さきたま資料館のミニ企画展「埼玉の古墳時代甲冑と馬具」久しぶりに埼玉県の行田市にある「さきたま風土記の丘」に来た。前回ここを訪れたのは2003年11月だったから、実に2年ぶりで訪れたことになる。しかし今回は、風土記の丘に横たわる埼玉古墳群を巡るためではない。さきたま資料館でミニ企画展「埼玉の古墳時代甲冑と馬具」が開催されていると聞いたからだ。
埼玉古墳群では、稲荷山古墳と将軍山古墳から、当時の首長が騎乗姿で戦場に赴いた証拠品の甲冑や馬具を出土している。こうした馬具のほとんどは、おそらく朝鮮半島からの伝来であろう。ミニ企画展では、これらの出土品を中心に、埼玉県から出土した代表的な資料を展示して、この時代の国際性や生産技術の高さを見学者に示してくれるという。 実は、昨晩「シルクロードの会」が主催する”日本文化の源流を探ねる”勉強会が、渋谷の区立商工会館で行われ、久しぶりに参加した。シリーズ第5回目のテーマは「騎馬民族説と古墳時代の馬具」で、松戸市立博物館学芸係長の松尾昌彦氏を招いての講演だった。その中で、我が国の馬冑・馬甲の出土例は滋賀県野洲町の甲山古墳、和歌山県和歌山市の大谷古墳、それに埼玉古墳群の将軍山古墳の3例に止まる、との指摘があった。 ミニ企画展の話は以前から聞いていたので、この際実物の馬冑(ばちゅう)をもう一度見たいと思ってわざわざ風土記の丘まで車を走らせてきた。大陸から張り出した高気圧のお陰で、本日も朝から秋晴れのすがすがしい一日となった。「小春日和」という名前は、まさに今日のような天候を言うのであろう。主要幹線道路は日光への紅葉狩りに出かけるマイカーで渋滞の連続だった。だが、一歩脇道入ると、稲刈りの終わった関東平野の水田地帯が広がっている。窓を一杯に開いて田舎道をドライブするのは、実にさわやかで気持ちがよい。
史跡公園として整備された埼玉古墳群の駐車場に車を止めて、県道行田蓮田線を横切ると、ものの見事に色づいたケヤキ並木が「さきたま資料館」へ導いてくれる。 資料館は来年1月から3月にかけて館内改装を行なうことになっていて、考古展示室だけがオープンしていた。彩の国教育週間記念ということで、なぜは本日は入館無料の看板が入り口に立ててあった。 考古展示室は、稲荷山古墳から出土した有名な金錯名鉄剣考(きんさくめいてっけん)のショウケースを部屋の中央にドンと配置してある。ミニ企画展「埼玉の古墳時代甲冑と馬具」は、埼玉古墳群の稲荷山古墳と将軍山古墳、および埼玉県下の古墳から出土した主要な資料を、その展示室の一部借りる形で展示していた。 稲荷山古墳から出土した馬具
その他にも、辻金具、鐙(あぶみ)、鞍金具、三環鈴なども出土している。辻金具はベルトが交差する部分を固定するために使われた。鞍金具や鐙は木製の部分が腐ってしまい、金具の部分だけが残っていた。 稲荷山古墳に埋葬されていたこれらの馬具は、5世紀の後半に大和に出仕し雄略天皇の護衛官隊長を勤めた被葬者の愛馬を飾り立てていた品であろう。制作年代は5世紀末葉と考えられていて、いずれの馬具も国宝に指定されている。輸入品と国産品がセットで使用されていた珍しい例とされている。 将軍古墳から出土した馬具
出土品としては、甲冑(かっちゅう)や環頭大刀、銅椀、乳文鏡、ガラス玉、耳環、馬具などがある。特に注意を引くのは、馬冑(ばちゅう)である。馬の顔を防護するために用いられた馬冑は、上に述べたように日本では3例しか出土していない。 馬具としては、轡(くつわ)、鞍金具、雲珠(うず)、辻金具、鐙(あぶみ)、杏葉(ぎょうよう)、馬鈴が出土したが、金銅装のものと鉄製のものが2組揃っていた。特に棘葉形杏葉(きょくようがたぎょうよう)と呼ばれる馬具はすばらしい。 この古墳からは、発掘当初は用途が分からずに蛇行状鉄器と名前が付けられた旗竿金具(はたざおかなぐ)も2本出土している。旗竿金具は高句麗の壁画などにも描かれていて、U字型の金具を鞍に取り付け、そのソケットに旗竿を差し込むものである。 いずれの馬具も5世紀前半に半島で制作されたと推定されており、セットで我が国にもたらされたようだ。しかし、将軍山古墳の築造時期は6世紀後半とされていて、副葬品の時期と合わない。このため、子孫に代々伝えられた伝世品である可能性が高い。
その他に馬具を出土した県下の主な古墳からの出土品今回のミニ企画展は、埼玉県内の古墳から出土した甲冑や馬具の展示を目的としたものである。馬具類に関して言えば、稲荷山古墳と将軍山古墳以外にも、以下の古墳からの出土品が陳列してあった。 利根川沿いの行田市須加(すか)にある大稲荷(おおとうか)2号墳から、鉄製の楕円形形鏡板(かがみいた)付きの轡(くつわ)が発見されている。実用本位の馬具で、5世紀末の制作と考えられている。
岡部町当後にあった四十坂古墳は、稲荷山古墳とほぼ同時期の5世紀末葉に造られた円墳で、装飾性の高い轡と実用本位の轡の両方が揃って出土した。また、岡部町榛沢(はんざわ)のある古墳から出土した馬鐸(ばたく)は鈴付き釧(くしろ)と一緒に出土したと伝えられている。
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騎馬の風習の普及を後押しした馬具制作集団
これらの馬具は朝鮮半島からの舶来品だが、最近の韓国考古学の進展によって、その故地が明らかに成りつつあるという。橿考研の千賀久氏などは、鉄製の轡(くつわ)を中心とする5世紀前半の馬具は、伽耶の金海周辺からもたらされたものであり、f字形鏡板と剣菱形杏葉のセットが加わる5世紀後半の馬具は、高霊・玉田を中心とした大伽耶圏の系譜を引くものだとされている。 5世紀前半には、すでに我が国で作られた製品が認められる。しかし、馬具の制作体制が確立してその普及に一時期を画すのは、5世紀半ばから5世紀末の時代である。『書紀』の雄略天皇7年(462)の条には、鞍部堅貴(くらつくりけんき)が今来漢人(いまきのあやひと)技術者の一人として渡来したことが記載されている。この記事が史実を伝えているという保証はない。だが、5世紀後半には、大陸や朝鮮半島から優れた技術者が渡来してきて馬具の制作に携わり、また在来の工人たちを指導して馬具の製作体制を鞍部(くらつくりべ)として整えていったものと推測される。
当時の大和朝廷は馬文化の摂取によほど力を入れたものと思われる。渡来した馬具制作集団や馬飼集団を直接配下の組織に組み入れて管理するとともに、方々に牧場を作って馬を飼育させている。おそらく馬を使った情報伝達の速さに着目ものと思われる。あるいは支配階級の威厳を整える目的で、騎乗の風習を社会の上層部に普及させたかったのかもしれない。必ずしも、高句麗の騎馬軍団と対等に戦うために、急いで馬文化を取り入れたわけではないだろう。 (*) 埼玉県さきたま資料館作製「ガイドブック さきたま」より転載 |