橿原日記 平成17年10月16日

万葉の大和路を歩く会 「うち日さす飛鳥・藤原の宮」に参加

歩く会参加者
明日香の田園を行く「歩く会」の参加者たち


323回の「万葉の大和路を歩く会」は、万葉学者・犬養孝博士没後7周年の哀悼行事として、かっての倭古京と藤原京に点在する万葉歌碑を巡ることになった。飛鳥時代に天皇の宮居が置かれた現在の明日香村や橿原市には、犬養孝氏をはじめとする多くの著名人の揮毫による万葉歌碑が多い。

半まで降り続いた雨が明け方には上がって、飛鳥路を散策するには絶好の朝を迎えた。ほとんどの探訪地は今までに何回も訪れている。しかし、今回は、万葉の大和路を歩く会の代表・富田敏子氏と甲陽学院高校教諭の山内英正氏のダブル講師に引率されての探訪である。それぞれのサイトで万葉歌の解説をじっくり拝聴しながら、歌碑巡りができるのは、この「歩く会」ならではの贅沢だった。本日見てきた万葉歌碑を、備忘録を兼ねて以下に示すことにする。

【コース】 近鉄畝傍御陵前駅北口→本薬師寺跡鷺栖神社藤原宮跡畝尾都多本神社香具山中腹の万葉歌碑大官大寺跡跡から水落遺跡へ飛鳥寺伝飛鳥板蓋宮跡犬養万葉記念館→近鉄橿原神宮前駅

【関連地図】 第323回の「万葉の大和路を歩く会」探訪地図



本薬師寺跡(もとやくしじあと)

礎石
現在の醫王院の庭に置かれた礎石
薬師寺の史跡は、今回の「歩く会」の集合場所になった近鉄「畝傍御陵前」駅から東へ約600m、現在の橿原市城殿(きどの)町にある。天武9年(680)11月、天武天皇が鵜野皇后の病気平癒を願って建立を発願し、天武天皇崩御の後に持統天皇として登極した皇后が、本格的な造営を進め、文武2年(689)に完成したのがこの寺である。

城遷都から8年目の養老2年(718)、薬師寺が藤原京から平城京の右京六条二坊、現在の薬師寺の地に移転されたた。そのため、以前の薬師寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれるようになる。移転後も元の寺の一部は平安時代後期ごろまで存続したようだ。現在は醫王院というごく小さな寺院の庭に金堂や塔の礎石が残っている。

万葉歌碑
黒岩重吾氏揮毫の万葉歌碑
の本薬師寺跡へ向かう歩道のかたわらに、作家の故黒岩重吾氏の揮毫による万葉歌碑が花に囲まれて立っている。碑には大伴旅人(おおとものたびと)の次の歌が刻まれている。
●わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故りにし里 忘れむがため (巻3-334)
【意味】わすれ草を自分は紐につける。香具山あたりのあの懐かしい故郷のひとときを忘れているために

忘れ草
忘れ草
れ草とは現在のカンゾウのことで、別名を忘憂草という。中国では憂いを忘れさせてくれる草と崇められたという。我が国では嫌なことや悲しいことなど、いわゆる憂いを忘れようと、カンゾウの花や茎葉を身につけることが流行したようだ。大伴旅人は香具山の近くに住んだことがあるのだろう。 60歳を越えて九州の大宰帥(だだいのそち)に追いやられた大伴旅人の脳裏には、その故郷の景色が忘れられない。彼の望郷の念の強さがにじみ出ているような歌である。



鷺栖神社(さぎすじんじゃ)

鷺栖神社の境内
鷺栖神社の境内
鳥川右岸の橿原市四分(しぶ)町に、鷺栖(さぎす)神社がある。天照皇太神(あまてらすおおみかみ)、譽田別命(こんだわけのみこと)および天兒屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神として祀る古社である。『延喜式』神名帳には「鷺栖神社靭」の名で表されている。この神社は、当初からこの地に鎮座していたのではない。橿原市飛騨町日高山にある八幡神社が、同社の旧跡だったと推定されている。

古事記』には、垂仁天皇の皇子の本牟智和気皇子(ほむちわけのみこ)が出雲大社に参拝の折、この社に立ち寄って祈願したという。近世には、鷺栖八幡、四部宮、春日明神とも呼ばれ、近隣の尊崇を集めていた神社である。

近まで、鬱蒼と生い茂る巨木が聳える鎮守の森が、この地にはあった。それが、現在は境内が妙に明るい。平成10年(1998)9月、奈良地方を 襲った台風7号の強風が、鎮守の森の大木をなぎ倒した。あの室生寺の五重塔が台風被害によって破壊した時のことである。切り倒した巨木の後に植えられた木々はまだ若い。生い茂った鎮守の森がなければ、歴史を経た古社もなぜか軽く見える。

万葉歌碑
前飛鳥寺住職・山本雨宝揮毫の万葉歌碑
道脇に、前の飛鳥寺住職・山本雨宝氏揮毫の万葉歌碑が建っている。昭和59年3月に建てられたもので、高市皇子が死んだ時、柿本人麻呂が詠んだ長歌に対する次の反歌が刻まれている。
●ひさかたの 天(あめ)知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋ひわたるかも  (巻2-200)
【意味】今は薨去されて天をお治めになるようになってしまった高市皇子であるのに、月日の流れ去るのも知らず、いつまでも恋い慕いつづける我々である。




藤原宮跡(ふじはらのみやあと)

藤原宮の大極殿跡
藤原宮の大極殿跡
藤原宮復元イメージ
藤原宮の復元イメージ
々は「藤原京」と「藤原宮(ふじはらのみや)」という表現をなにげなく使っている。藤原京とは、西暦694年に造営された当時の都であり、藤原宮とはその都のほぼ中央に築かれた天皇の宮居と政庁の総称であり、今でいうなら皇居と永田町界隈の官公庁に相当する。

ころで、「藤原宮(ふじはらのみや)」は史書にも記載されている名称だが、「藤原京」という呼称は歴史上の名称ではない。『日本書紀』では、「藤原京」ではなく「新益京(しんやくのみやこ)」という名前を用いている。この藤原京は和銅3年(710)3月10日に平城京遷都が行われるまでの16年間、我が国の首都だった。

の藤原京の中心に位置していた藤原宮は、今から1300年前、持統・文武・元明三代の天皇が宮居としたところである。北を藤原京の二条大路、南を六条大路、東と西をそれぞれ二坊大路で囲まれた藤原宮は、その中軸線上に北から内裏、その南辺に大極殿院と大極殿、その南には朝堂院が広がり、両脇に計十二の殿堂を配されていた。さらに南には控えの場がある朝集殿があり、朱雀門へと通じていた。現在、その跡地は国の史跡として保存されている。

万葉歌碑
醍醐池の縁に建つ万葉歌碑(背景は天香具山)
在の大極殿跡の北側に、醍醐池というため池があり、その堤に植えられた柳の木の根本に、犬養孝揮毫の次の万葉歌を刻んだ碑が建っている。
●春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 (春すぎて 夏来るらし 白妙の 衣ほしたり 天の香久山) (巻1-28)
【意味】春が過ぎて夏がやってくるらしい。(青葉の中に)真っ白な衣が乾かしている、天の香具山は。

葉集の巻一に載せられた持統天皇の御製歌として知られ、昔から人口を膾炙してきた歌である。この歌を詠んだのは、季節が春から夏に変わろうとする日差しの強い日の午後だったに違いない。場所は、女官たちを連れて散策に興じていた大極殿の庭のような気がする。女帝が何気なく天の香具山に視線を向けたとき、樹木の枝にかけて天日干ししてある白布が目に飛び込んできた。太陽の光を一杯に受けて輝くその白さが、樹木の豊かな緑を背景にして、鮮やかな対照をなしている。その鮮やかさが彼女の琴線に触れて思わず一首が口をついて出たのであろう。


天香具山遠望
藤原宮の東に位置する香具山
に述べたように、藤原京という名称は、歴史学者の間で便宜的に使用されている表現で、古代にこの地に造営された都の名称は、新益京(しんやくのみやこ)である。だが、現代の我々は「藤原京」という呼称に慣れているので、以下では「藤原京」を用いることにする。

日本書紀』によって藤原京造営から平城京遷都までプロセスを追えば、次のようになる。

●持統5年(691)10月27日、使者を遣わして、藤原京の地鎮祭をおこなう
●持統6年(692)5月23日、難波王らを遣わして、藤原宮を築く場所の地鎮祭をおこなう
●持統8年(694)12月6日、藤原宮に遷都する
●和銅元年(708)12月5日、平城京の地鎮祭を行う
●和銅3年(710)3月10日、平城京に遷都する

畝傍山遠望
藤原宮の西に位置する畝傍山
が、藤原京の造営を命じたのは、持統天皇ではなく、彼女の夫の天武天皇である。天武天皇は存命中に新都の造営を計画していた。『日本書紀』には次のような記録が残されている。
●天武5年(676)、この年、新城(にいき)に都を作ろうとして、新都の範囲に含まれる田園は公私を問わず耕作を禁じる
●天武11年(682)3月1日、三野王らに命じて、新城に遣わしてその地形を観察させ都を造ろうとする、その月の16日、天武天皇自らも新城に行幸した。

れらの記述に出てくる「新城(にいき)」は、現在の大和郡山市新木(にき)のこととされている。しかし、新城での新都造営計画は何故かその後断念されて、藤井が原、すなわち現在の藤原京跡に都が建設されることになった。そのことを証明するのが、大極殿北方の藤原宮造営用の運河跡から出土した天武11年(682)〜13年(684)の木簡である。これらの木簡から、藤原宮の造営工事が天武末年には始まっていたことがわかった。


耳成山
藤原宮の北に位置する耳成山
ーンライトIN藤原京実行委員会が主催する歴史シンポジウムが、たまたま昨日かしはら万葉ホールで開かれた。その基調講演で奈良文化財研究所の発掘調査部長・安田龍太郎氏が、発掘調査で分かってきた藤原京の様子を話された。講演の内容から、藤原京にはさまざまな謎があることが分かった。

ず、都としての規模である。藤原京は唐の長安城にならって、日本で最初に作られた条坊制の都とされてきた。古代史学者の岸俊男氏はその復元を試み、東京極を中ツ道、西京極を下ツ道、北は横大路、南は阿倍山田道をもって限るとした。この場合、東西4里(約2.1km)、南北6里(約3.2km)の規模となり、大和三山が囲む平地にすっぽり入るおさまりのいいものとなる。この地に東西8坊、南北12条の碁盤目に道を通せば、碁盤目の1マスである1坊は半里(約265m)四方となる。藤原宮は中央北側を占めて、16坊分の広さとなる。

葉の歌に詠まれた藤原京も、大和三山に囲まれた範囲をイメージさせ、岸俊男氏が唱えたプランは長い間ほぼ定説として扱われ、教科書にも受け入れられた。だが、問題はあった。唐の長安城は皇城を中央に配置した平面プランではない。したがって、長安城を手本にしたとする説は当てはまらない。当時の日本は、西暦663年に百済救援に向かった水軍が唐軍の水軍と白村江で戦って大敗した。そのため、天智8年(669)に河内直鯨(こうちのあたいくじら)を派遣し、前年に唐が高句麗を平定したのを賀したのを最期に、大宝2年(702)まで遣唐使を派遣しなかった。

花
まり、長安城を手本にしようにも、国交断絶で必要な情報が入手できなかったという訳である。そこで出されたのが、中国の経書の一つである『周礼(しゅらい)』の考工記に書かれた理想的な都城をめざしたという説である。考工記には都城は方形にし、その中央に皇城を置くとある。

の説を裏書きするような考古学上の発見が、平成8年(1996)にあった。この年、橿原市の土橋遺跡で西10坊大路が発見され、これが西京極(にしきょうごく)となることがわかった。一方、上之庄遺跡では東10坊大路が検出され、東京極(ひがしきょうごく)となることがわかった。いずれも岸俊男氏が想定した京域の外で条坊の間を通る道路が相次いで見つかったことになる。

原京の東西の端が検出されたことで、実際の藤原京は東西の幅5.3km、南北の長さ推定約4.77kmと推定され、岸説の約4倍の大きさになる。考古学上得られたこの新しい知見に基づく復元藤原京では、大和三山がその京域にすっぽり入ってしまう。そればかりか、外京を除く平城京の4.2kmよりも大きくなる。この京域を拡大した藤原京は、大藤原京と名付けられ、現在は京域論の主流になりつつある。

あああ
大藤原京のイメージ
う一つの大きな謎は、天武天皇存命中から数えれば10年以上の歳月を費やして造営された都が、わずか16年で放棄され平城京に遷ってしまった背景である。地形的に手狭となり、大宝律令による政治機構の拡充に対応できなかったことを理由にあげる説がある。しかし、大藤原京の京域が平城京のそれより広かったことが明らかになった現在、この説は支持されない。

原京の地勢的な立地を指摘する説もある。すなわち飛鳥地方は北より南の方が地形が高く、河川は南から北へ流れる。当時の汚水処理がどのように行われたのか詳しくは知らないが、道路の脇に築かれた側溝を通して流れる仕組みになっていたのであれば、藤原京の北側ではひどい臭気に悩まされたであろう。そうした都市のインフラをしっかり考慮に入れて造営計画がなされなかったことが、早々と廃都となった原因であるというのである。はたして、どうであろうか。

い中断ののち、我が国は大宝元年(701)に遣唐使の派遣を再開する。すでに藤原京という条坊制の都城を完成させ、また新たに大宝律令という法の整備も終えて、唐と対等に付き合う律令国家としての対面は整ったと、時の為政者は判断したのだろう。粟田真人(あわたのまひと)を執節使(しつせつし)とする大編成の遣唐使が任命され、翌年6月に彼らは大陸に向かって船出していった。だが、彼らがそこで見たものは、世界最大の人口を擁する国際都市・長安城だった。

らが想像していた唐の都は、平面プランも規模も藤原京とは全く異なっていた。その長安城の様子は、2年後の大宝4年に帰朝した粟田真人たちから、政府首脳に伝えられたであろう。立派な都城を完成させ法制も整備したと自負していた為政者たちは、大いに驚愕したにちがいない。時を経ずして、実際の長安城に倣った新都計画が持ち上がった。こうしたことが、平城京を新しく建設することになった直接の動機ではなかったかと推測されている。



畝尾都多本神社(うねびつたもとじんじゃ) 

哭沢の神社
哭沢の神社
良文化財研究所の発掘調査部資料室の北の森の中に、畝尾都多本神社が鎮座している。所在は橿原町の木之本町である。この神社は、イザナギノミコトがイザナミノミコトの死を悲しんで流した涙から生まれた哭沢女(なきさわめ)を祭神として祀っている。

のあたりは、万葉人に親しまれた「埴安池(はにやすのいけ)」が存在したと推定されている。埴安池は、高市皇子を悼んで柿本人麻呂が作った「埴安の池の堤の隠り沼の行くへを知らに舎人(とねり)は惑ふ」という歌でも知られている。だが、今までのところ、その形跡は見つかっていない。

万葉歌碑
猪熊兼繁氏揮毫の万葉歌碑
道の脇に、京都大学名誉教授の猪熊兼繁氏揮毫による次の歌の歌碑が建っている。
●哭沢(なきさは)の 神社(もり)に三輪(みわ)据(す)ゑ 祈れども 我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ (巻2-201)
【意味】哭沢(なきさわ)の神社に神酒を供えて皇子がこの世に止まれるように祈ったけれども、高市皇子は天に昇って高い天を治められるようになってしまった。

市皇子は、天武天皇と胸形君徳善の娘・尼子娘との間に生まれた長男で、壬申の乱で大功を立てた。だが、母方の血筋が低かったために、皇太子に指名させることはなかった。天武天皇の皇太子に選ばれたのは草壁皇子である。草壁皇子が若くして病没した後、高市皇子は太政大臣となり持統天皇を補佐したが、持統10年(696)7月10日に亡くなった。

市皇子の殯(もがり)の最中に柿本人麻呂が詠んだ歌が『万葉集』の巻2ー199に載っている。『万葉集』の中で最も長い長歌であり、その反歌も2首掲載されている。ところで、上記の万葉歌には「ある書の反歌一首」という詞書きが付いており、しかも「類聚歌林」は檜隈女王(ひのくまのおおきみ)が哭沢神社を怨んだ歌であるとコメントしている。



香具山中腹の万葉歌碑

天香具山遠望
香具山(右)と耳成山(中央)遠望
来、大和三山とは香具山(標高152m)、畝傍山(標高199m)、耳成山(標高139m)をいう。『万葉集』には、妻争いの三角関係を大和三山をに例えて詠んだ中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の「三山の歌」をはじめとして、これらの山を詠み込んだ歌がかなり収録されている。具体的には、畝傍山を詠んだ歌が6例、耳成山を詠んだ歌が3例、それに対して香具山を詠んだ歌は13例もあるという。

古事記』によれば、香具山は天上界にあった山とされている。したがって、「天(あめ)の香具山」と称され、天皇家を守護する山と認識されていたらしい。香具山に関するものは、”天の香山の真男鹿の肩”、”天の香山の五百津真賢木”、”天の香山の小竹葉”などのように、「天の」と形容されるものが多い。

万葉歌碑
香具山中腹の万葉歌碑

具山を少し登った所に、第34代舒明(じょめい)天皇が香具山で国見をしたとき詠んだとされる歌の碑が建っている。文字は元暦校本による白文で書かれている。書き下し文は次の通り。
●大和には 群山(むらやま) あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は  鴎(かまめ)立ち立つ うまし國ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の國は (巻1-2)
【意味】大和にはたくさんの山々があるが、その中でも立派に足り整っている天の香具山である。その山に登って、頂上に立って國の中を見渡すと、國の広い所には、煙があちらこちらに立っている。池には水鳥があちこち飛び立っている。美しくよい國だなあ!この秋津島の大和の國は。



大官大寺跡から水落遺跡へ

大官大寺跡
大官大寺跡
具山の南麓から南に広がる水田地帯の真ん中に、巨大な2本の碑が建っている。藤原京の時代には、そこに大官大寺という大伽藍が甍を並べていた。大官大寺とは官営の寺院で、史書では大官大寺を「おおつかさのおおでら」と訓じている。

官大寺の歴史は、聖徳太子が平群(へぐり)に創建したという熊凝(くまごり)道場に始まるとされている(熊凝道場の後身は、大和郡山市額田部南町にある額安寺である)。舒明天皇は、聖徳太子の意志をうけて、百済川のほとりに熊凝道場を移してわが国最初の勅願寺を建立した。それが百済大寺と呼ばれる寺である。

の百済大寺の所在は長い間北葛城郡広陵町百済にある春日神社境内の三重塔付近に比定されていた。寺院の建立には膨大な瓦が造られて各建物の屋根に葺かれるので、寺院跡には瓦の破片が出土することが多い。ところが、この付近からは当時の瓦の遺物が発見されない。そこで、この比定に疑問が持たれたが、1997年から始まった奈良文化財研究所の発掘調査の結果、桜井市にある吉備池廃寺が百済大寺の有力な候補地に擬せられるようになってきた。

秋色が濃く漂う明日香村
秋色が濃く漂う明日香村
料(三代実録)によれば、百済大寺の近くの子部大神が怨みを含んで堂塔を焼いてしまったとのことである。そこで、672年の壬申の乱に勝利した天武天皇は、都を飛鳥にもどして即位すると、翌年の天武2年(673)12月、百済大寺を移して高市大寺を造営するために、美濃王と紀臣堅麻呂を造寺司に任命した。そして天武6年(677)年には、この高市大寺と大官大寺と改称している。

かし、この『日本書紀』の記述に疑問をはさむ専門家もいる。実は、大官大寺の寺域は藤原京の条坊区画にあわせて地割りされており、南北370m、東西250mの広大な面積を占めていた。だが、高市大寺の建立が開始されたと思われる天武2年末には、まだ藤原京の造営は決まっていない。このため、文武天皇の時代に造営されたのでは、と考えられている。なお、藤原京から平城京への遷都に伴って、霊亀2年(716)から大官大寺も平城京への移建が行われ、天平17年(745)に大安寺と改称された。


甘樫丘
コスモス畑の向こうの甘樫丘

官大寺から水落遺跡へ向かう水田の中の遊歩道から右手前方を見ると、コスモス畑の向こうに甘樫丘(あまかしのおか)が見える。その手前の小さな丘が雷丘(いかずちのおか)である。

万葉集』の巻3−235には、天皇が雷丘に行幸したとき、天皇(持統天皇?)に扈従した柿本人麻呂が詠んだ次の歌が載っている。
●大君は 神にしませば 天雲の 雷(いかづち)のうえに いおりせるかも (巻3-235)
【意味】大王は神でいらっしゃるから、大空の雷のその上にいほりしておいでになることである。


丘交差点から一直線に東へ延びる県道124号線をまたぐと、奈良文化財研究所が田んぼの一画を囲ってこれから行なう発掘の準備をしている。このあたりの水田は民有地である。秋の収穫が終わった後に地主の同意を得て毎年少しずつ発掘を行っている。

石人像
石人像(レプリカ)
須弥山石 須弥山石(レプリカ)

石神遺跡の配置図
石神遺跡の配置図
近の水田の下には、飛鳥資料館の庭に展示してある石人像や須弥山石が出土した「石神遺跡」が埋まっている。飛鳥時代の迎賓館の跡だったと想定されている遺跡である。ここの発掘調査が毎年田んぼ一枚ずつ北へ移動していくことで、密かな楽しみを抱いている。現在の県道124号線は飛鳥時代の阿倍山田道に重なると思われ、筆者は独断で阿倍山田道に沿って推古天皇の小墾田宮(おはりだのみや)が築かれていたと想像している。早くその宮跡を発見して貰いたいものだ。西暦608年、遣隋使節・小野妹子に同道して、隋の使者・裴世清(はいせいせい)の一行が来朝し、小墾田宮を訪れたことは『日本書紀』にも詳しい。


漏刻遺構
「水落遺跡」として整備された漏刻遺構
飛鳥川にかかる甘樫橋の近くに、今は廃屋となった旧飛鳥小学校がある。このあたりは甘橿丘東裾を流れる飛鳥川の東岸で、川から一段高くなった段丘上に位置している。その旧飛鳥小学校の校舎の南に、中大兄皇子が作ったとされる漏刻(ろうこく)の遺構を復元した「水落遺跡」がある。 漏刻とは水時計のことである。『日本書紀』は、斉明天皇6年(660)5月の条に”中大兄皇子が初めて漏刻を造り、民に時を知らせた"と記している。

漏刻については、次のような歌が『万葉集』に記載されている。いずれも作者不詳の歌である。
●時守(ときもり)の 打ち鳴(な)す鼓(つづみ) 数(よ)みみれば 時にはなりぬ 逢はなくもあやし (巻11-2641)
【意味】時守の打ち鳴らす鼓の数を数えてみると、逢う時になった。それなのに、逢わないのは、どうもおかしい。
●皆人を 寝よとの鐘は 打つなれど 君をし思へば 寐(い)ねかてぬかも  (巻4-607)
【意味】皆の人に寝よと告げる鐘を打つ音は聞こえるが、君を恋しく思っているので、私はなかなか寝付かれない。



飛鳥寺(あすかでら)

飛鳥寺の本堂
飛鳥寺の本堂
が国最初の本格的伽藍として蘇我馬子が建立した飛鳥寺は、明日香の史跡探訪では外すことはできない。だが、万葉歌探訪となるとどうかな、と思っていたが、どっこい飛鳥寺の境内にも巨大な万葉歌碑が建っている。文学博士・佐々木信綱氏揮毫による山辺赤人の長歌とその反歌である。碑には万葉仮名で刻まれているが、その読みは次の通りである。

●みもろの、神なび山に、五百枝(いほへ)さし、しじに生ひたる、栂(つが)の木の、いや継ぎ継ぎに、玉葛(たまかづら)、絶ゆることなく、ありつつも、やまず通はむ、明日香の、古き都は、山高み、川とほしろし、春の日は、山し見がほし、秋の夜は、川しさやけし、朝雲に、鶴(たづ)は乱れ、夕霧に、かはづは騒く、見るごとに、音(ね)のみし泣かゆ、いにしへ思へば (巻3-324)
反歌
明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに

万葉歌碑
飛鳥寺境内に建つ万葉歌碑
【意味】三諸の神名備山に、多くの枝が萌え出て繁く伸びているつがの木、そのツガという言葉のように、いやツギツギ(次々)に絶えることなく、常に止まず通いたいと思う明日香の旧都は、山が高く明日香河が雄大に流れ、春の日は山が美しく、秋の夜は河の音がさやかである。朝立つ雲に鶴は乱れ舞い、夕霧の中で河蝦(かわず)はしきりに鳴き立てている、それを見るたびに涙があふれる。過ぎ去った昔のことを思うと。
反歌
明日香河の川淀ごとに立っている霧のやがて消え去るように、心から消え去っていく淡い思慕の情ではないのです。

在の飛鳥寺は、本堂に鎮座する飛鳥大仏以外に何も見るべきものはない。だが、境内の奥に、かっての塔心礎の位置を示す標識が立っていて、その近くにベンチが置いてある。そのベンチに座って本堂に対面し、静かに目をつむると、創建当時の塔の周りに三金堂を配した雄大な伽藍のイメージが脳裏に浮かんでくる。明日香のすべての史跡はそうなのである。すべては心の目で見る史跡なのである。



伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみやあと)

史跡中央の井戸跡
史跡中央の井戸跡
飛鳥浄御原宮の復元イメージ
飛鳥浄御原宮の復元イメージ
鳥寺付近から南の橘寺付近にかけて広がる水田地帯は、かっては「真神の原」と呼ばれた荒れ地だった。飛鳥川がたびたび氾濫し、上流から運ばれて来た土砂で埋まり、5世紀の初め頃は雑草が生い茂りオオカミが出没する原野だったのだろう。真神(まがみ)とはオオカミのことである。5世紀の後半になって、朝鮮半島からの渡来人が住み着き、やがて飛鳥発展の原動力になっていく。

世紀を飛鳥の時代という。推古天皇が西暦592年に豊浦の地に豊浦宮を置いたのを皮切りに、歴代の天皇は、ある特定の一時期を除いて、藤原京が完成するまで、この地に宮を造営し続けた。推古天皇の飛鳥豊浦宮と飛鳥小墾田宮、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、そして天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮・・・

れらの宮のうち、推古天皇の2つの宮を除いて、他の宮居は実は同じ場所に造営された。真神が原のほぼ中央、現在「伝飛鳥板蓋宮跡」として史跡に指定されている付近である。近年の発掘調査の成果として、史跡の一番下の第1期層に飛鳥岡本宮、その上の第2期層に飛鳥板蓋宮、そして第3期層の下側に後飛鳥岡本宮、上側に飛鳥浄御原宮が重なり合っていることが分かった。したがって、厳密に言えば、「伝飛鳥板蓋宮跡」の呼称は不適切である。最近では倭古京(やまとこきょう)という名称が定着しつつある。

神の原に関しては、次のような歌が『万葉集』に残されている。
●大口(おほくち)の 真神(まかみ)の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに 舎人娘子(とねりのおとめ) (巻8-1636)
【意味】真神の原に降る雪は、ひどく降らないでおくれ。家もないのだから。
●三諸(ももろ)の 神奈備山(かんなびやま)ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや 作者不詳 (巻13-3268)
反歌
帰りにし 人を思ふと ぬばたまの その夜は 我れも寐も 寝かねてき 作者不詳 (巻13-3269)

【意味】三諸の神奈備山から一面に曇って雨は降ってきた。雨は霧のように降って風までも吹いてきた。真神の原を通って私を思いながら帰って行ったあの人は、家に着いたかしら。
反歌
帰って行った人を思うとて、その夜は私も眠れませんでした。



犬養万葉記念館(いぬかいまんようきねんかん)

犬養万葉記念館
犬養万葉記念館の正面
山吹万葉歌碑
館の中庭に建つ「山吹万葉歌碑」
葉の歌を訪ねる旅の終着は「犬養万葉記念館」こそふさわしい。明日香村の名誉村民でもあり、万葉集の研究の第1人者で「犬養節」で知られる文学博士・犬養孝氏は、平成10年(1998)10月3日に逝去された。享年91歳だった。犬養氏の業績を顕彰し、広く「犬養万葉」の魅力を後世に伝えることを目的に犬養万葉記念館が作られ、平成12年(2000)4月1日に開館した。

階のホールは展示・ビデオ室になっていて、犬養氏が生涯愛してやまなかった明日香村との関わりをパネルなどで展示し、犬養氏の生涯や万葉歌碑などをビデオで紹介している。その他に犬養氏の書斎を再現した部屋や万葉風土図書室、喫茶サロンなどがある。

養万葉記念館の正面玄関前に、犬養氏が生前口癖のようにしておられた言葉が、本人の揮毫で刻まれている。曰く「万葉は青春」。その言葉どおりに、『万葉集』を研究し、万葉の故地を訪ね歩くことで、故人は青年のような若々しさと情熱を生涯燃やし続けられた。

玄関脇の碑
玄関脇の碑
念館の中庭に、亡き犬養氏を追悼して建てられた歌碑がある。十市皇女(といちのひめみこ)が亡くなったとき、高市皇子が詠んだとされる巻2−158の歌が、万葉仮名で刻まれている。歌の読みは次の通り。
●山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (巻2-158)
【意味】黄色い花の山吹がまわりに立ってかざっている山の清水を汲みに行こうと思うが(黄泉までも訪ねて行きたいと思うが)、道が分からないことである。


【注】このレポートに収録した万葉歌の現代語訳は、岩波書店発行の日本古典文学大系の『万葉集』に示されたものである。


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