慈恩寺とその境内に建つ大雁塔
大慈恩寺を有名にしているのが、その境内にそびえる大雁塔である。大雁塔の由来を説明するには、『西遊記』で知られる玄奘三蔵(600?-664)について先ず語らなければならない。 玄奘(げんじょう)は洛陽近くの河南陳留郡で西暦600年に生まれた(602年、604年、605年など諸説あり)とされている。陳家の四人兄弟の末子で、俗名は陳緯(?)といった。10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て、出家していた次兄のもとに引き取られた。13歳のとき出家して玄奘を名乗り、兄とともに長安に出てきた。その後、成都や荊州などもまわって各地で仏教を学ぶが、諸師の教えがまちまちで互いに矛盾を含んでいたため、どれが正しいのか思い悩んだ。やがて疑問を解決するには、天竺(インド)におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論師に直接の解義を得るしか他に途はないと思い立った。だが、当時の唐は鎖国政策をとっていて、国の出入りは禁止されていた。玄奘はなんども嘆願書を出して出国の許可を求めるが許されなかった。そこで、国禁を犯して無断で玉門関を越え、西域に旅たった。貞観3年(629)、玄奘が29歳の時である。
玄奘が、仏像・仏舎利の他にサンスクリット(梵語)の仏経原典657部を馬22頭に積んで長安に戻ってきたのは、貞観19年(645)正月5日,玄奘45歳のときである。旅たちから16年の歳月が流れていた。国禁を犯しての密出国は死罪である。玄奘は唐に近づいたとき、時の皇帝・太宗に帰国の許可を願い出た。密出国の出発時と違って、彼の帰還は太宗の大歓迎を受けた。太宗は、国境近くまで出迎えの使者を出すほどであった。 玄奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、実に3万キロに及んでいた。帰国後,太宗の勅命を受けて、その見聞録を弟子の弁機に編述させた。それが貞観20年(646)に完成した『大唐西域記』全12巻である。インドや中央アジアにおける仏教の状勢だけではなく、経由したそれぞれの土地の歴史・地理・風俗などについても記している。
現在我が国で最も読誦されている「般若心経」の基となったのは、玄奘が翻訳した大般若経である。これは画期的な翻訳とされ、玄奘より前の翻訳は旧訳(くやく)といわれ、玄奘以後の翻訳を新訳と称して区別されている。玄奘のの仏典翻訳によって、唐代の仏教興隆の基礎が築かれたといっても過言ではない。
大雁塔は四角形で、柱を使わず黄土を餅米で突き固め、外側をレンガの壁で覆った分厚い構造で、最上階まで250段の階段がある。塔の底辺は25m四方。塔の高さ64m。七層まで登ることができる。 大雁塔の南入り口の左右には二つの石碑が建てられていて、左が「大唐三蔵聖教序」、右が「大唐三蔵聖教序記」といい、この2つは合わせて雁塔聖教序と呼ばれている。大きさはいずれも縦198cm×横85cmで、ほぼ畳一枚の大きさである。これらの石碑に刻してある文字数は、「大唐三蔵聖教序」が1行42文字で21行、「大唐三蔵聖教序記」が1行40文字で20行、合わせて約1700文字。いずれも、太宗に書の指導をしたとされる唐代の書家・ちょ遂良の筆によるものである。 |
慈恩寺縁起が語る華林山慈恩寺の創建伝承
円仁(794-864)が勝道上人や弘法大師の足跡を尋ねて日光山に登ったとき、山頂から、 盛時には、13万5千坪の境内に塔中66坊を有する大寺院だったが、寛永・天保・明治と数次にわたって火災に見舞われ、ほとんどの堂宇は灰燼に帰して現在に及んでいる。現在の本堂は(一三間四面)は天保14年(1843)に建立されたものである。本尊の千手観世音菩薩像は、円仁が刻んだものはすでに焼失し、寛永年間に天海僧正が比叡山から将来したものである。
本堂の前に、市の文化財に指定された南蛮鉄灯籠(なんばんてつとうろう)が立っている。天正17年(1589)五月に、岩付城主北条氏房の家臣だった伊達与兵衛房実が、天下泰平・万民豊楽の願いを込めて寄進したものだという。 ところで、正確な言い方をすれば、慈覚大師・円仁は、この慈恩寺を建てたとされる天長元年(824)には、まだ唐土に渡っていない。天台宗の発祥の地・天台山への参拝を目的に、円仁が第17次遣唐使船で唐土に渡ったのは承和5年(838)である。したがって、周囲の景色が長安の大慈恩寺あたりに似ているので、大慈恩寺に因んで寺名を付けたというのは、後世の附会にすぎない。 奈良時代から平安時代にかけて、玄奘三蔵法師から法相学を学んだ道昭(どうしょう)をはじめ、多くの求法僧が長安を訪れ、中国仏教を学んだ。なかでも、傑出した3人の日本人僧がいる。日本天台宗の開祖とされる伝教大師・最澄、真言宗の開祖とされる弘法大師・空海、そして天台宗第三世座主となった慈覚大師・円仁である。 円仁は、せっっかく唐土に渡りながら旅行許可が得られず、目的の天台山には行けなかった。やむを得ず八方手を尽くして五台山行きの旅行許可証を得ると中国国内を大旅行することになった。文殊菩薩の聖地といわれる五台山では、3000m級の五つの山に巡拝するなかで多くの教えを学び、そのあと長安へ向かった。長安では資聖寺に寄宿し、空海が学んだ青龍寺で密教を学んだ。「金剛界」「胎蔵界」に加え、「蘇悉地大法」(そしつだいほう)を修得したという。約9年半にわたる求法の旅を終えて承和14年(847)に帰国し、天台宗第三世座主となって天台宗の教えを磐石のものにした。 この入唐から日本に帰国するまでの求法の旅は、円仁自らが著した『入唐求法巡礼行記』に詳しい。ちなみに、『入唐求法巡礼行記』は、玄奘(げんじよう)の『大唐西域記』、マルコ・ポーロの『東方見聞録』とともに、三大旅行記のひとつとされ、唐の国や仏教中心地の様子が鮮明に窺える古代史の第一級資料である。 |
玄奘三蔵の霊骨が慈恩寺の玄奘塔に納められた経緯
1300年前、釈迦の教えを現地で学ぼうと国禁を犯してインドに旅立ち、17年の歳月をかけて貴重な教典を中国に持ち帰り、唐の皇帝・太宗から「三蔵法師」とたたえられた玄奘三蔵。彼が麟徳元年(664) 2月5日に入寂すると、その遺骸は長安城郊外の白鹿原に埋葬された。ところが、玄奘の頭骨片が、日本の二つの寺院に奉安されているという。さいたま市の慈恩寺と奈良市の薬師寺である。
11世紀の北宋の時代になって西暦1027年に、玄奘の墓は仏弟子たちの手によって南京天禧寺の東の丘に遷され、さらに明の時代の洪武19年(1368)、寺の南の丘に再遷された。しかし、その後の戦乱で場所もわからなくなってしまい、長い歳月が流れた。 昭和17年(1942)12月のことである。南京を占領していた日本軍の高森部隊が、兵器廠の内部に稲荷神社を建設するため整地していて、ある石棺を発見した。その石棺の側面には、「大唐三蔵大遍覚 法師玄奘頂骨早因黄巣 発塔今長干演化大師可政 於長安伝得於此葬之」と書かれており、石棺の中の納められていた頂骨が玄奘のものと判明した。 日本軍はその翌年の昭和18年(1943)2月23日、副葬品と頂骨の全てを南京政府に渡したところ、南京政府は感激し盛大な奉迎式典を執り行い、南京城内の大礼堂草に安置した。その後、昭和19年(1944)10月10日には玄武山頂上に頂骨を奉安し、記念塔を建立した。その落慶式には日本側から重光葵大使や日本仏教協会長の倉持秀峰氏らも参列したという。 式典の際に、発見者である日本にも分骨の申し出があり、南京政府は「日中両国の仏教は一意同心であり、ともに玄奘の霊骨を祭り、永遠に法師の威徳を鑽仰せん」と述べたという。もっとも日中戦争の最中のことであり、しかも南京政府は完全な日本の傀儡だったことを思えば、この美談を額面通り受け取れるかどうか疑問である。
以上が、玄奘三蔵の頂骨が慈恩寺に奉安されるようになった経緯である。その後、昭和30年(1955) に台湾の仏教教会からの申し入れで、霊骨の一部が台湾に分骨された。そのとき、対立している台湾に分骨するとは何事だと、中国仏教界から大反発が起きたという。さらに、昭和56年(1981)には法相宗の大本山である奈良の薬師寺にも分骨された。薬師寺では、平成3年(1991)、玄奘三蔵院伽藍が完成し、その分骨を安置した。
玄奘塔を囲う敷地の中に、西域を旅する玄奘三蔵の銅像が置かれている。銅像はインドへの求法の旅姿をイメージしたものだが、小生には、入寂後も仏教弘通の旅を続け、はるばる極東の島国までやってきた法師の姿に思えて仕方がない。仏教に国境は無い。玄奘の霊は、現在中国本土で祀られ、台湾で祭られ、そして日本で祀られている。それで良いではないか。 |