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| 明日香の田園を行く「歩く会」の参加者たち |
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夜半まで降り続いた雨が明け方には上がって、飛鳥路を散策するには絶好の朝を迎えた。ほとんどの探訪地は今までに何回も訪れている。しかし、今回は、万葉の大和路を歩く会の代表・富田敏子氏と甲陽学院高校教諭の山内英正氏のダブル講師に引率されての探訪である。それぞれのサイトで万葉歌の解説をじっくり拝聴しながら、歌碑巡りができるのは、この「歩く会」ならではの贅沢だった。本日見てきた万葉歌碑を、備忘録を兼ねて以下に示すことにする。 【コース】 近鉄畝傍御陵前駅北口→本薬師寺跡 → 鷺栖神社 → 藤原宮跡 → 畝尾都多本神社 → 香具山中腹の万葉歌碑 → 大官大寺跡跡から水落遺跡へ → 飛鳥寺 → 伝飛鳥板蓋宮跡 → 犬養万葉記念館→近鉄橿原神宮前駅 |
本薬師寺跡
平城遷都から8年目の養老2年(718)、薬師寺が藤原京から平城京の右京六条二坊、現在の薬師寺の地に移転されたた。そのため、以前の薬師寺は本薬師寺(もとやくしじ)と呼ばれるようになる。移転後も元の寺の一部は平安時代後期ごろまで存続したようだ。現在は醫王院というごく小さな寺院の庭に金堂や塔の礎石が残っている。
●わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故りにし里 忘れむがため (巻3-334) 【意味】わすれ草を自分は紐につける。香具山あたりのあの懐かしい故郷のひとときを忘れているために
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鷺栖神社
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| 鷺栖神社の境内 |
『古事記』には、垂仁天皇の皇子の本牟智和気皇子(ほむちわけのみこ)が出雲大社に参拝の折、この社に立ち寄って祈願したという。近世には、鷺栖八幡、四部宮、春日明神とも呼ばれ、近隣の尊崇を集めていた神社である。
最近まで、鬱蒼と生い茂る巨木が聳える鎮守の森が、この地にはあった。それが、現在は境内が妙に明るい。平成10年(1998)9月、奈良地方を 襲った台風7号の強風が、鎮守の森の大木をなぎ倒した。あの室生寺の五重塔が台風被害によって破壊した時のことである。切り倒した巨木の後に植えられた木々はまだ若い。生い茂った鎮守の森がなければ、歴史を経た古社もなぜか軽く見える。
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| 前飛鳥寺住職・山本雨宝揮毫の万葉歌碑 |
藤原宮跡
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| 藤原宮の大極殿跡 |
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| 藤原宮の復元イメージ |
ところで、「藤原宮(ふじはらのみや)」は史書にも記載されている名称だが、「藤原京」という呼称は歴史上の名称ではない。『日本書紀』では、「藤原京」ではなく「新益京(しんやくのみやこ)」という名前を用いている。この藤原京は和銅3年(710)3月10日に平城京遷都が行われるまでの16年間、我が国の首都だった。
その藤原京の中心に位置していた藤原宮は、今から1300年前、持統・文武・元明三代の天皇が宮居としたところである。北を藤原京の二条大路、南を六条大路、東と西をそれぞれ二坊大路で囲まれた藤原宮は、その中軸線上に北から内裏、その南辺に大極殿院と大極殿、その南には朝堂院が広がり、両脇に計十二の殿堂を配されていた。さらに南には控えの場がある朝集殿があり、朱雀門へと通じていた。現在、その跡地は国の史跡として保存されている。
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| 醍醐池の縁に建つ万葉歌碑(背景は天香具山) |
万葉集の巻一に載せられた持統天皇の御製歌として知られ、昔から人口を膾炙してきた歌である。この歌を詠んだのは、季節が春から夏に変わろうとする日差しの強い日の午後だったに違いない。場所は、女官たちを連れて散策に興じていた大極殿の庭のような気がする。女帝が何気なく天の香具山に視線を向けたとき、樹木の枝にかけて天日干ししてある白布が目に飛び込んできた。太陽の光を一杯に受けて輝くその白さが、樹木の豊かな緑を背景にして、鮮やかな対照をなしている。その鮮やかさが彼女の琴線に触れて思わず一首が口をついて出たのであろう。
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| 藤原宮の東に位置する香具山 |
『日本書紀』によって藤原京造営から平城京遷都までプロセスを追えば、次のようになる。
●持統5年(691)10月27日、使者を遣わして、藤原京の地鎮祭をおこなう
●持統6年(692)5月23日、難波王らを遣わして、藤原宮を築く場所の地鎮祭をおこなう
●持統8年(694)12月6日、藤原宮に遷都する
●和銅元年(708)12月5日、平城京の地鎮祭を行う
●和銅3年(710)3月10日、平城京に遷都する
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| 藤原宮の西に位置する畝傍山 |
これらの記述に出てくる「新城(にいき)」は、現在の大和郡山市新木(にき)のこととされている。しかし、新城での新都造営計画は何故かその後断念されて、藤井が原、すなわち現在の藤原京跡に都が建設されることになった。そのことを証明するのが、大極殿北方の藤原宮造営用の運河跡から出土した天武11年(682)〜13年(684)の木簡である。これらの木簡から、藤原宮の造営工事が天武末年には始まっていたことがわかった。
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| 藤原宮の北に位置する耳成山 |
まず、都としての規模である。藤原京は唐の長安城にならって、日本で最初に作られた条坊制の都とされてきた。古代史学者の岸俊男氏はその復元を試み、東京極を中ツ道、西京極を下ツ道、北は横大路、南は阿倍山田道をもって限るとした。この場合、東西4里(約2.1km)、南北6里(約3.2km)の規模となり、大和三山が囲む平地にすっぽり入るおさまりのいいものとなる。この地に東西8坊、南北12条の碁盤目に道を通せば、碁盤目の1マスである1坊は半里(約265m)四方となる。藤原宮は中央北側を占めて、16坊分の広さとなる。
万葉の歌に詠まれた藤原京も、大和三山に囲まれた範囲をイメージさせ、岸俊男氏が唱えたプランは長い間ほぼ定説として扱われ、教科書にも受け入れられた。だが、問題はあった。唐の長安城は皇城を中央に配置した平面プランではない。したがって、長安城を手本にしたとする説は当てはまらない。当時の日本は、西暦663年に百済救援に向かった水軍が唐軍の水軍と白村江で戦って大敗した。そのため、天智8年(669)に河内直鯨(こうちのあたいくじら)を派遣し、前年に唐が高句麗を平定したのを賀したのを最期に、大宝2年(702)まで遣唐使を派遣しなかった。
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この説を裏書きするような考古学上の発見が、平成8年(1996)にあった。この年、橿原市の土橋遺跡で西10坊大路が発見され、これが西京極(にしきょうごく)となることがわかった。一方、上之庄遺跡では東10坊大路が検出され、東京極(ひがしきょうごく)となることがわかった。いずれも岸俊男氏が想定した京域の外で条坊の間を通る道路が相次いで見つかったことになる。
藤原京の東西の端が検出されたことで、実際の藤原京は東西の幅5.3km、南北の長さ推定約4.77kmと推定され、岸説の約4倍の大きさになる。考古学上得られたこの新しい知見に基づく復元藤原京では、大和三山がその京域にすっぽり入ってしまう。そればかりか、外京を除く平城京の4.2kmよりも大きくなる。この京域を拡大した藤原京は、大藤原京と名付けられ、現在は京域論の主流になりつつある。
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| 大藤原京のイメージ |
藤原京の地勢的な立地を指摘する説もある。すなわち飛鳥地方は北より南の方が地形が高く、河川は南から北へ流れる。当時の汚水処理がどのように行われたのか詳しくは知らないが、道路の脇に築かれた側溝を通して流れる仕組みになっていたのであれば、藤原京の北側ではひどい臭気に悩まされたであろう。そうした都市のインフラをしっかり考慮に入れて造営計画がなされなかったことが、早々と廃都となった原因であるというのである。はたして、どうであろうか。
長い中断ののち、我が国は大宝元年(701)に遣唐使の派遣を再開する。すでに藤原京という条坊制の都城を完成させ、また新たに大宝律令という法の整備も終えて、唐と対等に付き合う律令国家としての対面は整ったと、時の為政者は判断したのだろう。粟田真人(あわたのまひと)を執節使(しつせつし)とする大編成の遣唐使が任命され、翌年6月に彼らは大陸に向かって船出していった。だが、彼らがそこで見たものは、世界最大の人口を擁する国際都市・長安城だった。
彼らが想像していた唐の都は、平面プランも規模も藤原京とは全く異なっていた。その長安城の様子は、2年後の大宝4年に帰朝した粟田真人たちから、政府首脳に伝えられたであろう。立派な都城を完成させ法制も整備したと自負していた為政者たちは、大いに驚愕したにちがいない。時を経ずして、実際の長安城に倣った新都計画が持ち上がった。こうしたことが、平城京を新しく建設することになった直接の動機ではなかったかと推測されている。
畝尾都多本神社
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| 哭沢の神社 |
このあたりは、万葉人に親しまれた「埴安池(はにやすのいけ)」が存在したと推定されている。埴安池は、高市皇子を悼んで柿本人麻呂が作った「埴安の池の堤の隠り沼の行くへを知らに舎人(とねり)は惑ふ」という歌でも知られている。だが、今までのところ、その形跡は見つかっていない。
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| 猪熊兼繁氏揮毫の万葉歌碑 |
高市皇子は、天武天皇と胸形君徳善の娘・尼子娘との間に生まれた長男で、壬申の乱で大功を立てた。だが、母方の血筋が低かったために、皇太子に指名させることはなかった。天武天皇の皇太子に選ばれたのは草壁皇子である。草壁皇子が若くして病没した後、高市皇子は太政大臣となり持統天皇を補佐したが、持統10年(696)7月10日に亡くなった。
高市皇子の殯(もがり)の最中に柿本人麻呂が詠んだ歌が『万葉集』の巻2ー199に載っている。『万葉集』の中で最も長い長歌であり、その反歌も2首掲載されている。ところで、上記の万葉歌には「ある書の反歌一首」という詞書きが付いており、しかも「類聚歌林」は檜隈女王(ひのくまのおおきみ)が哭沢神社を怨んだ歌であるとコメントしている。
香具山中腹の万葉歌碑
『古事記』によれば、香具山は天上界にあった山とされている。したがって、「天(あめ)の香具山」と称され、天皇家を守護する山と認識されていたらしい。香具山に関するものは、”天の香山の真男鹿の肩”、”天の香山の五百津真賢木”、”天の香山の小竹葉”などのように、「天の」と形容されるものが多い。
香具山を少し登った所に、第34代舒明(じょめい)天皇が香具山で国見をしたとき詠んだとされる歌の碑が建っている。文字は元暦校本による白文で書かれている。書き下し文は次の通り。
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大官大寺跡から水落遺跡へ
大官大寺の歴史は、聖徳太子が平群(へぐり)に創建したという熊凝(くまごり)道場に始まるとされている(熊凝道場の後身は、大和郡山市額田部南町にある額安寺である)。舒明天皇は、聖徳太子の意志をうけて、百済川のほとりに熊凝道場を移してわが国最初の勅願寺を建立した。それが百済大寺と呼ばれる寺である。 この百済大寺の所在は長い間北葛城郡広陵町百済にある春日神社境内の三重塔付近に比定されていた。寺院の建立には膨大な瓦が造られて各建物の屋根に葺かれるので、寺院跡には瓦の破片が出土することが多い。ところが、この付近からは当時の瓦の遺物が発見されない。そこで、この比定に疑問が持たれたが、1997年から始まった奈良文化財研究所の発掘調査の結果、桜井市にある吉備池廃寺が百済大寺の有力な候補地に擬せられるようになってきた。
しかし、この『日本書紀』の記述に疑問をはさむ専門家もいる。実は、大官大寺の寺域は藤原京の条坊区画にあわせて地割りされており、南北370m、東西250mの広大な面積を占めていた。だが、高市大寺の建立が開始されたと思われる天武2年末には、まだ藤原京の造営は決まっていない。このため、文武天皇の時代に造営されたのでは、と考えられている。なお、藤原京から平城京への遷都に伴って、霊亀2年(716)から大官大寺も平城京への移建が行われ、天平17年(745)に大安寺と改称された。
大官大寺から水落遺跡へ向かう水田の中の遊歩道から右手前方を見ると、コスモス畑の向こうに甘樫丘(あまかしのおか)が見える。その手前の小さな丘が雷丘(いかずちのおか)である。
『万葉集』の巻3−235には、天皇が雷丘に行幸したとき、天皇(持統天皇?)に扈従した柿本人麻呂が詠んだ次の歌が載っている。 雷丘交差点から一直線に東へ延びる県道124号線をまたぐと、奈良文化財研究所が田んぼの一画を囲ってこれから行なう発掘の準備をしている。このあたりの水田は民有地である。秋の収穫が終わった後に地主の同意を得て毎年少しずつ発掘を行っている。
漏刻については、次のような歌が『万葉集』に記載されている。いずれも作者不詳の歌である。 |
飛鳥寺
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| 飛鳥寺の本堂 |
●みもろの、神なび山に、五百枝(いほへ)さし、しじに生ひたる、栂(つが)の木の、いや継ぎ継ぎに、玉葛(たまかづら)、絶ゆることなく、ありつつも、やまず通はむ、明日香の、古き都は、山高み、川とほしろし、春の日は、山し見がほし、秋の夜は、川しさやけし、朝雲に、鶴(たづ)は乱れ、夕霧に、かはづは騒く、見るごとに、音(ね)のみし泣かゆ、いにしへ思へば (巻3-324)
反歌
明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
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| 飛鳥寺境内に建つ万葉歌碑 |
現在の飛鳥寺は、本堂に鎮座する飛鳥大仏以外に何も見るべきものはない。だが、境内の奥に、かっての塔心礎の位置を示す標識が立っていて、その近くにベンチが置いてある。そのベンチに座って本堂に対面し、静かに目をつむると、創建当時の塔の周りに三金堂を配した雄大な伽藍のイメージが脳裏に浮かんでくる。明日香のすべての史跡はそうなのである。すべては心の目で見る史跡なのである。
伝飛鳥板蓋宮跡
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| 史跡中央の井戸跡 |
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| 飛鳥浄御原宮の復元イメージ |
7世紀を飛鳥の時代という。推古天皇が西暦592年に豊浦の地に豊浦宮を置いたのを皮切りに、歴代の天皇は、ある特定の一時期を除いて、藤原京が完成するまで、この地に宮を造営し続けた。推古天皇の飛鳥豊浦宮と飛鳥小墾田宮、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、そして天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮・・・
これらの宮のうち、推古天皇の2つの宮を除いて、他の宮居は実は同じ場所に造営された。真神が原のほぼ中央、現在「伝飛鳥板蓋宮跡」として史跡に指定されている付近である。近年の発掘調査の成果として、史跡の一番下の第1期層に飛鳥岡本宮、その上の第2期層に飛鳥板蓋宮、そして第3期層の下側に後飛鳥岡本宮、上側に飛鳥浄御原宮が重なり合っていることが分かった。したがって、厳密に言えば、「伝飛鳥板蓋宮跡」の呼称は不適切である。最近では倭古京(やまとこきょう)という名称が定着しつつある。
真神の原に関しては、次のような歌が『万葉集』に残されている。
●大口(おほくち)の 真神(まかみ)の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに 舎人娘子(とねりのおとめ) (巻8-1636)
【意味】真神の原に降る雪は、ひどく降らないでおくれ。家もないのだから。
●三諸(ももろ)の 神奈備山(かんなびやま)ゆ との曇り 雨は降り来ぬ 天霧らひ 風さへ吹きぬ 大口の 真神の原ゆ 思ひつつ 帰りにし人 家に至りきや 作者不詳 (巻13-3268)
反歌
帰りにし 人を思ふと ぬばたまの その夜は 我れも寐も 寝かねてき 作者不詳 (巻13-3269)
【意味】三諸の神奈備山から一面に曇って雨は降ってきた。雨は霧のように降って風までも吹いてきた。真神の原を通って私を思いながら帰って行ったあの人は、家に着いたかしら。
反歌
帰って行った人を思うとて、その夜は私も眠れませんでした。
犬養万葉記念館
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| 犬養万葉記念館の正面 |
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| 館の中庭に建つ「山吹万葉歌碑」 |
1階のホールは展示・ビデオ室になっていて、犬養氏が生涯愛してやまなかった明日香村との関わりをパネルなどで展示し、犬養氏の生涯や万葉歌碑などをビデオで紹介している。その他に犬養氏の書斎を再現した部屋や万葉風土図書室、喫茶サロンなどがある。
犬養万葉記念館の正面玄関前に、犬養氏が生前口癖のようにしておられた言葉が、本人の揮毫で刻まれている。曰く「万葉は青春」。その言葉どおりに、『万葉集』を研究し、万葉の故地を訪ね歩くことで、故人は青年のような若々しさと情熱を生涯燃やし続けられた。
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| 玄関脇の碑 |
【注】このレポートに収録した万葉歌の現代語訳は、岩波書店発行の日本古典文学大系の『万葉集』に示されたものである。