平家一門の地盤であり富の源泉だった瀬戸内海
だが、せっかく安芸の宮島まで出かけるのであれば、やはり平家の盛衰について少しは予備知識を仕入れておくべきだと思って、即席で関係図書をいくつか紐解いてみた。そして平家の繁栄の源は瀬戸内海を地盤としていたこと、わけても日宋貿易を独占したことにあることを痛感した。 平家一門の盛衰の歴史を少し追ってみることにする。
その平氏が瀬戸内に勢力を伸ばしたのは12世紀になってからである。きっかけは、備前守(びぜんのかみ)に任ぜられていた平正盛とその子の平忠盛が、朝廷の命により瀬戸内海の海賊を討ったことにある。特に、忠盛は瀬戸内海の海賊を捕らえると、かれらを平氏の武士団として編成した。そして、彼らの海運技術を活用して、大陸の宋との貿易を活発に行った。その結果、巨万の富を築くことができた。
安芸守のあと、播磨守を経て九州の太宰大弐となった清盛は、瀬戸内海全域をその支配下に納めた。さらに保元の乱(1156)と平治の乱(1159)で源氏を押さえると、中央政界に進出した。平家の繁栄は厳島神社のご加護のたまものであるとした一門は、多くの宝物を厳島神社に寄進した。なかでも、長寛2年(1164)、清盛自身が寄進した『平家納経』(33巻、国宝)は華麗である。
仁安3年(1168)には、安芸地方で最も有力な豪族で、しかも厳島神社の神官だった佐伯景弘(さえき かげひろ)の働きかけによって、清盛は厳島神社の壮大な社殿の造営を命じている。治承4年(1180)には、清盛の孫を安徳天皇として即位させ、さらに、平家繁栄の源とも言える日宋貿易を重視する清盛は、都を神戸の福原に遷すといった思い切ったことまでやった。しかし、福原遷都は世の不評を買い、6カ月でまた平安京に戻っている。
以仁王の令旨を受けて、源頼朝と木曾義仲が挙兵した。頼朝は治承4年(1180)10月の富士川の戦いで平維盛を敗走させた。世の中が戦雲で騒然としてくる養和元年(1181)、平清盛は高熱を出して亡くなった。享年63歳だった。清盛の死によって、平家一門の転落が始まる。寿永2年(1183)、都に侵入してきた木曽義仲によって、都を追われた平家一門は西海へ逃れた。それ以後、ふたたび都に戻ることはなく、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで相次いで源義経に敗れた。そして、寿永4年(1185)、壇ノ浦の合戦で完膚無きまでに叩かれて、一族の大半は海の藻屑と消え去った。 思うに、平家一門の栄耀栄華は平清盛一代の栄耀栄華であった。仁安2年に太政大臣に任ぜられてから、養和元年に死亡するまでの期間は、わずか14年にすぎない。 |
厳島神社の歴史を振り返る
太古の時代から、弥山を主峰とする宮島の景観に、人々は霊気を感じていたようだ。瀬戸内海を舞台に活躍する海人たちは、島そのものを神として崇め、古くから信仰の対象としてきた。人が住むことを禁じられていたので、人々は対岸または洋上から遙拝(ようはい)していたという。厳島(いつくしま)という呼称自体が、「神を斎(いつ)き祀(まつる)る島」であることを表し、古くは伊都岐(いつき)島とも書かれた。 深い原始林に覆われた弥山はサルやシカの生息地でもある。現在は、いくつもの登山コースが整備されていて、自然観察をしながら山頂まで登ることができる。紅葉谷駅からロープウエイで獅子岩駅まで登り、遊歩道に従って弥山本堂から頂上周辺をぐるりと参拝することができる。満潮の時は塩分を含んだ水があふれ、干潮のときは乾く不思議な穴のある干満岩など、さまざまな奇岩や怪石があるとのことだ。 縁起によれば、厳島神社の創建は、推古天皇即位元年(593年)、安芸の豪族だった佐伯鞍職(さえきのくらもと)によると伝えられている。しかし、神社が仏教寺院の影響を受けて社殿を持つようになるのは、もう少し後の時代である。佐伯氏は古くからのこの地方の豪族で、厳島神社の神官も兼ねていた。佐伯鞍職による創建というのは、おそらく佐伯氏が作りあげた祖先伝説であろう。
しかし、厳島神社が安芸一の宮として隆盛を極めるようになるのは、久安2年(1146)、平清盛が安芸守に任ぜられてからである。清盛は厳島明神を平家の「氏神」として篤く信仰した。そのきっかけは、夢のお告げだったとのことだ。1153年に、清盛は落雷で焼失した高野山大塔の造営を命じられた。2年後に大塔を完成したが、清盛はその年に50日間ほど高野山に滞在していた。その時、夢に弘法大師が現れ、厳島神社を信仰すれば一門が繁栄すると伝えられたという。 清盛が厳島神社を厚く敬ったところ、保元平治の乱に勝利することができた。そのため、1160年にはみずから参詣している。長安2年(1164)には、一門の繁栄は厳島神社の加護によるとして、完成した平家納経を奉安している。また、神主・佐伯景弘(さえきかげひろ)の要請を受けて、社殿の改造を命じた。それまでの板葺きの社殿が檜皮葺に変えられて、ほぼ現在の形で完成したのは仁安3年(1168)のこととされている。 平家全盛の時代、後白河上皇が女御・建春門院とともに多くの公家を従えて、この神社に行幸している。承安4年(1174)のことである。それから6年後の治承4年(1180)には譲位直後の高倉上皇が建礼門院とともに行幸したことが、記録に残っている。
平成8年(1996)、厳島神社は世界遺産に登録された。本社本殿、幣殿、拝殿など17塔と大鳥居、五重塔、多宝塔3基からなる建物群のうち、6棟が国宝、11棟3基が重要文化財に指定されている。これらの朱塗りの社殿を273mの回廊で結ぶ建築は周囲の緑に映えて見事である。 |
厳島神社の主要な建物を拝観する
大広間での宴会は大いに盛り上がり、その後の二次会でも夜半過ぎまで語り合って、参加者の誰もが40数年前の学生気分に戻っていた。雨は明け方には上がった。本日の満潮は午前6時38分だという。海に浮かぶ神社の社殿をどうしてもカメラに撮りたくて、朝の散歩をかねて6時にホテルを出た。まだ夜明け前で暗かったが、それでも、気の早い参拝客を乗せたカーフェリーの第一便は、桟橋に接岸する。厳島神社の参拝は午前6時半からなので、すこし浜辺で時間を費やし、参拝客に混じって、もう一度主な社殿を見て回った。
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平家の絶頂を示す「平家納経
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| 厳島神社の宝物館 |
石橋の先に厳島神社の宝物館があり、その中に平家一門の繁栄の極みを今に伝える逸品が展示されている。言わずとしれた「平家納経」とそれを治めた経箱である。社伝によれば、「平家納経」は平家の繁栄を願い、平清盛(当時47歳)を始め、重盛とその子息、頼盛、教盛、経盛など32人がそれぞれ一品一巻ずつを書写したもので、長寛2年(1164)9月に厳島神社に奉納されたものであるという。
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| 寿量品見返し |
厳島神社に仏教の経典を奉納するというのは、現代の感覚ではいささか奇妙である。だが、平安末期は、神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為は当たり前になってきていた。神社で祀られる神々はそのままでは俗世に姿を現すことができない。そこで、神々は仮に仏の姿に変えて現れ、衆生の苦しみや病を癒してくれるという「本地垂迹説」が、すでに平安中期ごろから流布しはじめている。
参考までに、宝物館内に展示されている「平家納経」と経箱はレプリカである。
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| 平家納経と経箱 |