橿原日記 平成17年11月5日

古墳時代の騎馬文化の普及について


さきたま資料館のミニ企画展「埼玉の古墳時代甲冑と馬具」

しぶりに埼玉県の行田市にある「さきたま風土記の丘」に来た。前回ここを訪れたのは2003年11月だったから、実に2年ぶりで訪れたことになる。しかし今回は、風土記の丘に横たわる埼玉古墳群を巡るためではない。さきたま資料館ミニ企画展「埼玉の古墳時代甲冑と馬具」が開催されていると聞いたからだ。

稲荷山古墳
稲荷山古墳
将軍山古墳
将軍山古墳
墳時代中期(西暦5世紀)になると、朝鮮半島からの渡来人が乗馬用の馬とそれを飼育する技術をこの国にもたらした。そして、当時の最先端技術を駆使して、鉄製の甲冑や金銅製のきらびやかな馬具が国内でも生産されるようになった。我が国には、それ以前に馬を飼ったり乗馬の習慣があったとする証拠は、現在までのところ発見されていない。

玉古墳群では、稲荷山古墳将軍山古墳から、当時の首長が騎乗姿で戦場に赴いた証拠品の甲冑や馬具を出土している。こうした馬具のほとんどは、おそらく朝鮮半島からの伝来であろう。ミニ企画展では、これらの出土品を中心に、埼玉県から出土した代表的な資料を展示して、この時代の国際性や生産技術の高さを見学者に示してくれるという。

は、昨晩「シルクロードの会」が主催する”日本文化の源流を探ねる”勉強会が、渋谷の区立商工会館で行われ、久しぶりに参加した。シリーズ第5回目のテーマは「騎馬民族説と古墳時代の馬具」で、松戸市立博物館学芸係長の松尾昌彦氏を招いての講演だった。その中で、我が国の馬冑・馬甲の出土例は滋賀県野洲町の甲山古墳、和歌山県和歌山市の大谷古墳、それに埼玉古墳群の将軍山古墳の3例に止まる、との指摘があった。

ニ企画展の話は以前から聞いていたので、この際実物の馬冑(ばちゅう)をもう一度見たいと思ってわざわざ風土記の丘まで車を走らせてきた。大陸から張り出した高気圧のお陰で、本日も朝から秋晴れのすがすがしい一日となった。「小春日和」という名前は、まさに今日のような天候を言うのであろう。主要幹線道路は日光への紅葉狩りに出かけるマイカーで渋滞の連続だった。だが、一歩脇道入ると、稲刈りの終わった関東平野の水田地帯が広がっている。窓を一杯に開いて田舎道をドライブするのは、実にさわやかで気持ちがよい。


ケヤキ並木 考古展示室の内部
紅葉が美しいケヤキ並木考古展示室の内部

跡公園として整備された埼玉古墳群の駐車場に車を止めて、県道行田蓮田線を横切ると、ものの見事に色づいたケヤキ並木が「さきたま資料館」へ導いてくれる。

料館は来年1月から3月にかけて館内改装を行なうことになっていて、考古展示室だけがオープンしていた。彩の国教育週間記念ということで、なぜは本日は入館無料の看板が入り口に立ててあった。

古展示室は、稲荷山古墳から出土した有名な金錯名鉄剣考(きんさくめいてっけん)のショウケースを部屋の中央にドンと配置してある。ミニ企画展「埼玉の古墳時代甲冑と馬具」は、埼玉古墳群の稲荷山古墳と将軍山古墳、および埼玉県下の古墳から出土した主要な資料を、その展示室の一部借りる形で展示していた。

 稲荷山古墳から出土した馬具

礫槨の復元の様子
礫槨の復元の様子(*)
錯名鉄剣の出土によってその名が全国に知れ渡っている稲荷山古墳は墳丘長120mの前方後円墳である。埼玉古墳群の中では最も古く、5世紀後半から末ころに造られたと考えられている。後円部の頂上に築かれた礫槨(れきかく)は未盗掘だった。昭和43年(1968)の発掘調査では、副葬品が埋葬時に配置した状態が分かるほど良く残っていた(「礫槨の復元の様子」参照)。

f字形鏡板付きの轡と三鈴杏葉
埋葬されていたf字形鏡板付きの轡と三鈴杏葉(*)
槨には、鉄剣とともに大刀、鉄矛、帯金具、勾玉、挂甲(けいこう)、馬具などが納められていた。鉄の地金に銅を張った地板を銀張りの縁金具と鋲(びょう)で留めたf字形鏡板付轡(くつわ)が、馬具の中にあった。非常に豪華燦然とした馬具で、朝鮮半島の伽耶地域で制作されたものと推定される。一方、鋳銅製の三鈴杏葉(さんれいぎょうよう)もあったが、こちらは国産と見られている。

の他にも、辻金具、鐙(あぶみ)、鞍金具、三環鈴なども出土している。辻金具はベルトが交差する部分を固定するために使われた。鞍金具や鐙は木製の部分が腐ってしまい、金具の部分だけが残っていた。

荷山古墳に埋葬されていたこれらの馬具は、5世紀の後半に大和に出仕し雄略天皇の護衛官隊長を勤めた被葬者の愛馬を飾り立てていた品であろう。制作年代は5世紀末葉と考えられていて、いずれの馬具も国宝に指定されている。輸入品と国産品がセットで使用されていた珍しい例とされている。

 将軍古墳から出土した馬具

馬冑
将軍山古墳から出土した馬冑(*)
鐙(左)と棘葉形杏葉(右)
鐙(左)と棘葉形杏葉(右)(*)
玉古墳群の北東部に位置する将軍山古墳は、全長90mの前方後円墳である。後円部に築かれた横穴式石室が明治27年(1984)に地元の人々によって発掘され、豊富な遺物が出土した。これらの遺物から類推して、稲荷山古墳からおよそ100年近く後の6世紀後半に築かれた古墳とされている。

土品としては、甲冑(かっちゅう)や環頭大刀、銅椀、乳文鏡、ガラス玉、耳環、馬具などがある。特に注意を引くのは、馬冑(ばちゅう)である。馬の顔を防護するために用いられた馬冑は、上に述べたように日本では3例しか出土していない。

具としては、轡(くつわ)、鞍金具、雲珠(うず)、辻金具、鐙(あぶみ)、杏葉(ぎょうよう)、馬鈴が出土したが、金銅装のものと鉄製のものが2組揃っていた。特に棘葉形杏葉(きょくようがたぎょうよう)と呼ばれる馬具はすばらしい。

の古墳からは、発掘当初は用途が分からずに蛇行状鉄器と名前が付けられた旗竿金具(はたざおかなぐ)も2本出土している。旗竿金具は高句麗の壁画などにも描かれていて、U字型の金具を鞍に取り付け、そのソケットに旗竿を差し込むものである。

ずれの馬具も5世紀前半に半島で制作されたと推定されており、セットで我が国にもたらされたようだ。しかし、将軍山古墳の築造時期は6世紀後半とされていて、副葬品の時期と合わない。このため、子孫に代々伝えられた伝世品である可能性が高い。
高句麗古墳の壁画 考古展示室の内部
高句麗古墳の壁画(*)将軍塚出土の旗竿金具(*)

 その他に馬具を出土した県下の主な古墳からの出土品

回のミニ企画展は、埼玉県内の古墳から出土した甲冑や馬具の展示を目的としたものである。馬具類に関して言えば、稲荷山古墳と将軍山古墳以外にも、以下の古墳からの出土品が陳列してあった。

根川沿いの行田市須加(すか)にある大稲荷(おおとうか)2号墳から、鉄製の楕円形形鏡板(かがみいた)付きの轡(くつわ)が発見されている。実用本位の馬具で、5世紀末の制作と考えられている。

鉄製楕円形形鏡板付き轡
四十坂古墳から出土した鉄製楕円形形鏡板付き轡(*)
生市にある永明寺古墳は6世紀の中頃の築造と考えられている。この古墳から、衝角付冑(しょうかくつきかぶと)や挂甲などと共に、素環鏡板付轡(そかんかがみいたつきくつわ)、雲珠(うず)、壺鐙(つぼあぶみ)が出土している。加須市の宮西塚古墳は6世紀中葉の築造と考えられているが、鐘形の形ををした鏡板が付いた轡や、偏珠の形をした辻金具、素環杏葉(そかんぎょうよう)が、この古墳から発見された。

部町当後にあった四十坂古墳は、稲荷山古墳とほぼ同時期の5世紀末葉に造られた円墳で、装飾性の高い轡と実用本位の轡の両方が揃って出土した。また、岡部町榛沢(はんざわ)のある古墳から出土した馬鐸(ばたく)は鈴付き釧(くしろ)と一緒に出土したと伝えられている。



昭和24年に発表された江上波夫の「騎馬民族制服王朝説」

江上波夫氏
生前の江上波夫氏
具の普及は、騎馬文化の普及であると言い換えて良い。だが、騎馬文化を問題にするとき、避けて通ることができない有名な学説がある。元東京大学教授の江上波夫氏(2002年11月、96歳で逝去)が、戦後間もない昭和24年(1949)に発表された「騎馬民族制服王朝説」(一般には、騎馬民族説と略称)である。

の骨子は、3世紀末にツングース系騎馬民族(夫余族)の高句麗が、朝鮮半島を南下して南朝鮮を支配する。この騎馬民族はやがて4世紀になって北九州に上陸し、この地を征服して新しい王朝を開いた。新王朝の開祖がイマキノイリヒコの諡号をもつ崇神天皇である。約100年後、この王朝は北九州から近畿への遠征を敢行し、大和で「第二回目の建国」を行なう。このことを反映しているのが、記紀に記された「神武東征」である、という。

あああ
上氏がこの説を着想された背景には、4世紀に入って中国本土で統一王朝は滅亡し、世に言う五胡十六国の時代を迎えた東アジア情勢がある。朝鮮半島でも、北方の高句麗が楽浪・帯方の2郡を滅ぼして南化し、その動きに連動して、朝鮮半島南部では百済と新羅が多くの小国を収斂して統一国家を建国していく。そうした当時の東アジア世界の激動に、極東の島国が無縁であるはずはなかった。その証拠に、古墳の副葬品が、古墳時代中期になると、それまでの呪術的なもの(鏡・剣・玉・碧玉など)から実用的・軍事的なもの(武器・馬具・鎧・兜など)に急激に変化している。こうした変化は、日本列島内に北方騎馬民族が侵入し、新王朝を建てたという前提に立ってはじめて理解できる、と氏はいう。


騎馬民族の飾り馬
騎馬民族の飾り馬イメージ
馬民族説の当否はさておいて、戦後間もない昭和24年という時点で、天皇家の遠祖は北方の騎馬民族であるとする破天荒な説を公にされた江上氏の勇気には驚かされる。昭和21年11月に日本国憲法が公布され、天皇が国民の象徴にされたとはいえ、まだまだ戦前の天皇制を信奉する右翼団体がウヨウヨいた時代である。おそらく、身の危険を感じられたことも再三あったであろう。

の騎馬民族説が日本の歴史研究に大きなインパクトを与えた。文献史学者は、当時の東アジア情勢の中で、我が国の成立を考えなければならなくなった。だが江上説に対する反論は、登場したころから厳しいものがあった。あまりにマクロ的に歴史の流れを捕らえているため、論証は必ずしも体系的でなく、断片的でおおざっぱ過ぎるというのが大方の見方だった。また、騎馬常習民族が馬を伴なって多数渡来し、征服王朝を建てたのが天皇家の祖先であるとする論調は、長年天皇家を万世一系の家系であると信じてきた日本人には、心理的に拒否された面もあった。

コルテス(左)とピサロ(右)
エルナン・コルテス(左)とフランシスコ・ピサロ(右)
者自身、初めて江上氏が執筆した著作を読んだとき、江上説が成り立つか疑問に思った。当時の日本列島にどれだけの人口が住んでいたのか不明だが、生きた馬を伴って朝鮮海峡を渡ってくる人馬の数は知れている。たとえば500人の騎馬軍団が北九州に上陸したとして、短期間で列島を蹂躙することなど可能だろうか。

が、大学でラテンアメリカ史を学んだことで、そのことがあながち不可能ではないことを知った。コロンブスのアメリカ新大陸発見の後、16世紀の初めのスペインは新大陸への渡航ブームの熱に浮かされ、多くの冒険野郎が黄金を求めて新大陸の奥地に足を踏み入れ、各地を征服していった。彼らはスペイン語でコンキスタドール(Conquistador、征服者)と呼ばれている。

サクサワカン
巨石で作られたインカの城塞・サクサイワマン
時、新大陸にはメキシコからユカタン半島にかけてアステカ帝国が栄え、南半球では現在のペルーのクスコを中心に、アンデス文明史上最大の帝国といわれるインカ帝国が栄えていた。だが、エルナン・コルテス(Hernan cortes、1485?〜1547) はわずか400人の手兵と50頭の馬でアステカ王国を征服し、フランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro、1475〜1541)は180人の手兵と27頭の馬でインカ帝国を滅亡させてしまうのである。もちろん両帝国とも、当時内部抗争などさまざまな問題を抱えていた。だが、彼らは騎馬の風習を知らず、また鉄砲という火器を知らなかったことが、滅亡の大きな要因だったとされている。時と場所の違いはあっても、同じ事が極東の島国で起こったとしても不思議ではない、と最近では感じている。



騎馬の風習の普及を後押しした馬具制作集団

馬曳き埴輪
石川県矢田野エジリ古墳出土の
「騎馬人物と馬曳き埴輪」
かし、我が国の最近の歴史学会では、江上氏の騎馬民族説は否定され、征服ではなく、ゆるやかな文化接触の結果として北方騎馬民族文化が我が国に伝わったと主張されている。その直接の契機は、4世紀末から5世紀初めにかけての列島から朝鮮半島への派兵であろう。この頃は倭の軍隊が朝鮮半島に出兵し、騎馬民族の高句麗と戦ったことが、広開土王碑からも明らかだ。こうした軍事衝突がきっかけとなって、騎馬の風習を学びとったものと思われる。その証拠として、馬具が5世紀初めの古墳の副葬品として初めて現れる。

れらの馬具は朝鮮半島からの舶来品だが、最近の韓国考古学の進展によって、その故地が明らかに成りつつあるという。橿考研の千賀久氏などは、鉄製の轡(くつわ)を中心とする5世紀前半の馬具は、伽耶の金海周辺からもたらされたものであり、f字形鏡板と剣菱形杏葉のセットが加わる5世紀後半の馬具は、高霊・玉田を中心とした大伽耶圏の系譜を引くものだとされている。

世紀前半には、すでに我が国で作られた製品が認められる。しかし、馬具の制作体制が確立してその普及に一時期を画すのは、5世紀半ばから5世紀末の時代である。『書紀』の雄略天皇7年(462)の条には、鞍部堅貴(くらつくりけんき)が今来漢人(いまきのあやひと)技術者の一人として渡来したことが記載されている。この記事が史実を伝えているという保証はない。だが、5世紀後半には、大陸や朝鮮半島から優れた技術者が渡来してきて馬具の制作に携わり、また在来の工人たちを指導して馬具の製作体制を鞍部(くらつくりべ)として整えていったものと推測される。

馬の遺骨
蔀屋北遺跡から出土した馬の遺骨
来したのは、馬具制作技術者だけではない。当然のことながら、馬匹を伴って渡来してきた馬飼い技術集団も大勢いたはずである。古代の馬を飼育した牧場溝跡が、長野県・東信地方や静岡県、群馬県で発掘されている。大阪府四条畷市の蔀屋北(しとみやきた)遺跡からは、平成14年の夏、馬の遺骨が横倒しになった完全な状態で発見されたことは、まだ記憶に新しい。現在の東大阪市付近は当時はまだ河内湖の底で、生駒山麓の原野では馬が飼育されていたという。

時の大和朝廷は馬文化の摂取によほど力を入れたものと思われる。渡来した馬具制作集団や馬飼集団を直接配下の組織に組み入れて管理するとともに、方々に牧場を作って馬を飼育させている。おそらく馬を使った情報伝達の速さに着目ものと思われる。あるいは支配階級の威厳を整える目的で、騎乗の風習を社会の上層部に普及させたかったのかもしれない。必ずしも、高句麗の騎馬軍団と対等に戦うために、急いで馬文化を取り入れたわけではないだろう。


(*) 埼玉県さきたま資料館作製「ガイドブック さきたま」より転載



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