橿原日記 平成17年11月11日

厳島神社(いつくしまじんじゃ)を祀る安芸の宮島を訪れる



家の栄枯盛衰を今に伝える『平家物語』は、お馴染みの有名な一節から始まる。

厳島神社の大鳥居
早朝の満潮に洗われる大鳥居
"祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
おおごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ"

い頃、某局のテレビ番組の中で、平家琵琶を弾きながらこの一節が語られるのを聞いた。その哀調を帯びた独特な語り口調に鬼気迫るものがあって、冷たい戦慄が背筋を走るのを覚えた。壇ノ浦に散った平家一門の亡霊が、背後の闇から忽然と湧き上がってくるような気がした。

年のNHKの大河ドラマは、宮尾登美子原作の「義経」である。義経が幼少の牛若丸時代の平清盛を、渡哲也が演じていた。つい先頃までは、平家追討の院宣を受けて、源氏の武士団を率いた源義経が平家一門を一ノ谷から、四国屋島へ、そして長門の壇ノ浦へ追いつめていく華麗な戦闘場面を放映していた。栄耀栄華を誇った平家の一門が、時をおかずして海の藻屑と消え去っていく物語は、まことに世の移り変わりの哀感を伝えて悲しい。

安芸の宮島
安芸の宮島
の平家一門の栄華を今に伝えているものが広島にある。松島、天橋立と並んで日本三景の一つと数えられる安芸の宮島にある厳島神社だ。はからずも本日、安芸の宮島を訪れる機会を得て、厳島神社に参拝した。

の地を訪れた理由は簡単だ。大学の同期生にT.M君がいる。大学の4年間、同じ下宿の隣部屋同士だった彼が、昨年の同窓会で次期幹事に指名された。広島県出身で、しかも卒業後も広島の優良企業に就職した生粋の広島っ子は、幹事の権限で次回の同窓会は地元でやると提案し、満場一致で了承された。一年半前のことだが、月日が過ぎるは早い。まだ先の事だと思っていたのに、その当日になってしまった。

芸の宮島までの旅は、橿原在住の友人T.Y君と一緒だった。山陽新幹線で新大阪駅から広島駅へ出て、その後は広電電車で広電宮島口まで行くことにした。昨日までの好天が嘘のように、本日の広島の天気予報は曇りのち雨。予報通り、広島駅に着いた頃、小雨が落ちてきた。広電の「原爆ドーム前」駅で途中下車して、世界文化遺産に登録された「原爆ドーム」を見、さらに平和記念公園の中にある「広島平和記念資料館」に立ち寄った。30年ほど前に資料館を訪れたことがあるが、建物も中の展示も当時とはずいぶん様変わりしていた。

JRフェリー宮島丸
JRフェリー宮島丸
電宮島口駅には、午後1時半ころ着いた。改札を出ると、すぐに宮島港の埠頭がある。宮島は港の南西約2kmの瀬戸内海に浮かぶ島である。そこへ渡るには、JRフェリーと松大フェリーの2つのサービスがあるが、前者は大鳥居の正面を迂回してくれる。フェリーは15分間隔で運航されていて、その船上から眺める丹塗りで桧皮葺(ひわだぶき)の厳島神社の建物は、蒼い海を前に緑の山を背に美しい景観をみせてくれるはずだった。残念なことに、本日は降りしきる雨の中にぼんやりと霞んでいた。

大鳥居
小雨にかすむ厳島神社の大鳥居



平家一門の地盤であり富の源泉だった瀬戸内海

厳島神社
厳島神社(厳島神社作成「厳島」の表紙より)
生の目下の関心事は、日本の古代の中でも国家の成立に深く関わった渡来人たちが活躍した時代である。したがって源平合戦が繰り広げられ、東国の武士団に政権が握られて古代が終焉した時代までは、まだ関心が及ばない。

が、せっかく安芸の宮島まで出かけるのであれば、やはり平家の盛衰について少しは予備知識を仕入れておくべきだと思って、即席で関係図書をいくつか紐解いてみた。そして平家の繁栄の源は瀬戸内海を地盤としていたこと、わけても日宋貿易を独占したことにあることを痛感した。


家一門の盛衰の歴史を少し追ってみることにする。

夜明け前の満潮時の大鳥居
夜明け前の満潮時の大鳥居
0世紀に入って、東国の平将門(たいらのまさかど)と西国の藤原純友(ふじわらのすみとも)が、相次いで乱を起こした(承平の乱、935年。天慶の乱、939年)。一般には、2つの乱を併称して承平・天慶の乱と呼ばれている。これらの乱を契機に、古代律令体制は急速に崩壊していくことになる。その中で、土地私有の荘園制が急速に発達し、それに伴って新しい武士団が着々と勢力を拡大していった。中央では、依然として藤原氏が栄華を極めていたが、平氏は伊賀・伊勢地方を根拠にし、伊勢湾から熊野灘の海賊衆の間で勢力を張っていた。

の平氏が瀬戸内に勢力を伸ばしたのは12世紀になってからである。きっかけは、備前守(びぜんのかみ)に任ぜられていた平正盛とその子の平忠盛が、朝廷の命により瀬戸内海の海賊を討ったことにある。特に、忠盛は瀬戸内海の海賊を捕らえると、かれらを平氏の武士団として編成した。そして、彼らの海運技術を活用して、大陸の宋との貿易を活発に行った。その結果、巨万の富を築くことができた。

平清盛
平清盛
盛のあとを継いだ平清盛は、久安2年(1146)、29歳で安芸守(あきのかみ)に任ぜられ、以来10年間その職にあった。その間、清盛は安芸の国府を拠点にして、宋との貿易にいっそう力を入れるとともに、この地方の信仰を集めていた厳島明神を平家の守護神とした。これは、平家と厳島神社をつなぐきっかけとなった。

芸守のあと、播磨守を経て九州の太宰大弐となった清盛は、瀬戸内海全域をその支配下に納めた。さらに保元の乱(1156)と平治の乱(1159)で源氏を押さえると、中央政界に進出した。平家の繁栄は厳島神社のご加護のたまものであるとした一門は、多くの宝物を厳島神社に寄進した。なかでも、長寛2年(1164)、清盛自身が寄進した『平家納経』(33巻、国宝)は華麗である。

満ち潮に洗われる厳島神社の社殿
満ち潮に洗われる厳島神社の社殿
安2年(1167)、清盛は太政大臣に任じられると、むすめの徳子を高倉天皇の后(きさき)とした。この間,一族を朝廷の高位高官につけ,西国に500余りの荘園をもち,30余か国を知行国として全盛をほこった。後白河上皇と対立すると院政をやめさせて、徳子の産んだ安徳天皇を即位させ、外祖父(母方の祖父)として独裁政治を行った。こうして平家一門の栄華はその極に達し、「平家にあらざれば人にあらず」と言われた時代を迎える。

安3年(1168)には、安芸地方で最も有力な豪族で、しかも厳島神社の神官だった佐伯景弘(さえき かげひろ)の働きかけによって、清盛は厳島神社の壮大な社殿の造営を命じている。治承4年(1180)には、清盛の孫を安徳天皇として即位させ、さらに、平家繁栄の源とも言える日宋貿易を重視する清盛は、都を神戸の福原に遷すといった思い切ったことまでやった。しかし、福原遷都は世の不評を買い、6カ月でまた平安京に戻っている。

壇ノ浦の合戦
壇ノ浦の合戦
徳天皇を即位させ絶頂期にあった平家一門に、冷や水を浴びせる情報が伝えられた。後白河法皇の第2皇子で八条院の猶子になっている以仁王(もちひとおう)が、平家一門の横暴を憎み、全国の源氏に対して平家追討の令旨(りょうじ・命令文書)を下したというのだ。

以仁王の令旨を受けて、源頼朝木曾義仲が挙兵した。頼朝は治承4年(1180)10月の富士川の戦いで平維盛を敗走させた。世の中が戦雲で騒然としてくる養和元年(1181)、平清盛は高熱を出して亡くなった。享年63歳だった。清盛の死によって、平家一門の転落が始まる。寿永2年(1183)、都に侵入してきた木曽義仲によって、都を追われた平家一門は西海へ逃れた。それ以後、ふたたび都に戻ることはなく、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで相次いで源義経に敗れた。そして、寿永4年(1185)、壇ノ浦の合戦で完膚無きまでに叩かれて、一族の大半は海の藻屑と消え去った。

うに、平家一門の栄耀栄華は平清盛一代の栄耀栄華であった。仁安2年に太政大臣に任ぜられてから、養和元年に死亡するまでの期間は、わずか14年にすぎない。



厳島神社の歴史を振り返る

背後に聳える弥山
厳島神社の背後に聳える弥山
島神社の背後にそびえているのが、標高530mの弥山(みせん)である。御山とも書くほど聖なる山で、宮島のほぼ中央に位置してる。(参考。国土地理院は今年8月、山頂にある高さ5mの岩を山の一部と認定して、弥山の標高を535mに改訂した)。

古の時代から、弥山を主峰とする宮島の景観に、人々は霊気を感じていたようだ。瀬戸内海を舞台に活躍する海人たちは、島そのものを神として崇め、古くから信仰の対象としてきた。人が住むことを禁じられていたので、人々は対岸または洋上から遙拝(ようはい)していたという。厳島(いつくしま)という呼称自体が、「神を斎(いつ)き祀(まつる)る島」であることを表し、古くは伊都岐(いつき)島とも書かれた。

い原始林に覆われた弥山はサルやシカの生息地でもある。現在は、いくつもの登山コースが整備されていて、自然観察をしながら山頂まで登ることができる。紅葉谷駅からロープウエイで獅子岩駅まで登り、遊歩道に従って弥山本堂から頂上周辺をぐるりと参拝することができる。満潮の時は塩分を含んだ水があふれ、干潮のときは乾く不思議な穴のある干満岩など、さまざまな奇岩や怪石があるとのことだ。


起によれば、厳島神社の創建は、推古天皇即位元年(593年)、安芸の豪族だった佐伯鞍職(さえきのくらもと)によると伝えられている。しかし、神社が仏教寺院の影響を受けて社殿を持つようになるのは、もう少し後の時代である。佐伯氏は古くからのこの地方の豪族で、厳島神社の神官も兼ねていた。佐伯鞍職による創建というのは、おそらく佐伯氏が作りあげた祖先伝説であろう。

推古元年(593)安芸国の豪族・佐伯鞍職が厳島神社を創始したと伝えられる
弘仁2年(811)祭神の伊都岐神(=市杵島姫命)が明神に列せられる
寛仁元年(1017)厳島神社が安芸一の宮となる
久安2年(1146)平清盛が安芸守に任ぜられ、厳島神社を平氏の守護神として庇護する
長安2年(1164)「平家納経」を奉納する
仁安3年(1168)佐伯景弘の要請で、清盛が社殿を改造させる
建永2年(1207)火事により、社殿を焼失する
貞応2年(1223)再び火災による、社殿が炎上する
仁治元年(1555)毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢(すえはるかた)に勝利する
元亀2年(1571)毛利元就が、本社社殿をはじめ大規模な造営をおこなう
明治8年(1875)大鳥居が再建される
明治44年(1911)官幣中社に列せられる
平成8年(1996)社殿および境内が世界遺産に登録される
際に社殿や大鳥居が海水のさし引きするところに建てられた時期はもう少し下ると思われる。祭神としては、海上交通の安全を守る宗像大社の三女神、すなわち市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を祀っている。厳島神社の名が、はじめて日本の歴史に登場するのは、弘仁2年(811年)であり、『日本後記』に伊都岐島神を名神に列したと記す。平安時代の貞観元年(859)、厳島神社は神階の従4位上に叙せられ、天慶3年(940)には、正四位下に進んでいる。

かし、厳島神社が安芸一の宮として隆盛を極めるようになるのは、久安2年(1146)、平清盛が安芸守に任ぜられてからである。清盛は厳島明神を平家の「氏神」として篤く信仰した。そのきっかけは、夢のお告げだったとのことだ。1153年に、清盛は落雷で焼失した高野山大塔の造営を命じられた。2年後に大塔を完成したが、清盛はその年に50日間ほど高野山に滞在していた。その時、夢に弘法大師が現れ、厳島神社を信仰すれば一門が繁栄すると伝えられたという。

盛が厳島神社を厚く敬ったところ、保元平治の乱に勝利することができた。そのため、1160年にはみずから参詣している。長安2年(1164)には、一門の繁栄は厳島神社の加護によるとして、完成した平家納経を奉安している。また、神主・佐伯景弘(さえきかげひろ)の要請を受けて、社殿の改造を命じた。それまでの板葺きの社殿が檜皮葺に変えられて、ほぼ現在の形で完成したのは仁安3年(1168)のこととされている。

家全盛の時代、後白河上皇が女御・建春門院とともに多くの公家を従えて、この神社に行幸している。承安4年(1174)のことである。それから6年後の治承4年(1180)には譲位直後の高倉上皇が建礼門院とともに行幸したことが、記録に残っている。

社殿を結ぶ回廊
社殿を結ぶ回廊
家一門が元暦2年(1185)、壇ノ浦に沈んだ後、厳島神社はたびたび火災にあったが、そのたびに再建されてきた。元亀2年(1571)、毛利元就は末社に至るまで古式にのっとった大規模な造営を行った。九州出兵の際に厳島神社に参拝した豊臣秀吉は、月一度の千部経の読経のための大経堂の建設を発願し、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を造営奉行に任命している。その後の朝鮮出兵のため、大経堂は未完に終わったが、その広壮な遺稿が現在千畳閣として残っている。

成8年(1996)、厳島神社は世界遺産に登録された。本社本殿、幣殿、拝殿など17塔と大鳥居、五重塔、多宝塔3基からなる建物群のうち、6棟が国宝、11棟3基が重要文化財に指定されている。これらの朱塗りの社殿を273mの回廊で結ぶ建築は周囲の緑に映えて見事である。



 平成17年11月12日

厳島神社の主要な建物を拝観する

鹿
ラス会の会場は宮島ホテル「まこと」だった。夕方から始まる宴会を前に、厳島神社を見ておきたいと思って出かけた。干潮時だったのか、海水が大鳥居付近まで引いて、砂地がむき出しのままだった。さらに、雨に煙る周囲の景観は薄暗く色彩を失って、期待した景観をデジカメで撮影できなかった。

広間での宴会は大いに盛り上がり、その後の二次会でも夜半過ぎまで語り合って、参加者の誰もが40数年前の学生気分に戻っていた。雨は明け方には上がった。本日の満潮は午前6時38分だという。海に浮かぶ神社の社殿をどうしてもカメラに撮りたくて、朝の散歩をかねて6時にホテルを出た。まだ夜明け前で暗かったが、それでも、気の早い参拝客を乗せたカーフェリーの第一便は、桟橋に接岸する。厳島神社の参拝は午前6時半からなので、すこし浜辺で時間を費やし、参拝客に混じって、もう一度主な社殿を見て回った。


厳島神社の大鳥居
厳島神社を象徴する自然木のクスノキを組んだ大鳥居。高さ16.8m、棟の長さ24mで、社殿から88間離れて建てられている。満潮時は海に浮かんでいるように見えるが、干潮時には歩いて行くことができる。現在の鳥居は平安時代以降8代目で、明治8年(1875年)に再建された。JRフェリーは大鳥居の正面を迂回してくれる。

宮島桟橋
JR連絡船発着場または松大汽船発着場で下船して、宮島桟橋を渡って改札を出ると、正面に宮島の商店街が軒を並べている。前の広場には、数頭のシカがたむろしていて、参拝客を見ると、エサをねだるそぶりを見せて近づいてくる。厳島神社に参詣する道は、有(あり)の浦から御笠浜(みかさはま)へ海岸沿いに進む道や表参道商店街、町家通りなど幾筋もの道がある。

日本三景 厳島の碑
安芸の宮島は、松島(宮城県)、天橋立(京都府)と並んで、日本三景の一つに数えられている。そのことを誇るように、 海岸通りを進むと「日本三景 厳島」と大書した碑が有(あり)の浦の入口に建っている。朝の早い時間には、門がまだ閉まっているが、海岸通りに出て先に進むことができる。

表参道御笠浜の石鳥居
朱塗りの大鳥居は満潮時には根元を海水に洗われる。今朝の満潮は午前6時38分とのことだった。昨日見た海底の砂地はすっかり海水に覆われ、満ちてくる潮が作るのか、小さな波が絶え間なくヒタヒタと社殿の方角へ打ち寄せてくる。海中の大鳥居を見ながら御笠浜(みかさはま)を歩いて行くと、まもなく高さ10mもある表参道の石鳥居の前に出る。

満潮時の各社殿
大鳥居から視線を左に移すと、厳島神社の社殿や各客社の社殿が、寄せ来る海水で軒下を洗われている。見ようによっては、海中に浮かぶ竜宮城のようにも見える。平清盛によって現在の規模に造営され、社殿が海にせり出すように築かれたとされている。清盛が心に描いたのは、神社よりも竜宮城をこの世に築きたかったのではないか。その証拠に、丹塗り檜皮葺の社殿は寝殿造りの優雅さを漂わせている。

東回廊入口
しめ縄を張った石柱のところから石段を下りると、東回廊の入口がある。もともと、ここは回廊の出口だったところで、屋根が切り妻になっている。入口のところに、案内所があり、参拝客はここで拝観料を払って、長く続く回廊へ向かう。

各社殿を結ぶ回廊
厳島神社は、本殿、幣殿、拝殿、祓殿、高舞台、平舞台、能舞台などを幅3.3m、柱間2.4mの回廊で結んでいる。回廊は東回廊から西回廊まで、その全長は約300mに達するという。床板には、満潮で海面が上がった時の浮力をやわらげたり、降り込んだ雨を抜くため、わずかな隙間が設けられている。

高殿の向こうに大鳥居を眺める
本殿前から大鳥居を眺めた景観は、厳島神社を代表する眺めであろう。高殿の向こうに3ツの灯籠を配した平舞台があり、その先に朱塗りの大鳥居が聳えている。晴れていれば、大鳥居の朱色とその背後に見える対岸の町並みや山の稜線が見事なコントラストを見せてくれるはずだ。朝がまだ明け切っていない瀬戸内海では、期待した鮮やかさはまだ望めない。

高殿と祓殿
大鳥居を背にして平舞台に立つと、正面に高舞台があり、その先に祓殿・拝殿・幣殿、本殿が連なって見える。祓殿の奥にある拝殿は、切妻の屋根の三方に廂(ひさし)が付けてあり、三棟造(みつむねづくり)という特殊な構造になっているとのことだ。

釣灯籠が下がる拝殿
祓殿と拝殿との間は通路になっていて、大きな提灯がぶら下がっている下に賽銭箱が置いてある。拝殿の内部は釣灯籠があり、その奥の菱格子に囲まれたところが本殿である。本殿には、海上交通の安全を守る宗像大社の三女神、すなわち市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)を祀っている。

毛利元就が造営寄進した能舞台
本社本殿から西回廊を進むと、右手に檜皮葺の屋根美しい能舞台が建っている。戦国時代の西国の雄・毛利元就が造営寄進した建物である。丹塗りの本社社殿や回廊を見慣れた目には、能舞台は古色蒼然に写る。橋掛および楽屋とともに重要文化財に指定されている。

千畳閣と五重塔
東回廊入口の近くから高台に登る石段がある。石段を登り切ると、優美な厳島神社には不釣り合いな巨大な楼閣が建っている。豊臣秀吉が千部経を読誦させるために、建立を命じた大経堂である。未完に終わったが、豪壮な桃山建築の様式を今に伝えている。

五重塔は、応永14年(1407年)の創建で、唐様を基調にして和様の手法を融合させて造られている。薬師如来を本尊として祀ってきたが、昭和の神仏分離令で撤去されたとのことだ。


平家の絶頂を示す「平家納経(へいけのうきょう)

厳島神社の宝物館
厳島神社の宝物館
舞台の前の西回廊をさらに先に進むと、やがて出口にでる。その出口の前を御手洗(みたらし)川が流れ、石橋が架かっている。実はこの西口がもとは、厳島神社の入り口だったそうだ。見上げると回廊の屋根は唐破風となっている。

橋の先に厳島神社の宝物館があり、その中に平家一門の繁栄の極みを今に伝える逸品が展示されている。言わずとしれた「平家納経」とそれを治めた経箱である。社伝によれば、「平家納経」は平家の繁栄を願い、平清盛(当時47歳)を始め、重盛とその子息、頼盛、教盛、経盛など32人がそれぞれ一品一巻ずつを書写したもので、長寛2年(1164)9月に厳島神社に奉納されたものであるという。

寿量品見返し
寿量品見返し
の内訳は、清盛が自ら記した願文に示されているように、法華三部経30巻(妙法蓮華経28巻、無量義経、観普賢経各1巻)、阿弥陀経般若心経各1巻であり、これに清盛の奉納願文を合わせた33巻からなる。経巻類の料紙は染紙で,表裏は金銀切箔・野毛・砂子が撒いてあり,草花や楽器,葦手を彩色してあしらって摺出した絵模様になっている。各巻の表紙と見返しには経意を示す意匠がほどこされ、極彩色の大和絵が描かれている。その装飾経としての美しさはすばらしく、これらの経巻を収める経箱の工芸美と合わせて、平安末期の絵画・工芸の傑作に数えられている。

島神社に仏教の経典を奉納するというのは、現代の感覚ではいささか奇妙である。だが、平安末期は、神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)という信仰行為は当たり前になってきていた。神社で祀られる神々はそのままでは俗世に姿を現すことができない。そこで、神々は仮に仏の姿に変えて現れ、衆生の苦しみや病を癒してくれるという「本地垂迹説」が、すでに平安中期ごろから流布しはじめている。

考までに、宝物館内に展示されている「平家納経」と経箱はレプリカである。


経巻を収める経箱
平家納経と経箱




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