である。もし焼失しなかったのならば、次の孝徳天皇の難波宮の造営にその建築材が流用されたということもありうるのではないだろうか。
追記:エベス谷 (2005/11/26)11月22日付けの奈良新聞によると、甘樫丘の一角に「エベス谷」と呼ばれる場所があるという。「エミシ谷」がなまった地名とされ、蘇我入鹿(そがのいるか)の父、蝦夷(えみし)との関係が指摘されている。たいした広さを感じさせない谷だが、念のために、橿考研付属博物館の資料室にある「飛鳥条里制地図」で確認してみると、確かにその地名は記載されていた。豊浦展望台の真東にあたる山麓で、現在は民家が建っている。 展望台付近は未調査のために何も分かっていないらしいが、蝦夷の邸宅が築かれていたとすれば、蝦夷に関係した地名が残っていても不思議はない。これまでも地名が大発見の鍵を秘めてきた明日香村だけに、研究者の熱い視線が注がれるかもしれない。しかし、上に述べたように蝦夷の邸宅が存在した期間は非常に短い。果たして地名として定着するほど強いインパクトがあっただろうか。関西では恵比寿のことをエベスと発音する。むしろ恵比寿信仰となにか関係があった地名ではないのか。 |
追記 (2007/02/01):
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| 発見された大規模な石垣 (時事通信配布) |
石垣は南北15mに渡って、最大で50cmほどの大きさの花崗岩を6〜7段積み重ねており、その高さは最高1m。1段積むごとに土を埋めた丁寧な造りに仕上げていて、当時の渡来系の技法が使われたらしい。
石垣の東側には建物跡(縦8m、横3・8m)1棟と塀(長さ4・8m)が、西側にも倉庫とみられる建物跡など2棟があり、石垣の内側に建物群が築かれていた。
なお、石垣や建物群跡は、7世紀半ばに再び大規模な造成によって埋められたことも判明した。造成された整地層からは建物跡4棟や大型の塀(長さ18m)、段差のある特異な石敷き広場も見つかった。
『日本書紀』には、蘇我蝦夷・入鹿父子が甘樫丘に城柵を巡らした邸宅を建て、入鹿の邸宅を「谷(はざま)の宮門(みかど)」と呼んだことが記されている。マスメディアは発見された石垣が「谷の宮門」に関わるものと見ているが、東麓遺跡自体はそれほど大きな邸宅を構築するほどの空間ではない。また、一昨年秋に現地公開された発掘現場で見た建物跡は小さい。「谷の宮門」跡だったかどうかの結論は、付近一帯の広い範囲の調査を待って下すべきだろう。
秋の収穫が終って発掘の季節を迎えた飛鳥飛鳥の遺跡はほとんどが民有地の水田の下に眠っている。したがって、秋の収穫が終わるのを待って、明日香村のあちこちでいっせいに発掘調査が開始される。今年もその時期を迎えた。 奈文研は、石神遺跡で第18次調査を10月17日に開始した。11月2日の時点では水田の土の直下にある床土(とこつち)をほぼ掘り終えたそうだ。今回の調査区は東西30mx南北21mで、面積は約630平米である。昨年までの発掘調査で沼状の遺構や7世紀後期の南北方向の溝が見つかっており、その北側の延長部分が今回も発見できるものと期待されている。これらの遺構から木簡が出土する可能性もある。 石神遺跡では、調査区域が毎年北へ移動してきている。調査区の北側を東西に走る県道124号は、古代の幹線道路だった阿倍山田道の位置をほぼ踏襲している。推古天皇の小墾田宮はその阿倍山田道に面して築かれていたはずであり、その遺構を早く掘り出して欲しいものだ。
雷丘は、飛鳥川を挟んで甘樫丘の北側にある高さ10mほどの小さな丘である。名前の由来については、『日本霊異記』が面白い話を伝えている。雄略天皇7年、天皇の命を受けた小子部楢軽(ちいさこべのすがる)がこの丘の上で雷を捕えて天皇に奉ったため、それ以後この小さな丘を雷の丘と呼ぶようになったという。 さらに、『日本霊異記』は栖軽が死んだ時、天皇が彼の忠信ぶりをしのび、雷の落ちた場所に栖軽の墓と作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と記した碑文の柱と立てさせたと伝えている。この伝承が史実を伝えているなら、雷丘には5世紀代の古墳が築かれていることになる。
一方、『万葉集』には、天皇、雷岳に御遊しし時、柿本人麻呂の作る歌一首として、次の歌が収録されている。
発掘調査の結果、雄略天皇と同時代の円筒埴輪(はにわ)の破片が多数見つかった。埴輪は、ここに古墳が築かれていた証拠である。しかし、古墳は発見できなかった。柿本人麻呂の歌が示す庵が8世紀に作られたとき、取り壊された可能性がある。雷丘には中世に城が築かれ、そのとき大々的な整地が行われたとされている。あるいは、その時の整地によって古墳も庵の跡も取り払われたかもしれない。奈文研の発掘調査では、中世の城跡の遺構は確認したそうだ。 地元の人々に対する発掘調査の説明は数日前に行われたが、現場の一般公開は行わない。すでに埋め戻しの作業が始まっている。
明日香村教育委員会でも、島庄遺跡の発掘調査を行っている。同教育委員会は地の窪にあるカヅマヤマ古墳の調査も行っているとのことだ。これらの遺跡の調査結果は、来る12月4日(日)に明日香村中央公民館で報告される。 (*)現地見学会配布資料より転記 |